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琴にとって、芸事げいごと修養しゅうようは苦痛以外の何ものでもなかった。

置屋おきやに着いた当初、琴はいきなり客を取らされるのではないかと案じていたが、遊郭ゆうかくというところは、琴の想像を超えて複雑怪奇ふくざつかいきだった。

書や、お茶や、三味線しゃみせん…いったいこんなものと色事いろごとになんの関係があるのか、琴には理解できなかった。

もっとも、素養そようはともかく、武家ぶけの娘として多少のたしなみがあった琴は、一緒に来た亀より何ごともそつなくこなすことができたので、女将おかみからは「すじがいい」と評されていた。


近江屋三八おうみやさんぱちが彼女達を残して「岩鶴いわづる」を出た後、女将おかみは吐き捨てるように言ったものだ。

「あんた達を連れてきたあの女衒ぜげん、ひとむかし前はちょっとした顔役かおやくだったんだけどねえ。最近はひだりまえで、たまぁに連れて来んのはろくでもないアバズレか、垢抜あかぬけない田舎娘いなかむすめばっか。あんたは久々のアタリだってんで、ずいぶん吹っかけられたんだ。ちゃんと元はとんなよ」

 琴はすぐにでもここを逃げ出したかったが、母に迷惑めいわくをかけるわけにはいかないと考え直した。


しかし、琴や亀の予想に反して、二人はついぞ粗雑そざつに扱われることはなかった。


岩鶴いわづる」の女将おかみ守銭奴しゅせんどには違いなかったが、なにより商売というものを心得ており、金の卵である琴や亀への投資とうしを惜しまなかった。

どうやら彼女は、花柳かりゅう生業なりわいとするうえで、琴や亀が前にいた世界とは全く別の行動規範こうどうきはんを持っているようだった。

琴は、すべてが算盤そろばんずくで、ズケズケと率直な物言いをするこの女将おかみを、なぜか嫌いにはならなかった。


とはいえ、連日の「お稽古けいこ」に琴は閉口へいこうさせられた。

元来、彼女は女らしい所作しょさというものに興味がなく、大蔵おおくら村塾そんじゅくに通っている間もひとりで剣を振るっていることの方が多かった。

そうなったのには理由があった。



琴が幼少の頃。

父鈴木専右衛門せんえもんは、どういう思惑おもわくがあってか、ひまをみては彼女に剣術の稽古けいこをつけた。

それは家格というものを割り引いても異例のことで、無論むろん、親族や母はいい顔をしなかったが、えて家長かちょうのやることに口を差しはさむ者もなかったのだ。


とにかく、何かのきっかけで、父は娘の非凡ひぼんな才能に気付いたに違いなかった。


あるいは、病気がちな嫡男ちゃくなん大蔵おおくらの成人を危ぶんでいるのかもしれないと、家人達はうわさしあった。

実際、次男の多聞たもんが産まれたときの喜びようはひとかたではなかったし、多聞たもんが数えで五つを越えた頃からは、琴に剣術を教えることもなくなった。


「父上は、わたしが死んだら琴に跡目あとめを継がせるつもりだったのさ」

大蔵おおくらは冗談半分に、よくそう口にした。


姿かたちがそっくりなこの娘を嫡男ちゃくなんの身代わりにたてるというのは、あまりに突飛な発想だが、鈴木専右衛門すずきせんえもんというのは、そういうことを考えかねない男だった。

しかし父の思惑おもわくがどうあれ、琴はその後もひとりで剣を振い続けた。



「ちょっとあんた、遊んでないで、紅梅こうばいんとこへ使いにいっとくれ」

三味線しゃみせん格闘かくとうしていた琴の頭を、女将おかみが叩いた。

桃割ももわれに結い上げた髪を直しながら、琴は立ち上がった。

新造しんぞうと呼ばれる琴のような見習いは、このような雑務ざつむが日々の仕事だった。


品川楼しながわろうですか」

「そ。はいこれ」

女将おかみ江戸友禅えどゆうぜんの風呂敷包みを琴にぐいと押し付けた。


琴は包みの中身が何か聞かなかった。

紅梅こうばいというのは、いずれ太夫になるだろうと皆がうわさする売れっ子で、きまって扇子せんすを忘れて出かけて行った。


琴にはこの「お使い」が唯一のたのしみだった。

帰りに少しでも時間があると、洲崎の海岸まで出てぼんやり海をながめた。


その日も品川楼しながわろう下働したばたらきに包みを渡すと、その足でまっすぐ海に向かった。


浜辺には、木綿の着物のすそをたくし上げて、潮干狩しおひがりをする女達の姿も見える。


琴はきらきらと海面かいめんに映る光を見ているのが好きだった。


桟橋さんばしに腰掛けて脚をぶらつかせながら、いつものように次々とうつろってゆく波形を目で追っていると、男が一人、背後から近づいてきて隣に立った。


琴は気にする風もなく波を見続けている。

男が手にしたキセルの煙とその香りが、彼女の髪をでた。

「風が気持ちいいな」

それは琴に向けた言葉かも知れなかったが、彼女が返事をすることはなかった。

「品川はどっちだろ」

男は海の方を見ながら、かまわず話し続けた。

「いやね。私は最近江戸に出てきたばかりで」

琴ははじめて男の顔を見上げた。

そこにいたのは、鼻筋はなすじが通り、鋭い眼をした若い武士だった。

「お台場を見に来たんだよ」

琴は男の顔をまじまじながめながら、それでも黙っていた。

どこか酷薄こくはくな感じのするその男は、琴と目を合わせたが、特に返事を期待しているわけでもなさそうだった。

「お上が今年になって、急にそんなものを造り始めたっていうからさ。せっかく江戸に出てきたのにそれを見ない手はなかろうとね」

琴は姿勢を戻すと、沖の方を指差してから言った。

「あれじゃないですか」

「…なるほど。あれかなあ。ここからじゃよくわからんな」

彼女は立ち上がると再び男に向き直り、

「そうですか」

とだけ告げ、その場を立ち去ろうとした。

「変だよな?」

男は琴を引き止めるかのように、今度は少し大きな声を出した。

「なんで今なのかなあ?どうして、そんなもんが必要になったんだろう」

「…さあ」

一度宙空ちゅうくうに視線をやって、琴がまた歩き出そうとすると、その青年は行く手に回りこみ、ぐっと顔を近づけた。

そしてゆっくりけむりを吐くと、秘め事を話すように声を落とした。

「昨年浦賀にメリケンの船が使節を乗っけて来たと聞いた。ビットルとかいう。…あれと何か関係があるのかな」

彼は眼を細め、口の端を少しだけ上げて笑ってみせた。

その態度は、あきらかに琴を見くびっていた。


幼い新造しんぞうになら聞かせても解らないだろうとたかくくって、本来口にすべきでない事を話しているのだと琴は直感的にさとった。


「砲台は、誰かに向けて撃つために造るんでしょ」

そう捨て台詞ぜりふを残すと、彼女は青年を押しのけて町の方へ歩いて行った。


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