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 光に向かって

作者: 長谷川 幸信

その悲しみを乗り越えれば、きっと幸せがくるよ。

 気がつくと、窓の外には雪が降っていた。ついさっき見たときに、一面が真っ白な世界に変わっていることには気付いていたのだが、それでもその時にはまだ薄日が差していた。そして、あぁ、田舎に近づいてきたんだなぁと思ったばかりだった。それがいつの間に、雪の降りしきる風景にすり替わっている。

 父親の生まれ故郷に向かっているのだが、浅草から電車に乗ると、乗換え無しで行かれるせいか、変わる車窓の風景を物珍しく眺めているのはいつも最初の内だけで、駅で買った雑誌を読んでいる内に随分遠くまで来ていたようだ。それでも時折思い出しては外に目をやってはいたのだが、山間(やまあい)を走る電車からの風景など、そう変わるものではなかった。

 しかし今は、降りしきる雪景色に変わっている。そしてそれは、尋常な降り方ではなかった。大げさに言えば、直径五センチもあろうかというような牡丹雪がボサボサと降っている。そう見えた。

 東京生まれの東京育ちで、本物の雪を見た記憶など殆ど無い。それが突然大降りの雪景色に遭遇したのだから、胸もときめこうというものだ。まるで幼い少年の日に戻ったような気分だった。

 雑誌をリュックに押し込み、改めて車窓を眺める。何となく記憶にあるような無いような山々の稜線が、広大な白色の向こうに薄くぼやけてあった。

 窓ガラスに頬を近づけただけでひんやりとする。車内は暑いくらいなのだが、外はずいぶん寒いのだろう。この雪の降り方といい、見た目で外の寒さが想像できるようだ。でもいまひとつ景色がはっきり見えないのは、降りしきる雪のせいばかりではなかった。気がついてぼやけたガラスを手で拭うと、今度ははっきりと雪の世界が現れた。

 大きな山も小振りの山も、そしてすぐそこに見える藪の列らしきものも、全ての物の角がとれて、白くこんもりとしている。ずっと遠くにある筈の山並みなどは、真っ白で殆ど見えない。壮大な雪のカーテンが、(うごめ)きながら斜めに下りていた。

 だがあまり目を凝らして見ていると、いつの間に目が据わってきて、催眠術にでもかけられたような感じになってくる。

 そして白い山々の風景が、巡る走馬燈のようにゆっくりと視界の中を移動して行く。幻想の世界だ。

 父の田舎には小さな頃から殆ど毎年の様に来ているのだが、それは決まって夏休みの時だけだった。冬に来たのは今回が始めてだ。

 それにしても、緑一色の真夏の風景と、この見渡す限りの雪景色の対比はどうだろう。とても同じ場所だとは思えない。夏には何度も見慣れている風景なのに、まるで思い出せないほどだ。さっきから窓ガラスに額をくっつけて目を見張っていた。

「すげぇなぁー・・・」

 浩一は思わず独り言を言っていたが、言いながら顔がにんまりと笑っている。嬉しいのだろう。

 田舎には祖父母が二人で住んでいるのだが、三日前に電話をもらった。電話に出ると、突然祖母のヨシ子がいつ来るんだと言ったものだ。あまりに唐突だったので、浩一は何のことやら分からずに返答に困っていたら、ヨシ子がすぐに続けた。

 実はこの間の夏に浩一が行ったとき、今度は冬にも是非来たいと言っていたと言うのだ。それでいつ来るのかと聞いている訳だった。

 年寄りはこういうことはしっかりと覚えている。浩一は忘れていた。言ったような気もするが、言わなかったような気もする。いや、ヨシ子が言ったと言うのだから言ったのだろう。浩一が忘れているのだ。

 とにかくこの間の夏は暑かった。ジリジリという太陽の焼け付く音が聞こえて来そうなくらいの、強烈に暑い夏だった。道路にも屋根にもゆらりゆらりと陽炎が立ち、身体がとろけるほどの暑さだった。そんなときには誰でも、取り敢えず冬が恋しくなるものだ。どうにもならない暑さの中で思う冬のイメージは、決して寒いということではなく、都合の良い涼しさに変わっている。でもこうして実際に寒い冬になってみると、今度は暑い夏が恋しくなる。そんなものだ。

 あのときに、冬にも来ると言ったのかもしれない。

 今まで大雪の中に身をおいた経験もなく、本格的な雪景色など見たことは無かった。訊くと、もう二メートルくらいは積もっていると言う。積雪二メートル。受話器を耳に当てながら部屋の鴨居(かもい)を見上げ目測した。もっと高い。そして雪が二メートルも積もっているとはどんな有様なのか、見てみたいと思った。

 それに来年になれば大学受験で忙しくなる。浩一は高校二年生だ。行くのなら今年しかないと思った。それでも寒いのは好きじゃないので家を出る寸前まで迷っていたのだが、来て良かったと思った。上下左右の全てが雪だなんて凄いと思う。

 雪の山がV字形に迫る谷底をたった二両編成の電車が走っていく。今雪崩でも起きたら完全に埋まってしまうだろうなどと、両側に迫る雪の斜面を見上げながら、勝手に想像して勝手にドキドキしている。

 乗客も少なくて前方の見通しはすこぶるいい。いつもの夏なら深い緑の谷間を走っている筈なのだが、夏と冬とでは大違いだ。そしてそういうことを知っただけでも、まずは来て良かったと思った。

 また東京の百足(むかで)のような長い満員電車に乗り慣れていると、このような長閑(のどか)な電車の風情が、いかにも田舎に来たという気分にさせる。短かすぎてバスみたいだと思った。座席の下から出ている温風でシートは熱いくらいに温まっているが、これは外に出たら相当に寒いのだろう。相変わらずの牡丹雪を見て覚悟した。

 すると、車体が急に左にカーブしながら傾きはじめた。結構きつい傾斜だ。この感じは覚えている。間もなくトンネルに入る筈だと思い、座ったまま背伸びをして前を見ると、すぐ先の白い山肌の中に、黒い穴が見えた。山ノ神トンネルだ。毎年夏に来ているせいで、このカーブの感覚だけは身体が覚えている。山ノ神トンネルは全長二キロほどある。

 この長いトンネルが開通したのは随分後のことで、村は長い間陸の孤島のような有様だったという。トンネルに入る手前ところで、電車はぐっとスピードを落とす。そしてゆっくりと進むその二キロの暗闇は、あまりにも暗く長く感じられ、トンネルに響き渡る単調な車輪の音だけを聴いていると、もうそこからは出られないような気分になってくる。山ノ神トンネルは、いつも途中で不安を誘うトンネルなのだ。そしてその穴を通り抜けた向こう側に、今回は真冬の田舎がある筈だ。

 村の東には水石山があり、西側は十穀山(じっこくやま)(ふさ)いでいる。そして南には夜鷹山があって、北側には天狗山が迫っている。無論それぞれの山のそのまた裏側にも、更に幾つもの山々が遠くまで重なるようにあるのだが、それら東西南北にある山に囲まれた裾野の辺りが少しばかりの平地になっている。そこにささやかな集落があった。

 また夜鷹山の山裾をぐるりと巡るように、南から北へ昔からの街道が通っていて、村を鉤形(かぎがた)に通り抜けながらその先の天狗山と十穀山の間に消えていた。ずっと昔にはこの街道だけがこの村に来る唯一の手段だった筈だ。そしてその道筋は、江戸時代の参勤交代に使われていた頃から、殿様街道と呼ばれている。

 トンネルが穿()いているのは南側の夜鷹山だ。先頭の車両に乗っていると、真っ白な世界から真っ暗な穴に入ろうとする瞬間、(あたか)も山に衝突するような錯覚に襲われてドキッとする。あんな小さな穴にこの四角い電車が入れるものかと疑ってしまう。見通しが良すぎるせいだろう。

 そして、白い視界が突然真っ暗になる。車内の電灯の明かりが際だつ。車輪の轟音がトンネルに響きわたる。そしてしばらくの間は、その車輪の音だけを聞きながら進むことになる。スピードが緩いせいか、抜けるまでずいぶんと長く感じる。トンネルを抜けるとすぐに停車するからだ。

 車内は明るいが外は真っ暗だ。窓ガラスが鏡のようになって自分の顔が映り、他の乗客やずっと前方の座席が映る。車内が少し広くなったように錯覚する。そして小刻みに揺られながら座っていると、そのうちに車両全体が闇夜に浮かんでいるような気分になって、銀河鉄道を連想する。

 乗客はぽつぽつとまばらだ。自分もその中のひとりなのだ。すると、たった二両編成の小さな電車が、ただ闇雲に走っているように思われてきて、何となく心細いような、不安な気持ちになってくる。車輪の音だけが胸に響き、電車がバックしているような変な感覚に襲われる。それでも我慢して前を見ていると、そのうちに遙か前方がぼんやりと白んでくる。すると間もなく、長い暗闇のカーブが終わる。

 直線に移ると蒲鉾形の白い出口がはっきりと現れ、それが見えるといつもほっとした気持ちになる。

 しかし今回ばかりは、トンネルを抜けた後にも驚きが待っていた。それは予想はしていたものの、やはり見ると聞くとは大違いだ。

 山ノ神トンネルを抜けながら、電車は急に速度を落とす。そして間もなく停車する。そこが高郷の駅だ。

 これがいつもの夏であれば、周りに草木が生い茂るだけの野ッ原に停車したみたいで、それはそれで、始めての人ならちょっと驚くことだろう。でも今停まっているのはただの雪の原だった。子供の頃からこの駅を見慣れている浩一でも一瞬戸惑った。真っ白な雪景色は物の境目がない。角とか線が見えないのだ。立体が平面にしか見えない。平均感覚が狂いそうになる。面白い世界だ。

 プラットホームの有様も、その周りの風景も、夏の時とは全く違っていた。二両連結のワンマン電車は二両目のドァは開かない。降りるときには一両目の、運転手のすぐ脇のドァから降りる。料金箱に切符を入れると運転手が横目で確認している。こんなところもバスみたいだ。乗るたびにそう思う。

 高郷は簡素な無人駅だ。屋根も何も無い。降り口は右側だが、開いたドァの外はただ雪が積もっているだけで、とてもプラットホームとは思えない。ただどっさりと雪があるばかりだった。

 それでもたぶん、数時間前には誰かが雪かきをしてくれたのだと思う。ドァが開くとすんなりと外に出られた。でも平らなのはほんの十メートルくらいの狭い幅だけで、それ以外の場所にはこんもりと雪が積もっている。そして降り口のところから続く道は、両側が高い雪の壁で囲まれていた。

 積雪二メートルは本当だった。きっとこの道を行けば、少し先にある筈の村の通りへ続いているのだろう。しかしここからは村が全く見えない。完全に雪に埋もれているようだ。いつもの村なのに、いつもじゃない。こんなことってあるのだろうか。嬉しくて背筋がぞくぞくする。

 電車を降りても雪は相変わらず降り続いている。やはり大きな牡丹雪だ。雪がどれくらいの勢いで積もるものなのかということなど、浩一が知っている筈も無かったが、電話で祖母のヨシ子から二メートルも積もっていると聞いた時には、きっと大げさに言っているのだろうと思っていた。でもそうではなかった。大げさどころか、それ以上積もっている。もしかしたら、あんまり積もっていると言ったら浩一が驚いて来ないと言うかもしれないので、祖母は控え目に言ったのかもしれない。そして雪がこんなに凄い勢いで降り続くものなら、確かに一メートルや二メートル積もるのは訳がないと思った。

 ホームに佇み、頭や顔にボサボサと当たる雪に目をしばたかせながら、嬉しくて暫く唖然としていた。少しでも上を見ると、ふんわりとした雪が顔中に当たる。浩一はわざと大きく口を開けて、入り込んできた雪をぺろりと嘗めた。ひゃっこい。こんな経験は初めてだ。心が躍る。やはり来て良かったと思った。

 降りたのは浩一ひとりだった。二両編成の電車には乗客は七・八人しか乗っていなかったのだが、他の乗客達はもっと先にある大きな町まで行くのだろう。この村は町と町との狭間にある、置き去りにされたような村だ。そして外に出ると、そこにも誰もいなかった。乗る人もいないらしい。

 朝の七時に乗り込んで、今時計を見るとあと五分で十一時になる。この電車には乗り換えは無いのだが、時間待ちの停車があちこちの駅である。着くまでにはちょっと根気がいるのだ。しかし、この長い電車の旅がまたいい。とくに急ぐ必要はないのだし、いかにも田舎に行くという気分を増してくれる。やっと着いたと思う、この気分がいいのだ。

 夏に来ると、ここは緑豊かな、というより緑しかない村なのだが、冬には雪しかない村なのだと思った。小さな村が雪に埋もれている。道路らしき場所に出てみても全方向雪だらけで、身長一メートル八十の浩一が完全に埋もれている。景色が見えない。方向が分らない。しかし見方を変えれば、行くべき方向は決められている。雪で囲まれた溝の中を行くしかないようだから、他には行きようがない。

 それにいくら夏の時分と景色が違っているとはいえ、幼い頃から何度も来ている場所だ。まさか迷子になるなんてことはないだろう。狭い村だ。

 高郷村は線路を挟んで西と東に分かれている。全部で百二十戸ほどの小さな集落なのだが、そのうち水石山のある東側が大きな集落になっていて、(およ)そ百戸ほどの家並みがある。村の殆どはそこにあった。そしてその家並みの外側には、ずっと先の山際まで田畑が広がっている。

 また十穀山を背にした西側に残りの二十戸ほどがあるのだが、そこには古くからの温泉が湧いている。そしてそこにある二軒の温泉宿を中心にして、民家が高台の傾斜地に一塊になってあった。

 順路通りに歩いて行くと、アーケードの下に出たので驚いた。アーケードなどと言っても都会に見られるような洒落たものではない。そこに並んでいる民家や商家が申し合わせて造ったと思われる木造の屋根が、軒を連ねて掛かっているだけのものだった。あちこちが太い柱や細い柱など不揃いで、屋根板も腰板もまちまちだ。たぶん有り合わせのものを利用しているのだろう。そしてすぐ脇の道路からはうず高く、その軒の上まで雪が覆い被さっているので、外側から見るアーケードは、一見雪の土手のようにしか見えない。内側に入って始めて アーケードなのだと気付く。薄暗いトンネルのようだ。

 浩一は内側に入ると、まず頭や肩についている雪を払った。帽子も被ってこなかったから結構沢山の雪がついていた。そしてその薄暗い中を歩くと、商店や民家が入り乱れて並んでいる。真っ昼間なのにとても暗くて、雪明かりの中のその有様が面白い。商店から漏れている淡い光に包まれて、何となくメルヘンを感じるような佇まいだ。

 わくわくしながら歩いて行くと、蕎麦屋の「山都屋」魚屋の「丸正」金物雑貨を商っている「宮下金物店」など、見慣れた店構えが見えてきたので、ここは高郷の村に違いない。

 そしてそれらの商店の間には、点々と民家が挟まっていて、それぞれに表札も下がっている。民家も商家も、何れも年季を感じさせるセピア色の家並みだ。こんな雰囲気の中を見て歩くと、家並み全部がまとめてひとつの家のように思えてくる。通りは薄暗いが、歩きながら透けて見える家の中はそれぞれに明るくて、巨大なかまくらの中に入っているような雰囲気がある。お伽噺の世界に入ったような気分が嬉しかった。

 今まで夏に来ていた時には、このようなアーケードは一度も見た覚えがなかった。豪雪地帯だから、おそらく冬の間だけ設置されるものなのだろう。この村にはまだ浩一が知らない面白い事が沢山ありそうだ。そんなことを思いながら暫く立ち止まり、辺りをきょろきょろと見回していた。

 この村の人達には生活の多くの部分を共同で行う習慣がある。習慣というより、そうしなければ生活が成り立たない事が多いのだろうと思う。大切にしている鎮守の森の手入れを始めとして、村を取り巻いている村有林の間伐や、村全体の下草刈りなどの大掛かりなもの。また田んぼに水を引き込む為の側溝の清掃とか、年に数回ある村祭りなどの小さなものまで、予め計画を立て人員の配置を決め、時期がくればそれらは整然と行われる。何の滞りも無かった。今歩いているモグラのトンネルのようなアーケードも、きっと村中総出で賑やかに設置されたものだろう。昔からの講の仕組みがしっかりと息づいている。

 まず電車を下りてから駅の東側に出ると、雪の道は大きく左にカーブしながら進んでいる。それを道形(みちなり)に行くと、間もなくT字路に出る。そこがアーケードになっていた。それを左へと進み、線路を(また)いでちょっときつい坂道を一キロ近く行ったところに祖父母の家がある。父親の生家だ。

 そこは高台になっていて、古くからの温泉のある集落だ。ここでは西村と呼ばれている。

 線路を跨ぐ手前で家並みが終る。アーケードもそこで途絶えているが、その角に駄菓子屋と乾物屋を混ぜ合わせたような店がある。屋号を「やすこくや」といった。店先には代々伝わってきたという古めかしい掛け看板が掛かっていた。それは平仮名で書いてあるので、浩一は子供の頃始めてこの村に来た時に真っ先に覚えたものだ。そこに祖父が待っていた。

 ひとりで家まで行かれるから、わざわざ待っていてくれなくてもいいと電話では言ったのだが、やはり待っていてくれた。たぶん待っているだろうと思い引き戸を開けてみたのだが、七十五才になる祖父にとっては、七才の頃の浩一も十七才になった浩一も、同じようなものなのかもしれない。

 迎え人はもうひとりいた。浩一は戸を開けるのはなるべく少しだけにして、屈むようにしながら身を捻り、細い身体を内側に入れた。すると店内には明るく蛍光灯が灯り、まるで夜のような装いだった。まだ昼間の十一時を過ぎたばかりだ。

 その奥の方にはダルマストーブが燃えていて、見覚えのある店の主人と祖父が向かい合っていた。そしてそのすぐ脇にもうひとり、行儀良く座っている子供の姿が見えた。その子は戸を開けた主が浩一だと分ると、それまでつまらなそうにしていた顔が突然明るくなり、小走りに浩一の方へ飛んできた。 

「お兄ちゃーん、いらっしゃい」

 浩一のすぐ目の前まで来て挨拶をしている。健一だった。とても嬉しそうだが、ほっぺたがやけに赤い。ストーブで充分に温まっていたのだろう。スキーの時に着るような防寒具と、黒い長靴を履いている。そして長靴にはカンジキが装着されていた。完全装備だ。

「よぉ、健一君も迎えに来てくれたのかい。ありがとね。暫くだったなぁ。元気だったかい? それにしても凄い雪だねぇ。雪って、こんなに積もるもんなんだね。始めて見たから驚いたよ」

 浩一は後ろ手に戸を閉めながらそう言うと、店の奥へと進んでいく。

 健一は吉田健一というのだが、祖父母のすぐ隣の家に住んでいる。現在十二才で小学六年生の筈だ。この子の下にはもうひとり二年生の妹がいて、三年前に東京から引っ越してきた。この二人には、浩一が夏休みにこの村に来るたびに会う機会があり、自然に親しくなった。

「じいちゃん、来たよ。おじさん、今日は。暫くです」

 浩一はぺこりと頭を下げて挨拶をした。店の中はとても暖かかった。見ると、祖父の足にもカンジキがついていて、床にはもう一揃い置いてある。たぶん浩一の分なのだろう。嬉しくなってしまう。

 三人が囲んでいる鋳物のストーブ周りが朱色に染まって見える。ちょっとでも触ったら大変だ。室内が薄暗いので、その色がとても鮮やかに見えた。

 このやすこくやには、浩一も子供の頃にはよく祖父母に連れられて来たものだ。菓子やおもちゃなどを買ってもらった想い出がある。近頃こそ疎遠になってはいるが、主人とは顔見知りだった。

「おぉー 浩一君がぁ。あの浩一君が? そうだよなぁ。いやぁー おっきぐなったもんだなや。へぇー こりゃぁたまげだ。でっけぇなぁ。見上げるようだなや。寒がったべぇ、ささ、こっちゃこぉ。ストーブさあだれ。おおーい、ばぁさんこっちゃきてみろ。源さんどごの浩一君が来てっぞぉ。おめも覚えでっぺ。あの浩一君だぁ。いやぁ、おっきぐなってぇ、びっくりすっから早ぐ来てみろでば」

 独特の方言で奥にいた妻を呼び、その後暫くの間昔話に花が咲いた。この村の人達はみんなこんな感じだ。お陰で東京から四時間、やすこくやで一時間とちょっとが過ぎ、目的地に着くまでに合計五時間半もかかった。ちょっと疲れた。

 やすこくやを出てからも雪の降り方は衰えず、折角ストーブで温まった身体もすぐに冷たくなっていった。祖父に教えられながらカンジキを装着すると、これはとても歩き易かった。足が雪に潜らないのがいい。履くときには健一も手伝いながら、こんな雪国に来るのになんでスニーカーなど履いて来るのかと、祖父と二人で浩一をからかっていた。そう言われればその通りなのだが、この雪をこの目で見るまで気が付かなかった。第一、元々長靴など持っていない。

 そして白い息を吐きながら、三人で長い坂道を行く。この辺りの道幅は意外と広くて、歩きやすかった。そのことを訊くと、歩きながら祖父が話してくれた。

 西村には二十戸ほどの家があるだけなのだが、その中にある二軒の温泉旅館が共同で雪かきをやってくれるそうだ。勿論機械力を使ってやるのだが、それでも積もっているときには、朝の暗いうちから始めても、たっぷり三時間くらいはかかるそうだ。近頃は秘境ブームとやらで、この辺鄙(へんぴ)な村まで遠路遙々来てくれる泊まり客が結構いるらしい。豪雪なのがいいらしいのだが、そういう奇特な客の車が走れるように、その豪雪をどかさなければならない。客商売は裏方も大変なことだ。

 浩一の祖父は町田源作という。やすこくやの主人が呼んでいたように、この村では源さんが通り名だ。祖母はヨシ子。六十九才になる。二人とも矍鑠(かくしゃく)として、山仕事も田畑の仕事もこなす現役だ。

 ようやく家に着いたときにはとっくに昼を過ぎていて、着くと同時に昼食が始まった。

「まったぐ、いづまでも来ねぇど思ったら、やっぱし案の定だぁ。待ってるもんの身にもなってくんにど困っぞい、ほんとにもぅ・・・ 雪はぼさぼさ降ってるっつうし、心配してだんだがんない。静香ちゃんと二人で待ぢくたびっちゃわい。なぁ」

 ヨシ子はぶつぶつ文句を言いながらも嬉しそうだ。源作もヨシ子も、浩一が毎年会いに来てくれることが嬉しくて仕方がないのだ。

 静香というのが健一の妹で八才になる。小学二年生の可愛らしい女の子だ。

 この二人の母親は吉田響子と言うのだが、すぐそこの温泉宿で仲居の仕事をしている。この人は嫁いで東京で暮らしていたのだが、ご亭主と死に別れてしまい、子供を連れて三年前に実家に戻ってきた。嫁ぐ前は源作達と同じ町田性だったのだが、死に別れた後も吉田を名乗っていた。西村の二十戸は全戸が町田だ。きっと遠い昔からどこかで繋がっているのだろう。

 隣にある響子の実家では先年父親が亡くなっていて、それ以来は響子の母親がひとりで暮らしていた。そして気の毒なことに、その母親も昨年亡くなってしまった。それまで響子は母親に子供達の面倒をみてもらいながら勤めに出ていたのだが、母親が亡くなった後も、子供達はそれほど手は掛からなくなっているからと、それまで通り仲居の仕事を続けている。この村にはそんなに多くの勤め先はなかった。

 しかし子供達が大きくなってきているとはいえ、下の子はその時はまだ七才だった。聞き分けの良い子ではあるのだが、それでも時には母親を恋しがり、兄の健一を困らせることもあった。

 兄といっても、健一だってその時はまだ十一才の小学五年生だった。すぐ隣に住んでいる源作とヨシ子はその姿がとても気になり、可哀そうで、遠慮しなくてもいいからと、世話を買って出たのだ。元々が親しくつき合っていたことでもあるし、今では響子もずいぶんと頼りにしているらしい。

「浩一兄ちゃん、こんにちはー 昨日ね、夜にね、大魔人が出たんだよ。怖かったんだよー凄く大きな声でね、うおーって、吼えたんだよ。夜中ずうっと。ねぇ、お兄ちゃん。凄かったよね」

 静香は待ってましたとばかりに、目を輝かせて話している。まだ浩一が上がり(かまち)に座っているうちから背中まで来て、健一の方を振り向き振り向き話していた。赤い千鳥模様の半纏(はんてん)が可愛い。道すがら健一はそんな話しはしなかったが、何か面白そうな事があったらしい。

 静香はまだ子供だ。もう大分慣れたのだろうが、この二人は三年前までは賑やかな都会に住み、大きな学校に通っていたのだ。思えば二人とも、始めて会った頃と比べればずいぶん明るい顔になった。

 この村の小学校は隣町にある学校の分校になっていて、全校生集めても二十五人の寂しさだ。それでも数ある分校の中では賑やかな方だという。また子供相手に人情味という言い方は変かもしれないが、村の分校には都会には見られない連帯感のような、優しい絆があることも確かだ。それは村の子供達の顔を見れば分るし、大人達の顔を見てもよく分かる。子供は大人の顔を見て育つものだ。 

 そしてまた、健一も静香も元々の性格が明るい。逆境に挫けない、というよりも、日頃から明るい方向に向かって進む性質らしい。きっと母親に似たのだろう。

 食事が始まる。ヨシ子の漬物が美味しい。米が美味しい。そしてこの寒い中で飲む熱い味噌汁が格別だ。五人で囲む食卓からは、もこもこと暖かい湯気が立ち昇り、それぞれの笑顔がまた美味しそうだ。

「ねぇ、静香ちゃん。それでどうしたの? その大魔人。どこで吼えていたのかな? それは怖そうだったねぇ。静香ちゃんは大丈夫だったの?」

 浩一はシャキシャキと漬物を噛みながら訊いている。隣にいる静香に顔を近づけて、できるだけ真剣そうな顔で訊いていた。静香はさっきからこの話しをしたくてしょうがないようなのだ。茶碗を持ちながらもチラチラと、浩一の方ばかり見ていた。

「それはね、きっとお山だよ。すぐそこのお山。天狗山だと思う。昨日お兄ちゃんもそう言ってた。うんと近くに聞こえたんだから。ウォーッて、一晩中凄かったんだから。怖かったんだよぉ。ねぇ、お兄ちゃん」

 静香はどんな時でも兄を慕ってくっついている。時折健一の顔を覗きこむようにしながら話していた。とても仲がいい。

「うん、あの声は不気味だったよなぁ。凄かったよ。でも静香ったら、ずーっとお母さんの布団に潜ってて、キャーキャー甘えて、その内すぐに眠っちゃっただろ。あんまり覚えてないんじゃないのか」

 健一は口いっぱいにご飯をほお張って話すものだから、話すたびにぽろぽろご飯がこぼれる。それを隣の静香が拾い集めながら言う。

「そんな事ないよぉ。ちゃーんと覚えてるもん。それにね、こんな時はいつまでも起きてると、大魔人さんがお家の中まで入ってくるかもしれないから、早く寝ちゃいましょうって、お母さんが言ったんだもん。だから一緒のお布団に入っていたんだもん。お兄ちゃん、ご飯粒こぼしちゃ駄目。もぅ、お行儀が悪いよ」

 拾ったご飯粒を小皿の縁に置きながら言っていた。静香は甘えん坊だが、結構しっかりしている。自立心は健一よりも強いかもしれない。健一はごくんと、口の中のものを飲み込んだ。

「さっき、浩一兄ちゃんを迎えに行く時におじいちゃんに聞いたんだけどね、あの大魔人が吼えるのって、とっても珍しいんだって。何年かに一度くらいの事なんだってさ。だって僕達だって、この村に来てからまだ一度も聞いたことなかったもの。夕べが始めてだよ。ねぇ、おじいちゃん」

 源作はヨシ子と二人顔を見合わせて、ニヤリと笑っている。子供達と同じ話題で話せる事が嬉しそうだ。

「ほだども。あいづが最後に吼えだのは、確かもう四・五年も前ぇのごどだ。なぁ、ほだったよなぁ? あれはな、本当は雪の大魔人ってゆってな、あいづが吼えだ年は農作物は何でも大豊作になるっていう言い伝えがあんだ。んだがら、今年は豊作だ。ん、これは目出度いごどだ。この雪が溶げだら、みんな仕事すんのにも張り合いがあるってゆうもんだべ」

 傍にいるヨシ子に相槌を求めながら、目尻に沢山の笑い(じわ)を浮かべて話している。源作の笑顔はとても優しそうだ。

「へぇー ほんとなのじいちゃん。雪の大魔人。凄い名前だねぇ。マンガみたいだな。そんなのがいるんだぁ。僕も聞いてみたいなぁ、その吼える声。折角来たんだもの。でもほんとなの? ほんとかなぁ? 今夜も聞こえるかな? ねぇ、じいちゃん。それって、どんな時に聞こえるのさ。冬だけなの? そうだよね。僕が今まで夏に来ていた時には、そんな話一度も聞いた事無かったもんなぁ」

 源作が(まこと)しやかに言うものだから、浩一もつい引き込まれてしまう。でもいまひとつ信じられなかったので、殆ど冗談みたいな口調で言っている。

「ほんとだってば。何ゆってんだ浩一は。疑ってんのが? 俺を信じろって。夏には真冬の話しなんか誰もしねがら、おめは聞いだ覚えがねえんだべ。しかし、ゆんべは村中の者全員が聞いだ筈だぞ。あんなにでげぇ声だったんだもの。聞ぎだぐ無ぐだって聞こえだってば、あれは。なぁ、静香ちゃん」

 浩一と話している時には目を剥いて、静香を相手にする時にはとても優しそうな顔になって言っている。半分は真顔で、もう半分は嘘だらけのような、源作の変な笑い顔が嫌らしい。

「うん、そうだよね。凄い大っきな声で、村中に響いてたんだよ。もし家まで入って来たらどうしようって、みんな心配しちゃったんだからね」

 我が意を得たりというような顔で話す静香の目が輝いている。とても可愛かった。こんな時、自分にも健一と静香のような兄弟がいたらいいのにと思う浩一だった。浩一はひとりっ子なのだ。

 源作の家は茅葺きの古い家だ。曲がり屋になっていて、その昔には同じ屋根の下で馬を飼っていた。そしてそんなことは珍しい事ではなくて、昔はどの家でも牛や馬を家族のようにして、家の中で飼っていたらしい。現在では最早その名残さえ残ってはいないが、この高台の西村地区にある家は、二軒の温泉旅館を除いて、全て昔ながらの茅葺きの造りになっている。山を背にして居並ぶ茅葺きの集落は、春夏秋冬なかなか情緒のある風景を創り出し、温泉に来る客達の旅情を満足させる役にも立っているらしい。

 すぐ後ろに山を背負ってはいるが、それぞれの家の敷地は結構広く、二百~三百坪くらいはあるようだ。源作の家も庭は広くて、大きな母屋の他に、少し離れた山際に石倉と物置が並んで建っている。そしてそこから三メートル程離れた崖際のところに楠木の大木が立っていて、その根元の岩壁に小さな社があった。水神様だ。

 それは崖の岩肌にぴったりとくっつくように建てられていて、その少し手前に赤い鳥居がある。注連縄(しめなわ)が飾られていた。これが源泉だった。村にある二軒の温泉宿はここから湯を引いて使っている。町田家は先祖代々この源泉の温泉権を持ち、守ってきた。湯守りの家だった。

 その源泉の周りだけは地熱が高いらしく、社の周りからその山肌まで、雪は完全に溶けている。むき出しになった地面はすっかり乾燥して、懐かしい土色を見せていた。それ以外は深い雪が積もっているだけに、そのアンバランスな立体感がちょっと不思議に見える。この村で今の時期に地べたが見えるところは、ここしか無いのではないだろうか。

 その鳥居を潜り抜けて社の脇を行くと、その横に縦に細長く岩盤の割れ目があり、そこが洞穴への入り口になっていた。入り口はちょっと狭いが、頭を低くして少し奥へ行くと横幅も高さも急に広々としてくる。ずっと奥の方まで自然の岩風呂になっていた。町田家専用の温泉だ。

 洞窟内は昼でも暗いが、電気が点くようになっているし、岩棚のあちこちには蝋燭(ろうそく)も準備されていた。浩一は薄暗い蝋燭の明かりで湯に浸かるのが好きだったが、健一と静香は明るい方がいいと言うので、三人で風呂に入るときにはいつも電気を点けた。

 岩屋の風呂には、いつももうもうと湯気が溢れていて、すぐ隣にいる二人の顔さえも霞んで見える。ここでは小さな声で話しても、その声は軽々と岩屋に反響して面白い。 

 浩一は日頃から、田舎のことを思い出す時には真っ先にこの温泉の事が頭に浮かぶ。それだけ子供の頃から馴染み深い温泉なのだ。

 風呂から上がって間もなく、炬燵(こたつ)でのんびりしていたところに二人の母親が迎えに来た。

 浩一は久しぶりに再開した挨拶を述べ、響子は子供達が世話になっている礼を述べている。荷物を小脇に抱えているから、まだ家には戻っていないのだろう。すぐ隣にある自分の家を通り越して、取り敢えず子供達を迎えに来たらしい。

 仲居の仕事には早番と遅番があって、今週は早番なのだと響子は言った。朝の出勤は早いが帰りも早い。柱時計を見ると、三時を少し過ぎたところだった。身体は細いが、きりりとした目許が意思の強さを表している。はきはきとした物言いで、それでいて言葉遣いの優しい人だ。赤い半纏を着た静香は、胡座(あぐら)をかいた浩一の膝にすっぽりと(はま)り、首まで炬燵布団を被っていたが、母親が姿を現すと嬉しそうな笑顔で、炬燵から片手だけを出して振っていた。 

 冬の夕暮れは早い。山陰に太陽が隠れれば釣瓶(つるべ)落としに宵闇が迫る。ましてや今日の空の様に雪曇りであれば尚更だ。まだ少しだけ陽が残っている夕暮れの道路に出てみると、すぐ下に見える高郷の村の明かりが綺麗だった。

 この西村の集落は十穀山の掛け上がりにあって、景色がいい。アーケードのあった東村の集落と比べると、二十メートル以上の高低差がある筈だ。村中がすっかり見える。

 いつの間に雪は止んでいて、その代わり風が出ていた。真っ白な雪原のような村の風景は、空はずいぶん暗くなっているのにまだほんのりと白んでいる。あちこちの民家から漏れている窓明かりが、細長く周りの雪を照らしていた。とても優しそうな明かりだ。

 村ごと深い雪に埋もれているというのに、とても暖かそうに見える。そう思うと、この村の暮らしの全てが、あのベージュ色の窓明かりの中にあるように思えてくる。

 そんなことを考えながら佇んでいると、ビューッと唸りを立てて強い風が吹き過ぎた。それは一瞬、身体がぐらりと傾くくらいの強い風だった。なんて冷たいんだろう。浩一は慌てて家に駆け込んだ。

「ひぇーぃ、さむいよぉ。なんつぅ寒さだい。ばあちゃん、お茶ちょうだい。熱っいの」

 ちゃんちゃんこの両端を両手で内側に巻くようにして駆け込んできた。このちゃんちゃんこは、ヨシ子がこの冬に間に合うようにと作っておいてくれたものだ。去年の夏に来たときに丈を計りながら、浩一は背ばかり高くなって身幅がないから作りにくいと、楽しそうにぶつぶつ言っていたものだ。

 さっきこのちゃんちゃんこを出されたときにその事を思い出した。そしてあのとき、冬になったらまた来たいと言ったことを、はっきりと思い出した。やはり浩一が忘れていたのだ。いずれにしても、来て良かったと思った。

 ヨシ子と二人で茶飲み話をしているところに、岩風呂に行っていた源作が戻ってきた。そして三人で話の続きを始める。すると、

「今晩はぁー じいちゃん、ばあちゃん、浩一君、いるぅー」

 ガラリと勢いよく引き戸を開けて、若い女の子が入ってきた。遼子だった。

 この子はいつもこんな調子だ。ジーンズに淡いピンク色のダウンジャケットを着ている。そのジャケットはまるでウインナーソーセージのようにポコポコに膨らんでいて、ほっそりとしている筈の中身をずいぶん太く見せている。そんな様子が可笑しい。でも突然の遼子の訪問には浩一の心も華やいだ。

 遼子は松本遼子といって、健一と静香の母親、吉田響子が勤めている温泉旅館の娘だ。旅館は二軒とも、ここから百メートルほど行った先の崖っぷちのようなところに建っている。両者とも絶景が売り物だ。その崖からは落差三十メートルほどの滝が落ちていて、真冬でもここだけは凍らずに流れていた。その景観はなかなかのもので、二軒の旅館はその滝を挟んで両側にあった。滝の向こう側にあるのが古滝温泉。こちら側が滝屋旅館といって、遼子の家の旅館だ。

 どちらも滝に因んだ名前がついていて、互いに張り合っているように見えるが、仲は悪くない。こんな小さな村に二軒も並んで温泉宿があるのに、両方ともそれなりに流行っている。だからこそ仲良くやっていけるのかもしれない。大きな観光地では閑古鳥が鳴いているというのに、世の中は分らないものだ。

 滝屋旅館の露天風呂は一番景色の良い崖際にあって、その他に一部屋ごとに内風呂もついている。辺鄙な場所にあるにしては、これでなかなか格式のある旅館だった。

 その昔に、参勤交代中のお殿様が宿泊したことがあるというのが先祖伝来の自慢事らしい。そして、風呂好きの常連客が来た時などには特別待遇ということで、吉田家専用の岩窟風呂を借りに来ることがある。そんなことで行き来しているうちに、子供の頃から夏休みで来ていた浩一と遼子も自然と知り合うようになった。ずっと小さな頃からの付き合いになる。

 身長は一メートル六十くらいで身体は細い。細面でいつも悪戯っぽい目を光らせていた。気持ちのさばけた性格で、このような田舎で育っていても、見た目には都会の若者と変わらない。今風の高校一年生だ。浩一が昼間乗ってきた電車でそのまま四十分ほど先へ行くと町に出る。毎日あのような電車で町の高校に通っている。今は浩一と同じく冬休み中だ。

「今日浩一君が来るって、響子さんに聞いてたのよ。それで来てみたの。どれどれ、この間からちょっとは成長したのかな?」

 勝手知ったる他人の家。さっさと炬燵に潜り込むと、上に出ている蜜柑をひとつ取り、皮を()きながら相変わらずのおどけた調子を振りまいている。浩一の隣に座って、顔を覗き込むようにしてはしゃいでいた。なかなかの美人だ。

 しかし成長も何もあるものか。この間の夏に会ってから、まだ何ヶ月も経ってはいない。

 でも浩一は何となくドキドキしてしまう。以前はこんなことは無かったのに、去年辺りから時折こんな気持ちになる。遼子は高校生になってから、どんどん綺麗になっていく。でも遼子の方は、こんな気持ちにはならないみたいだ。浩一よりひとつ年下なのに、いつも姉のような口をきく。あんまり顔が近くまで来たのでついびっくりしたが、負けてはいられない。

「お前ねぇ、そのぺちゃくちゃしゃべる口と、パクパク食べる口と、どっちかひとつ減らしたらどうだ」

「うまい。ばあちゃん、浩一君に座布団一枚やって。それって、口の減らないヤツだっていうジョークでしょう。浩一君にしては久々のヒットよ。でも、減ってたまるかってことよ」

 そう言いながら遼子は、皮を剥き終った蜜柑をぽいっとひと房口に放り込み、にんまりと笑っている。悪戯っぽい目がきらきら光っていた。頭の回転も速い。可愛いけど生意気なヤツだ。浩一は溜息をついて、苦笑いするしかなかった。

 ビューッという風切り音が聞こえる。家のすぐ裏の山にも、そして周りの山にもどっさりと雪が積もっている。だが山は丸裸ではない。村を取り巻く四つの山は全部が雑木林で、殆どが大昔からあるブナ林だ。

 そこには樹齢数百年にもなるような大木がぞっくりと揃っている。時期がくれば村中総出で下草を刈り芝を刈り、手入れは怠り無い。この村の山はとても綺麗だ。

 以前少しの間、誰も山に入らなくなった時期もあったらしいが、近年は芝木などでもきちんと処理さえすれば、それなりに買い手がつくようになった。また、とくに炭などは、思いの他高値で販売できるようになって、昔ほどではなくても、山の暮らしが復活しつつあるのだ。

 それらのブナ林は、今はとっぷりと雪に埋もれている。すっかり葉を落し、竹箒(たけぼうき)のように広がった細かい枝だけが、寒々として白い山を覆っている。その有様はまるで枯れ木の山のようにも見えるが、これが一度(ひとたび)春ともなれば、瑞々しい芽を吹き、光に透けて、三百六十度緑の世界に変貌する。その華々しい夏の様子は浩一がよく知っていた。

 しかし、今はまだ冬も盛りだ。四方を山に囲まれた村は()り鉢の底にあるようで、強い勢いで吹き込んでくる突風が、その擂り鉢の中を我が物顔に巡り騒いでいる。そのたびごとにブナの梢が、右に左に軋みながら大きく揺れる。あのビューッという寒々しい音は、ブナ林の悲鳴のようだ。

「じいちゃん。この分だと、今夜も大魔人が吼くかもしれないわねぇ」

 遼子も風の音が気になったのだろう。少しの間お喋りが止まっていたかと思ったら、ぽつりとそう言った。

「えっ? なんだって? 遼子も雪の大魔人の話知ってるの? そうか、そうだよなぁ、ずっとこの村で暮らしているんだもんな。何度も聞いた事があるんだろうな? すると、知らないのは僕だけなの? しかし、それにしても、その話しはほんとの話しなのかい?雪の大魔人って、ほんとにいるの? 嘘だろ?」

 浩一は信用していなかった。お伽噺でもあるまいし、いくら辺鄙なこの村でも、大魔人なんてものがいる筈はない。

「ありぁ・・・ 浩一。おめぇはまぁだ信じでいながったのが? おめはいづがらそんなに疑り深ぇ人間になっちまったんだ。おらを信じろ。今晩みでぇに風の強い夜にはなぁ、きっと風神様がやって来るんだよ。そうすっとな、深い雪の中がらもっそりど、大魔人も出でくんだ。ほんとだってば。ほら、遼子ちゃんだってそう言ってっぺ」

 源作は湯上りのコップ酒をやりながら、本当に本気な顔で言っている。どうもこの爺さんの話しは信用できない。本気そうな顔で言えば言うほど嘘っぽい。でも遼子も、訊きもしないのにそう言っているという事は、まるっきり嘘ではないような気がしてしまう。

「あ、じいちゃん。まだ種明かしはしてないのね。ふぅーん。そっか。そうね、何も無理に知る必要はないよ。できるだけいつまでも、純真な心でいなさいよ、少年」

 遼子は最後のひと房を口に入れて、もぐもぐ噛みながら言っている。炬燵の台に両肘をついて、ぐぃっと顔を近づけて言う仕草がまた可愛い。しかしそれが癪にも障る。

 種明かしということは、何かあるに違いない。健一も静香も真顔で話していたようだから、二人もまだ種明かしはしてもらっていないのだろう。ここでもう一度訊けば話してくれるのだろうが、源作といい、遼子といい、わざとじらしてそのように仕向けているのが見え見えだ。浩一は意地でも聞いてやるものかと思った。でも本当は知りたかった。

 暫くの間話をして、遼子は帰ることになった。もう少しと引き止めたのだが、これから洗い物の手伝いがあるらしい。旅館の娘だ。また明日会う約束をして送って行くことにした。滝屋旅館まではほんの百メートルほどの距離なのだが、夜道は不安だ。

 家を出るとすぐ隣は健一達の家だ。斜めに掛かっている雪避けの陰から窓明かりが見える。まだ起きているのだろう。さっきまでは、もうずいぶん遅い時間になっていると思っていたのだが、家を出るときに時計を見たら、まだ九時前だった。この村の時間は都会の半分くらいの速度で、ゆっくりと進むようだ。

 風はまだ強かった。浩一はちゃんちゃんこを首まで迫り上げ、遼子はダウンジャケットに首を潜らせて歩いている。そして寄り添いながら冗談話しの続きをしていたその時だった。ひときわ高く、ブォーッという轟音を響かせて、物凄い突風が上空を行き過ぎた。周りの雑木林が大きく揺れて、振り落とされた雪がどっさりと頭の上に落ちてくる。

 二人して思わず立ち竦んでしまった。遼子は浩一の左腕に取りすがった。すぐに見上げると、雪明りの中で黒いシルエットになっているブナ林の列が、何十本もの太い帯状になって、わさわさと東になびいていくのが見えた。それは異様な風切り音を出しながら、まるでドミノ倒しのように山の斜面を下って行く。そしてそのすぐ後を、転がるように雪煙が追って行った。あれが風神の通り道だ。そう思った。

 とても風だけの仕業だとは思えなかった。大きな何かがあの中にいて、木々の梢を揺さぶりながら飛んでいるように思えた。さっき源作の言っていたことは本当のことなのだろうか。また信じてしまいそうになる。

 そして、二人して身体を寄せ合い立ち止まっていたその時。

 ワォォォォォーン・・・

 ウォォォー・・・

 ウワァーーン・・・

 それは山中にこだまして、すぐに何十にも重なって聞こえ始めた。

「ひゃぁ、吼えてるぅ。今の風が行った時、始まるような気がしたのよぉ。やっぱりだわ。浩一君、これが雪の大魔人の吼える声よ」

 遼子はさっき突風が吹いた時から浩一に腕を絡ませ、ぴったりと張り付いていた。ちょっとドキドキしてしまうが、それが遼子のせいなのか大魔人のせいなのか、はっきりとは分らなかった。

 そして時が過ぎる毎にこだまがこだまを呼び、吼える声は谷を巡っている。大魔人が何十人もいるように思える。音源がどこなのか全く分からない。吼える声は少しずつ大きくなっている。いったいこれは何なんだろう。

「遼子、これは何? 本当に生き物が吼えているように聞こえるけど、まさか、本気で大魔人だなんて言うなよ」

 遼子は上目遣いにニヤリと笑い、いつもの悪戯いっぱいの顔つきになっている。

「しょうがないなぁ。無理に知らない方がロマンチックって言ったでしょう。まぁ、いいか。長い付き合いだし、種明かしをしてあげよう。特別だよ」

 遼子は思いきり勿体をつけながら話し始めた。

 この村は東西南北を山に囲まれているが、東側の水石山と北側の天狗山はそんなに高い山ではなく、比較的なだらかな地形でできている。それと比べて、今立っている西側の十穀山と南側の夜鷹山は、山の重なり合う側が切り立った断崖のような地形になっていた。その間は狭く、そして高さもある。そこで、西高東低の冬型の気圧配置が強い時には、西側から吹き込む大量の風が狭い断崖になだれ込み、圧縮され、そのスピードも増すのだという。そして南側の夜鷹山には、山ノ神トンネルがある。思いきり加速をつけて西側から吹き込んできた風の束が、トンネルを(かす)めながら通り過ぎるときに音を発するのだという。

 つまり、(びん)の口に脇から息を吹きつけると音が出る原理と同じだ。勿論夏でも風は吹くが、西風は滅多に吹かないし、吹いたとしてもそんなには強くない。だから大魔人が吼えるのは、真冬の厳しい気圧配置の時に限るということらしい。

 それが吼える声の正体だった。そして、冬が厳しかった年の夏は好天が続き、秋には豊作になるのだろう。

 結構論理的な話しにちょっとがっかりした。やはり心のどこかでは、お伽噺を信じたかったのだろうか。でもそれを言ったら、それみたことかと遼子に(なじ)られる。それにしてもなるほどと思った。

 静香は大魔人は天狗山で吼えていたと言っていたが、きっと駆け巡る音の反響がそんなふうに思わせたのだろう。音源は天狗山とは正反対の夜鷹山だった。

 健一も静香も、月にウサギが棲んでいるなんていう話はもう信じてはいないのだろうが、この話はまだ信じているみたいだ。無理に種明かしをすることはない。自然に分かる日がくるまで二人には黙っておこうと遼子と話したのだが、話しながら、(すんで)の所で自分も子供達と同じ側に立たされるところだったと、白々しい目で遼子を見ている浩一だった。何はともあれ、この村での楽しみがまたひとつ増えた。

 それにしても寒い。とんでもなく寒い。浩一は足早に遼子を家まで送って行った。

 次の日の朝は見事な青空だった。夕べは寝床に入ってからも、ずいぶん遅くまで大魔人の声が聞こえていた。家の中で蒲団を被って聞く吼える声は、陰にこもって悲しげに聞こえた。そしてその声を聞いているうちに、いつの間に眠ってしまった。

 朝の六時頃にすんなりと目が覚めるなんてことは、普段は絶対に無いのだが、今朝は自然に目が覚めた。環境が変わったせいだろう。いつもそうだ。すると源作もヨシ子もとっくに起きていて、源作は囲炉裏端でお茶を飲んでいたし、ヨシ子は食事の支度に掛かっていた。そして二人に挨拶をして外に出てみると、眩しい青空が広がっていた。

 昨日あの大雪の中にいたときには、この村は春までずっとこんな調子かと思ったものだが、この青空はどうだろう。表戸を開けたとたんに、眩しくて目を瞑った。夏には水石山の左肩から上がっていた筈の太陽が、今はそれよりずっと右へ寄って、水石山と夜鷹山のちょうど切れ間から出ていた。

 浩一は糸のように目を細くして、両手で顔の上に庇を作った。そこにあるはずの村は真っ白な光に溢れていて何も見えない。眩しくて、はっきりとは目が開けられなかった。村全体が巨大な鏡の様になって太陽の光を反射している。ホワイトアウトの世界だった。

 そして青い空。雲ひとつない青空のお陰で、周りを取り巻く山々の稜線だけはくっきりと見える。青色と白色が、天と地を半々に分けていた。これが雪景色かと、浩一はひとりで感動していた。

 朝食を済ませて七時半頃。隣の吉田家まで行ってみた。するとちょうど健一と静香がランドセルを準備しているところだった。

 母親の響子はもう勤めに出たのだろう。朝早く起き出して、子供達の食事の準備をしてから出かけるのだ。子供達も慣れたもので、目覚まし時計でちゃんと起きる。あとは健一が妹の面倒をみながらの一日が始まるのだろう。二人の姿を見ながら、浩一は自分の日頃を反省した。

 昨日二人の冬休みの宿題を教える約束をしていた。二人は学校に行くときと同じように、ランドセルをそっくり背負って来るつもりらしい。玄関の戸を開けると嬉しそうな笑顔を見せた。

 浩一が上がり框に腰掛けると、静香が元気に寄ってきた。その笑顔にまだ眠そうな顔が半分残っているのが可愛かった。それでも浩一を見ると、待ってましたとばかりに夕べの大魔人の話を始めた。健一も話に乗ってきたが、浩一は遼子との約束通りに、お伽噺を壊さぬように真面目な顔で聞いてやった。

 炬燵を囲み三人で宿題をやっていると、八時をちょっと過ぎた頃に遼子がやってきた。健一と静香は遼子を相手にまた大魔人の話を始めたが、それは程々にして十時頃まで勉強を続けた。遼子が健一を、浩一は静香をみていたが、二時間もやれば先生も生徒も飽きてくる。そこで切り上げ、気晴らしに皆で外に出た。

 正面に水石山、右手に夜鷹山の真っ白な姿が見える。その両方の山裾の間に盛り上がって見える白い筋が殿様街道だ。白い筋は緩くカーブを描きながら村のアーケードの通りにぶつかり、そこでT字形になっている。そしてこちらに向かって続いていた。それがまた、やすこくやの角で左へ九十度に折れて、左手に見える天狗山とこの十穀山の間に消えている。ここからは村が全部見える。青空が気持ちいい。

 そのようにして雪の村を目で辿っていくと、天狗山の端になにやら光る部分が見えた。丸い形で光を反射している。この大雪の中でまさかと思ったが、どうもそうらしい。龍神池だ。

「ねぇ、遼子。あそこに見えるのは龍神池だよね。へぇー そうか。夏には葉っぱが生い茂っていて見えないんだ。冬にはこんなにはっきり見えるんだねぇ。あんな形をしていたんだぁ、知らなかったなぁ。でもなんで? なんであそこは凍らないの?」

 夏の頃なら周りを取り囲むブナの林が巨大な屏風になって、あそこに池があることさえ分からない。今ブナ林は網の目のように、細かい枝が霞むようにあるだけで、その向こうに綺麗な楕円形の池が現れていた。

「大魔人の事といい、龍神池の事といい、冬には冬の新発見があるでしょう? 私達なんて、この村のことは何でも知ってるもんね。ねぇ、健一君。何にも知らない浩一お兄ちゃんに説明してあげて。面倒だろうけど」

 遼子はそう言いながら、静香と健一の肩を抱いた。健一も得意そうな顔で浩一を見ている。憎々しいやつらだ。

「あのね、お兄ちゃん。龍神池は地下からの湧き水が溜まってできているんだよ。井戸水と同じようなものだから、いつも温度が一定で、そんなに大きくは変動しないんだ。だから夏には冷たく感じるけど、今の季節には結構暖かいんだよ。だからどんなに寒くても、大雪が降っても、龍神池は凍ったりしないんだよ」

 その通り、と言って遼子が拍手をすると、静香も一緒に真似をしている。三対一では敵わない。

「へぇー そうなの? あの池は湧き水だったのかぁ。それは知らなかったなぁ。でもいつも遊んでいた水神様のところには渓流が流れ込んでいたじゃないか。あの水が溜まってできた池じゃなかったのかい? それにしても、健一君はよく知ってるなぁ。大したもんだ。僕なんて君より小さな頃からこの村で遊んでるけど、そんな話しは聞いた事が無かったよ」

 健一は、へへへと照れながら言う。

「あの渓流はそんなに水量がなかったでしょう。たぶんあの流れは、今頃はかちんかちんに凍っていると思うよ。それにこういう事は、みんなおじいちゃんに聞いたんだけどね。湧水池って言うんだってさ」

「へぇー おじいちゃんって、うちのじいちゃんかい? そうなの? あの爺さんときたら、僕にはそういうことは何にも教えてくれないんだよなぁ。いっつも人を煙に巻くような話しばかりしてるんだよ」

 私も、私も、おじいちゃんに聞いたのと、遼子はわざと嬉しそうに、わざわざ浩一の顔を覗き込むようにして言っている。ふん、ああそうかいとそっぽを向くと、龍神池の右上の辺りから煙が昇っているのが見えた。

 白い煙は雪の白に透けて全く見えないのだが、雪の山肌を通り過ぎ、天狗山の上から青空に浮かび上がったとたんに、はっきりとその姿を現していた。本当に汚れのない青い空を、その煙だけがもこもこと落書きのように漂っている。

「あ、煙だ。あれはきっと去年からあそこの別荘に住んでる人の煙だね。うちの旅館の人達が言ってたけど、すごい変わり者なんだって。滅多に村には下りてこないし、たまに会っても挨拶もしないんだってさ。もしかしたら変な人かもしれないから、女子供は近づくなって言ってたよ」

 今から十数年も昔の頃。まだ世の中の景気が良かった頃に、この村にも沢山の人が訪れては別荘を建てていった。あの天狗山と正面に見える水石山は、裾野から中腹にかけてはなだらかな地形になっているため、別荘地には最適だったのだ。緑がいっぱいに生い茂る中に洒落た感じの建物が何棟も建てられ、出来て暫くした頃には、浩一も何度か探検に行ったものだ。

 当時村では自然を荒らしたくないという声も多く上がったが、過疎化が進む中、例え永住民でなくとも人口が増える事は良い事だという話になり、結局あの二つの山に、十五戸の別荘が建てられた。しかし、栄枯盛衰世の習い。その後世の中の景気が悪くなると、まともに別荘を使っている人などいなくなってしまった。近くまで行ってみると、草ぼうぼうで荒れ放題の家が多く、あちこち傷みが進んでいる建物も多い。

 そんな別荘のひとつに、去年の春頃から一人の男が住みつくようになった。勿論自分の建物なのだから住むのは一向に構わないのだが、年に数回訪れるというのではなく、今更ながら住みつくというところが変わっているというのだ。今頃あの大雪の中で、たったひとりでどんな風にして暮らしているのだろう。煙が上がっているのだから生きてはいるみたいだが。

「こういうところの別荘って、夏は涼しくて最高だろうけど、こんな雪の中では不便だろうなぁ。麓に下りるのにも道が無いんだし、どうしているんだろう」

 田舎暮らしの楽しさは浩一にもよく分っていたが、その反面何でも自分でやらなくてはならない苦労が伴うことも分っている。良い事も不便な事も、ひっくるめたところに楽しさがある。だから皆が団結するのだ。大変なことは共同でやる。そして苦労なんか笑い飛ばしてしまうのだ。

「ねぇ、それよりあそこに行ってみない? 龍神池に。去年の冬もそうだったんだけどね、綺麗なんだよ。浩一君はまだ見たことがないでしょう? 健一君と静香ちゃんも、これはまだ見たことがないよね」

「なんだい? こんな真冬の龍神池に何があるの? まさか、今度は龍神が出るなんて言うんじゃないだろうな」

「ない、ない、見たこと無い。行こう。行こうよ、お兄ちゃん。そんなに遠くないでしょう。静香だって行けるよね」

 健一がそう言うと、静香は自分だけ置いていかれたら(たま)らないとばかりに、じっと浩一を見上げている。

 ここから坂を下ってやすこくやの角を左に折れる。そこは殿様街道だから、ちゃんと除雪はしてある筈だ。後はその少し先の土手道を、右へ三百メートルほど登ればいい。そこだけが難所だが、傾斜は緩いし源作のカンジキを使えば大した距離ではない。全部で二キロくらいの道程だろう。健一も静香も、いつも学校まで通っている道のりとほぼ同じくらいの遠足だ。

「勿論大丈夫さ。今日の勉強も終わったことだし、それじゃ、みんなで出かけようか。そうそう、じいちゃんのカンジキを履いていかなくっちゃね。僕と健一君とで踏みならしていけば大丈夫だね」

 浩一は静香の傍にしゃがみ込み、抱き寄せながら言っていた。

 雪の壁が続く道を四人で歩く。周りには雪があるだけで、それ以外には何も無い。見上げれば高い青空が見えるだけだ。そんな道を延々と歩いていることがとても不思議に思えてくる。このような道は改めて造ろうと思っても造れるものではない。異次元の世界にいるようだ。除雪するのにロータリー式の除雪車を使うと、このような垂直の壁ができるのだ。

 天狗山の麓まで来るとその辺りの雪の壁は崩れていて、龍神池に通じる道筋には既に踏み固められた跡があった。龍神池は村の水田を潤す灌漑用水になっているので、村の人が定期的に見回りに来ているのだろう。そういうことは、とても大切にする人達なのだ。

 風は全く無い。太陽は眩しいほどに輝いている。目の奥が痛いくらいだ。緩い上り坂を歩きながら、さっきからジャンパーの内側には汗が浮いていた。

 山肌をブナ林が満遍なく覆っている。夕べ夜通しで降っていた雪が、細かい枝の一本一本にまで細い線になって積もっている。それが大きな木全体にふんわりと広がっていて、山中に沢山の白い花が咲いているようだ。入り組んだ雪の枝が青空に映えている。とても華やかな冬の山だ。

 先頭を行く浩一は、たまに振り返っては傍の立木を足で蹴る。すると枝にたっぷりと積もっている雪が、ふんわりと落ちてくる。それを頭から受けて、遼子と静香がきゃぁきゃぁ言ってはしゃいでいた。時折ピューィと、甲高い声を響かせているのはヒヨドリの群だ。夕べのような荒天の日には、鳥達はどこでどうしているのだろう。

 ここまで来るととても景色がいい。振り返ると十穀山が右手に見える。ついさっきまで、あそこに立ってこちらを眺めていたのだ。西村の茅葺屋根の佇まいがよく見えた。

 途中で何度か休みながら、漸く龍神池にたどり着いた。近づきながら気が付いていたが、池の表面からはうっすらと湯気が立ち昇っている。この池は一番長い対角線が五十メートルほどで、さっき西村から見たときは繭玉(まゆだま)のような形をしていたが、こうしてすぐ傍まで来てみると、どんな形なのかよく分からなくなる。池の周りはブナの古木が十重二十重と取り囲んでいて、今はひとひらの葉っぱも付けてはいない。

 そして空中で交錯している無数の細かい枝にも、今まで見てきたような雪の花は咲いていはなかった。それらの枝はなんとも不思議なことに、透き通った氷細工で出来ていた。陽を撥ね返し、キラキラと光を放つ氷の枝。それは生まれて始めて見る、お伽噺の光景だった。

「・・・すっごいなぁー 綺麗だぁ。どういうことなんだいこれは。ねぇ、遼子。なんでこんな事になってるの?」

 浩一は息を飲むほどに驚いていた。細い目がぱっちりと見開いている。

「うーん、すごいよねぇ。私だってこんなに綺麗な霧氷を見たのは始めてよ。きっと、今日は青空だから特別綺麗に見えるんだね。それにしたってすごいよねぇ。来て良かったねぇ。いくらこの村に住んでいたって、こんなに見事な霧氷はそうそう見られるもんじゃないと思うよ」

 常に水温五度前後で一定している水は、外気温が零下になったとき、お湯のように水蒸気を上げる。そして、周りを取り囲む木々の枝にまとわりついたとたんに凍り付く。それを何度も繰り返して、無数の氷の枝が完成する。池の周り全体を、氷の森が取り囲んでいた。雪の大魔人。凍らない池。そして氷細工の森。なかなかファンタスティックな村だと思う。

 健一も静香もはしゃいでいた。始めて見る氷の森は、幼い心を強く感動させたようだ。

 立ち並ぶ木々の間を縫って、森の奥の方から細い溝が続いている。そして溝は池の近くで深い堀のように変わり、そのまま池に入っていた。これは元々は幅二メートルほどの小さな渓流なのだが、今は雪に覆われて五十センチほどの幅しか無くなっている。上辺の雪が内側にめくれるように分厚く積もり、オーバーハングしているのだ。深い壷のような溝に変わっていた。

 これは落ちたら大変だ。恐る恐る身を乗り出して覗いてみると、暗い溝の底に、少しだけ雪を被った岩が見えた。上流の方の表面は殆ど凍っているみたいだが、池の近くでは水面が微かに揺れている。川はまだ生きているらしい。

 そのすぐ脇に鳥居があり、少し上に小さな(ほこら)があった。犬小屋みたいな可愛い祠だが、銅板を張った屋根の造りなどは本物の社のように立派だ。周りは雪に覆われているが、鳥居と祠のある場所だけは雪かきがされていた。脇に立つ石碑も殆どの部分は現れている。

 そして鳥居にはまだ新しい注連縄が掛かっていた。正月に新しい物と交換したのだろう。石碑には弁財と刻まれている。このような場所にある弁財とは、いわゆる弁財天とは意味が違う。水神という意味だ。村の大切な水源の守り神なのだろう。

「この龍神池の水神様はね、ただの水の神様とはちょっと違うんだよ。その姿は名前の通り龍なんだけどね、それは元々は一匹の男の龍でね、ずっと大昔に、ここよりもっと北にある湖に住む女の龍を好きになって、毎日毎日逢いに出かけたんだって。そしてある時、その気持ちが漸くその女の龍にも通じて、めでたくお嫁さんに来てもらえることになったんだって。だからこの龍神池には、それ以来二匹の男女の龍が住んでいるんだってさ。そしてそれからというものは、別れた人とか、遠くにいる人とか、誰かに逢いたいとか思う人は、この祠に願を掛けると、いつか必ず逢えるという伝説があるの。霊験あらたかな龍神様なのよ。健一君も静香ちゃんも、折角だからお願いしてみたら? 前にいた学校の友達とか、誰か遠くにいる知り合いとかさ、いつか逢いたい人に逢えるかもしれないよ」

 これは誰から仕入れた話なのかは知らないが、遼子は屈み込んで静香と健一に話していた。

「それじゃぁ、今もこの池にはその二匹の龍が住んでいるの? それで龍神池っていうんだね。すごいなぁ。ねぇ、遼子姉ちゃん。その龍はたまには出てくるのかな? どうやったら見られるの? へぇー すごいなぁ。僕見てみたいなぁ。ねぇ、どうすればいいの?」

 ほらみろ。爺さんといい、遼子といい、いつもいい加減なことばっかり言ってるから、最後には収集がつかなくなっちまうじゃないか。そして結局は、俺を信じろ、ってなことで誤魔化すしかなくなっちまうんだよ。

 浩一は遼子の後ろで聞きながら、腹の中で思っていた。その手の話しは、子供の頃源作に山ほど聞かされている。そして結構いつまでも信じていたものだ。そんなことを思い出しながら、目一杯白い目で遼子を見ている。

「それはね、心からこの龍神様を信じる人だけに見えるのよ。本気の本気で信じればきっと見えるの。じいちゃんが言ってたんだからほんとだよ」

 何を言ってるんだ。あの爺さんの言うことだから信じられないんじゃないか。浩一は勿論声には出さないで言っている。

 すると、相づちを打ちながら聞いていた二人は、ひそひそ何か相談していたみたいだが、すぐに神妙な顔つきになって祠の前で手を合わせていた。脇から見るとぶつぶつと何か言っているように口が動いているから、何やら願を掛けているのだろう。最後に並んで深くお辞儀をして、顔を見合わせ微笑んでいた。

 あらら、あっという間に騙されてしまった。酷い話だなどと思いながら、浩一は益々疑わしい目で遼子を見ている。それでも、二人が何をお願いしたのか気になる。好奇心だけは強いのだ。

「ねぇ、ねぇ、何てお願いしたの? 誰に逢いたいって?」

 浩一は盛んに聞きたがったが、二人とも教えてはくれない。

「遼子姉ちゃん。神様へのお願いって、他の人にしゃべったりしたら駄目なんでしょう?」

 静香は誰かにそんなことを聞いていたのかもしれない。

「その通り。他の人に知られたら効果がなくなっちゃうんだよ。だから浩一君も聞いちゃ駄目だからね」

「ほらね、いくら浩一兄ちゃんでも教えられないんだよ。ごめんなさい」

 静香は申し訳なさそうに言っている。そんな風に言われると、さっきの伝説が本当の話しのように思えてくるのが怖い。思わず自分も願を掛けたくなってしまう。この後半年ほど経ってまたこの村に来たら、あの爺さんと遼子の手によって、またぞろ別な伝説が出来上がっていそうな気がする。浩一は深くため息をついた。

「そうやって僕がこの村にいない間に、どんどん、どんどん、僕の知らない秘密が増えていくんだよなぁ」

 浩一が不満そうにそう言うと、三人はニンマリと微笑んで、だったらもっとちょくちょく村にいらっしゃいと、口を揃えて言っていた。

 そんな時だった。立ち並ぶ木立の間から突然大きな尨犬(むくいぬ)が飛び出してきた。浩一はすぐに犬に気付き身構えたのだが、雪に足をとられ間に合わなかった。

 側にいた遼子と健一が同時に悲鳴を上げた。それはとても大きな犬なのに、沢山の木立に遮られて、すぐ側に来るまで見えなかった。そしてあっという間に、小さな静香に飛びかかっていた。びっくりして、浩一はすぐに犬を押さえつけようとしたのだが、

「ひぁハハハ・・・ やめて。ハハハ・・・ くすぐったいよぉ。ひぁハハハハハ。くすぐったぁいってばぁ。なによ、君は。ハハハ・・・ ちょっと、やめてぇー きゃハハハ・・」

 犬はハァハァと荒い息を吐きながら、静香の顔をベロベロ舐めていた。静香は雪の上に完全に押し倒されて、首やら鼻やら、めちゃくちゃに舐められて、顔中が犬の(よだれ)でべとべとになっている。浩一が首輪を手で掴み、何とか犬を静香から引き離した。それでもなお犬は、尻尾を振りながらはしゃいでいる。

「あぁーん。いやだょぉ。べとべとだょぉ。きったないょぉ。何なのょぉ、君はぁ」

 静香は雪の上に両膝をつき、嬉しそうに嘆いている。どうやら犬は好きみたいだ。さっき家でお菓子を食べた跡が、口の周りに残っていたのかもしれない。犬はそれが目当てだったのだろう。

 健一と遼子が両側から、雪で静香の顔を拭いてやっている。それにしても驚いた。降り積もった雪の上では、疾走してくる犬の足音も聞こえないのだ。気を付けなければいけない。

 ピィィィー 森に甲高い音が響いた。その後輪唱のようにこだまが山を駆け巡る。口笛だ。すると尨犬は一瞬身体をビクンと硬直させ、口笛の方向を確認した。そして浩一の手を力で振り切り、まっしぐらに走って行った。

 何十本ものブナが雪の中から立ち上がっている。その林立する幹を透かしたその向こうに黒いものが立っていた。それは全体が四角いような形で、まるで腐った畳が立っているようでもあり、襤褸(ぼろ)の固まりのようにも見える。そのごわごわの襤褸の上から頭が出ているから人間なのだろう。髪の毛は伸び放題のボサボサで、その為にその頭は普通の人の三倍くらいの大きさに見える。

 顔も黒く、もじゃもじゃの髭が覆っている。その黒い中に鋭い目だけが二つ、ぎょろりと光ってこちらを睨んでいた。犬の飼い主なのだろう。犬が足下に辿り着く前にくるりと(きびす)を返し、森の奥に消えていく。あの犬はそれなりに訓練はされているようだ。

「大魔人だ。雪の大魔人だよ、お兄ちゃん」

 健一でなくてもその人間離れした姿からは、誰しも同じように感じたと思う。静香も犬に舐められたことなど忘れて、よろめきながら遼子に(すが)り付いていた。浩一はすぐに、別荘に住みついている人だろうと思ったが、それにしても何と凄い格好だろう。別荘を持っているような人なら金持ちなんだろうに、まるで襤褸を(まと)った原始人のようだった。


「うん、それは真田さんだな。今時分、天狗山をそげな格好で犬連れで歩いでる人どゆったら、あの人以外にはいねべ。あの犬はチックとゆうんだ。ながなが利口な犬なんだぞ」

 家に戻って源作に話すと、やはりあれは別荘の住人だと言う。真田光太郎というらしい。真田は去年の春からひとりで別荘に住みついたのだが、始めの頃は村の者も心配して、天狗山に入る折りにはなるべく声を掛けるようにしていた。しかし人嫌いというか、大変無愛想なので、近頃では村人との接触も殆ど無くなっているらしい。源作は何度か親しく話をしたことがあるらしいが、それは源作の親しみやすい人柄が受け入れられたからなのだろう。

 稀には心を開くような時があるらしい。源作の話しによると、真田は四十六才で、この村に来る前は東京の八王子市に家庭を持ち、家族で暮らしていた。ある日、当時五才の一人娘と町を歩いていた時の事。ほんのちょっとの隙に、娘が子犬を追って車道に飛び出し、車に轢かれ死んでしまった。一緒にいた自分の目の前で。

 今の今まで確かに手を握っていたのに、娘が走り出した瞬間、あっという間に繋いだ手を振り解かれてしまった。一瞬の油断だった。あの時、なんでもっとしっかりと手を握っていなかったのか、何で走り出した娘を俊敏に止められなかったのかと、それを繰り返し繰り返し後悔しているのだという。

 その事は後に妻にも責められ、自分もその通りだという思いが強く、結局一人娘を失った夫婦は別れた。そして仕事も辞め、可愛かった娘の想い出だけを胸に、ひとりこの山に入った。

 だから出来るだけ他人との交わりを避け、自分ひとりだけで娘の想い出に浸っていたいのだろう。決して悪い人間ではないが、何しろ心を閉ざしている。とても悲しい目をしていた。それが真田と話をした源作の感想だった。

 世の中には沢山の幸せがあるのだろうが、沢山の不幸もあるのだ。もしかしたら、幸せよりも不幸の数の方が多いのかもしれない。

 この村にある秘密も決して良いことばかりではないのだ。天狗山から昇る煙を遠くから眺め、そんなことを思う浩一だった。

 翌日も、その翌日も、勉強が終わると龍神池に行った。他に行く場所が無いということもあったが、それよりも静香が盛んに行きたがったのだ。静香は行くと真っ先に祠に手を合わせ願を掛ける。ピンク色の小さな防寒着を着込んで、首に白いマフラーをぐるぐると巻き、神妙に祈る姿はとても可愛かった。何をそんなに祈っているのかは分らないが、とにかく毎日行きたがった。

 池に着いて暫くすると、あの尨犬が駆けて来る。日課のようになっていた。真田の別荘はここからは見えないが、祠から百五十メートルほど先の森の中にあるらしい。犬が人の気配を感じ取るのだろうか。いつも飛んでくる。足の付け根まで雪にはまりながら、ふさふさの長い毛に雪を絡ませ、転がるようにして走ってくる。

 ハァハァと白い息を吐き、長い舌を出して嬉しそうだ。注意していたせいもあるが、二度目からはその気配を感じ取れるようになり、静香も慌てなかった。静香にチックという名前を教えてやったら盛んに名を呼んでいたが、犬は呼ばれるたびに大きな身体で周りを飛び跳ね、はしゃいで、静香とは一番の仲良しになった。

 何度目かに行った時、静香は小さなお人形を持っていき、犬の首輪につけていた。これは見たことがある。いつもランドセルにぶら下げている男女のお人形のうちの、男の方の人形だった。チックはオス犬だ。もしかしたら、静香はこの犬と会えるのが楽しみで池に来たがるのだろうか。きっと、それもあるのだろう。そして犬の来た先を見ると、いつもあの黒い大魔人がじっとこちらを見ていた。しかし、決してそれ以上近づいて来ようとはしなかった。

 その後は幸い浩一がこの村に来た時のような大雪は降らなかったが、始めて龍神池に行った時のような好天にもならなかった。遼子も言っていたが、あの日は特別だったのだろう。池の霧氷はいつ見ても美しい事には違いがないが、それでも、バックに青空があるのと無いのとでは、その風景はずいぶん違って見えるものだ。

 見慣れたせいもあるのだろうが、重い曇り空の下では今ひとつ精彩がなかった。どんよりとしたねずみ色の空からは時折雪が落ちてくる。少しの風でもとても寒かった。

 雪国では夜の天候は荒れても、昼間は比較的静まる事が多いものだが、毎朝の気温は零下十度以下の日が続いている。この村で食料とか飲み物などを冷蔵庫に入れておくのは、凍らせないためだ。秋に採れたキャベツや白菜なども、家のすぐ傍の雪の下に深く埋めておく。厚く積もった雪は断熱材の役目をして、これも凍らずに済む。そしてその都度、必要な分だけを掘り出して使う。雪国の生活の知恵だ。

 浩一がこの村に来て七日目。日中はそれほどでもなかったのに、夕方になると風が強くなってきた。冬はただでさえ日没が早いのに、西側にも山が控えているこの村は殊更日暮れが早かった。

 家の周りの立ち木が、ビュービューと悲鳴を上げ始めた。すると間もなく四方の山が騒ぎ出す。雪が真横に飛んで来る。

 皆で夕食を済ませ、炬燵を囲んで話していた。こんな時静香は、いつも浩一の膝の上だ。浩一も妹のように可愛がっている。母親の響子は今日から仕事が遅番なので、夕方の八時を過ぎないと帰ってこない。

「ほぅ、まだ風が出できたなぁ。この分だと今晩も、雪の大魔人様がお出ましになっかもしんねぇぞぉー ふふふ・・・」

 酒を注いだ湯呑を片手に源作が言う。酒はもう殆ど残っていない。何だか知らないが、子供たちの顔を見ながらわざと不気味そうに言っている。この爺さんはいつもそうだと、浩一は腹の中で思っていた。でもいつも面白い話しになることも知っている。

「また出るの? ねぇ、おじいちゃん。また大魔人が来るんだね?すげぇー 静香、また大魔人が吼えるってさ」

 健一は蜜柑を頬張りながら興奮していた。そして静香が怖がり浩一にしがみつくと、浩一はぐるりと腕を回して抱きしめてやった。

「いいや、そうじゃねぇ。そうじゃねえんだぞ、静香ちゃん。雪の大魔人はな、決してそんな恐ろしいもんじゃねえんだ。魔人と言うがら恐ろしそうに聞こえっかもしんねぇげっちょもな、あの大魔人はな、ほんとは村の色んな厄を払ってくれる神様みでぇなもんなんだよ。守り神だな。魑魅魍魎(ちみもうりょう)、なんてゆっても分んねえべなぁ。例えばだな、鬼どが悪魔どがいう怖いもんをやっつげるためには、その鬼や悪魔よりも、もっともっとおっきな力がねえど駄目だべ? 分るよな? 正義の味方が鬼や悪魔に負げっちまったんでは話になんねぇもんなぁ。そうだべ?」

 ゆっくりと、昔語りの様に話す源作のしゃべりは、ほんのりとしていて面白い。優しそうな目尻の笑い皺とマイペースの方言。そして少ししわがれたようなその声がとてもいい。浩一も子供の頃から、この声で色々な物語を聞いてきた。でもこの話しは始めてだった。健一と静香は食い入るように源作の話を聞いている。そして源作の話しに、いちいちコクン、コクンと、頷いていた。いつの間に話しに引き込まれている。

「ほら、やすこくやの四辻んどごにお地蔵様が立ってっぺ? この村ではああいうものは大事にしてっから、お地蔵さんの周りだげは雪も綺麗に払ってある筈だ。あの優しげな顔のお地蔵さんもな、いっつもああやって皆のごどを見守ってくれでっけっちょもな。実を言うどな、あのお地蔵さんは地獄の閻魔大王の仮のお姿なんだよ」

 そこで一息つくと、源作は健一と静香の顔を順々に見回し、にやりと笑った。そして残り少ない湯呑の酒をグィッと飲み干し、ヨシ子に差し出す。もっとくれという訳なんだろうが、そうはいかなかった。

 ヨシ子は湯呑を受け取ると、いかにも渋そうな、緑色をしたお茶を注いでいる。源作はそれをジロリと横目で睨み、話しを続ける。分ってはいたらしい。

「お地蔵さんと閻魔様が同じ人なの? ほんとなの、おじいちゃん。そんなの変だよ。そんな筈ないでしょう? だって、お地蔵さんと閻魔様だよ。全然違うじゃない。ねぇ、お兄ちゃん」

 健一と静香は、嘘だ嘘だと(はや)し立て、浩一にも同意を求めている。浩一には分らない。ねぇと言われても困る。そもそもこの爺さんは、いつもこんな調子で変わったことを言い出すのだ。そして結構物知りなのが困る。最後には納得させられてしまうのだ。

「まぁ、待で。そう騒ぐなって。あのな、これは嘘でねぇ。ほんとのごどだ。俺を信じろ。俺が今まで嘘ついだごどがあっか?」

 ある。いつも嘘ばっかりだ。そもそも、俺を信じろって言うのが口癖なのは、誰にも信じてもらえていないということだ。浩一はまた腹の中で思った。口には出さない。面白いから。

「あのな、人間は誰でもいづがは死ぬもんだ。そして死ぬどな、生ぎでだ時どれだけ善いごどをしたが、悪いごどをしたがで、あの世にある六つの冥界に振り分げられるんだよ。そうゆうごどになってんだ。その六つの道を六道と言うんだがな、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道、の六つだ。そしてその六道の振り分けをやるのが、あの世の入り口にいらっしゃる閻魔様よ。元々お地蔵さんは六人いでな、それぞれがその六道を取り仕切っているんだよ。ほら、夜鷹山の川沿いにある大名峠。あそごにある墓場の入り口に、六地蔵さんが並んでっぺ。あれがそうだよ。あれは、同じお地蔵さんが六人いるみだいに見えっけっちょもな、実はそれぞれが違う役割を持った菩薩様なんだよ。あの一番右端にいんのが大定智悲地蔵というお地蔵さんでな、まだの名を地獄地蔵と言うんだ。つまり、閻魔大王の化身という訳だな。ああやって、誰がいい人間が悪い人間が、いっつも見でらっしゃるんだよ。んだがら、悪りぃごどはでぎねんだぞ」

 ふーんと、相づちを打ちながら、健一も静香もすっかり感心して聞いている。とにかくこういう変な事にはやたらに詳しい爺さんなのだ。子供を丸め込むことなんか訳がないと、浩一はまたまた腹の中で思った。そして、自分も殆ど丸め込まれていることにも気付いていた。

「閻魔様といえば地獄のボスだよな。振り分げられで地獄に堕ぢだ亡者どもは、みんな悪事の限りを尽くしてきた悪ばっかりだべ。んだがら、これはこれで、ながなが手強いんだよな。数も多いしよ。そごでだ、閻魔様ひとりでは間に合わねぇがら、地獄の鬼達を使ってこいづらに罪を償わせるんだ。それごそ鬼は強いし、恐ろしい力を持ってっからなぁ。さすがの悪達も、とでも敵うもんじゃねぇ。地獄の様子を描いだ地獄絵図つうのがあんだげっちょもな、それを見っとな、亡者どもは鬼に八つ裂ぎにされだり、首を引っこ抜かれだり、火に炙られだり、それはもう大変なもんだ。そのおっかねぇ鬼達を顎で使ってんのが閻魔大王なんだな。つまりな、閻魔様は地獄の裁きを行う正義の味方なんだがな、いぐら神様だろうど仏様だろうど、慈悲深い優しさだげでは勤まらねぇつぅ事よ。んだがら、ある時は優しいお地蔵様に、そしてある時はおっかねぇ閻魔様にお姿を変えでらっしゃるつぅ訳だ。結局、正義を行うには、怖い鬼も震え上がるような、とでづもなぐ恐ろしい力も必要なんだっていうお話だよ」

 正義の味方は鬼より怖い。分かったかと言いながら、健一と静香ににっこり笑い掛けている。優しい笑顔だ。二人はうんと、頷いていた。もうすっかり催眠術に掛かってしまっていた。浩一もだ。

 源作が話をしている間にも、風がゴーゴーと唸りを上げていた。きっと岩風呂の脇に立つ大楠木も、細かい枝を右へ左へぐらぐらと、山姥の髪のように揺らしている事だろう。

 時にはすぐそこで、時にはずっと遠くの方で、ビュービュー、ゴーゴー吹いている。家の中にいても、風が四方の山を駆け回っているのが分かる。とても寒々しくて、そしてもの悲しい音だ。そんな風の音に皆が耳を傾けていたとき。大魔人が吼え始めた。

 ウォーー・・・ 

 ワァオーン・・・ 

 グゥォォォーーー・・・

唸るような重い声が山々にこだまして、共鳴を繰り返す。雪の大魔人は何十人もいるのかもしれない。

 次の日の朝。目が覚めるとすぐに吹雪だと分った。ただ風が強いのと吹雪なのとでは、その音が違う。浩一にもそういう事が分るようになっていた。寝床に入ったままで雪の飛ぶ音を聴いていると、夕べからの続きのようだ。夜と昼とでは風向きが少し違ってくるらしく、昼間にはどんなに強い風が吹いても、大魔人が吼えたことは無いのだと源作が言っていた。

 外の様子を見てみようと思い、服を着て引き戸を開けた。タイミングが悪かった。たまたま家の前を通りすぎたばかりの吹雪の塊が、雪囲いの隙間を抜けてブワッと襲ってきた。吹き抜ける風の音と吹雪の通過には、時間差があることを忘れていた。

 とても木目の細かい雪煙だった。それが一瞬のうちに浩一の全身に絡み付き、襟元から背中にまで粉雪が入り込んだ。冷たい。足首まで冷たい。浩一は慌てて戸を閉めると、中に引っ込んだ。

 こんな日には外にも出られない。擂鉢の底の様になっている村の中を、吹雪はぐるぐると巡回しているのだ。もし外を歩いていてそれに出くわしてしまったら、きっと目も開けてはいられないだろう。昼の嵐だ。

 朝食を済ませ本を読んでいるところに響子の明るい声が聞こえた。女手ひとつでこの人は随分大変だと思うが、辛そうな顔は少しも見せない。でもその切れ間のない明るさが、何となく悲しそう思えてしまうのは、浩一の気の回しすぎだろうか。雪囲いの戸と、玄関の戸を順々に開けながら、何度も声を掛けながら入ってくる。冬の村には戸が何枚もあって大変だ。

「おはようございまぁーす。ひゃぁ、ひどいひどい。今日はすごい日になっちゃったわねぇ。おじいちゃん、おばあちゃん、宜しくお願いしまぁーす。あ、浩一さんも宜しくぅー」 

 続いて健一と静香も、よろしくぅーと、真似をしながら入ってきた。響子の家も源作の家も、年季の入った茅葺きの造りだ。雪囲いの簡単な戸を開け玄関の引き戸を開けると、奥行き一間の土間があり、横に長く四間幅の広い上がり框がある。そして目の前の板座敷には囲炉裏があって、炭火が赤く燃えていた。

 でも普段皆がいるのは、その左奥にある一段高い座敷の炬燵だ。入り口の戸をガラリと開けると、部屋の中の全てが見える造りになっている。誰がいて誰がいないか、一目瞭然だ。もっとも二階にいれば分からないが、寝るときでもない限りは、普通は大抵炬燵か囲炉裏の周りに皆が寄り添っているものだ。

 響子は子供達を中に入れ、頭や背中に付いている雪を払ってやっている。三人ともすぐ隣から来たというのに、まるで数百メートルも雪道を歩いてきたような雪だるまになっていた。本当に凄い降りになっているらしい。

 健一も静香もランドセルを降ろしながら源作達に挨拶をしている。囲炉裏端にいた源作とヨシ子が二人の側に寄っていき、早く上がれとランドセルを受けていた。嬉しそうだ。

 その後、炬燵で暖まりながら暫く話をしていると、遼子がやってきた。吹雪の中をひとりで大騒ぎしながら入ってくる。

「おはようございまぁーす。いゃぁ、ひどいひどい。すごいんだよぉ。ものすごい吹雪になってるよ。もうちょっとで遭難するとこだったわよ。さっき入れ違いに響子さんが来たんだけどね、もう、すごいの。雪だるまが歩いてきたのかと思ったわよぉ。私もすっかり雪だるま。いゃぁ、朝から災難、災難」

 戸の外からキンキン響く声が聞こえるが、まだ姿は見えない。浩一は、よくひとりでしゃべれるものだと感心して聴いている。声と一緒にばたばたという音が聞こえているから、雪囲いとの間で身体に付いた雪を払っているのだろう。

 そして間もなくガラリと戸が開いた。その時には健一と静香が上がり框のところまで迎えに行っていた。遼子はもう一度おはようと言いながら防寒着を脱ぎ、上がって来た。

「今日はまたいつになく盛大に降っているみたいだなぁ。この分だと、村中がまたいっそう、雪のてんこもり状態になっちまうんだろうな。そうだ、じいちゃん。屋根の雪下ろしってやるんでしょう?僕それを楽しみにしてるんだよ。いつ頃やるの?」

 こんな猛吹雪の日にはとても外には出たくはないが、でも一旦雪が止んだ後の村の風景はとても綺麗だ。遠く近く、緩やかにくねるような雪の原は白い海のようだし、強い風に吹かれて出来た見事な雪の風紋を見ると、歩いて足跡を付けるのがもったいなく思える。ここに来て以来、見るたびに変化する本物の雪景色に、浩一は毎日感動していた。源作が囲炉裏端から顔を向けて言う。

「うん、雪掘りもまだやんなくちゃなんねぇべなぁ。もう大分積もってっからなぁ。そうだなぁ、この雪が止んで落ぢ着いだらやっぺな。もう二回やってっからな、今度やれば三回目だ。今年は多いな。そうが、浩一は雪掘りが楽しみが? それはいい。頼もしいでねえが。よし、精々頑張ってもらうべ。雪掘りだげは特別だがんな、バイト代出すぞ。ふふふ・・・ 覚悟しとげよぉ」

 そうだった。この村では雪掘りと言うのだ。屋根に積もった分厚い雪に深々とスコップを差し込み、グイッと、土を掘るように掘り上げるからだ。それにしても、バイト代などはいらないが、覚悟しておけとは、そんなに大変な仕事なのだろうか。まぁ、やってみれば分かるだろう。とにかく、この村の広々とした雪景色は美しい。きっと、どんな絵葉書でも敵わないだろう。

「そうそう、この村では冬のアルバイトには事欠かないわよ、浩一君。やる気さえあれば毎日だって仕事はあるわよ。それに、雪掘りはバイト代も村一番だしね。すぐに大金持ちになれるわ。頑張って」

 遼子は背中を丸めてすっぽりと炬燵に潜り込み、首だけ炬燵の上に乗せて言っている。

「私だって毎朝五時半に起きてバイトやってるのよ。五時半よ、五時半。信じられる? まったくうちの親ときたら人使いが荒いんだから。娘が可愛くないのかしらねぇ。せめて六時からにして欲しいもんだわ。やんなっちゃうわよ」

 浩一はキョトンとした顔で遼子を見ている。遼子が朝は泊り客に朝食を出す手伝いをして、夕方には布団敷きなどの雑用を手伝っているのは聞いていたが、それがアルバイトだとは知らなかった。

「おいおい、遼子さん。あなたは自ら進んで家の仕事を手伝っていたんじゃぁなかったのですかぁ? 金取ってたの?」

 浩一は言いながら遼子に顔を近づけ、冗談の様に言っている。

「あったりまえでしょう。なにゆってんのかな、この少年は? 誰がこの寒いのに朝の五時半に起きだして、勤労奉仕なんぞするもんですか。時給七百円でぇーす。安いでしょう? 今、百円の値上げ交渉中なの。これがなかなか、渋い渋い」

 天板の上にある向かい側の遼子の顔が、グィッといっそう顔を近づけてきて、しゃあしゃあと言っている。浩一は思わずのけぞった。

「僕より年下の女の子が、朝も早い内から大したもんだと、兼ねがね感心していたのにさ。なんだ、バイトかよぉ。でもさ、日頃の小遣いは小遣いとして、別に貰っているんだろう? そういうのって、貰いづらくないの?」

「少年、君はそういう当たり前の事を、いちいち言葉にしないでくれる。答えるのも面倒だわ」

 呆れ顔で見ている浩一をフンと鼻であしらって、ニンマリと笑っている。現代っ子だ。そんな二人のやりとりを聞きながら、源作とヨシ子が囲炉裏端で笑っている。

 そして浩一は大きく溜息をつき、遼子はさてと、気合いを入れ、何でも無かったかのように健一と静香の勉強が始まった。

 それから一時間ほどしてふと顔を上げると、いつの間に風の音が止んでいた。宿題に熱中していたので気が付かなかったのだろう。源作は囲炉裏の火を使ってカンジキを作っている。周りにはアケビのツルや竹などが、まぜこぜになって置いてあった。

 奥の台所からは、トントンという何かを刻むような音が聞こえてくる。ヨシ子が昼食の下ごしらえをしているらしい。

 一息つこうと皆で外に出てみたら、なるほど風は止んでいたが、でも雪は相変わらずに降っていた。吹雪の時の降り方は大体が横殴りで、突風が来ると縦横無尽。どっちが天なのか地なのか、訳の分からないような降り方に変わる。今はたださらさらと、上から下へ、いかにも雪が降っていた。

 それでも上空にはまだ風があるのだろうか。見ていると、ネズミ色の空の一部分が、スッと一瞬明るくなる時がある。あそこが太陽のある場所だ。風で雪雲の層が厚くなったり薄くなったりしているのだろう。

「ん、今日の雪は夜には止むな。こんな空模様の時には、いっつもそうなんだ」

 すぐ後ろで源作が空を見上げていた。疲れた腰を伸ばしながら言っている。

 その後もう一時間ほど勉強を続け、今日の分は終わりにした。そして、

「さて、静香ちゃん。今日はずいぶん雪が降ってるから、龍神池に行くのはよそうね。この後何しようか? 皆で大きな雪だるまでも作るかい? それとも、寒いからお風呂に入って暖まろうか?」

 静香はちょっとの間浩一の顔を見上げていたが、すぐに不満そうな目をした。

「いやだぁー 行こうよぉ。龍神池に行こうよぉ。せっかく毎日行ってたんだもの、今日も行こうよぉ。もう大丈夫でしょう? 吹雪は終わったもの。ちょっと雪が降っているだけだから、大丈夫だよ。ねぇ、浩一兄ちゃん、行こうよぉ。行きたいよぉ」

 浩一の提案に素直にうんと言うかと思ったのだが、静香は今日も池に行きたいと言う。

「静香は何言ってんだよ。さっき見ただろう? ちょっとだけじゃないよ。まだあんなに雪が降っているし、もうずいぶん積もっているんだから、歩ける訳ないじゃないか。我が儘言っちゃ駄目だよ」

 健一がたしなめていたが、それでも静香は食い下がっていた。遼子が戸を開け外の様子を確認している。

「あー 残念だけど駄目だねぇ、これは。静香ちゃん、今日はやっぱり無理みたいだよ。おじいちゃんは夜には止むって言ってたけど、今すぐは止みそうにないよ。さっき見た時と同じくらいに、じゃんじゃん降ってるもの。天狗山まで行くのは大変だと思うよ。明日にしよう。明日。ね?」

 引き戸を少しだけ開け、その先の雪避けの隙間を透して見ている。遼子は背中を向けたまま、大きな声で言っていた。

「行こうよぉー 大丈夫だよぉ。毎日楽しみにしていたんだから、絶対に行こうよぉー」

 静香の声も大きくなり、泣きべそをかくように肩を揺らして叫んでいる。

「静香。いい加減にしろ、バカ。こんな日に行ける訳ないじゃないか」

 静香の肩をとって健一が怒っている。すると、とうとう静香は泣き出してしまった。

「こらこら、健一君。バカなんて言っちゃ駄目よ。お兄ちゃんじゃないの。静香ちゃんはまだ小さいんだから、優しくしてあげなくちゃ駄目だよ」

 遼子が泣いている静香を抱きしめている。

「だって、静香はいつだってこうなんだよ。すぐに我が儘を言い始めるんだ。この間だって、お母さんだって大変なのに仕事に出かけようとしていたら、行っちゃ嫌だって騒いで困らせたんだよ。いくら小さくたって、我が儘すぎるよ」

 健一にしても母親が恋しい気持ちは同じだろう。父親を亡くし、頼るものは母親しかいないのだ。思い出しながら、ちょっと涙ぐむような様子が可哀想そうだった。

 その後ヨシ子も加わり静香をなだめていたが、どうにか諦めてくれたようだ。そして浩一は、出来ることなら連れていってやりたいと思い、改めて外に出てみたが、さっきよりも少し風が出てきたらしく、雪が斜めに降っていた。やはりこの様子では、外歩きは無理だと思った。

 それにしても静香は、どうしてあんなに龍神池に執着したのだろう。仲良しになったあの犬に毎日会いたいのだろうか。それともちょっと甘えて、駄々をこねてみただけなのだろうか。よく分からなかった。

 今日の昼御飯は熱々のうどんだった。ヨシ子が昨日のうちに仕込んでおいた生地を伸ばし、うどんにした。さっき、トントンというリズミカルな音が聞こえていたのは、これを切っている音だったらしい。

 たっぷりの鶏肉と椎茸が美味しい。大きなどんぶりからは沢山の湯気が立ち上っていた。皆で囲む食卓は、その湯気まで美味しかった。そしてその時には静香の機嫌もすっかり良くなっていて、笑いながら皆と話をしていた。美味しい食卓は人の心を和ませる。

 健一も静香もその後暫くの間、テレビを見たり絵を描いたり、それぞれ思いのままに過ごしていた。そして遼子も、本を読んだり静香の絵の相手をしたりしていたし、浩一は健一と将棋を始めていた。そして二時を少し過ぎた頃。遼子と絵を描いていた静香が顔を上げた。

「お姉ちゃん、あたしちょっと家に行って来る。チョロとクロに餌やるの忘れていたの。後でまた来るからね」

 一通り描き終わった絵を脇に置くと、静香はそう言ってピンクの防寒着を羽織っていた。チョロとクロというのは、ペットのハムスターのことだ。静香が可愛がっていることは皆が知っていた。

「そう。私も一緒に行ってやろうか? ひとりで大丈夫?」

「大丈夫だよ。すぐ隣だもの」

 静香は笑いながら言っていた。この家の玄関を出て隣の玄関までは、ほんの十メートルほどの距離だ。まさか、いくら子供でも大丈夫だろう。静香の声を聞きながら、浩一も健一もちょっとだけ静香に顔を向けていたが、またすぐに盤に目を落とした。それでも遼子は気を付けてと言いながら玄関の外まで出て行き、静香が自分の家の玄関に入るのを見届けていた。その時には風もどうやら落ちついていて、雪の降り方も心持ち小降りになっていたようだった。

 健一は小学六年生といえど侮れない。将棋の腕前はなかなかのものだ。浩一も下手ではないのだが、三番やればひとつは取られる。一旦勝負がつくと、カンジキをほっぽりだして源作がやってくる。この爺さんもなかなか強い。

 遼子は小説を読んでいた。夢中になって読んでいるが、カバーが掛かっているので何の小説かは分からない。訊いても教えない。たぶん恋愛小説に違いないと浩一は思っている。

 外仕事が何にも出来ない冬の村では、こんな風に一つ屋根の下で身を寄せて過ごすのがいい。特別話す事が無くなったとしても、互いに心は通じている。真冬の村は見た目よりずっと暖かく感じる。そんなことを思っていた時、囲炉裏端からヨシ子が言った。

「なぁ、浩一。静香ちゃん、遅いんでねえが? あれがら大分経づぞ。自分の家に居んだがら間違いはねぇど思うげんちょもよぉ、うたた寝でもしてんでねえのがな? ちゃんと炬燵にでも入ってればいいげんちょもよ、変な寝方してっと風邪ひいっちまうがら、心配だなぁ。おめ、ちょっこら行って見できてくんにが?」

 忘れていた。何かに夢中になっていると時の経つのがとても早い。時計を見ると間もなく三時半になるところだった。いつの間に、静香が出て行ってから一時間以上も経っていた。俄に心配になって立ち上がった。遼子も健一も一緒に行くと言うところを、取り敢えず自分が見てくるからと言って浩一が外に出た。空は随分明るくなっていて、雪の様子も普通の降り方になっていた。

 戸を開けながら、大きな声で静香の名前を呼ぶ。返事は無かった。座敷に上がり部屋を見回す。誰もいない。二階にいるのかもしれないと思い上がって行ったが、そこにも静香はいなかった。

 どういう事だろう。本当に心配になってくる。もう一度下へ行って隅々まで見てみると、ハムスターの籠は部屋の隅に毛布にくるまれてあった。開けてみたがハムスターの姿は見えない。きっと、寒いから巣の中に入っているのだろう。小さな餌入れにはちゃんと餌が入っていた。毛布を元通りにしているところへ遼子と健一がやって来た。

「どう? 大丈夫? やっぱり眠ってたの?」

 遼子はそう言いながら部屋の中を見回している。

「いないんだよ。今二階にも行ってみたんだけど、二階にもいないんだ。変だなぁ。どうしよう。ひとりでどこかに行くなんてことあるかなぁ」

「静香ぁー 静香ぁー」

 浩一の話を聞くと、健一は大きな声で妹の名前を呼びながら二階へ駆け上がっていった。遼子は念のためにトイレや風呂場も確認に行ったが無駄だった。

「どこにもいないよ。お兄ちゃん、どうしよう。静香のヤツ、どこに行っちゃったんだろう。もしかして、お母さんのところかな? あいつ甘えん坊だから、急にお母さんに会いたいなんて言い出すことがよくあるんだよ」

 健一は心配そうに、浩一と遼子の顔を見て話している。

「分かったわ。電話してみましょう。旅館に行ってるんならいいんだけどね。電話借りるわね」

 すぐに遼子の家に繋がり、響子を呼び出してもらった。でも静香は来ていないという。電話の向こうで響子が驚いていた。そこへ源作がやって来た。

「おい、どうした? なんかあったのが? あんまり遅いがら俺も来てみだよ。静香ちゃんはどうしたんだ?」

 こんな近くで、すぐ隣の家で何もある筈がないと思い込んでいるせいか、源作の顔には不審な中にもおっとりとした感じがあった。しかし静香がいないと聞いたとたんに、なに、と言って厳しい顔になった。

「いねぇって、おめえ・・・ いねぇ訳ねえべ。こんなどごろで何でいなぐなんだ。そんな訳ねえべ。ちゃんと探したのが?」

 そう言うと、さっきの健一と同じように慌てて家中を探し回っていた。この家も農家の造りだから広いことは広いが、だからといって、子供を探すのに苦労するほど広い訳はない。そして滝屋旅館にも行っていないと聞くと、源作はすぐに探すのを止めて言った。

「おい浩一。おめぇは西村の連中に訳を話して人数を集めろ。そしてこの辺り一帯を徹底的に探すんだ。とぐにこの家の周りを中心に探せ。念のために岩風呂にも行ってみろ。ずっと奥まで行ぐんだぞ。くまなぐ探すんだ。遼子ちゃん、あんたは家に戻れ。戻りながら道沿いに注意をしていってくれ。とぐに足跡には注意してくれな。あぁ、あれがらも大分雪が降ってたがんなぁ、足跡残ってっかなぁ・・・ それど、そんな事は無いど思うが、雪の壁が崩れでいるようなどごろはねえが、よっく見ながら行ってくれ。健一君はおれ家でばあさんど待ってろ。俺はこれがらひとっ走り、駐在と消防を集めでくる。この西村だげでは、大した人手は集まらねぇ。いいな。急げ」

 家にいなければ外にいる筈だ。この村で生まれ育った源作には冬の怖さがよく分かっていた。時間との勝負になる。

 大声でそれだけ言うと、さっさと飛び出して行った。実にきびきびしている。こんな時の源作は頼もしいと思った。やはり現役なのだ。そして浩一も遼子も、すぐに行動した。

 

 天狗山の別荘はもう庇のところまで雪に埋もれていた。屋根にも厚い積雪があったが、電信柱のような太い材料で組み立てられた建物は、そんなことではびくともしないようだ。別荘の南側と西側に欅の大木が二本立っている。大人二人でやっと腕が回るほどの古木だ。この山のブナ林はどの角度から見ても魅力的だったが、あの時にはこの二本の欅がとても気に入ったものだ。気に入ったのは妻だった。

 あの時別荘を建てるために、隣の水石山とこの天狗山とを二人で行ったり来たりしながら場所を物色していた。そしてここを見つけたとたんに、妻はこの二本の欅を代わる代わる撫でたり抱きついたり、天上高く生い茂る葉のうねりを見上げたりしていた。そして随分長い間そうしていた後で、ここにしましょうと、目を輝かせて言ったものだ。

 あの頃は楽しかった。真田が三十三才で、妻の玲子が二十七才。結婚して二年目の夏だった。若く美しい妻を心から愛していた。

 父の跡を継いだペットフードの輸入会社は順調だった。社員数こそ少ない小さな会社だったが、折からのペットブームの風に乗り、会社は充分に潤っていた。生涯の伴侶も得て何の不足もなく、このまま真っ直ぐに進めばよいと思っていた。そしてその通りにしてきたのだが、ただひとつだけ思い通りにいかなかったのが、子供だった。

 一・二年は気楽な新婚生活を楽しむつもりでいたから、むしろ作らないようにしていたのだが、三年を過ぎた頃からは無性に欲しくなった。妻も同じ気持ちだっただろう。しかしこればかりはどうにもならなかった。

 病院でも診てもらったが二人とも異常は無かった。しかしどうしても子供ができない。自分よりも妻の方が辛かったろうと思う。生来明るい性格の妻が、年を追うごとに陰りのある顔つきになっていくのが悲しかった。お互いが罪のない罪に責め立てられているような日々が続いた。結婚して六・七年が過ぎた頃には、もう子供のことを口にすることはタブーになっていた。口にすれば辛くなるし、互いに責め合うような気持ちになるのが嫌だった。

 そして、子供が欲しいと願うばかりの悶々とした生活も十年目を迎え、殆ど諦めかけていた頃に妻が懐妊した。あの時は二人抱き合い、泣いて喜んだものだ。地獄のどん底にいるような暮らしから、一瞬にして天国の最上階まで引き上げられたような気分だった。  涙ぐむ妻の口から、出来たと聞いた時の心臓の高鳴り。あの時は、神様は絶対にいると本気で思ったものだ。心から感謝した。四十一才にしてようやく授かった宝物は、かおりと名付けた。そしてかおりは、自分にも妻にも生きてゆく大きな励みとなり、かおりのお陰で二人ともしっかりと蘇った。

 別荘の中には赤煉瓦を組んで造った暖炉があった。その脇の壁には、秋に集めておいた薪が堆く積んである。真田光太郎は大木を輪切りにして作ったイスに腰掛け、過ぎた日々を思い出している。じっと動かずに、燃えさかる炎の揺らめきに見とれていた。日がな一日、こんな暮らしを続けている。

 かおりが二歳になった夏に始めてこの別荘に連れてきた。緑がいっぱいの木洩れ日の下で、人形の様に可愛くなったかおりと、手を引く妻の笑顔が今でもはっきりと思い出せる。それを、その天国にいるような幸せを、全部失ってしまった。

 あの時、どうして手を離してしまったのか。なんでしっかりと見ていてやれなかったのか。止められた筈だ。あれは事故なんかじゃない。自分の不注意だ。自分がかおりを殺してしまった。そして、妻も去って行ってしまった。当然のことだ。かおりは、妻の宝物でもあったのだから。

 死にたい。もう自分の人生は終わった。可愛いかおりの傍に行きたい。いくら天国にいても、あんな小さな子がひとりぼっちでは寂しいだろう。傍に行ってきつく抱きしめていてやりたい。今度は絶対に離さない。でも自分のようなものが天国に行けるだろうか。かおりのいる所にいけるだろうか。

 クーン。尨犬が鼻を鳴らして擦り寄っている。主人の悲観を察しているのだろうか。この犬はあの時の犬だ。名はチックという。妻の玲子とかおりが、二人で考えてつけた名前だ。

 一時は殺そうと思ったこともある。あの時、この犬さえ車道に飛び出さなければ、かおりも後を追うことはなかったのだ。そもそもこの犬が悪い。そう思った。でもそれは八つ当たりというものだろう。この犬だってあの時は生後四ヶ月の子供だったのだ。全ては自分が悪いのだ。犬のせいになどしてはならない。かおりが可愛がっていた犬は自分が育てることにした。

「チック。すまないな。さて、買出しにでも行くか」

 真田は十日に一度くらいの割合で村へ下り、買い出しに行く。背負子を背負って、村の通りまで三十分ほどの距離だ。

 

 木枯らしがヒューッと通り過ぎると、その後を追って雪煙が舞い上がる。それはくるくると渦を巻いて、細かい雪の粉が身体中に絡みつく。寒い。静香は首にしっかりとマフラーを巻いて外に飛び出した。

 さっき皆に止められた時にはとても悲しくて、泣きながらひとりで行くって決心していたんだけれど、いつまでもぐずっていると変に疑われそうだったから、分かったって言って笑ったんだ。誰も連れて行ってくれないのなら、ひとりで行くしかない。だって神様へのお願いは、毎日続けなければ効果が無くなっちゃうんだから。それはお兄ちゃんが教えてくれたことなのに、それなのにお兄ちゃんたら、あんなに怒って。浩一兄ちゃんと遼子ねぇちゃんが駄目って言っても、お兄ちゃんだけは行こうって言ってくれると思っていたのに。お兄ちゃんの裏切り者。

 静香は暫くの間雪の降り具合を見ていたが、決心した。龍神池には今まで何度も行った。道もよく覚えているし、行き方は簡単だと思った。第一途中までは学校に行く道と同じ道だから、間違うことなんかある筈がない。深く積もった雪は、歩くたびにギュッ、ギュッと音がする。ピンクの防寒着を着て前を見て、一生懸命に歩いた。

 雪はまだまだ降っているけれど、毛糸の帽子も被ってきたし、防寒着のフードをたてればこれくらい大したことはない。やすこくやの角を左に曲がって、あとは真っ直ぐだ。殿様街道の両側には家が沢山並んでいるし、ちっとも怖くなんてなかった。

 そしてもうちょっと頑張って歩くと、雪だらけの山道に入る。ほら、ちゃんと分かっていた。龍神池には村の人も雪かきに行くから、道がついている。あとはその通りに上っていけばいいんだ。大丈夫。思った通りだ。もうすぐだ。

 龍神池からはほんわりと湯気が立ち上っている。その周りは霧氷の森だ。今はその氷の枝にも雪が積もっていて、不思議な風景を醸し出していた。龍神様の祠は池の畔にあるが、その小さな屋根にもこんもりと雪が積もっている。祠は半ばまで雪に埋もれていた。

 祠の掃除は毎日は行われない。雪の降り具合に併せてその都度やるのだろう。今日は辺り一面がほぼ平らになるほど雪が積もっていた。祠はすぐそこに見えているが、そこまで行くには少しだけ勾配を昇らなければならない。静香は滑らないように前屈みになって、雪に両手を付きながら少しずつ上っていった。小さな口からは白い息が、ポッポと出ている。

 もう少しだ。あと一歩。そして漸く辿りついた。やっと祠の前まで来て、静香はにっこりと微笑んだ。まずは祠の雪を払って綺麗にしなくちゃならない。小さな手袋の手で屋根の雪を払い始めた。三十センチくらいは積もっているから結構大変だ。払いながら順々に後ろの方へ回り込む。もうちょっとだ。そして、祠の屋根に覆い被さるようにして雪を払ったその時。

「あぁー だめぇー あぁー とまってぇー お兄ちゃーん」

 身体が軽すぎた。降り積もった雪の下はアイスバーンになっていた。川に向かって傾斜がついている。静香は四つん這いになって懸命に止まろうとしたが、ゴム底の防寒シューズはつるつる滑って、そのまま渓流の溝に落ちていった。

 この渓流は精々一メートルくらいの深さしかないのだが、今はギュッと締まった厚雪が二メートル以上も降り積もり、その底は流れる水で溶かされトンネルの様になっていた。そのうえオーバーハングした表面は、風で飛ばされてきた雪で完全に塞がれていた。

 

 夕方の四時半ともなればとっくに陽は落ちて、辺りには闇が迫り、もう真夜中のような暗さだ。ましてや十穀山が西に控えているこの村の日暮れは早い。

 静香の行方不明が分ってから一時間が経っていた。浩一は焦っていた。家の周りは隈なく探した。勿論岩風呂も隅々まで探したし、道路下の土手も覗きながら大きな声で呼んでみた。遼子の家の滝屋旅館と、滝向こうの古滝温泉も見てきた。二つの旅館の間には滝を跨ぐ吊り橋が架かっていて、まさかそこから落ちたのではないかとも思い、雪の土手を滑り降りて滝壷まで行ってきた。ドキドキしながら目を凝らして探したが、静香の影はどこにも無かった。ホッとした。

 西村の人達も五・六人で探してくれているし、もう探す場所は思いつかない。まさか神隠しでもあるまいし、八才の子供がこんなに簡単に消えてしまうなんて不思議だった。

 しょうがなくて一旦家まで戻ってくると、健一とヨシ子が心配顔で待っていた。そしてその健一の顔を見たとき、もしかしたらと思った。

「健一君。静香ちゃんはさっき、どうしてあんなに龍神池に行きたがったんだろう。本当に我が侭を言っていただけなんだろうか? もしかしたら君は、訳を知っているんじゃないのかい?」

 健一は、ハッとしたような顔で言った。思い当たったようだ。

「浩一兄ちゃん。静香は願を掛けていたんだよ。あの龍神池の祠に。最初は僕がそうしようって言ったんだ。でも僕はそれほど本気じゃなかったんだけどね。でも・・・もしかしたら静香は、本気だったのかもしれない。そうだ、だからあんなに駄々をこねていたんだ。たぶんそんな気がするよ。もしかしたら、ひとりで龍神池に行ったのかもしれない。どうしょう、お兄ちゃん」

 龍神池の伝説は、願掛けをすると逢いたい人に逢わせてくれるというものだ。健一と静香の願掛けは、死んだ父親に逢わせて欲しいという願いだった。夢でも幽霊でもいいから父親に逢いたい。どうぞ宜しくお願いします。勉強が終わったあと、毎日行ったあの祠の前で、小さな手を合わせて口の中でもぐもぐ言っていたのは、そんなお願いだった。

「健一君。僕はこれから龍神池に行く。じいちゃんが助けを呼びに行ってからそろそろ一時間近くになるから、もう間もなくこっちへ来る頃だ。君はじいちゃんに訳を話して、何人かは龍神池に来てくれるように伝えてくれ。頼んだぞ」

 浩一はカンジキを装着して懐中電灯を握りしめ飛び出した。まともに行ったのでは時間が掛かりすぎる。北側の山を越えることにした。全く除雪のされていない原野には積雪が二メートル。でもカンジキがあれば大丈夫だ。

 山越えといっても、そんなに大げさな山でないことは分かっていた。子供の頃から親しんでいる村だ。地形は隅々まで知っている。ただ雪が邪魔なだけだ。

 手つかずの雪はカンジキの足でも潜る。ズボッと膝まで潜りながら、その反動でもう一方の足を引き抜く。力技だ。こんな時の雪漕ぎはガニ股がいい。ここに来て初体験のカンジキだが、こういうものは教えられるものではなく、身を以て覚えるものだ。

 登りは雪を蹴りながら泳ぐように、下り坂は転げるようにして進んだ。まともに行けば長いL字形の道のりだが、山越えなら直線で行ける。十五分で殿様街道に抜けた。 目の前が天狗山の裾野だ。全身雪だらけになった姿で山を見上げ、そのまま空に目をやると、もうすっかり雪は止んでいて、雲も殆ど見えない。地上はこんなに暗いのに、上空にはまだ残り陽があるらしく、夜空が深い群青色に沈んで見えた。そして浩一は、一気に龍神池を目指した。


 まずは魚屋の丸正に寄って、塩鮭を一尾買った。次に八百屋の半沢商店へ行き、長ネギにレタス。ついでに納豆と醤油も。それと昆布とワカメ。そして肉も仕入れなければならない。

 真田は身体に大きな襤褸雑巾(ぼろぞうきん)を巻きつけたような格好で、夕暮れのアーケード通りを歩いていた。ぼさぼさの頭には帽子も被らない。髪に積もった雪が溶けて頬を伝っているが、拭いもしない。黒い長靴を引きずり、雪焼けした真っ黒な顔は殆どが髭に覆われている。

 その目にも精気がなかった。すぐ後ろを縄で繋がれたチックがついてくる。

 夕暮れ時といっても愛想はない。雪が覆い被さっているアーケード内はもうとっくに真っ暗になっていて、各店の明かりの色具合はすっかり夜半の趣だった。

「おい、頼んだぞ。俺はこれがら消防団の勝蔵のどごさ行ってくっからな。この辺りの連中は、おめが集めどいでくいよな。何しろ静香はまだ子供だ。この雪の中では時間が勝負だがんな、大至急で頼むぞ。んじゃな」

 吉村肉店の前まで来たとき、蒸気で曇った店の中から聞き覚えのある大声が聞こえてきた。息の上がった声で慌てている様子だが、静香とはあの女の子のことじゃないだろうか。以前源作に聞いたことがある名前だ。たしか源作の家で面倒をみていると言っていたが、いつも龍神池で会う、あの女の子のことだと勝手に決めていた。

 小さな女の子と聞くと、とても気になる。チックとじゃれている様子を見るたびに、死んだかおりを思い出していた。

 きっとあの子のことだ。何かあったらしい。そして戸を開けようとして取っ手に手を掛けたとき、それより早くガラリと戸が開いた。飛び出してきたのはやはり源作だった。

「源作さん。どうかしたんですか? 今静香って聞こえましたが、もしかして、いつも四人で龍神池に遊びに来ている中の、一番小さな女の子のことじゃないでしょうか?」

 戸を開けたらいきなり目の前に襤褸が立ち塞がっていて、思いきりぶつかった。源作は跳ね返されて後ろによろけるのを何とか堪えている。源作は背丈が一メートル五十五センチだが、真田は一メートル八十くらいある。こんなに近いと、首が痛くなるほど見上げなければ話ができない。

「おぉ、びっくりした。真田さんか。そうだ、その子だ。おどなしぐ家にいるど思っていたのがいねぐなった。三十分ぐれぇ前にその事に気が付いだんだが、訳が分がんねぇんだ。そうだ、頼む。あんたも探してくれろ。ひとりでも人手が欲しいんだ。時間がねえ。頼むぞ。俺はこれがら消防団さ加勢を頼みに行って来っからな」

 源作は走りながら振り向き振り向きそう言って、ドタドタと駆けていった。西村から走りづめで来たのだろう。話しながらも息が苦しそうだった。

「チック。大変だ。行くぞ」

 真田は屈み込みながら犬に言うと、首輪から静香がくれた人形を外した。そして犬の鼻先に持っていき、臭いを嗅がせている。

「分るな、チック。これだぞ。この匂いだ。あの可愛い女の子の匂いだ。お前の一番の友達の匂いだぞ。よーく覚えろよ。分るな」

 そしてもう一度、行くぞと声を掛けると、犬は真田を引っ張って走り出した。

 

 渓流はまだ完全には凍っていないらしく、耳を澄ますとチロチロと水の流れる音が聞こえた。尖った岩が沢山並んでいて、その上にも薄く雪が積もっている。

 身体が小さくて軽いのが幸いした。それに落ちたのも足からだったから、そんなに酷いことにはならなかったらしい。それでも底に落ちた瞬間にはツルリと足が滑って、身体が勢いよく倒れてしまった。

 渓流の底は全体がツルツルに凍っていて、氷の岩が並んでいた。どの岩も静香の身体よりはるかに大きなものばかりだ。静香は横倒しになってから暫くの間、息が詰まって苦しかった。背中も痛くて、蹲ったまま我慢をしていると、だんだん息ができるようになってきた。

 横になったまま目を開けてみると、自分が落ちてきた穴が見えた。それは小さな穴で、周りの雪の層はとても厚い。藍色の空が見えた。その穴のところ以外は雪が屋根の様になっている。穴まではとても高くて届かない。それに中は随分暗くて、周りの様子もはっきりとは分らなかった。

 這うようにして下流の方へ行ってみると、雪の壁になっていた。行き止まりだ。怖い。今度は上流の方に行こうと思いゆっくと立ち上がったが、すぐにツルリと滑った。咄嗟に岩に手を掛けて留まろうとしたのだが、その手もツルンと滑って、また勢いよく倒れてしまった。痛い。もう動けない。それに寒い。どうしよう。

 急に悲しくなってきた。涙が滲む。自分がここにいることなんて誰にも分らない。内緒でこっそり抜け出してきたんだから。それにこんな穴の中に落ちているなんて、尚更分りっこない。天井にはあんな小さな穴がひとつ開いているだけなんだから。もうおしまいだ。涙が溢れた。

「お母さーん。お母さーん」

 何度も何度も母を呼んでみたが、大きな声で叫べば叫ぶほど空しくなった。聞こえる筈がない。静香は穴の中に響く自分の涙声がいっそう悲しかった。胸が震える。そして仕方なく岩の陰に蹲っていると、いつの間に泣きながら眠っていた。疲れたのだろう。

 

 あった。足跡だ。あの後も(しばら)く風が吹き、雪原の表面は殆ど平らに(なら)されてしまっているが、それでもよく見ると薄っすらと足を引きずったような二本の線が見えた。きっとそうだ。この歩幅は子供のものだ。静香はやはりひとりでここへ来たのだ。足跡の様子から見ると戻った跡が無い。まだ龍神池にいるのかもしれない。だがあれからは大分時間が経っている。子供がたったひとりでこんな場所にいるには長すぎる時間だ。何かあったのに違いない。無事でいて欲しい。

 浩一は腰に力を入れてスピードを上げた。山の始まりはなだらかな昇りになっていて、途中から緩い下りに変わる。皆でゆっくり歩いてくる時には、話をしながらいつの間に着いてしまうのに、こうして一生懸命に行こうとするときには、なかなか着かないものだ。気ばかりが焦る。そして息を切らせながら昇りきった時、枯れ木のようなブナ林の向こうに龍神池が見えた。


 静香は夢をみていた。とても寒い。そうだ、まだ龍神様にお願いをしていなかった。お願いをする前に穴に落ちてしまったんだ。ここからでも大丈夫だろうか。祠はすぐそこだから大丈夫かもしれない。夢の中で手を合わせた。

 龍神様、どうかお父さんに逢わせて下さい。夢でも幽霊でも構いません。どうかお父さんに逢わせて下さい。お父さんはとても優しかったです。家にいるときにはいつも静香を膝の上に抱っこしてくれました。勉強も見てくれて、よくお散歩にも連れて行ってくれました。龍神様お願いです。お父さんに会いたいです。どうかお父さんに逢わせて下さい。

 寒い。あたしはこのまま死んじゃうの? 龍神様、もしもあたしが死んじゃうのなら、どうかお父さんのところに連れて行ってください。お父さんに逢いたい。お父さんに逢いたい。どうかよろしくおねがいします。


 駄目だ。死なせるもんか。今度こそは絶対に死なせるもんか。絶対にだ。

 真田光太郎は大きな声で怒鳴りながら、陽の落ちた殿様街道を走っていた。顔を歪め髭だらけの口を噛み締め、凄い形相で雪道を睨みつけている。

 かおりは俺のせいで死んでしまった。事もあろうに、父親の俺が殺してしまった。あんなに可愛かったかおりは、たったの五才だったかおりは、いつだって無条件で俺を頼りきっていた。何の欲も得も無く、あどけなく、満身で俺を信じていたのに、その俺が、その俺が殺してしまった。なんという大馬鹿者だ。

 死なせるものか。今度こそは、絶対に死なせるものか。血走った目で怒鳴っていた。

 チックはやすこくやの角で迷っていた。まっすぐ行けば西村へ行く。右へ曲がれば天狗山の方角だ。しかしどっちか分からない。静香の匂いは両方に残っているのだろう。


 天狗山はとても静かだった。全くの無風で、細かい枝の先端に至るまで上手に雪を乗せているブナ林が、何だか作り物のように見える。

 もしかして、あの木の陰に静香はいないだろうか。こっちの木の後ろに蹲ってはいないだろうか。遠くからもあちこち探しながら歩いて来たのだが、静香の姿はどこにも見えなかった。そして足跡は祠まで続いていた。

 やはりここまで来ていたのだ。あの子はひとりでこの山を登って来たのだ。その後どこに行ったのだろう。周りを見回してもそこから先には足跡は無かった。しかしよく見ると、祠の後ろの辺りに少し雪を削ったような跡がある。そのすぐ後ろは凍り付いた渓流の溝のはずだ。まさかと思って浩一が傍に寄ったとき。

「うわぁー」

 あっという間に溝に落ちた。今日一日かけてふんわりと積もった雪の下は、硬いアイスバーンになっていた。そこだけは傾斜が急で、カンジキの爪も効かなかった。

「うぅぅー・・・」

  あまりの痛さに暫く息が詰まった。声も出ない。ゆっくりと気が遠のいていくのが分かったが、なんとか堪えた。

 渓流の底にはゴツゴツと尖った岩が重なっている。足から落ちたのはよかったが、左足が岩の重なり目にはまり、身体が横になった瞬間にゴキッと変な音がした。強烈な痛みだ。どうにもならない。涙が(にじ)む。全身から血の気が引いていくのが分かる。ぷるぷると身体が勝手に震えている。痛くて身動きができない。

 痛みが遠のくまでの間は、じっと我慢しているしかなかった。そのうちに少しだけ気持ちが落ち着いてくると、両腕で身体全体を支えながら、何とか痛む足を引き上げた。

 痛い。折れたのだろうか。とても痛い。我慢できない痛さだ。それでも歯を食いしばりながら、ポケットから懐中電灯を取り出していた。そして激痛に顔をしかめながら周りを見ると、すぐ下の岩の陰に静香が見えた。

 いた。ここにいた。やっと見つけた。白く凍った岩に(もた)れている。静香もこの穴に落ちてしまったのだ。帰って来られなかったのだ。じっとしている。動かない。大丈夫なのだろうか。

「静香ちゃん。静香ちゃん。おい、静香ちゃん。どうした。しっかりしろ。静香ちゃん」

 大声で叫んだ。凍った穴の中に声が反響してわんわんと響く。叫ぶたびに足がズキンと痛んだ。大丈夫だろうか。でもそこにいるという事は、自力で移動した筈だ。天井を見ても、今自分が落ちてきた穴以外には他の穴は見あたらない。自分も静香も同じ穴から落ちたのだ。大丈夫だ。でも動かない。

「静香ちゃん。おい、寝てるのか。起きろ。静香ちゃん」

 何度も大声で呼んだが静香は動かない。両手で顔を覆い、膝を抱くような姿で丸くなっている。

 浩一は後ろ向きになり、左足を(かば)うようにしながらずり下がっていく。足が痛い。とんでもなく痛む。中は岩でゴツゴツしているが、凍っているので下がるのは意外に簡単だった。

 静香の顔を覗き込みながら、そっと抱き寄せた。まさか死んでしまったなんてことはないだろうと、心配しながら顔を寄せると寝息が聞こえた。小さくて可愛い寝息だった。安心した。顔が強張っている。きっと寒いのだろう。寒さの中での深い眠りは危険だ。

 浩一は防寒着を脱いですっぽりと静香をくるんだ。ジッパーを閉め、防寒着ごと膝に抱く。暖かい。良かった。静香はとても暖かくなった。だが足が痛い。とても痛い。ズボンの上からそっと触ってみる。ちょっと触っただけでもズキンと痛む。(すね)の脇がくの字に曲がっている。まずい。折れたのかもしれない。そう思うと益々痛みが増してくる。浩一はぐっと歯を食いしばった。

 それにしてもこの後が問題だ。天井までは(およ)そ一メートル五十くらいだろう。しかしその上に圧雪が二メートルほどもある。この分厚い雪の層をこの足で昇れるだろうか。痛みは酷くなる一方だ。痛すぎて自分の足じゃないみたいだ。こんなに寒いのに、額には脂汗が浮かんでいた。

 健一に言付けをしておいたから、きっと助けは来るだろう。しかし、こんな状態で発見してもらえるだろうか。こんなに分厚い雪の下からでは、どんなに大声で叫んだとしも、たぶん声は上までは届かないだろう。せめてこの穴の上までは脱出したい。

 浩一は静香を抱きしめながら、自分が落ちてきた穴を見上げていた。深い藍色の空が綺麗だった。


 チック、こっちだ。真田はチックの迷いを見てとると、天狗山の方角に進路を決めた。西山の方面はきっと皆が探していることだろう。まだ探していないと思われる方面に行くべきだと判断した。

「いいか、これだ。この臭いだぞ。あの子の臭いだ。これはかおりの臭いなんだぞ。お前の飼い主の臭いだ。忘れるんじゃないぞ」

 懐に手を突っ込んで人形を取り出すと、もう一度犬に臭いを嗅がせている。チックは再び真田を先導して歩き始めた。そして暫く進むと殿様街道から右へ逸れ、天狗山を昇り始めた。そこに足跡がついていた。

「なに? ここか。龍神池か? あの子は龍神池にいるのか? ひとりで?」

 よし、分かった。今行くぞぉ。そう叫ぶとチックの縄を解き離し、背負子を放り出し、一目散に山を駆け上がっていった。気ばかりが焦っていた。


 取り敢えず静香を壁際に寝かし、右足だけで立ち上がった。下はよく滑る。カンジキの中央にある小さな滑り止めだけが頼りだ。浩一も身長は百八十センチある。立ち上がると肩の辺りまで天井の雪の穴に入った。そして懐中電灯を使い、周りの雪をガリガリと削り始めた。穴を少し広げれば抜け出せるかもしれない。すぐ足元には背の高い(とが)った岩があるし、その上にうまく上がれば何とか地上まで届きそうだ。

 数ヶ月もかけて降り積もった雪は固かった。氷のように固まっている。それをガリガリと削っているうちに懐中電灯が壊れたが、そんなことはかまわない。穴を広げる用が足りればいいのだ。懸命に削った。そして漸く程良い大きさまで広げる事ができた。

 静香をしっかりと抱きしめ、足もとの岩の先端に右足を掛ける。カンジキの爪を氷の岩に食い込ませて目一杯伸び上がると、伸ばした片手が地上まで出た。背中を穴の壁に強く押し付ける。負傷した左足をゆっくり上げる。痛い。すごく痛い。向かいの壁をその膝で押さえた。ズキンと、痛めた脛まで痛みがひびく。

 歯を食いしばり、今度は慎重に右足を上げる。背中と左膝で身体を宙に浮かせ、そして右足のカンジキを向かいの壁にかけた。そしてそのまま、ズリッとずり上がった。そしてもう一度繰り返す。ここでしくじったら万事休すだ。痛みを堪えて慎重に繰り返す。首が出た。背中が出た。周りの雪がぐずぐずと崩れたが、崩れるだけ崩れたら、あとは固く氷っていた。抱きしめた静香を地上に出した。両腕さえ地上に出れば、あとは大丈夫だ。

 いずれこの足では歩けない。無理はしないで救援を待つことにした。殿様街道の方角に身体を向けて、龍神様の祠に凭れかかった。

 防寒着にすっぽりとくるんだ静香を抱きしめていると、とても暖かい。でも背中は凄く寒い。静香はまだ寝息を立てている。何を夢見ているのだろう。

 そんなにもこの池に来たかったのか。ごめんよ。分かってやれなかった。祠の屋根の雪は綺麗に払われていた。そしてその周りに付いていた静香の小さな足跡。こんな小さな子供がどうしても逢いたい人。それは天国のお父さんしかいないだろう。可哀想に。しっかりと抱きしめてやった。

 すると急に辺りが明るくなった。十穀山の左肩から月が上がったのだ。じっと見つめていると、黄金色の月がじわりじわりと上がってくる。下弦を山の端の形にして、ぐんぐん上がってくる。周りがどんどん明るくなってきた。

 大きな月だ。満月だ。薄暗かった雪原が急に華やぎ始めた。空に大きな明かりがついたようだ。きらきら光る雪の粒。そしてとても数え切れないブナ林の細かい枝が、雪原に網目模様のシルエットを現し始めた。

 暖かい。お父さん? お父さんね? 逢いに来てくれたんだね。龍神様、ありがとう。お父さん。あたしもうわがまま言わないよ。お母さんやお兄ちゃんや、お隣のおじいちゃんにも、おばあちゃんにも、そして浩一兄ちゃんにも、遼子姉ちゃんにも、もうわがまま言わない。約束するよ。今日はお兄ちゃんを怒らせちゃったんだ。いつも優しくしてくれるのに。あたし、お兄ちゃんのこと大好きだよ。だから怒られると、とても悲しい。だから、だから、もうわがまま言わないよ、お父さん。お父さんは暖かい。ねぇ、お父さん。あたしをお父さんのいるところへ連れていってくれない? あたし、お父さんのこと大好きだよ。だから、いつも一緒にいたいよ。あ、だめだ。お母さんが寂しがるかもしれない。そうだ、お兄ちゃんと会えなくなるのも悲しい。やっぱだめだ。でもお父さんとも一緒にいたいよ。お父さん、なんで死んじゃったの? あたし、お父さん大好き。お父さんは暖かい。

 浩一は静香をしっかりと抱きしめていた。背中がぶるぶると震えている。寒い。しかし静香はとても暖かかった。足が酷く痛んだ。


 新雪はふんわりとしていて足を取られる。歩くごとにずっぽりと、股の所まで潜る。とても歩きにくい。しかし急がなければならない。真田は凄まじい形相で雪山を飛び跳ねていた。チックが後に続く。いくら四本足でも条件は同じだ。

 かおりが死んでしまう。こんな冬の山で死なせてはならない。さぞかし寒いだろう。可哀想に。死なせてはならない。死なせるものか。絶対にだ。

 かおりは俺のせいで死んでしまった。俺が死なせてしまった。今度は死なせない。しっかりと手を握っているんだ。離すものか。今度こそは助けてみせる。必ず助けてみせる。真田は深い雪にもがきながら一心に思っていた。そして、もがけばもがくほどに、凶悪な形相に変わっていた。

 ズッポズッポと足を踏み入れ、ザックザックと思い切り引き抜く。そのたびに身体が大きく傾き、右へ左へ激しく揺れた。ズッポズッポ、ゆらりゆらり。身体に纏ったぼろぼろの服が、バッサバッサとはためいた。あちこち千切れかかったような毛布の切れ端が、バッサバッサと月夜にはためく。

 伸び放題の髪の毛は総毛立ち、真っ黒に日焼けした顔に大きく見開いた目だけがギロリと光っている。ズッポズッポ、ゆらりゆらり。ズッポズッポ、ゆらりゆらり。

 月明かりに池が見えた。祠が見えた。祠の前に誰かいる。

 かおりだ。かおりが龍神池で待っている。死なせるものか。死なせてなるものか。今度こそ、今度こそは助けてみせる。必ず、必ず助けてみせる。もう絶対に手を離したりはしない。しっかりと握っているんだ。離して堪るものか。

 かおりぃー・・・ 今いくぞぉー

 ウォォー・・・

 ウォォォー・・・

 ワォォォォォォー・・・

 吼えた。

 ズッポズッポ、ゆらりゆらり。ズッポズッポ、ゆらりゆらり。バッサバッサと襤褸が飛び跳ねている。


 浩一は焼けるような足の痛みを堪え、しっかりと静香を抱いていた。助けがやってくる筈の道筋だけを見つめていると、その向こうに光る黄金色の月が眩しいほどだ。

 その時。大きな満月を過って何かが見えた。シルエットになって動いている。助けか。救援がきたか。ゆっくりこちらへ近づいてくる。そして、

 ウォォォー・・・

 ワォォォォォォー・・・

 大魔人が吼えた。


 その声は村を取り囲む四方の山々にこだまして、遠く近く、何十にも重なって響いた。

 ウォォォー・・・

 ワォォォォォォー・・

 ウォォー・・・

 

 静香が行方知れずになったと聞いて、西村の者達も辺り一帯の捜索を開始していた。とくに母親の勤めている滝屋旅館の周りと、向かい側の古滝温泉の界隈を重点的に探した。西村で一番危険な場所といえば、二つの旅館の間を落ちている滝だ。ここは冬でも凍らない。いつも水飛沫を上げて、どうどうと轟音を響かせている。滝壷の中に長い竹竿を差し込んだり、水際に分厚く積もった雪の下を覗き込んだりしている。

 母親の響子も暫くは旅館の中や外周りを探していたのだが、その後急いで家に戻ってきた。そして健一から浩一が天狗山に向かったことを聞くと、そのまま東村へと駆け下りて行った。一刻も早く源作に知らせたい。天狗山を探してもらうのだ。

 源作はその頃、消防団を始めとして三十人余りの人数を従え西村へと向かっていた。そしてやすこくやの角で、駆けつけた響子と行き会った。すぐさま捜索隊を半分に分け、自分は天狗山に向かうことにした。そして、息せき切って山の麓に辿りついた時、

 ウォォォー・・・

 ワォォォォォォー・・・

 オォォー・・・

 大魔人が吼えた。

 その声は村中に響き渡り、わんわんと反響を繰り返している。何度も長く尾を引いて、山々を駆け巡っていた。

「なんだぁ? 雪の大魔人が吼えでる。今晩は風も出でねのに、何で吼えでんだ? こんないい月夜の晩に、おがしなごどもあるもんだなゃ。こんなごどは今まで始めでだぞ」

 捜索隊の連中も不思議だったのだろう。一瞬だけ足を止めて、黄金色の月を見上げている。

「いぐぞ。急げ」

 源作の号令で再び昇り始めた。大魔人の吼える声は、延々として山々に響いている。


 何か聞こえる。ワンワンと頭に響く。チック? 静香は朦朧(もうろう)とした眠りから、頑張って薄目を開けた。暖かい。お父さんは暖かい。静香を抱っこしてくれている。嬉しい。つま先から頭まで、ふかふかの防寒着に包み込まれている。

 外が明るい。静香は首をちょっとだけ捻って隙間から見てみた。まあるいお月様が出ていた。大きな月だ。その月に何か映っていた。動いている。ばっさばっさと動いている。何だろう。

 ウォォォー・・・

 ワォォォォォォー・・

 かおりぃー いまいくぞぉー

 ウォォー・・・

 バッサバッサ、ゆらりゆらり。バッサバッサ、ゆらりゆらり。

 大魔人さんだ。雪の大魔人さんが助けにきてくれたんだ。おっきな声で吼えている。もう大丈夫だね、お父さん。

 浩一は目を見張った。黄金色の満月を背負って、真田がやって来る。少し盛りあがっている丘の上を、元々大きな身体を更に大きく揺すりながら進んでくる。すぐそこまで迫った真田の姿は、月の逆光とその長いシルエットで、とてつもなく巨大に見えた。

 身に(まと)った襤褸布(ぼろきれ)が、バッサバッサと空中に(ひるがえ)り、それは黄金の光の中で法衣(ほうえ)のはためきのように見えた。右へ左へ両手を振り上げ、その太く長く大きな影は、実体とあいまって、確かに巨大な大魔人の姿を現していた。

 なんて不思議な光景だろう。山の端から上がったばかりの月の光は、キラリと雪原を照らしている。そこに映る網の目のようなブナ林の影を踏んで、大魔人は踊るようにやって来た。雪を蹴散らすたびに、高く舞い上がった雪粒が空中で光っている。雪山に溢れる光の中を、吼えながらやって来たのは、正しく雪の大魔人だった。

 死なすものか。死なせてなるものかぁー 今度こそ、今度こそは助けてみせる。もう絶対に手は離さない。絶対に離さないぞぉー

 ウォォォォォォー・・・

 ワォォー・・・

 かおりぃー いまいくぞぉー

 ウォォォー・・・

 そのすぐ後ろを、雪に潜るようにしてチックが必死で追いかけていた。

 あの姿は見たことがある。そうだ、お兄ちゃんのお節句の旗にかいてある絵とおんなじだ。しょうき様って言うんだ。ダルマさんのようなおっきな目が、とっても怖そうに睨んでるんだ。あの絵とそっくりだ。ごわごわの針金みたいなおひげが顔中にはえていて、ものすごく怖い顔のしょうき様だ。たしか、とげとげの鉄のバットみたいなのを持ってたっけ。あれで悪い鬼を退治するんだって言ってた。でもいい人には優しいんだって、お兄ちゃんが教えてくれたんだ。そうだ、おじいちゃんも言ってた。正義の味方は鬼より怖いって。あぁ、暖かいよ、お父さん。助かるんだね。

 静香はまた、小さな寝息を立てていた。大魔人の吼える声が山々にこだましている。

 

 静香の怪我は大したことがなく、太腿(ふともも)(ひじ)に軽い打撲があっただけで済んだ。身体が軽かった事と、落ち具合が良かったのだろうと医者が言っていた。浩一の脛も幸い骨折には至らず、ひびが入っただけで済んだ。くの字に曲がっていたように感じたのは、内出血の血溜まりの膨れだったらしい。それでも村の診療所では、しっかりと厚いサポーターを巻かれ、松葉杖を渡された。あんたは一番へたくそな落ち方をしたんだと、おばさんの看護婦に憎らしい事を言われた。

 あの後もまた大変だったのだ。ようやく祠まで辿りついた大魔人は、浩一から無理やり静香を奪い取ると、ぎゅっときつく抱きしめておいおいと泣きだした。目を()き口を歪め、鬼のような形相で、かおりかおりと我が子の名前を呼び続け、それは狂ったような泣き声だった。そして源作達が来てからも静香を渡そうとはしないで、いつまでもいつまでも泣いていた。しょうがないので、源作は大魔人ごと静香を家に連れて帰ったのだ。

 浩一は何人もの消防の人達に、まるで神輿(みこし)の様に肩に担がれて山を下りた。これはなかなか楽チンだったが、ちょっと揺れるたびに足がガツンと痛んだ。

 次の日は一日中雪が降り続いた。ぼさぼさ、ぼさぼさ、よくもまぁ飽きもしないで降るものだとぼやきながら、一日中を炬燵で過ごしていた。そして二日目の朝。快晴になった。この手の平を返したような変わり様はどうだろう。

「おぉ、青空だ。この村にも青空なんつうものがあったんだなぁ。もうちょっとで忘れるとこだったぞ」

 松葉杖をついて前の道路まで出た。青空になったらなったで、雪掘りが出来なくなった事が悔やまれる。実に残念だ。

 浩一が空を見上げてブツブツ言っていたところに男が尋ねてきた。三つ揃えのスーツを着ているから、旅館の温泉客が町田家の岩風呂を借りに来たのかと思ったが、真田光太郎だった。

 床屋に行ってきたのだろう。あれほどぼさぼさだった髪は短く刈られ、きちんと七三に分けられていた。髭の剃り跡も青々としていて、名乗られるまで誰だか分からなかった。

 そう言われれば、なるほどギョロリとした目には見覚えがある。家に上がると源作とヨシ子を前に、正座をして座っていた。先日は失礼をしたと詫びている。

「何言ってんだが。そげなごどはねぇよ、真田さん。こっちごそずいぶん世話になっちまって、ありがとうございました。お蔭様で、みんな大した事もなく済みました。あんたにはずいぶんお世話になったない。ほんとうにありがとう。とごろで、その出で立ちはどうしたのがね? どっかさお出がげがい? 見違えでしまったよ。髭も綺麗に剃ってまぁ、何だが別人みでだ。声を聞けばあんただって分るが、顔見だだげでは誰だが分んねよ」

 源作とヨシ子はそう言ってげらげら笑っている。真田は別れの挨拶にきたらしい。

「私がこの村に来て十ヶ月になります。これまでの間、私には生きる気力もなくて、すっかり惚けていました。亡くした娘のことばかり気に病んで、辛くて苦しくて、何もする気になれませんでした。でも先日のことで、やっと気持ちが吹っ切れたような気がします。大怪我をした浩一君や静香ちゃんには大変お気の毒でしたが、私にとっては立ち直るきっかけになりました。いつまでもこんな暮らしを続けていたら、娘に申し訳ないような気になりまして・・・ もう大丈夫です。もう一度やり直そうと思っています。これから八王子に戻って、妻とも話し合って、きちんと決まりをつけます。一からやり直しです。頑張ります。こんな気持ちになれたのも、みんなあなた方のお陰です。とくに静香ちゃんと浩一君、あなた達には感謝しています。どうもありがとう」

 そう言いながら真田は、手をつき深々と頭を下げていた。奥さんとは離婚した訳ではないらしい。顔を合わせているのが辛くて、真田が勝手に出てきたとのことだった。四角くてごっつい顔に、涙が浮かんでいた。よく見ると優しい目をしている。是非頑張って欲しいものだ。

「あのぉ、静香ちゃんを呼んできましょうか? お別れなら、一目会いたいでしょう。すぐ隣ですから、僕呼んできます」

「いや、いいんです。先日充分に名残を惜しませてもらいました。それにあの子は静香ちゃんです。かおりではないのです。死んだ子の歳を数えるような事は無益だと知りました。どうもありがとう。もういいんです。後で宜しく伝えて下さい」

 しっかりと踏ん切りをつけたようだ。涙の滲んだ目にも覇気があった。

 九時頃。健一と静香がランドセルを背負ってやって来た。そして間もなく遼子もやって来た。子供達の毎日はあの後も変わらなかった。変わった事と言えば、龍神池には行かなくなったことだけだ。行かないというより、浩一が満足には歩けないので行けなくなった。静香も決して行きたいとは言わない。浩一の痛めた足には触らないように、そっと抱っこされて炬燵に潜っている。

「静香ちゃん、ごめんな。僕が歩けないから龍神池に行けなくなっちゃって。治ったらまた皆で遊びに行こうね」

「ううん、いいの。だって浩一兄ちゃんは、あたしのために怪我しちゃったんだもの。あたしこそごめんなさい。それにねぇ・・・」

 それにねぇ、と言って振り向くと、静香は浩一の耳に口を寄せ、ひそひそと話している。

「龍神様はね、あたしのお願いをきいてくれたんだよ。お父さんに逢わせてくれたんだよ。とっても逢いたかったから、すごく嬉しかったの。お父さんはね、あたしのことをずっとずっと、抱っこしててくれたんだよ。穴の中はすごく寒かったんだけど、お父さんはとっても暖かかったよ。それとね、雪の大魔人さんにも逢うことができたんだよ。すごいでしょう。大魔人さんはね、思った通りとってもこわい顔をしていたんだけどね、大きな声で吼えながら、あたしを穴から助けてくれたんだよ。でもね、変なことがひとつだけあるの。雪の大魔人さんがね、あたしのことを、かおりって呼んでいたような気がするんだけど、それだけが分からないの。あたしの聞き間違いだったのかなぁ。とっても眠かったから」

 静香の記憶は色々な出来事がまぜこぜになっているようだ。でもそれはそのままでいいと思った。何でもかんでも、知ればいいというものではないだろう。知らない方が良いこともある。どうせいずれは気付く時がくるのだから。

 それまでは、雪の大魔人は天狗山に棲んでいるのだ。静香が困った時にはきっと助けにやってくる。ゆっさゆっさと大きな身体を揺らしながら、あの金色のブナ林を抜けてやってくる。きっと助けにやってくる。

 内緒話はずるいよと、騒ぐ遼子と健一に背を向けて、静香はしっかりと浩一に抱かれていた。

 暖かい。お父さんみたいだ。

 もしかしたら静香は、もう気付き始めているのかもしれない。


                                      了


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