抜刀
近江屋三八は、かつて山谷に大店を構えた女衒屋だった。
誘拐まがいの人買いも厭わず、その事業は隆盛を極めた。
やがて、天保年間の飢饉に端を発する貧困が、遊郭に流れる女たちの数を飽和状態にまで押し上げ、皮肉にもこの男の商才は意味を成さなくなった。
そうして、瞬く間に近江屋は凋落した。
しかし、長らくこの世界に身を置いた三八は、未だ裏社会に気脈を通じ、良心を持たないことにおいて、件の笹川繁蔵や飯岡助五郎も及ばないほどの人間だった。
その眼には何の感情もこもっていない。
「お琴ちゃん、昼間も品川楼の裏で会わなかったかね」
三八は、敏感に琴の顔色が変わるのを見て取った。
「気付いてないと思ってたかい」
琴は、気丈に三八を見返した。
「旦那どうします?まだ小さいが、これは賢しい娘でね。だいたいんとこ、事情を察してるようだ」
「この娘は、いったいなんだ」
「あたしが、『岩鶴』に売っ払ったお嬢さんです」
「岩鶴」の名を聞いて、中沢は表情を変えた。
「お侍さん、行っちゃ駄目。」
三八から目を逸らさず、琴は言った。
「え」
中沢は、その毅然とした響きにたじろいだ。
「旦那が殺りますか」
「馬鹿言え。こんな子供に手を掛けられるか」
「さっきまでの慎重さは何処へ行ったのかね。それともあたしに手を汚せってことですか」
三八の口調は、中沢を見下している。
「もっとも、あたしは昔っから汚れ仕事には慣れてますが」
その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
この男には、もともとそういった性癖があったのかも知れない。
それは蛙の舌が伸びる如く、驚くほど速い動きだった。
三八の両腕が、琴の細い首筋に届いた。
しかし、筋張った腕がつかんだのは、宙空だった。
琴は身を沈め、あっという間に一間も飛びのいた。
中沢には、まるで目の前に突然少女が現れたように見えた。
そして眼下に、自分の脇差を、か細い腕が抜刀するのを目撃した。
右手で轡をとっていた中沢は、完全に虚をつかれた。
琴は、退いた時と同じ軌道で、三八へと跳躍した。
それは一瞬の出来事だった。
中沢が我に返った時、のたうつ三八と、空を掴んだままの右腕が、暗い路地に転がっていた。
傍らには、それを見下ろす琴が立っている。
そして、囁くように三八に語りかけた。
「教えて。さっきの話、その馬番はどうなったの?」




