色町
琴は、洗い場で雑巾を絞りながら、上がり框に腰掛けて煙草を吹かしている女将に鎌を掛けてみた。
「品川楼の裏口で、あの男の人を見ました」
それだけ言えば通じるだろうという口ぶりだった。
女将は吐き出した煙をぼんやりと目で追っている。
「…何か話したのかい」
「いえ、見かけただけ」
「…むかし洲崎界隈をのたくってたやくざ者さ」
女将はまた、煙を吐いた。
それから琴の方に向き直ると、噛んで含めるように言った。
「あんた、この色町で長生きしたけりゃ、ああいう手合いには関わらないこった。港町ってのはね、積荷と一緒に、色々余計なもんが入り流れ込んでくる。そうして、こういう吹き溜まりにはね、自然とそういう半端者が棲みつくんだ」
ひぐらしの鳴き声が聴こえている。
琴は黙って頷くことしか出来なかった。
「ま、女郎にやくざと関わんなってのも、無理な話か」
そう言って、女将はまた虚空に視線を戻した。
「たまには客の方にまわんのも悪くねえ」
近江屋三八は、品川楼の座敷で酌を受けながら低く笑った。
そんな三八を冷ややかな眼で眺めながら、紅梅は中沢孫右衛門という侍の盃に酒を注いだ。
「旦那さん、お酒が進みませんねえ」
扱い辛い客には慣れている紅梅も、この男の重苦しい雰囲気には手を焼いていた。
一人目尻を下げている三八はともかく、この部屋には、先ほどから会話らしい会話は何一つ無かった。
中沢は、紅梅のお愛想を黙殺すると、三八をにらんだ。
「そろそろ本題に入ってくれ」
「まぁまぁ、もう少ししたら…」
三八が言い終わらないうちに襖が開いて、
「近江屋様、お連れ様がお見えです」
と女中が来客を取り次いだ。
「お通ししてくれ」
老人がしわ枯れた声で鷹揚に手招きすると、案内も乞わずに男がずかずかと入ってきた。
「ご機嫌だな」
どことなく猿を思わせる容貌の、着流しの男が二人を見下ろした。
風体は侠客そのものだったが、中沢の見知った顔ではなかった。
「悪いが外してくれ」
男に追い立てられるようにして、紅梅ともう一人の芸妓は座敷を出された。
「ちょ、ちょ、ちょ!なんだってのよもう」
罵倒する紅梅の目の前で、男は後ろ手に襖をピシャリと閉じた。




