品川砲台
「岩鶴」への道すがら、後ろから琴のよく知る声がかかった。
「お琴!」
振り向くと、目を吊り上げた芸妓が通りに仁王立ちしている。
「ちょっとあんた、なにこんなとこで油売ってんの?」
琴は悪びれる様子もなく、逆に訊ねた。
「紅梅姐さんこそ、なんで?まだ明るいのに。」
紅梅は返答に詰まったが、なにやら不愉快なことでも想いだしたように捲くし立てた。
「それがあんた、ねえ聞いてくれる?
今日のお座敷、何とか塾って連中が連れ立って来たんだけどさ。あたしがついた清河なんとかって若いの、これがいけ好かない奴でさあ。
まだお酌も済んでないのっけから、今の大老の器はどうだの、清国とエゲレスの戦後処理がこうだの、あたしらなんかそっちのけで政の話を一席ぶつわけ。
しまいにゃ、あなた方は何にもわかっちゃいない、なぁんて他の旦那方に喧嘩吹っかける始末よ。もう、すっかり座もしらけちゃって。
でね、旦那さん揚屋でそりゃ無粋ってもんですよってね、葉鶴姐さんがたしなめたの。やんわりとね。
そしたらあいつ『常の勝敗は現在なり』という言葉をご存知か、なんつってさ。
こっちは、なんだそりゃってなもんよ。じゃあこんなとこ来んなって話じゃないか。
もう興が乗るどこじゃなくってさあ、あたしも睨み付けてやったの。
すると、あの野郎、まあ、あなた方に言ってもしょうがないか、って、こう、フンって、鼻で笑いやがって。
あたしさあ、もうアッタマきて、そいつの席を蹴っ飛ばして、出てきちゃったわけ」
紅梅はハァと息を継いで、ふと我に返った。
「…じゃなくてさ。あんた、ダメじゃないサボってちゃ」
「姐さん。それって、あのひとじゃない」
琴は、通りの向こうに先ほどの男の姿を見つけて指差した。
「あっ!あいつ!」
「あの人も姐さんのせいで居場所がなくなったから、お店を出てきちゃったのかな」
紅梅が琴の背中をドンと突いた。
「なにあんた、あの唐変木と知り合い?」
琴はそれを無視すると、紅梅が話した清河某の言葉を復唱してみた。
「常の勝敗は現在なり。…だから、品川砲台か」