招待
道場に戻った良之助は、その日のうちに山南敬介と数回手合わせすることが出来た。
清河の口利きが功を奏したのか、山南はいやな顔一つせず、良之助に付き合った。
もっとも、彼が勝負に手心を加えることはなかったので、試合は何れも良之助の惨敗に終わった。
「山南さんは強い」
道着を脱ぎながら、良之助は心底悔しそうに言った。
「別に、私が強い訳じゃないと思うが」
山南は穏やかな笑顔を浮かべながらも、思うところを率直に述べた。
「君は恵まれた体格を持っているが、その膂力に頼みすぎる嫌いがある」
奥州仙台藩の産という山南は、東北人らしい色白で整った顔立ちをしていたが、その柔和な容貌に反して、剛毅な一面があった。
良之助は一瞬ムッとしたものの、微笑む山南の顔を見るうちに考えを改めた。
辛辣な言葉は、良之助の感想に対して如何にも的を射た答えであったし、それはとりもなおさず、山南が未熟な新入りにも真摯に相対する姿勢を表わしていた。
二人は着替え終わると、居残って稽古を続ける者に挨拶して、玄武館の門を出た。
「ところで山南さんは、家で待っている人がいらっしゃるのですか?」
「いや。あいにく、独り身でね」
「それでは、どうです?飯でも一緒に」
「お誘いは有難たいが、先立つものがなくてね。恥ずかしながら、飯はもっぱら自炊なんだ」
「では、うちに来ませんか?この近くなんです。ちょっとなら酒もありますし」
実のところ、良之助には飯を奢るくらいの手持ちはあったが、それは年長の山南を立てる配慮だった。
「いいでしょう?私は、まだ江戸に出てきたばかりで、酒を交わす相手もいないんですよ。山南さんは、道場の後見ですから、私にとって初めてできた知り合いという訳です」
山南はしばらく渋っていたが、是非にという良之助の頼みを無下に断ることも出来ず、招待を受けることにした。
神田岩本町の狭い路地を入ったところに、中沢良之助の仮住いはあった。
一間半ほどの間口が並んだ割長屋の、一番奥がそれだった。
辺りはもう薄暗くなっている。
「ただいま!」
良之助は、玄関先にドサッと稽古道具を置くと、帰宅を告げた。
琴の返事がないので、奥の間を覗いてみたが、姿が見えない。
もとより二部屋しかない間取りなので、つまりどこかへ出掛けているらしい。
「変だな。とにかくまあ、狭い所ですが、どうぞ上がって下さい」
良之助は山南に手招きした。
「御内儀がいるとは知らなかった。いきなり伺ったのはご迷惑じゃないかね」
山南は意外そうな面持ちで、良之助に尋ねた。
「いやぁ、姉です。お恥ずかしいのですが、私のことを心配して、田舎から一緒に出て来まして。まあ、あれは少し無愛想な所もありますが、気の置けない質ですから、平気ですよ」
山南は座敷に上がると、何かに気付いたように、神妙な顔で奥の部屋の方を見た。
その時、縁側の障子が開いて、木刀を持った琴が姿を現した。
「ごめんなさい、気がつかなくて。お客様?」
「また、そんなもん振り廻してたのかよ。恥ずかしいなあ」
良之介は、山南の顔をチラリと窺って、頭を掻いた。
「道場育ちが嵩じて、女だてらに剣術の真似事をする癖がありまして」
琴は慌てて袖を縛っていた襷を解くと、座布団を出した。
「道場でお世話になってる先輩の、山南先生だ」
「これは、これは。弟が面倒をお掛けします」
琴はかしこまって、三つ指を付いた。
「すぐ、お茶を用意しますので」
「いや、お気遣いなく」
山南は丁寧なお辞儀をして微笑んだ。
「姉上、ご近所に頂いた酒がまだあったろ」
「はいはい」
子供っぽい見栄からくる弟のぶっきら棒な物言いに、琴は苦笑した。
「姉君は、能く剣を使うのかい?」
山南は、かいがいしく食事の支度をする琴の背中を見ながら尋ねた。
「さあ?父は、もっぱら薙刀の稽古をつけていましたが、そっちの方は、私が言うのもなんですが、なかなかのものです」
「それは頼もしい」
「それも度を越しますと、困りもんです。このままでは行き遅れてしまう」
「当節はご婦人が剣を振るうのも嗜みのうちなんでしょう。現に千葉先生の姪御殿も、かなりの腕前という話ですよ」
「そんなもんですかね」
ふたりが笑っているところへ、琴が盆を持って戻ってきた。
会話は筒抜けのはずだったが、彼女は山南に一つ愛想笑いをしただけで、熱燗と酒の肴を卓に並べると、すぐに釜戸の火を見に戻ってしまった。
山南は良之助の酌を受けながら、もう一度琴の背中を見て呟いた。
「確かに、あの音は、嗜みと言うには度を越してるな…」




