宿酔
油蝉がやかましく鳴いている。
下村嗣次は、ひどい頭痛に悩まされていた。
先ごろ、同門の戸賀崎芳栄が弘道館の剣術師範として仕官することになり、昨日は剣術の師である木村定二郎を交え門下有志で簡単な祝いの席を設けた。
「おお痛てえ。痛飲てのは、よく言ったもんだな」
嗣次たちは、戸賀崎と別れたあとも河岸を変えて朝まで飲み続け、店を出たときにはもう陽も高かった。
同郷の平間重助と水戸を出た嗣次は、府中の宿場近くの茶屋にようやくたどり着くと、縁台につっぷした。
「酒の席となると下村さんには歯止めが効かない」
平間重助は茶屋の娘が持ってきた湯呑を嗣次に指し出すとあきれたように言った。
「…っせえな」
嗣次はひったくるように湯呑を受け取って一息に飲み下した。
平間は下村の生家芹沢家に使える御用人の息子で、二人は幼馴染だった。
「だから来たくないと言ったのだ」
平間自身は嗣次から剣術の手ほどきを受けていたため、弟子筋とは言え、昨夜集まった面々は顔なじみのない者ばかりだった。
「言ったろ?せっかくだから、おめえを先生方に面通ししておこうと思ったんだよ。こういう機会でもなきゃ、木村先生や戸賀崎先生と顔を会わすこともねえだろうが」
平間は嗣次に誘われて芹沢村を出るときから、この言い分に腑に落ちないものを感じていた。
そもそも嗣次はそうしたことに気の回る性質ではなかった。
「その恩師、戸賀崎先生から頂いた『濃州住志津三郎兼氏』を、酔った勢いでどこぞの餓鬼にくれてやったことは覚えてますか」
「ふん」
嗣次はうつ伏せたまま、眼だけをギロリと平間の方へあげた。
「兼氏だかなんだか知らねえが、あんなスカした刀に未練はねえよ。刀ってのは人を斬るためにあるんだ」
嗣次は身を起こすと、腰の長刀に眼をやり、何を思ってか、満足げな笑みを浮かべた。
「まるでこれから人を斬りにいくような言い草ですな」
嗣次はしばらくの間、平間の顔をじっと見つめていたが、やがておもむろに口を開いた。
「…おめえよ。人を斬れるか」
平間は少し驚くと同時に、妙に得心した。
嗣次が自分を伴った本当の理由はこちらの方だ。
「どういう意味です」
「おれぁよ、これから下総まで脚を延ばすつもりだ。実は、もう一仕事あってな。その件で、これからここで人と会う。ちっとばかしヤバい仕事だ。その気がないなら、おまえはここから一人で先に帰れ」
嗣次はまるで花見にでも誘うほどの調子で語った。
平間は厄介なことに巻き込まれたという顔をしたが、その時、何かに気付いた。
「あの男ですか」
嗣次の肩越しに、茶屋から少し離れた松の木の方を平間重助は指差した。
松の袂には、目つきの悪い男が二人。
一人は、とてつもなく大柄な男だ。
「そのようだ」
嗣次は鉄扇で軽く膝を打った。
「何者です?まるで力士だ」
「力士崩れってやつさ」
平間は、いつの間にか自分が後に引けない立場に置かれている事に気付いた。
嗣次には、平間の意思を質す気などさらさらなかったのだ。
「ほんと言うとよ、おれぁ、あのブクブク太った力士ってやつが大嫌いなんだ。けど、ま、仕事だからしょうがねえ」
「神官の息子の言葉とは思えんな」
平間は溜息を吐き、観念した。




