1話目:消えた姫君
以前にも投稿させていただいた事があります。初めましてな方も、お久しぶりの方も、楽しんでいただければ幸いでございます。
剣が強い少女と花も恥じらう可憐王子との物語です。表記間違いではございません。
ひっそりと地上を照らす月明かりは青白く、空を仰ぐ少女の顔もその光を浴びていた。右手に持った細身の剣は、あどけなさを残す少女には似つかわしくない。けれど少女は手慣れたように剣を振るい、視線を正面に戻すと目の前の丸太に向かって次から次へと切っ先を閃かせた。
地面に垂直に立てられた丸太は、警備隊の訓練に使われている。古い傷の上に、新しい傷を刻んでいく。
「まだやっていたのか」
ため息混じりの言葉を投げ掛けられ、少女は驚いたように振り向いた。呆れた顔で少し笑いながら歩み寄ってきた人物は、二十代半ばの青年。持っていたタオルを少女へと手渡した。
「エディル隊長こそ……こんな時間にどうされたんですか?」
若干頬を赤く染めながら、少女はタオルに顔を埋めた。目だけを出して青年を見つめる。
「いや、少し……忘れ物を。もう帰るよ。ラクチェアも、ほどほどにしておいて早く帰れ」
ごまかすような雰囲気を感じたが、気のせいだと少女は考えを振り払う。渡されたタオルに、少しばかり浮かれていたのかもしれない。
青年は軽く手を挙げ、来た道を戻っていった。
「……えへへ」
独りになった少女は、タオルをギュッと抱きしめた。
*****
いつもと同じ朝が訪れ、ラクチェアは隊の宿舎で目を覚ました。カーテンの隙間から見える世界はまだ薄暗い。
ベッドから降り、顔を洗う為に外へと出ようとした、その瞬間。
「ラクチェア! いますか!? ラクチェア!」
扉の向こうから大声で名前を呼ばれ、早朝からの来客に眉を寄せた。相手の声には聞き覚えがある。ラクチェアが苦手としている男性だ。
直接会いたくない思いが勝り、ラクチェアは扉を閉めたまま応えた。
「……います。何かご用ですか?」
こんなに朝早くから騒がしく訪ねてきてどんな用なの、と頬を膨らませる。嫌味が得意な彼の事だ。また細かいお小言をねちねちとぶつけてくるのだろう、そう思ってラクチェアは憂鬱そうにため息をついた。
けれど次に耳に入った言葉は、彼女にとっても驚愕すべき内容だった。
「……姫が姿を消されました。貴女の上司が、エディルが姫を連れ出したんです。姫を唆して、国外へと逃亡したんです」
押し殺した声は、ラクチェアの脳を揺さ振るように強打した。
「……え?」
慌てて扉を開けた瞬間、一歩前でバンと何かにぶつかる音がした。この場合、考えられるパターンはひとつしかない。
「……ラクチェア……」
「……す、すみませんフォルス様……」
扉の外に立っていた青年……フォルスは、額と鼻先を真っ赤にして眼鏡を点検し始めた。歪んでいようものなら、大目玉は避けられない。
幸い眼鏡には異常はなかったらしく、かけ直したフォルスは咳ばらいをして再び口を開いた。
「エディルからは何も聞いていなかったのですか。彼に何かおかしなそぶりがあったとか……そういう事はなかったんですか?」
問われて浮かんだのは昨晩のやり取り。少し緊張したような、どこか悲しそうな表情のエディル。あのあと姫を連れて逃げたのなら、彼の様子に違和感があった事を気付けなかった自分に責任がある。
ラクチェアはそれでも、まだ信じられないでいた。
「わ、私には信じられません。隊長がそんな事するなんて……本当に隊長が姫を連れて国外へ出たんですか?」
「目撃情報が出ています。それに、二人が同時に姿を消しているという事実が何よりの証拠だと思いますが?」
「で、でも……!」
責任感の強い、真面目で誠実な上司。憧れを抱き、いつか彼の背中を預けてもらえるような自分になりたいとひたすら訓練を重ね、ラクチェアは副長の座を実力で得た。
目標だったのだ。
「……嘘、嘘です。隊長は、そんな無責任な事……」
涙が滲み、視界がぼやける。嘘だと思いたくても、思えない状況。突然の事態に頭がさっぱり働かない。
みっともなく泣き崩れてしまいそうで、強く唇を噛んだ。
「……というか、真相がどうだとかそんな事は今どうでもいいんです」
「はい……は、はい!?」
ばっさり切り捨てるように言われ、ラクチェアは目の前の青年を見た。眼鏡を指で押し上げ、辺りをキョロキョロ見回している。
「ど……どうでもいいって、え?」
「姫がいない事が問題なんです。それで貴女を訪ねてきたんですが……」
フォルスは人が来ないかしきりに視線を泳がせている。
女子用の宿舎はラクチェアしか使っていないが、誰かが来る確率はゼロではない。女性隊士の中には、早朝訓練のあと宿舎に寄って顔を洗っていく者もいる。彼はそれを懸念しているのだろう。
「……あまり人に聞かれたくない話です。場所を移しましょう」
「ちょ、ちょっと待ってくださ……私着替えもまだ……」
「そんな暇ありません。さっさとついて来てください」
フォルスは振り返らずに歩いていく。その背中を呆然と見つめていたラクチェアだったが、ふと我に返ると慌てて走り出した。
向かう方角は城のある方。嫌な予感がしていた。
*****
通されたのは城内にある上級神官の執務室だった。必要最低限のものしか置いていない部屋は、神官達の厳粛なイメージそのままだ。
「フォルス! 言われた通りに説明しておいたよ! あとこれも……」
既に中にいた青年が、待ち兼ねていたとばかりに駆け寄ってきた。少し長めに切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
「ありがとうメイダ。こちらもラクチェアを連れてきた」
フォルスとメイダは上級神官であり、二人はよく行動を共にしている。
無愛想で嫌味なフォルス。穏やかそうに見えて計算高いメイダ。どちらもラクチェアは苦手としていて、苦い思い出ばかりが甦る。そんな二人が揃ってラクチェアの前に居る事が、不安を増大させていた。
「……あの」
「ラクチェア。このドレスに着替えなさい。奥の部屋を使って構いませんから。このベールも」
押し付けられた絹のドレスと黒いベールに、ラクチェアは困惑する。わけがわからず突っ立っているとフォルスに舌打ちをされた。
「ちょっ……これ、なんなんですか? 何でこんなのを着なきゃいけないんですか?」
理由くらい説明してもらわないと困る。正当な主張をしたつもりだ。
「言ってませんでしたっけ?」
「聞いてません!」
噛み付きそうな勢いでフォルスへ詰め寄るラクチェアの肩を、メイダが宥め押し返す。
「ラクチェア。君には姫の代役を務めてもらいたいんだ」
「はい……はい!?」
にこやかにそう告げられ、うっかり頷きそうになるのを慌てて阻止する。意味が理解出来ず口をぱくぱく動かすだけのラクチェアに、フォルスは畳み掛けるように追い打ちの言葉を放った。
「細かく言うなら、姫の代役として見合いをしてもらいます」
もうラクチェアは口を動かす事も出来ず、思考停止状態に陥った。