水戸
水戸に来て一月。
季節は蝉が鳴く頃へ移ろっていた。
大蔵はそれなりに充実した日々を過ごしていた。
これまでの窮屈な境遇から解き放たれて、多くの少年と同じく年相応の生活というべきものを享受していた。
内弟子となった大蔵にとって、道場主金子健四郎は、師であると同時によき父代わりでもあった。
一方の金子にとっても、武士としての礼節を保つために厳しく大蔵に接してはいたものの、まるで真綿が水を吸うように次々と剣術を体得してゆくこの少年は、目の中に入れても痛くない存在だったろう。
事実、生まれついて身体が弱かった大蔵は、見た目こそ女のように華奢だったが、元来剣を振るう才覚があり、たちまち道場でも一目置かれる存在になっていた。
金子建四郎は、水戸藩の小十人という役職にあり、大蔵に尊王の気風を学ばせることも怠らなかった。
いわゆる水戸学は、旺盛な大蔵の知識欲にとっても新鮮な刺激だった。
むしろ水戸に来て尊王論を体系的に学べたことは、剣技の習得よりも大きな収穫とさえ言えた。
いずれにせよ、ほんの数ヶ月前に比して、何もかもが順調に滑り出したかに思われた。
水戸藩士の子、森山繁之介は、この新参の少年を一目で好きになった。
鈴木大蔵は、目を奪われるほどの美少年で、その実剣の才に長け、目から鼻へ抜けるような秀才だった。
同門で同い年の繁之介は、同じ秀才ではあっても愚直な自分にはない何かを、大蔵に感じていた。
そして大蔵の方も、繁之介のことを、剣術や勉学において同世代で自分と渡り合える数少ない相手とみなしていた。
「たまには気晴らしに遊びにいかないか」
立合い稽古が終わった後、身体を拭きながら、繁之介は大蔵を誘ってみた。
「遊びに?」
大蔵はキョトンとしている。
「だってさ、おまえ内弟子だろ?水戸に来てから、道場と、郷校と、屋敷への路を行ったり来たりするだけで、そこから外に出たことないんじゃないか?」
「ううん…」
確かに、大蔵は初めてこの道場を訪ねた日の道すがら、街道から遠目に城下町を見たきりだった。
「水戸は学問の都だって言われてるけど、なんたって御三家のお膝元だからさ。城下町なんてすごいんだ。こう、武家屋敷がズラーっと並んでさ。言っちゃなんだけど、8000石の志筑藩とは訳がちがうぜ?」
「ふ~ん」
大蔵は、易々と繁之介の挑発には乗ってこなかった。
「竹隈町ってとこにはさ、花街もあるんだ」
繁之介は、なんとか友人の気を引いて、外に連れ出そうとした。
彼は、故郷を遠く離れて暮らす大蔵の気持ちをおもんばかっているに違いなかった。
繁之介は、大蔵が時おりひどくふさぎ込むのを知っていた。
今日の稽古中にも、大蔵の表情がふとした拍子に曇るのを見て、気にかけていたのだ。
「弘道館を見てみたい。だめかな」
大蔵は、はだけていた上半身に胴着の襟を引っ張りあげながら尋ねた。
水戸藩の弘道館は、名にし負う最高学府だ。
「お、おう!中に入れてもらえるかどうかはわかんないけど、外からなら見れるんじゃないかな」
建物は城の三の丸にあって、外堀の塀越しに眺めることしか出来なかったが、繁之介はそのことには触れずにおいた。