怪力
中沢良之助は、稽古を休んで、件の見世物をもう一度見るために、富岡八幡宮、俗に言う深川八幡へと足を運んだ。
その朝、神田明神を通る道を選んだのは、この手の一座があちこち場所を変えて興行を打つことを知っていた為で、ひょっとしたらという考えが頭を掠めたからに過ぎない。
そのおかげで、道中思わぬものに出くわしたが、それを「白旗書簡」と結びつけて考えることはなかった。
興行は、あい変わらずこの深川八幡で行われていた。
その賑わいも、初めて来た時と何ら変わらない。
なにせ、あれから三日しか経っていないのだ。
しかし良之助の目には、この同じ景色が、まったく違うものに映った。
参道を行き来する人々は、世相に対する漠然とした不安を頭から振り払うために、この空騒ぎを演じているようにも見える。
事実そこには、この喧騒に紛れて、権謀術数をめぐらせ、来るべき時代への野望を秘めた者達が、蠢いていた。
良之助はそれを確かめに来たはずだった。
しかし、ふと気を緩めると、考えは先程出会った姉とそっくりの若者の事へ移ろってしまう。
ついぼんやりして、気がつけば、例の「日本一の力持ち」の小屋を通り過ぎてしまっていた。
ようやく我に帰って引き返そうとしたところ、人もまばらな境内の外れ、手水舎の側に、派手な赤色の羽織を着た呼子の姿があった。
裏参道から来る客を目当てに立っていたものらしい。
紅い落ち葉が、ひらひらと風に舞っている。
男の足元には、着物と同じ色の落ち葉が敷き詰められていた。
なにか、奇妙な夢でも見ているような光景だ。
良之助と呼子の目が合った。
男は良之助の風体を一瞥して、声を掛けるでもなく、ぷいと横を向いてしまった。
「どうやら、このなりがお気に召さないらしい」
良之助は、大股に、その呼子へ近づいた。
「おい」
呼子は逃げるように、末社の奥にある茂みの方へ脚を向けた。
良之助は、男の襟首をぐいと摘むと、無理矢理こちらへ向き直らせた。
近くで見ると思ったより若い男だ。
「どこへ行く。小屋は反対だぞ」
呼子はx、首の向きに合わせて身体をひねり、いきなり殴りかかってきた。
良之助は軽くそれをかわすと、ほとんど反射的にみぞおちへ当て身を一つ入れた。
男は、糸の切れた人形のように力なく膝をつき、良之助が襟を離すとうつ伏せに倒れてしまった。
「いかん、いつもの癖で…あーあ、気を失っちまった。お前が悪いんだからな」
聴こえる筈のない相手にそう言い訳すると、良之助は茂みの方へ向き直った。
男の素振りに、何か不自然なものを感じたからだ。
「…奥に何かあるのか?」
末社が立ち並ぶさらにその奥は、参拝者の導線からも外れて、殆ど手入れされていない。
伸び放題の雑草を分け入っていくと、聞き覚えのある声がして、良之助は思わず歩みを止めた。
「お前さんも脇が甘いな」
良之助はその言葉に一瞬ぎくりとした。
声を掛けられたのが自分ではないと悟ったのは、それに応じた相手があったからだ。
「なんのことだ?」
「そらとぼけたって無駄さ。あんな真似が出来る奴は、この広いお江戸にも、そうそう居るがねえ。いくらおつむの弱い与力でも、ちょっと考えりゃ、いずれお前さんに行き着くぜ?」
「それまでには、俺の役目も終わるさ」
「覚悟の上って訳か。しかし、あんたがあそこまでやるとは思わなかったな」
呼子はこの密談の見張りらしい。
良之助は二人の顔を確かめたかったが、声の近さから察するに、そうすれば自分の姿も相手に晒してしまうのは間違いなかった。
「殺生は宜しくないとか、今さら抹香臭いことを言うつもりはないが、大義もなく人を殺めるのは、そこら辺のゴロツキどもとかわらんぜ」
「あんた達二本差しは、いつもそうやって理屈をこねるばかりで、自分の手を汚そうとしない。ましてや黒船騒ぎに乗じて、一旗揚げるのが目的のあんたに、大義云々を口にする資格があるのか」
聞き覚えのある声の男はフンと鼻を鳴らした。
「痛いとこをつかれたな。ともあれだ。早いとこ何処ぞへ高飛びするんだな」
話は済んだらしく、男は良之助の方へ踵を返した気配だ。
「まだやることがある」
もう一人の男がその背中に声を掛けた。
良之助は、慌てて引き返そうと、腰を落としたまま末社の方へ這った。
しかし、足音は躊躇うことなく彼へ近づいてくる。
「盗み聞きは、感心しないな」
肩をぽんと叩かれ、身をすくめた時には、男は良之助を追い越して行ってしまった。
「待て!」
良之助は思わず立ち上がって声を上げた。
「誰だ!?」
背後から、もう一人の男が叫んだ。
良之助がしまったと振り返ったとき、男の顔はすでに間近にあった。
ありふれた町人風の男は、背の高い良之助に比べれば、二まわりも小柄だが、荷役夫のようにがっしりと引き締まった体格をしている。
一見して誠実そうなその顔には、深いしわが刻まれ、怒りとも悲しみともつかない複雑な表情が浮かんでいた。
「聞いていたのか」
「あんた、あの卯之助か?」
良之助は、先日この境内で観た興行を思い出した。
三宮卯之助は、今にも飛び掛かりそうな気配を見せながら、もう一度同じ問いを繰り返した。
「答えろ。今の話を聞いたのか?」
「黒船の話をしていたな」
良之助は、視線を相手の眼から離さず、刀の鯉口を切った。
「斬る覚悟もないくせに、抜くのか」
「試してみるか」
凄んではみたものの、良之助の眼には、迷いの色がありありと浮かんでいる。
卯之助の身体がふっと沈んだ。
気がつくと、良之助は宙に浮きながら、回転する空を見ていた。
背中に鈍い衝撃が走った。
激痛に息も出来ず、自分が投げ飛ばされて地面に叩きつけられたと理解するまでに少し時間がかかった。
良之助が何とか半身を起こしたとき、足元の陽が翳った。
見上げると、目前には、岩と呼んでいいほどの大きな石を振りかざした三宮卯之助がそびえるように立っていた。




