定紋
深川八幡宮の境内は、その日、猥雑な活気に満ちていた。
原色のノボリが立ち並び、呼子の口上が、人々の喧騒に混じって途切れ途切れに聴こえる。
中沢良之助は、江戸に出てきたことを実感していた。
「さすが、穴原の縁日とじゃ、まるで人の数が違うなあ!」
彼は、まだ幼さの残る目を丸くして、人々の頭を上から見渡した。
良之助は、行き交う群集から頭一つ抜ける大男だった。
その姿は嫌でも人目をひく。
「縁日じゃなくて、見世物よ」
並んで歩く同じ年頃の娘が、良之助を見上げて、咎めるような口調で言った。
「わかってるさ。なに怒ってるんだい」
「いいの?こんなとこで遊んでて」
そう言った娘の容姿もまた、際立っている。
その瑞々しい美しさは、少し古くなった地味な絣にさえ、微塵も損なわれる事はなかった。
すれ違う男が次々と振り返っていく。
「道場は明日からだ。まったく、姉上と一緒じゃあ羽も伸ばせない」
「あなたが江戸で羽目を外さないよう見張っとけって言われた意味が、なんとなくわかってきた」
姉はあきれたように言った。
「父上の差し金か。俺の面倒を見るために付いてきたんじゃないのかよ?」
「面倒の種類にもよるわね。不慣れな土地なんだし、精々気をつけなさい」
「ちぇ、姉上だってそうだろ?」
利根郡穴原村の剣法道場養武館の跡取りである良之助は、北辰一刀流を修めるために、前日の未明、江戸に着いたばかりだった。
折しも、浦賀に停泊する黒船に江戸表は揺れ、風雲急を告げる時節。
人々がこうした娯楽に興じる様は、胸に期するもののあった良之助を、なんだか拍子抜けさせたが、これも江戸っ子気質というものかとすぐに納得してしまった。
良之助は人だかりの方を気にしながら、ほとんど上の空で姉と話を合わせている。
視線の先には「日本一の力持ち」と寄席文字で書かれた看板が見えた。
呼子の口上によれば、人が乗った馬をさらに舟に乗せて持ち上げる芸を見せるそうで、先々代将軍家斉公の御前で披露したこともあると言う。
「見ていこうよ!」
良之助は嬉々として姉の肩をゆすった。
「ただじゃないのよ」
姉の方は、人ごみに埋もれて看板までは目に入っていないようだ。
「たった20文さ!」
気の早い良之助は、懐からすでに木戸銭を出している。
「どうぞごゆっくり。私はこの近くの知り合いの処に寄ってから、家に帰るわ」
「姉上、俺がついてなくて大丈夫かい」
姉はゲンナリした顔で頭を振った。
良之助の姉、中沢琴は、人ごみをすり抜け、裏参道に出てようやく一息ついていた。
「娘御」
背後からの声に振り返ると、羽二重の紋付羽織を着た一目で武家と判る中年の男が立っている。
「はい」
琴は少し辺りを見回したが、それらしい相手が自分しかいないことに気づいて返事をした。
「連れはなしか」
男は陣笠を目深にかぶっていて、表情までは読めない。
彼女は警戒するように、笠の奥にあるはずの眼を窺った。
「ええ。そこで別れましたので」
「そう身構えるな。わたしは九条家の縁者で、別に怪しい者ではない」
「なんの御用でしょう?」
胸元の定紋にチラリと眼をやって、琴はたずねた。
「見知らぬ男に声を掛けられるのは慣れているようだな。その器量なら、さもありなん、か…」
「お武家様、私、先を急ぎますので」
「まあ、待て」
男は琴の細い腕をつかんだ。
「人目がございますよ」
琴の刺すような視線に、男が一瞬怯んだのがわかった。
「ふん、私も忙しい身だ。駆け引きは無しにしよう。そのなりは浪人者の娘と言ったところだろう。どうだ?一夜、枕を交わせば五両出そう」
男は気を取り直したように、掴んだ方の掌で琴の腕にそっと指を這わせながら、もう一方の手で陣笠を持ち上げた。
好色そうな吊り上った目元が覗く。
「それだけお持ちなら、吉原の遊郭へでもいらっしゃいませ」
琴は腕に力を入れて自分の方に引き戻そうとしたが、男の白くむくんだ手はがっちりと食い込んで離れなかった。
その時、
「ねえ、おやめなさいよ。嫌がってるじゃないですか」
二人の様子を見兼ねたのか、中間風の若い男が仲裁に入った。
「なんだ。お前は」
陣笠の男は、青年をにらみつけた。
青年は、どこかへ稽古に行く途中なのか、胴着と木刀らしき袋をぶら下げている。
「子供も見ています。こんな往来で、女を口説くなんて、無粋ってもんでしょう」
「なにを、下郎!」
顔色を変えた陣笠の男は、琴の手首を離すと、刀の柄に手を掛けようとした。
しかし、済んでのところで、青年はその手を制した。
「ね?止めましょう。だって、それを抜いたら、あたしもあなたを斬らなきゃならん。そんな事になれば、お互い面白くないことになります」
陣笠の男は、その時初めて若者が腰に刀を帯びているのに気づいた。
彼は終始優しい口調を変えなかったが、その言葉には妙な迫力があった。
男は舌打ちして、踵を返した。
琴は、汚いものにでも触れたように掴まれた手首をさすりながら、青年に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いやぁ、事なきを得ましたね。実は、あたしも怖かった」
青年は照れたように、人の良い笑顔で答えた。
「お名前をお聞かせください」
琴が言い終らない内に、青年は人ごみの中に誰か知り合いを見つけたのか、短く叫んだ。
「あっ、いたっ!」
釣られて振り返った時には、青年はもう走り出していた。
「宗次郎!おい!宗次郎!」
彼は叫びながら、人の波にそのまま紛れてしまった。




