来客
「あっ!おまえは!」
少年は、目の前の男を見上げると、眦を決してそう叫んだ。
同日、昼の七つ刻の頃。
場所は再び麹町、神道無念流杉山道場の門前である。
少年はそれから一呼吸置いて口をつぐみ、首を傾げた。
「…あれ?誰だっけ?」
さほど背は高くないが、がっしりとした体格のその男に、少年は確かに見覚えがあった。
しかし何処で会ったのか思い出せない。
壮年に差し掛かろうかと言うその男は、優しい笑顔を浮かべて立っている。
「君は、この道場の子かい?」
数えで十くらいの少年は、ムッとして男を見返した。
「子供扱いすんな。拙者、杉山道場の門人、藤堂平助だ!」
道場主、杉山東七郎は志筑藩の剣術師範も務めた剣豪だ。
それは滑稽な子供らしい虚勢とも採れたが、綺麗な折り目のついた袴が、この少年の社会的な階級を、雄弁に物語っている。
「これは失礼。私、三ノ宮卯之助と申します。鈴木先生はご在宅ですか」
男は言葉使いを改めて尋ねた。
「あっ!」
前屈みになった男の、肩から首筋にかけて隆起した筋肉を見て、平助は思い出したと言う顔をした。
目の前にいるのは八幡宮の境内で、「日本一の力持ち」と銘打った見世物興行を見たときの主役だ。
60貫もある巨石を軽々と持ち上げる芸を目の当たりにした平助は、子供心に大変な感銘を受けた。
思わず羨望の表情を浮かべそうになるのを必死で堪えるように、彼は口元を引き結んだ。
「どの鈴木だ?」
目には、「ここからは一歩も通さない」という、やっかいな決意を滲ませている。
「では、師範代の先生方は、どなたかおいでか」
「先生方は、九段坂上の練兵館にお出掛けで留守だ。今いらっしゃるのは、若先生だけだ!なんだ、おまえは道場破りか?」
平助は、あの怪力を思い出して、警戒していた。
「そんな、物騒な要件ではござらん。弱ったなあ。何とかその若先生に取り次いでもらえまいか」
その時、道場の玄関から、鈴木大蔵が顔を出した。
「なんだ、騒々しい。お客人か?」
「若先生!」
平助は、大蔵を振り返って居住まいを正した。
「若先生はやめろと言ってるだろう。それではまるで道場の跡取みたいに聞こえる」
大蔵は、表情を曇らせた。
それだけで、憂いを含んだ美女の趣がある。
「…あいにく道場主は只今不在だが、どういったご用向きか」
しかし、平助から来客に視線を移した途端、その声音は親しみを帯びたものに変わった。
「おお、卯之助さんか」
「鈴木様!」
卯之助は、洲崎の茶屋で初めて会った時のようにぺこりと頭を下げた。
「先日は誠にありがとうございました。例の茶屋で鈴木様がこちらの師範代を務めていらっしゃると伺い、不躾ながら訪ねて参りました」
「なに、師範代と言えば聞こえは良いが、食い詰め浪人の居候です。それより、こいつがとんだご無礼を。よくいらっしゃいました。どうぞ上がってください」
大蔵は、平助の総髪に結った頭を鷲づかみして、乱暴にクシャクシャなでながら、卯之助を道場の奥へ誘った。
「せんせえ、昼から稽古をつけてくれるって言ったじゃないか!」
平助は不服そうに唸った。
「後だ。薬缶にまだ湯が残っているだろ。お客様にお茶をお出ししろ」
「えー!?」
卯之助は平助の不興を買ったことを気に掛ける様子で、小さく手を振った。
「いや、今日は、茶屋の修繕費を立て替えて頂いた分をお返しに上がっただけです。すぐお暇します」
大蔵は、少し驚いた顔で卯之助に座布団を勧めると、自身も胡座をかいて身を乗り出した。
「失礼ながら、よく一両三分もの金をそんなすぐに用立てられましたな。随分と無理をなさったのでは」
実のところ、大蔵が立て替えた金の大部分も、小亀の懐から出たものだった。
「先生、この人は深川八幡でやってる見世物の花形なんだ。お大尽さ」
おぼつかない足取りで、出涸らしの茶を運んできた平助が、口を挟んだ。
「そうだった。私も『日本一の力持ち三ノ宮卯之助』の噂は聞き及んでいます。連日大変な賑わいとか」
「はは。そんなことはありませんが、昨日まとまった金が入りましたので、お気遣いなく」
大事そうに服紗に包んだ金子を取り出しながら、卯之助は照れたような笑みを浮かべている。
「どうぞお納めください」
大蔵は「確かに」と金を受け取ると、改めて卯之助をしげしげ眺めた。
「しかし、どういった経緯で、あなたのように大人しい方があんな事をなさったのです」
卯之助は、人懐っこい顔に困惑した笑顔を浮かべていたが、それには答えず、
「実は私も、お会いする以前から先生のご高名は存じ上げておりました。大層文武に秀でたお方だと。何でも長らく水戸へ遊学されておったとか」
と切り出した。
「どこでそんな話を?」
「弘道館の海保帆平先生からでございます」
「ほう、海保先生と面識がお有りですか。しかしはて、私自身郷校でお会いしたことはありますが、さほど懇意にさせて頂いた記憶はありませんね」
「海保先生は、よく覚えておいでです。鈴木大蔵殿は、憂国の士だと」
卯之助はどこか取り繕うように応えた。
「どうにも面映い。卯之助さん、何やら雲行きが怪しくなってきた気がするが、わざわざ来られたのは、何か他に話があるからではないですか」
「他意はございません。ただ、あの日の諍いを説明するのは少し事情が複雑でして」
「ほう」
「これは鈴木様だからお話しますが、私、ある旗本の御家臣から御下命を受け働いております」
「それはまた。失礼だが、士分でもない貴方が何故そんな仕事をなさっているのです」
大蔵は涼しげな目をすがめた。
「自慢するわけじゃありませんが、私、過日上様の御前で芸を披露したことがございまして。その折に、興業を差配したという件のご家臣が、後日わざわざ小屋を訪ねて来られ、私の怪力を大層気に入ったとお褒め頂きました。以来、見世物を生業とする建前を生かして、巡業で日本全国を周りながら、隠密の仕事に手を貸しておるのです」
「そんなことを話して、大丈夫なのですか?」
「ですから。鈴木様には、ここだけの話ということにして頂きたいのです。あの日、待合茶屋の裏で話しておりました浪人は、例の黒船に乗る夷狄どもを駆逐するための資金集めに従事していた人間です」
「どうも話がきな臭くなって来ましたね」
「彼奴めは、その金を着服しようとしていたのです」
「あなたは、その金を取り戻すために、あの男とやりあった訳ですか」
「へえ」
大蔵はしばらく目を閉じてなにごとか考える風だったが、やがて卯之助にもうひとつ質問した。
「事情はわかりました。しかし何故、馬鹿正直にそんな話を私に打ち明けたのです」
「もちろん、普通なら、こんな申し開きはいたしません。敢えてお話したのは、鈴木様を見込んでのことでございます」
卯之助はそう言うと、懐に手を突っ込み、折り畳んだ手紙を取り出した。
「これをご覧になったことは?」
卯之助が手にしていたのは、またしてもあの「白旗書簡」だった。




