剣豪
神田お玉が池の玄武館は、江戸三大道場の筆頭に数えられる名門だった。
清河は、破風造りの玄関をくぐり、広大な道場の脇を抜けて、母屋の表座敷に通された。
そこには、ある意味この国で最も有名な剣客が、清河のために用意された座布団と差し向かいに座っていた。
「清河正明と申します」
北辰一刀流玄武館総師範、千葉周作は齢五十も半ばを過ぎようとしていたが、依然眼光は鋭く、話の運びにも無駄がなかった。
「まず、なぜこの道場の門を叩いたかお聞かせ願いたい」
「強いて言えば。まぁ、近いからです」
清河は着物の肩に付いた糸埃を指でつまみながら、間髪いれずに答えた。
千葉はこの若者の不遜な態度に何も言わず、続きを待った。
「いやね。この隣に。東条塾ってのがあるじゃないですか」
清河はチラと千葉の顔を覗った。
「実は私、あそこの塾生でして。幸いなことに隣にあるこの玄武館は、江戸で最も有名な道場の一つです。文武の研鑚に、これ以上都合の良い条件は望めないと結論した訳です」
「君の話は、理に適っているな」
「いや、恐縮です」
「しかし。今日のところは、出直して頂いたほうがよろしかろう」
「何故です。先生は合理性を尊ばれると伺いました。当節、三顧の礼もないでしよ」
「では、もう一つ聞かせて頂こう。君は、剣術を磨き、何のためにそれを振るうのか」
清河は我が意を得たりと、鋭い上目遣いでこたえた。
「成すべき回天の偉業のため、と心得ます」
「随分な、大言壮語だな」
何か言い返そうとする相手に先んじて、千葉は断じた。
「何故ならその実、君の言う「天」は虚ろだ」
清河から人を食ったような表情が消えた。
「確かに、私の理想はまだ具現しておりません。しかし、であればこそ東条一堂先生に学んでおります」
千葉周作はそれには応えず、昔語りを始めた。
「玄武館がこの神田お玉ヶ池に移ってまだ間もない頃の話だ。今の君と同じ年頃の若い武士がひとり、私の元へ入門してきた」
清河は屈辱を顔ににじませて話を聴いていた。
「平田三亀といって、天才的な剣士だった。若輩ながら、入門後すぐに頭角を現し、ほどなく免許皆伝に至った。しかし彼奴は、その才能に奢るあまり、酒色に溺れ、遊興に耽った。仔細は省くが、酒のせいで度々不祥事をしでかし、私は止む無く平田を破門した。伝え聞くところによれば、その後、彼奴は侠客に身を落としたそうだ」
「講談師が飛びつきそうなネタですな」
「平田は罪人の遺体を据え物斬りして、戯れに遊郭に持ち込んだそうな。私が、この手で指南した剣術で」
千葉は大きく息を吐いた。
「いくら腕が立っても、その剣で斬るべきが何かを心得ておらん者には、剣術など意味を持たん。これは私自身が平田から得た教訓だ」
「え~…」
清河は言うべき言葉を探すように、顎をさすった。
「そう言えば昨日、洲崎の遊郭で変わった娘に出会いました。まだ禿に毛の生えた程度なんですが、なかなかに芯が強いというか、話をするときに、こう、まっすぐ私の顔を見るんです」
話は、まるでとりとめが無いように聞こえたが、千葉は何も言わなかった。
清河は続ける。
「短い時間ですが、その娘と品川砲台について非常に有意義な話をしました。
私のみるところ、彼女は非常に聡明で、美しく、将来有望です。
しかし、如何(いか)せん世間が狭い。彼女にとっての世界とは、あの狭い花街が全てです。
これは悲劇ではないですか、先生。
彼女の持つ優れた想像力も、やがて身に纏うであろう匂い立つような色香も、全てはあの二重門のところで行き止まりです。
ねえ、これを悲劇と言わずしてなんと言いましょう。
実を言うと先生、これは無礼を承知で申し上げますが、最初にお会いした時、先生とその娘の顔が、私には重なりましてね。
私思うに、一つの道を極めるということは、ある意味で人間を頑迷固陋にしてしまう。
是非もないとは言え、なんとも残念な話だ」
清河が慇懃無礼な長広舌を振るう間、千葉は目を閉じたまま黙って聴き入っていた。
「なるほど、興味深い」
精一杯虚勢を張った意趣返しを、にべもなく撥ね付けられた清河は、顔を赤くして席を立った。
「今日はこれで失礼します」
廊下に出たところで彼は何かを思い出したように振り返ると、千葉にたずねた。
「ああ先生、で、その平田三亀はどうなりました」
「死んだよ。数年前。利根川の河川敷でヤクザ者の大乱闘に加わってな。太刀回りを演じてナマスにされたそうだ。馬鹿な奴だ」
清河には、そう言った千葉が寂しそうに見えた。
「君の中でその、回天の偉業とやらがもう少しはっきりとした形を成した時、まだ北辰一刀流を修める気があれば、もう一度、ここを訪ねなさい」
「わかりました。せいぜいそれまで平田殿の轍を踏まぬよう、心掛けましよ」
清河は、玄武館を辞去した。
清河正明:後に新選組の前身、浪士組を創設した幕末の志士、清河八郎




