晩餐
その日、夕餉の席の伯母はいつになく上機嫌だった。
食膳には、最近では珍しく一汁三菜が並び、この晩餐が特別なものであることを窺わせた。
琴や大蔵の弟、まだ小さい多聞は久しぶりのご馳走に無邪気に喜んでいる。
「大蔵さん。いよいよ明日ね。水戸に行ったらがんばって下さいよ。くれぐれも鈴木家の名誉に泥を塗るような行いは慎みなさいましな」
聞こえよがしの激励は、むしろ食卓を囲む祖母や、家長である桜井四郎左衛門に聞かせるための遠回しなご機嫌取りだった。
「はい」
大蔵は、蚊の鳴くような声で応えた。
「これ」
大蔵の隣に座っていた母コヨが、上座に居並ぶ人々に対して申し訳なさそうに、そんな大蔵をたしなめた。
「精一杯励みます」
今度はもう少し大きな声で大蔵は応えた。
琴は末席で黙々と箸を運びながら、大蔵を横目で眺めていた。
「遊学なんて言っても、ていのいい口減らしさ」
琴にだけわかるよう、大蔵は口の動きで毒づいた。
この双子の姉弟は、昔からほんのちょっとした仕草でお互いの気持ちを伝えあうことが出来た。
琴達は、母方の実家であるこの桜井家の居候だった。
少年とは言え、聡明で皮肉屋の大蔵には、そもそも父専右衛門が逐電してのち、鈴木家の名誉と言えるようなものがまだ残されているなど、笑止だったに違いない。
琴はウンザリしたような目配せを返しただけだった。
「ご馳走様でした」
琴が膳を片付ける為に席を立とうとすると、
「ちょっと待って」
と伯母が引き留めた。
「わたしですか」
この伯母から滅多に声をかけられる事のない琴は少し驚いた。
「そうよ。実はねえ、あなたにもお話があるのよ」
「は」
「そうねえ…やっぱりここではなんだから」
そう言って、伯母は自分の膳を下げると、先に立って台所の方へ歩き始めた。
「ちょっと。ちょっと、こっち。」
「は」
膳を捧げ持つようにして、琴は上目遣いで伯母の後ろ姿と母の悲しげな横顔を見比べた。
伯母は台所に入ると、飯炊き女とだべっていた下男を追い出して、
「ほら!あんたもさっさと洗い物片づけて」
と女を怒鳴りつけた。
「まったくねえ。利根川でヤクザの大乱闘があって何人死んだの、浦賀に着いた船から異人が降りてきてお上と密約を結んだの、いったいどこで仕入れてくるんだか、そういう与太話ばっかり家のもんに吹き込むんだよ。あの久吉には困ったもんでねえ」
と、ぎこちない笑顔を作った。
仮にも士分の娘である自分を、この伯母がなんとなく持て余しているのは、幼い琴も薄々気づいていた。
竃に後ろ手をついて立つ伯母は、話をどう切り出せばよいか、まだ悩んでいるようだ。
「伯母上?」
琴は、遠慮がちに促した。
「大蔵さん。本当に一人で大丈夫かしらねえ」
はぐらかすように伯母がこたえた。
「大蔵は、ええ。大丈夫だと思います。あの、伯母上、話って、今日来ていたあの商人と関係のあることじゃないですか」
遠回しな物言いに苛立って、琴は踏み込んでみた。
「ああ、ええ、近江屋さん。あの方、ああ見えて少し前までは結構な大店のご主人だったそうよ。今じゃ、あんなだけどねえ。ええ」
「私、奉公に出るんですか」
琴には、昼間の二人の様子からおおよその筋書きは見当がついていた。
「あら」
伯母は、妙に大人びたこの娘を内心少し気味悪く思っていた節もあったが、この時ばかりは彼女の利発さに救われたという顔をした。
「脱藩したとはいえ、表御礼衆の郷目付までお勤めになった、れっきとした武家のご息女を奉公に出すなんてねぇ、私も悩んだんだけど、コヨもね、しょうがないって言ってくれたのよ」
「母上が…」
父が蟄居を申し渡され、自分たち家族をおいて失踪して以来、琴は、志筑の家を追われるまでの間、母コヨがどれだけ金策に苦労してきたか、間近でいやと言うほど見知っていた。
双子の弟大蔵が「遊学」を建前に厄介払いされたのも同じ理由だった。
「そうですか。わかりました」
琴は、それ以上なにも聞かず、あっさりと申し出を受け入れた。
翌朝早く、大蔵は桜井家の下男と連れ立って、小桜村川俣を出て行った。
大蔵は水戸街道の稲吉宿からは一人で行くと言って聞かなかったが、結局、心配する祖母や母に押し切られて、水戸沢小路の道場まで、この下男が同行することになった。
ここ数年、水戸領には侠客くずれのごろつきや、野盗の類が増えたという話が伝わっていた。
心配する家族をよそに、大蔵は涼しい顔をしている。
琴は母の隣で大蔵を見送ったが、大蔵とは短い言葉を交わしただけだった。
「頼んだよ」
大蔵のその一言に込められた色々な意味を琴は斟酌したが、返す言葉は見つからなかった。
大蔵には昨晩の話はしていない。
その朝、母の眼は赤く泣きはらしていた。
それが大蔵のことを想ってか、琴の不憫を嘆いてなのか、それともその両方なのか、琴には分からなかった。
琴はただ、黙って大蔵にうなずいた。
鈴木大蔵:後の新選組参謀、伊東甲子太郎
鈴木多聞:後の新選組九番隊組長、鈴木三樹三郎




