死者の鏡
フォークが、皿の縁で小さく音を立てた。
何気ない昼食の時間が、
ただ流れていくはずだった。
「二人とも、聞いてよ。
廃屋街に出たんだよ。お化けが」
一瞬、ライルさんの言葉の意味が分からなかった。
日差しに照らされた通りをガラス越しに眺めながら、
私たちは彼に昼食をご馳走になっていた。
そんな、
いつもと変わらない昼下がりだったはずなのに。
テーブルから食器の音が消え、
他の客の声だけが私たちの食卓に流れる。
私は身じろぎすることも憚られ、
誰かが口火を切ることを待つことしかできない。
「そう、よかったわね」
アリスさんは感情の起伏を感じないような声で言った。
だけど、目だけは逸らさず、
じっとライルさんを捉え続けている。
「それでさ。
そのお化けを調査して欲しいって依頼があるんだよ」
「依頼」という言葉が出た瞬間、
アリスさんの眉間に、はっきりと皺が刻まれた。
椅子が軋めば、音がしてしまいそうなほど、
場の空気が張りつめる。
「ライル。
もしかして、その依頼……」
「えっ?受けたよ」
あまりにも軽い返事だった。
耳鳴りのように、周囲の音が遠のく。
「あの……ライルさん。
その依頼辞めときませんか?
お化けなんて、その、よく分からないもの」
「目撃証言があるから、
そこまでよく分からないものじゃないんだよ」
お化けの目撃証言——思わず眉をひそめてしまう。
彼は当然のことのように言葉を続ける。
「で、依頼人が目撃者なんだよ。
自分で見て、怖がって逃げてきたんだ」
「……それだけ?」
彼は悪びれた様子もなく、頷く。
アリスさんは、視線を落とした。
……ライルさん、その話。
「今からでも、断りに行きましょ」
「無理だよ。前金貰っちゃったし。
それに、使ってるし、今」
目の前の食べかけのご馳走に、目が移る。
さっきまで舌に残っていた味が、ふっと消える。
「あぁ、大丈夫。
僕だけでやるつもりだから」
投げかけられたその言葉が、私を貫く。
「……で、具体的には何を頼まれてるの?
まさか、
幽霊退治……なんて話じゃないでしょうね」
気づくとアリスさんの目の前の皿は既に傍に移動し、
頬杖をつきながらカップをかき混ぜている。
両手に握りしめたままになっていた、
フォークとナイフを、そっと置く。
その言葉を待ってましたと言わんばかりに、
椅子を鳴らしながら彼は身を乗り出す。
「鏡の調査だよ。そこに映るんだ」
「何が」
「死んだ息子が」
テーブルクロスを握りしめ、彼から目線を逸らす。
「……調査ねぇ。
で、いつ行くつもりだったの」
「この食事が終わったら」
ティースプーンを掻き回す手を止め、
アリスさんはため息をつく。
「分かった。
私たちも行くから」
「えっ……アリスさん行くんですか!?」
ナプキンで口を拭う彼女に思わず声を上げてしまう。
今度はライルさんが眉を寄せている。
「いや、僕だけで大丈夫——」
「ほら、さっさと行きましょ」
彼が言い終わる前に、アリスさんは立ち上がる。
私は目の前の濡れたコップを一息で飲み干し、
立ち上がった彼女を追いかける。
振り返ると、
ライルさんは口を開けたまま、まだ座っていた。
——
陽気はいつの間にか分厚い雲で覆われ、
廃屋街の陰気な空気をより暗くしていた。
私たちの目の前には廃屋——
というには妙に掃除の行き届いた空き家があった。
「ここだよ」
あまりにも普通すぎて、
なんというか拍子抜けだ。
隣に立つライルさんが、
依頼人から渡されたという鍵を取り出し、
玄関に近づく。
カチリ。
真新しい錠の無機質な音が静寂を切り裂く。
続いて、軋みながら開くドアの音に、
私の平常心を掻き乱された。
「空っぽですね」
気付けば口に出ていた。
人が暮らしていた痕跡は、ないように見える。
「動きやすくていいよね」
……私が思っていた返事ではない。
「二人とも、さっさと行きましょ」
アリスさんがライルさんの肩を押す。
二人から離れないように、
私はアリスさんの背後に張り付く。
窓から差し込む光に照らされた埃を受け止めながら、
鏡があるという部屋の前にたどり着く。
ここに着くまで、いくつかの部屋があった。
どこも扉が開け放たれていて、
中は綺麗に空だった。
なのに、この部屋だけが閉まっていた。
まるで、
誰にも中に踏み込ませないようにしているみたいだ。
怖い。
そういえば、詳しい話を聞いてないではないか。
ライルさんが部屋のノブを掴んだ。
とたんに彼が遠くにいるように感じる。
このままどこかに行ってしまう、
そんな感じが、胸の奥に湧き上がる。
なんの躊躇もない彼の上着の裾を、
私は急いで引っ張る。
「ちょ、ちょっと待ってください。
気をつけることってありませんか?」
「正面に立ったら、出るらしい」
……斜めは大丈夫なのかな?
「正面?
やけに詳しいわね」
アリスさんが首を捻る。
……怖がって逃げた人が、
なぜそこまで知っているのだろう。
私は思わず、ライルさんの横顔を見る。
「なんでも、
売りに出す準備で、家中を掃除してたらしい」
売りに出す?
こんな場所で?
彼はドアの向こうを指差しながら続ける。
「奥の角に置いた覚えのない姿見があったらしいんだ。
で、見ちゃった」
「で、今の話と正面との関係は?」
「……ないね」
ライルさんは「おかしいなぁ」と言いながら、
頭を掻いている。
この依頼、ほんとに大丈夫なのかな。
「はぁ、もういいわ。
ここまで来たんだから、行くしかないわね」
そう言い終わると、
アリスさんがドアを勢いよく開ける。
……うそ。
思わず目を瞑ってしまった。
少しの沈黙。
「……見た目は、普通の鏡ね」
薄く目を開くと、部屋の奥を見つめながら、
アリスさんが腕組みをしている。
「ほんとですか?」
「ええ、ほんと。
安心して、セレナ」
私に微笑みかけるアリスさんを見て、
いつの間にか、指先に入っていた力が抜けていた。
「ということは、やっぱり正面だね。
よし、試してみるか」
「ちょっと……」
私が声をあげた。
同時に、アリスさんも何か言いかける。
止める間もなく、
ライルさんは鏡の前へ踏み込んでいった。
「あれ?」
ライルさんは、鏡の前で動かなくなった。
返事がない。
「大丈夫!?」
アリスさんが部屋に飛び込む。
数瞬後に彼は首を傾げながら、鏡の前から離れる。
私も慌てて彼らの元に駆け寄る。
「犬が、犬がいたんだ」
……犬。
「ナイルがいた……はず」
……犬?
——いや、今はそこじゃない。
「……確か」
アリスさんが、少し考えるように視線を落とした。
「あなたの亡くなった飼い犬の名前だったわね」
そうなんだ。
そんな話、私は聞いたことがない。
「……そうだけど。
アリスに話したことあったっけ?」
「……」
アリスさんは答えない。
指先だけが、わずかに震えた。
代わりに、私の喉が小さく鳴った。
「セレナは知ってた?」
……。
「……前に、聞いた気がします。
ほら、あの時、ライルさんだいぶ酔ってました」
「あれー、そうだっけ?」
「そうですよ!
そ、そう言えば、子供は見えなかったんですか?」
彼は顎を掻きながら、
微動だにしないアリスさんに視線を一瞬移し、
再び鏡の方を見直す。
「うーん……いなかったよ」
「……そうですか」
なら、あの鏡は
——何を映すものだろう。
「どうしようかな」
ライルさんは髪を掻き上げながら、
天井を見上げている。
子供と犬……繋がりが分からない。
「……見間違えとか?」
「人と犬は流石にね」
「ですよね」
アリスさんに助けを求めたいが、
彼女は押し黙ったままだ。
……どうしよう。
ふと、声がした気がして、
ライルさんを見る。
いつの間にかアリスさんに顔を向けている。
「なんでもないわ」
「いや、さっきから静かだし」
ライルさんはアリスさんを覗き込みながら、
首を傾げている。
彼は声をかけ続ける。
顔色の悪い彼女の表情が、
声に押されるように沈んでいき、
私のカサブタも、同じ速度で血を滲ませた。
アリスさんの沈黙に耐えられない。
このまま黙っているのは、嫌だ。
「ライルさん。私やります」
言い切り、
私は奥歯を噛み締めながら足を踏み出した。
私に気付いた二人は、こちらに手を出してくる。
が、既に私は鏡の前にいた。
鏡と向き合うため、一気に身体を捻る。
そこには——私の父がいた。
……そう思った。
口に出してから、違和感に気づく。
「私の父……みたいな人がいます」
男は鍋を掻き混ぜながら、
私が覚えていないはずの、
穏やかな顔で笑っていた。
「父は……料理しない人でした」
言い終えた瞬間、自分の声が遠く聞こえる。
鏡の中の男は、鍋を掻き回す手を止めない。
ぐつぐつという音が、
こちらに伝わってくるような気がした。
「——」
背後でアリスさんの声がした、気がする。
近くにいるはずなのに、
声だけが別の部屋から聞こえる。
するはずのない匂いが胸を満たし、
強張る身体が安らぐ。
「セレナ、そこから離れなさい」
今度ははっきりと聞こえた。
言われたのに、足が動かない。
鏡の中の“父らしきもの”が、
ゆっくりとこちらを見たからだ。
……いや、私じゃない?
その視線は、私の背後に向いている。
鏡の内側から鏡の縁に手がかかる。
男の手ではない。女の手だ。
見覚えのある手。
——私の手だ。
内側から現れたのは私だった。
少しずつ、鏡の私との距離が縮まっている。
逃げなきゃ。
頭の中では分かっている。身体が言うことを聞かない。
あと半歩。
その瞬間、視界から鏡が抜け落ちる。
「セレナ!大丈夫?」
気づくと、床に肩を押さえつけられている。
ライルさんとアリスさんが青い顔で覗き込んでいる。
「急に鏡に向かっていくから」
向かった……私が?
だって……私は、まだ一歩も動いてないはず。
「いや、私は」
「まっすぐ歩いてたよ」
それ以上は声が続かなかった。
……身体に力が入らない。
「セレナ。何を見たの?」
「お父さんと……」
誰かいた、なのに言葉が詰まる。
「お父さん……そっか」
アリスさんに優しく抱き寄せられる。
「……無理させて、ごめん」
ライルさんはうなだれながら、私の手を握っていた。
二人の温もりに心が溶かされる。
「……大丈夫です。これで分かりましたか?」
「もう充分でしょ」
何を言おうとするライルさんを、
アリスさんの一言が遮る。
「……じゃあ、依頼人に報告しに行こうか」
名残惜しそうに部屋の奥を見ながら宣言する
ライルさんを、私は目で追う。
……もう一度、
鏡を確かめる勇気は、私にはなかった。
——
「ライルさん、酒場で何たべますか?」
「そうだなー、先週はパンケーキだったから、
今日はパフェかな」
「……デザートは聞いてないです」
呑気に話をしているライルとセレナの背中を
視界に収めながら、少し後ろをついて行く。
歩きながら、
遠ざかる廃屋に視線を移し、すぐに前を向く。
ライルは飼い犬。
セレナはお父さん。
二人は知らない。
——ナイル。
飼い犬が死んだとき、
この世の終わりのような顔をしたライルを、
三日三晩慰めたことがあること。
二人とも既にこの世にいない
——手が届かないものが映っていた。
実際のものとは、少し違っていた。
それでも、
手が届かないという点だけは同じだった。
二人の反応を見るに、
そう考えるのが自然なのだろう。
理屈はどうだっていい。
恐ろしいのは、
鏡の前に立つ人間の想いを映し出していることだ。
夕焼けでライルの後ろ姿が眩しく輝き、
目を開けていられなくなる。
私は、あの鏡の前に立つことを選ばなかった。
——そこに、
“彼”の姿が現れるかも知れないのだから。
読んでいただき、ありがとうございました。
自分のキャラクターを使った短編です。
これは、普通の冒険譚だと思っていたけど──たぶん僕だけがそう思っている
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