血
辺りは血の海になっている。
騒ぎに気付いた待合茶屋の女中が、勝手口から顔を出し、悲鳴を上げた。
それでも琴は無言のまま、放心したように突っ立っていた。
その顔は生きている人間とは思えないほど蒼白だった。
中沢孫右衛門も、この奇異な状況をいまだ把握出来ずにいた。
琴は血の中に膝をつき、吐いた。
何千回、何万回と木刀を振るったが、人を斬ったのは初めてだった。
中沢は、琴の手に握り締められた脇差を引き剥がすと、急いで彼女を馬上に抱え上げ、その場を立ち去った。
今はもう人影の無い夜の桟橋まで来たとき、中沢は馬の歩みを止めた。
「お侍さん、行っちゃ駄目」
中沢の背中で、琴が、うわ言のように、あの時の言葉をもう一度繰り返した。
「この騒ぎじゃあ、行きたくても行けないよ」
中沢は振り返ると、憑き物が落ちたような顔で、琴に微笑んだ。
「先約ってのはこれか」
賭場が開帳されている民家の前で、平間重助は一人毒づいた。
平間は、笹川の家を出るときに嗣次が言った言葉の真意を図りかねていた。
その時、下村嗣次が、中からヌッと顔を出した。
「まあ、ヤクザだからよ。博打に顔出すのも仕事の内なんだろうぜ」
平間の独り言を聞いていたようだ。
「いいんですか?親分さんの傍にいなくて」
「別に仕事してたわけじゃねえよ。お前もやってけって言うからよ。ちょっと付き合ってただけさ」
「で?」
「寺銭が切れたから出てきたんだよ」
平間は少し笑って、嗣次に向き直った。
「下村さん、さっきの件だが」
「おう」
嗣次は、平間の意を酌んで、声音を落とした。
「ここを出たら、殺るぜ」
「本気ですか?何故です」
「細かい説明は後だ。この先に橋が架かってる。そこに、仲間が四人待ち伏せてる手筈だ。とにかく俺が抜いたら、お前も続け。迷ってたら死んじまうぞ」
「分かってるでしょうが、あの男、手強いですよ」
嗣次はそれには答えず、フンと鼻を鳴らすと、鉄扇で首の後ろをコツコツと叩き始めた。




