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紡がれた生命

「松山沖で漁船転覆、二名の漁師が死亡。一人が行方不明」

朝から地元のニュースが騒がしく

空からは捜索ヘリコプターや報道ヘリコプターが飛び回る。


その死亡した一人が、私の夫だ。


昨日、漁協から電話があり夫が乗っていた船は別の漁船と接触したあと転覆したのだという。


受話器から聞こえてくる言葉を私はどこか他人事のように聞いていた。


「はい……はい……わかりました」


何を言われても、それ以外の言葉が出てこなかった。

電話を切ったあと、私は三津の渡しに乗った。


いつものように。


夫が漁から帰ってくるまで毎日欠かさず続けていた日課だ。


渡し船を降りると、湊三嶋大明神社へ向かい、手を合わせる。


こんな電話を受けたあとだというのに、私はいつもと同じように神社へ来ていた。


「夫を必ず……必ず私の元に返してください……」


何度も、そう願った。

その願いは…。

夜になり、海上を漂っていた夫を漁師仲間が見つけてくれたが、すでに低体温症で亡くなっていた。


家には漁協の人や、夫と一緒に海へ出ていた漁師仲間が何人も訪ねてくる。


「藤田さん、気をしっかりな」


「幸子さん、困ったことがあったら連絡してくれ」


「幸子さん、このたびは……」

私は、そのたびに頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」

同じ言葉を何度も、何度も繰り返す。


新聞だけではない。

テレビのニュースでも事故が報じられ、夫の名前が読み上げられた。


それを聞いているうちに、ようやく分かってきた。

夫はもう帰ってこない。

それなのに、涙は出なかった。

悲しいという気持ちさえ、まだどこか遠い。


あまりにも突然の別れだった。


私はただ、夫がいつものように玄関を開けて帰ってくるような気がしてならなかった。


検視を終えた夫は、火葬されたあと、私の元に帰ってきた。


「お帰りなさい……」

小さな箱に入った夫は返事をしない。


「あなたが無事に帰ってくるように、私はお参りしてたんよ」


「いつも頑張ってくれてるあなたに、頑張ってくれてありがとうって伝えたかったんよ」

夫は返事をしない。

箱は、そこにあるだけだった。


この現実は、私の身体を蝕み始めているかのようだった。

昼も夜も吐き続け夫が亡くなって二週間近くが過ぎた頃には、体重が八キロも減っていた。


食べる気力すらない。

見かねた藤田の両親が私を病院へ連れて行き、そのまま検査入院となった。


夫の元に、私も行きたい……。


入院先の窓から見える松山の夜景。

暗い街に灯りが一つ、また一つと見えている。


「何故、私だけなの……」

それでも涙は出なかった。

私はただ、夫と過ごした日々を思い出すしかなかった。


翌朝、医師から告げられた言葉に、私は耳を疑った。


「妊娠しています」

思わず聞き返した。


「妊娠……?」


「嘔吐は、つわりですね。身体の衰弱と脱水症状はありますが、母子ともに大きな異常はありません」

初めての妊娠。

けれど、喜びより先に不安が押し寄せてきた。


無理だ。

一人で子育てなんて、できるはずがない。


夫が残してくれた生命。

そう思う一方で、私の不安は大きかった。


「先生、私には無理です……」

下を向いたまま答えた。


「まだ時間はあります。しばらく体調が安定するまで入院は必要です。ゆっくりでいいので、考えが決まったらまた教えてください」

医師はそう言って、病室を出ていった。


翌日、見舞いに来た藤田の両親に、子供がお腹にいることを伝えた。


義父からの願いは、子供を産んでほしいというものだった。

跡取りを絶やしたくない。

子供は藤田の家で育てる。

私はまだ若いから、再婚して新しい家庭を築いたらいい。


きっと私の将来を考えての言葉なのだろう。


「考える時間をください……」

一気に押し寄せた出来事と目の前に突きつけられた判断に、衰弱した私は限界を迎えていた。


入院してから脱水症状はすぐに改善された。

でも、つわりは治まらず毎日が辛かった。


気を紛らわせようと備え付けのテレビをつければ、ワイドショーやニュースで夫の乗っていた船が転覆した原因を解説している。


退院したら大洲の実家に戻ろう。

三津浜は、もう私が暮らせる街ではない……。


入院中、隣のベッドの女性もつわりがひどく何度かトイレで一緒になった。


名前は友子さん、年齢は私と同じだという。


「この子は、やっと授かれたの」

そう言ってお腹を触りながら微笑む。

その姿を見ていると私の口元も自然に緩んだ。

彼女には夫や家族がいて、待ち望んでいた生命なのだろう。


「良かったね。健やかに産まれることを祈っとるけんね」


「ありがとうございます。一緒に元気な赤ちゃん産みましょうね」


屈託のない、本心からの言葉なのだと感じた。


「うん……」


精一杯の返事。

今の私にはそれが精一杯。


退院した帰り、少しずつでも何か食べなければと思い、三津浜商店街へ向かった。

唯一、食べられそうなのはたい焼きだ。


甘いものが好きな私のために、漁から帰った夫が買ってきてくれたたい焼き。

不思議なことに、お店の近くまで来ても吐き気はしなかった。

焼きたての甘い匂いがする。

紙袋に包まれたたい焼きが、無性に食べたくなった。


家まで我慢できそうになかった。

たまたま釣具屋の前に長椅子を見つけ、そこに腰を下ろした。

袋を開けると、たい焼きから湯気が立っている。

私は一口ずつ、ゆっくりと味わった。


美味しかった。


目の前に広がる海は穏やかだった。

最近起きた出来事が、すべて嘘のように感じられる。


ふと、自分のお腹を見る。

今まで感じていた不安とは違うものが身体の中を駆け抜けた。


「たい焼きを食べて、元気になれたんかな」

思わず笑っていた。

その瞬間、不思議なほど不安や恐れが消えていた。


私はお腹に向かって話しかけた。

「あなたは男の子ですか? 女の子ですか?」


「男の子なら、女の人に優しくしなさい。女の子なら、私のようになりなさい」

自分でも可笑しくなって、笑いながら話し続けた。


「あなたは私が守る、どんなことがあっても。だから…」

もう、自分の中では決まっていた。

この子と一緒に生きていく。

三津の渡しに乗り、湊三嶋大明神社へ向かった。

そして、静かに手を合わせた。


「お願いですから、無事にこの子を産ませてください」

私は続けた。


「名前は、この社の名前から湊といただきます」


もう迷わない。

そう心に決め、私は神社を後にした。


これから藤田の家に行き、旧姓の佐倉に戻すつもりだ。

将来、この子が地域で「転覆事故の子供」と呼ばれないように…。




時は過ぎ、夏のある日。

玄関の外から声が聞こえた。


「さっきの声、昇ちゃん?」


「うん」


「家、入ればええのにねぇ」

病院でつわりを一緒に耐えた友子さん。

今では、息子の親友の母親になっている。


「はい。無駄遣いせられんよ」

私は三千円を手渡した。


「えっ、多くない?」

目を丸くする息子を見ながら私は笑った。


「ずっと水泳頑張ってきたけんね」

「今年は思いっきり楽しみなさい」


「あ、ありがとう…。」

お気に入りの帽子のつばを深く被る時は恥ずかしがる時の仕草だ。


この子は絶望の淵にいた私に生きる気力を与え、夫が出来なかったたくさんの出会いをこの子は紡いでくれるだろう。

それに、私はこの子に守られている、そんな気がした。


玄関から出ていく息子を見送る。

「気をつけて行くんよ」


「わかった! 行ってきます!」


元気な声が、夏の空気の中へ消えていった。

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