接吻
大蔵は手紙を読み終わると、急に興味を失ったかのようにそれを放り投げ、小亀を引き寄せた。
大蔵の長い指が、小亀のうなじを撫でる。
口づけを交わしながら、小亀は大蔵の豹変に戸惑った。
ついさっきまでしかつめらしく政治を語っていた、その同じ男の手が、花魁の袂を割って入っていく。
「いい香りだ」
耳を噛んで囁く大蔵の息をくすぐったく感じながら、小亀はやっとの思いで抵抗した。
「大蔵様、褥の用意をさせましょう」
「どうして」
「どうしてって…」
小亀は、優しく抱きすくめる大蔵の腕に、とうとう抗えなくなった。
とその時、大音響とともに、建屋がみしみしと横揺れした。
小亀は思わず小さな悲鳴をあげて、大蔵にしがみついた。
揺れはすぐにおさまった。
大蔵はしばらくじっと動かずに様子を窺っていたが、階下に悲鳴を聞いて、はだけた袂を合わせると立ち上がった。
「無粋な奴がいるもんだ」
大蔵が階段を降りていくと、板敷きの広間で大の字に伸びている男がある。
浪人風のその男は口角から泡を吹いて昏倒していた。
「ふうん。人間てのは、ほんとに口から泡を吐いて気絶するんだな」
大蔵は腕組みして倒れている男を見下ろすと、すぐ脇で立ちすくんでいる男に同意を求めるように、場違いな感想を漏らした。
「何ごとです、これは…?」
「わかりません。いきなり閉めてあった広間の雨戸を突き破って飛んできたんです」
女中達は遠巻きに男をのぞき込んでいる。
やがて小亀や、他の客も恐るおそる様子を見に下りてきた。
「主人を呼んではどうか」
「私が主人でございます」
「この男に見覚えは?」
「さあ。以前いらした方かもしれませんが、記憶には…」
大蔵は、男が飛んできたという掃き出し窓から外に出て、辺りを見渡した。
すると、庭の片隅に、小柄だががっちりとした体格の中年男が、ジッとこちらの様子をうかがっている。
半纏姿の風体を見るかぎり、町人のようだ。
「もし」
目のあった大蔵が声をかけると、男は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
小亀が如才なく玄関から履物を持ってやってきて、大蔵の前に揃えた。
大蔵は、それをひっかけると、男に歩み寄った。
「あれをやったのは、あなたですか?」
「申し訳ございません。口論になって、ついカッとしてしまいまして。お店を破損した分は、必ず弁償させていただきます。どうか、付け馬に言いつけるのは勘弁してください」
男は恐縮して、また頭を下げた。
「それは、主人に言いたまえ」
大蔵が一瞥した主人は、困り顔で、この場をどう納めたものか、考えあぐねている。
「とにかく、そのお人の介抱を!」
小亀が女中に声をかけると、彼女たちは途端にあたふたと、引っくり返っている男の周りを動き始めた。
大蔵は男の足元の土に争った跡を認めて、そこから雨戸までの距離を目算していた。
「優に二間以上は投げ飛ばしたことになる。すごいな」
「へえ…」
男は皺の刻まれた額に汗をいっぱい浮かべて、上目遣いに大蔵を見ていた。
「きみ、名前は?」
「三ノ宮卯之助と申します」
大蔵は、その名前に聞き覚えがあった。




