甘い香り➁
祖父と過ごした市場は消えてしまった。けれど、不思議なことに香りだけは今も記憶の中に残っている。
これは、甘い果物の香りに導かれて、亡き祖父との時間をもう一度たどる物語である。
僕が市場で一番好きだった場所は、バナナの冷蔵庫だった。
もちろん祖父が火傷を負ったという地下室ではない。
その頃にはすでに電気式の冷蔵庫に替わっていて、地上の大きな倉庫の中にあった。
人が何人も入れるほど広い冷蔵庫だった。
重たい扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出してくる。
そして次の瞬間、甘い香りが全身を包み込むのだ。
バナナだった。
どこを向いてもバナナ。
箱、箱、箱。
天井近くまで積み上げられた段ボールの山。
その中で熟れていく果実たち。
甘い香りは空気そのものになっていた。
僕はその匂いが大好きだった。
祖父はそんな僕を見て笑い、
「また入るんか」
と言った。
そして帰る時には決まって箱を一つ開けてくれた。
「好きな房を持っていけ」
僕は宝探しでもするみたいに、一番黄色くて立派なバナナを選ぶ。
祖父はその様子を楽しそうに見ていた。
林檎の季節も良かった。
甘酸っぱい香りが市場いっぱいに広がる。
時にはマンゴー。
時には赤いバナナ。
見たこともない外国の果物。
祖父は珍しいものが入ると、必ず僕と弟の分を二つずつ持たせてくれた。
その中でも忘れられないのは、アボカドだった。
祖父は得意そうにナイフで切れ目を入れた。
そして手の中でひねる。
ぱかり。
きれいに二つに割れた。
現れた果肉は、まるで高級なメロンのような色をしていた。
僕も弟も目を輝かせた。
絶対に甘い。
そう思った。
ところが。
一口食べた瞬間、僕と弟は顔を見合わせた。
甘くない。
全然甘くない。
何だこれは。
まずくはない。
でも美味しいとも言い切れない。
不思議な味だった。
僕たちが微妙な顔をして祖父を見ると、祖父は吹き出しそうになりながら煙草をくわえていた。
あの顔は今でも覚えている。
最初から分かっていた顔だった。
完全に騙された。
祖父は肩を震わせながら笑っていた。
悔しいけれど、その顔も好きだった。
市場には、そんな思い出がたくさん詰まっていた。
けれど時代は変わった。
祖父の市場は周囲の小さな市場を吸収しながら大きくなっていった。
しかし今度は、その市場自身がもっと大きな市場に買収された。
さらにその市場も、また別の巨大な市場に飲み込まれた。
気がつけば、祖父の市場はなくなっていた。
卸売業そのものが、静かに衰退していったのである。
祖父も亡くなった。
それから二十年。
僕は時々、無意識に果物売り場へ足を向けることがある。
スーパーのバナナ売り場。
百貨店の果物コーナー。
市場の跡地とは何の関係もない場所だ。
それなのに、ふとした瞬間に昔と同じ香りが鼻をかすめることがある。
その瞬間だ。
祖父が現れる。
記憶の中から。
煙草をくわえた横顔。
幅の広いストライプのスーツ。
ごつごつした大きな手。
火傷の跡が残る右腕。
そして、少し悪戯っぽい笑顔。
不思議なものだと思う。
顔は少しずつ忘れていく。
声も曖昧になる。
けれど匂いだけは残る。
何十年経っても。
まるで時間を飛び越える鍵みたいに。
だから僕にとって、「甘い香り」はバナナの匂いではない。
林檎の匂いでもない。
市場そのものの匂いでもない。
祖父の匂いだ。
祖父と過ごした時間の匂いだ。
信号が青に変わった。
前の車がゆっくり動き出す。
僕はアクセルを踏みながら、もう一度だけ建物を見た。
かつて果物の香りに満ちていたその場所には、今、無機質な金属の足場が高く積み上げられている。
当然だ。
そこに甘い香りなど、もう残っているはずがない。
それでも僕には、確かに感じられた。
遠い昔の市場の空気が。
祖父の笑い声が。
熟れたバナナの甘い香りが。
窓越しに建物へそっと手を伸ばす。
触れられるはずもないのに。
それはもう存在しない時間に触れようとするような仕草だった。
そして僕は、小さく笑った。
おじいちゃん。
あの甘い香りは、まだ消えていないよ。
僕の記憶の中で、今もずっと漂い続けている。
祖父はもういない。市場も、あの甘い香りに満ちた風景も、遠い過去になってしまった。
それでも記憶の中では、祖父は今日も笑いながら、僕に熟れたバナナを差し出している。




