過去
琴と亀は、舞踊の稽古を終え、「岩鶴」へ帰っていた。
「お亀ちゃんはすごい」
演舞がもっとも苦手な琴は、今日も師匠から散々に扱き下ろされ、打ちひしがれていた。
「わたしがお琴ちゃんより上手なのは、踊りだけじゃない」
亀がクスクスと笑った。
「そうじゃないの。あたしね、ズルしてる。他のは、前にちょっと習ったことがあるだけ」
最近、ようやく亀と打ち解けて話せるようになった琴は白状した。
「そっか、お琴ちゃんの家は、お武家さまだもんね」
二人が最後の辻を曲がると、「岩鶴」の店先で、女将が中年の男と話しているのが見えた。
二人の位置からは聞き取れなかったが、女将はなにやら激しい口調で相手をなじっている。
やがて、近づいてきた琴たちに気付くと、男の胸板を突き飛ばして追い返してしまった。
「今のは…?」
琴は男の後姿を眼で追いながら聞いた。
「ただのヤクザもんさ。あんたらには関係ないよ!さっさと飯の支度でもしな」
女将が奥へ引っ込んでしまうと、亀は、まだ男を眺めている琴に寄り添った。
「今の人、二本差しだった。ヤクザ者には見えなかったけど…」
「そうね」
琴は、踵を返した女将の瞳がうっすらと潤んでいた理由を考えていた。
昼の八つ半頃、琴は意外な場所でもう一度その男に出くわした。
紅梅に「例のモノ」を届けに来た琴は、品川楼の裏口で聞き覚えのある声に足を止めた。
「いや、こうしてまた、あんたに会えるとはねえ」
声の主は、琴たちをこの町に連れてきた女衒、近江屋三八だった。
琴は最初、声をかけられたのは自分だと思ったが、どうやら別の相手と喋っている様子だ。
「お互い、あの頃は羽振りがよかったもんだが…」
三八は、あの薄気味悪い目付きで、愛想笑いを浮かべている。
琴は、相手が先刻の男だと気付くと、二人が立っている路地には折れず、曲がり角の手前で、小さな出格子の陰に身体を張りつけた。
相手の男は先ほどからずっと黙ったままだ。
「ほら、昔ここにも出入りしてた長五郎てぇチンピラ。アレが清水で一家を構えたらしいですよ。まったく、いつの間にやら随分差をつけられちまったねえ」
「昔話をするために、俺に声をかけたわけじゃあるまい。さっさと用件を済ませてくれ」
男がようやく口を開いた。
「ご存知かも知れませんが、繁蔵の奴が、笹川に舞い戻って来ましてね」
三八の声が急に真剣味を帯びる。
「それを聞きつけた奴の子分どもが、またぞろ集まりだしてる。飯岡の親分の心労は如何ばかりか、察するに余りありますな」
「俺には、もう関係ない話だ」
「あんた、ここに来る前に『岩鶴』に寄ったでしょう?あんたが可愛がってた政吉さんの実家だ」
耳をそばだてていた琴は、少し眼を見開いた。
「何が言いたい?」
男の声が気色ばんだ。
「繁蔵は三年前、利根川で政吉さんを殺った奴らの首領だ。その場にいたあんたにも、因縁浅からぬ相手でしょうが?」
「もう、あんな血生臭い仕事はごめんだ」
「しかし、早いうちに諍いの芽を摘んどかねえと、利根川の出入りの二の舞だ。今度は、もっと血が流れるかもしれません。それじゃあ、政吉さんも浮かばれねえな」
「貴様、女衒のくせに渡世に首を突っ込んで、今度は人斬りの仲買か!」
「そ、そんなんじゃあないんです。飯岡一家も今、腕の立つのが要り用らしくてね。なんでも、政吉さんが死んでからこっち、親分と座頭市の旦那がしっくりいってないようで。あたしゃ商売柄、あちこち裏街道を渡り歩いておりますから、使えそうな若いもんがいたら、声をかけて、出来るもんなら引っ張ってこいと仰せつかってる次第です。こういう生業のあたしが、土地の親分さんの頼みを、無下にできるわけないでしょう?その点、法神流免許皆伝の中沢様なら、客分として気心も知れてるし、腕の方も、市の旦那と遜色ねえ」
「とにかく、今の俺には堅気の仕事がある。今さら、客分に戻るつもりは…」
「あんたも本心では政吉さんの仇を討ちたいと思ってるはずさ。 じゃなきゃあ、なんで未練がましく残されたおっかさんを訪ねるんです?」
中沢と呼ばれた男は押し黙ったが、琴は男の表情を見ることができなかったので、彼が何を思っているかまでは、推し量れなかった。
「とにかく、こんなとこで立ち話もなんだ。どうです、一杯?」
三八の一言で、琴は、その場をそっと離れた。




