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9.婚約破棄、ただし主導権はこちら

「ヴィオレッタ・ローゼンティア。王家への証拠隠滅、祭礼関連物資の不正持ち出し、ならびに審問妨害の疑いにより、あなたを拘束する」


 夜気より冷たい声でした。


 夜市の裏路地。青いガラス灯が石畳を湿った色に染め、追ってきた男たちの荒い息と、正面を塞ぐ王宮警備隊の短杖の光が、狭い空間をきりきりと締めつけている。

 わたくしの胸元にはスマホ。シオンの懐には模写の鏡の中核結晶。後ろからはカルヴァン側の追手。前からは王宮の名を背負った拘束命令。


 最悪ですわね、と認めたうえで、わたくしは一つ息を吸った。


「令状は」

 先頭の隊長格へ向かって、できるだけ平らな声を出す。

「いま、拘束とおっしゃいましたわね。ならば記録の提示をお願いいたします」


 相手の眉が少しだけ動く。

「この場で交渉する立場ではない」

「ございますわよ。わたくし、公爵家の令嬢ですもの」

「王家の命令だ」

「なおさらですわ。王家が雑だと、困りますでしょう?」


 横で、ペトラが小さく息を呑んだ。

 シオンは黙ったまま、ほんのわずかだけ首を振る。やりすぎるな、という合図だ。わかっておりますわよ。たぶん。


 隊長格は懐から光る薄板を取り出した。命令文の簡易記録だ。星導印つき。完全な偽装ではない。厄介ですわね。


「……祭礼会場への連行、か」

 シオンが横から短く読む。

「地下牢ではなく、大広間」

「公開の場で判断すると?」

 わたくしが問うと、隊長格はうなずいた。

「殿下のご意思だ」


 なるほど。

 逃がさず、しかも舞台は最初から向こうの本命である大広間。つまり、この拘束自体が開幕の鐘代わりですのね。


(なら、受けて立ちますわ)


 わたくしはちらりとシオンを見た。

 彼はもう理解している。ここで暴れて逃げれば、今夜の大舞踏会そのものを失う。けれど、連行されるなら、それをそのまま表舞台への入場に変えられる。


「従いますわ」

 わたくしは顎を上げた。

「ただし、連行される物と人の記録を残してちょうだい。わたくしの所持品、同行者、そして押収物の一覧も」

「面倒な……」

「面倒なのはわたくしも同じですわよ」

 言い切ると、隊長格は露骨に嫌そうな顔をした。けれど夜市の裏路地には、祭り帰りの通行人まで足を止め始めている。ここで王宮側が雑に扱えば、それ自体が目撃される。完全に無視はできない。


「簡易記録だけだ」

「けっこうですわ」


 隊長格が部下へ合図し、簡単な書板が回る。名前、同行者、押収なし、封鎖環使用。最低限。雑だけれど、ないよりはまし。

 そのわずかなやりとりのあいだに、わたくしは袖の陰でスマホを開いた。

 指先は冷たいのに、画面だけがひどく落ち着いて見える。


 これより本番ですわ。婚約破棄の舞台へ連行されます。見届けて。必要なのは、順番と違和感と、最後まで諦めないことですの。


 送信。


 すぐに返事を待つ余裕はない。だからそのまま画面を伏せ、隊の視線が命令文へ向いた一瞬で、ペトラの手へ小さな封を滑らせた。証人の呼び順を書いた札と、控えの一組。

 シオンには何も渡さない。もう持っているからだ。中核結晶という、今夜いちばん重い切り札を。


「ペトラ」

 ごく小さく呼ぶ。

「お嬢?」

「三歩遅れて、四歩先に」

「了解です」

 この子は本当に察しがいい。好きですわね。


「何か話したか」

 隊長格が睨む。

「拘束される前にメイドへ愚痴の一つくらい許してちょうだい」

「……無駄口は慎め」

「努力いたしますわ」


 わたくしは両手を軽く前へ出した。拘束具は金属ではなく、淡い青の封鎖環だった。手首へ触れるとひやりとして、無理に暴れれば痛むように魔力が張る。見た目は上品、でも性格は最悪。王宮の発想らしい道具ですこと。


「参りましょう」

 わたくしが言うと、隊長格はわずかに目を細めた。

「随分と落ち着いているな」

「震えておりますわよ、内心は」

「見えない」

「見せませんもの」

 そう返したら、少しだけ気分がよくなった。強がりでも、強がりは時々役に立つ。


 連行の列は、夜市の裏路地から青金の灯りに満ちた回廊へそのまま続いた。

 学園の大広間へ近づくにつれ、祭りの香りが濃くなる。焼き菓子、香油、花、磨かれた床の乾いた匂い。遠くの楽音は、わたくしたちが近づくにつれて一つずつ止み、人々のざわめきだけが膨らんでいく。


 途中の角で、一瞬だけ列が広がった。

 その隙にペトラの気配が一度消える。三歩遅れて、四歩先に。ちゃんとできましたわね、と内心で呟く。

 隊長格は気づいていない。いま彼らの意識は、わたくしという“見世物”を大広間へ無事運ぶことに集中している。ありがたいですわね、その雑な自信。


 扉の前で、スマホが一度だけ震えた。

 短く覗くと、三つだけ返信が来ていた。


 @法務カピバラ

 場へ上がったら、反論の権利を先にもぎ取って。


 @理系の竜

 結論を急ぐな。小さな違和感から。


 @考察班長

 本番きた!! でも落ち着け!! 見届ける!!


 よろしい。

 では、いつも通りやりますわ。怖がりながら、見栄を張りながら、でも順番だけは守って。


 入口の大扉が開いた瞬間、光があまりにも強くて一瞬目を細めた。


 大広間は、青と金だけで作られた夜空みたいでした。


 高い天井には星冠を模した巨大なシャンデリア。壁を渡る濃青の布には金糸の星座。磨き上げた白床は灯りを返し、集まった貴族たちの宝石をさらに眩しく見せている。甘い香と熱気が渦を巻き、舞踏会の音楽はちょうど一曲終わったところで止められていた。

 だからこそ、わたくしたちが入った瞬間のざわめきは、ほとんど波のように広がった。


「ヴィオレッタ様が……」

「拘束?」

「やはり」

「今夜があの」

「殿下が直々に」

「聖女様もいらっしゃるわ」


 ああ、知っておりますわよ。

 皆さまこの瞬間が大好きでしょうとも。

 悪役令嬢が、ついに公の前へ引き出される瞬間。きっと、切り抜き映えも最高ですわね。くたばれですの。


 正面の高壇には、エドガー第一王子が立っていた。

 青の礼装に金の縁、肩には星冠祭用の正装飾。舞踏会の主役として完璧すぎる姿なのに、その目はやはり冷たい。隣にはカルヴァン星導卿。神殿側の列にはルナさん。白い祭服の上へ薄金の光をのせ、こちらを見て、ほんの少しだけ頷いてくれた。

 大丈夫、と言っている目だった。

 その一つだけで、胸の奥の震えが少し収まる。


 わたくしは高壇の前、白い床の中央へ立たされた。封鎖環の青が、床の反射で余計に目立つ。

 周囲の視線が刺さる。上から下まで値踏みするもの、憐れむもの、嬉々として観察するもの。悪意だけではないのが、逆に嫌だった。面白がっている視線ほど軽くて残酷ですもの。


「ヴィオレッタ・ローゼンティア」

 エドガーの声が、大広間の天井へよく響く。

「王族として、そしてこの祭礼の責任者として、私は君のこれまでの言動を看過できない」

「そうでしょうね」

 わたくしも声を返す。ざわめきがまた広がった。拘束されてなお返答する悪役令嬢という絵は、観客に受けがいいでしょうね。知りませんけれど。


「君は聖女候補ルナ・フローレンスへの悪意ある干渉を続け、慈善を装いながら民生へ害を及ぼし、さらに証拠の改竄を試みた疑いがある」

「改竄しておりませんわ」

「反論は後で許そう」

「ずいぶんと寛大ですのね」

「公の前で、すべて明らかにする」

 その宣言に、貴族たちのざわめきが甘く熱を持つ。

 ああ、だめですわね。この空気。人が裁かれる場を娯楽として待つ熱。カルヴァンの言った“物語”というものが、いまここに手触りを持っている。


 カルヴァンが一歩前へ出た。

「まず、王国と祭礼への背信を示す記録を」

 彼の合図で、侍従が銀盆を運ぶ。上に乗るのは通信結晶の写し、帳簿写し、封印付きの伝票、そして今日新たに加えられたらしい目撃供述の束。

 向こうも本気。しかも前回よりずっと上手く“それっぽい”。


「会場の皆さま」

 カルヴァンの声は柔らかいのに、広間の隅々まで届いた。

「これよりお示しするのは、単なる行き違いではありません。誇り高い家名の陰で隠された、悪質な振る舞いです。表向きは善行を演じながら、裏では市場を揺らし、聖女候補を貶め、祭礼そのものへ傷をつける。そうした行いは、たとえ高位の家柄であっても許されません」


 柔らかくて、耳障りが良くて、最悪ですわね。

 人はこういう声に弱い。しかも見たい物語に沿っているとなればなおさら。


 写しの再生が始まる。

 わたくしそっくりの声。穀物市場の操作。ルナさんへの侮蔑。前回の予備審問で崩したはずの偽音声へ、新しい目撃証言と整えた帳簿写しが重なっていく。

 広間の熱が、少しずつこちらから離れていくのがわかった。いや、正確には、敵意と失望へ整えられていく。ああ、これですわ。こういうふうに空気は作られる。


「慈善茶会もまた、人気取りのための芝居だった可能性があります」

 カルヴァンが静かに言う。

「人前では水を配り、裏では値を吊り上げる。善人の仮面ほど、時に厄介なものはない」

 会場のあちこちで、小さな息が漏れる。

 やめなさい。その言い方はずるいですわ。人が頑張って積んだものを、一番嫌な形でひっくり返す語り口。ほんとうに卑怯ですのね。


 でも、今日は知っています。

 気圧されて黙れば、その空気のほうが真実になる。


「殿下」

 わたくしは高壇へ向かって声を上げた。

「公の前で断じるのなら、公の前で反証の機会もいただきますわ」

 エドガーがわずかに顎を引く。

「もちろんだ。だが君にそれができるなら、の話だ」

「ありがとうございます。では、皆さまのお時間を少々頂戴いたします」


 隊長格が制止しようとしたが、エドガーが手で下がらせた。

 それでいい。あなたはいつもそうですわ。公平を演じることに酔う。その隙が、今夜のわたくしたちの入口ですの。


 わたくしは広間全体を見渡した。

 怖い。もちろん怖い。喉も乾く。手首の封鎖環も冷たい。

 でも、もう逃げる気はありませんわ。


 わたくしはそこで、わざと一拍置いた。

 観客の呼吸がこちらへ寄るのを待つ。焦って畳みかけるのではなく、自分で違和感を追わせる。昨日までのわたくしなら、ここで先に「だから偽物ですの!」と叫んでいたでしょうね。そうすると、見ている側は考える前に構える。今日はそれをしない。


「殿下」

 わたくしはあえてエドガーへ向き直った。

「あなたは前に、民の声が証明している、とおっしゃいました」

「そうだ」

「なら、今ここで民の前へ全部置きましょう」

「全部?」

「ええ。印象も、記録も、違和感も」

 わたくしは銀盆を指した。

「証明とは、気分のいい断定のことではありませんもの」


「まず一つ目」

 わたくしは銀盆の写しを指す。

「この帳簿、箱表記で統一されておりますわね」

 場が一瞬きょとんとする。

 小さい違和感から。理系の竜の教えですの。


「市場では、品と地区で単位表記が異なりますわ。南市の上等粉は樽、東市の普段粉は袋。全部を箱と書くのは、外からまとめ直した人間の都合です」

「そんな細部は」

 カルヴァンが遮りかける。

「細部だから大事なんですの」

 わたくしは即座に返した。

「大きな嘘ほど、端は雑になりますもの」


 高壇の脇から、女の子が一人、おそるおそる進み出た。祭礼委員の会計補助、リゼさん。昨日のうちにルナさんが声をかけてくれていた。

「その……帳簿整理をしていたのは、わたしです」

 広間がざわつく。

「祭礼用購入の控えも見ましたけど、こういうまとめ方はしません。あと、公爵家の封影は深紅蝋で縦星です。この写しに押された影は青蝋で、角度も違います」

「一人の証言では」

 エドガーが言う。

「ええ。一人では足りませんわ」

 だから次ですの。


「二つ目。市場」

 わたくしは手首の封鎖環が鳴るのも無視して、一歩踏み出した。

「南市茶商組合の書記の方、おいでですわね」

 ざわめきが広がり、人垣の中から商人風の男が前へ出る。夜の審問室にいた人だ。

「上がってよろしいので?」

「ええ」

「では」

 彼は緊張より苛立ちのほうが強そうな顔で高壇の下へ立った。

「南市で一時上がったのは、祭礼菓子用の上等粉だけです。普段の食卓に回る粉は据え置き。市場全体を泣かせた、という言い方は誇張が過ぎる」

「しかも」

 わたくしが続ける。

「慈善茶会の実務では、飾り砂糖を減らし、混ぜ粉で数を増やしておりますわね」

「その通りです」

 商人書記は即答した。

「上等粉だけを独占する動きとは逆です」

「商人は損得で動く」

 カルヴァンが言う。

「あなたが誰かへ頼まれてここへ立っている可能性もある」

「ありえますわね」

 わたくしはあっさり頷いた。

「だから三つ目へ行きますの」


 人々の顔が、少しだけ変わる。

 あれ、と。ほんの小さく。けれど確実に。


「三つ目。実際に現場を見た人」

 わたくしは視線をゆっくり動かす。

「台所を預かった方、おいでですわね」

 今度は、年配の女将が前へ出た。慈善茶会の焼き菓子担当。昨日と同じ割烹着のような衣装ではないが、姿勢のしゃんとした人だ。

「はいよ」

「あなたは、慈善茶会で何を見ましたの?」

「このお嬢さんが」

 女将はわたくしを顎で示した。

「飾り用の砂糖を減らしてでも、子どもの皿を増やせって言ったのを見たよ。見栄えより、数。あたしはそこを気に入った」

 広間のあちこちで、ざわめきがまた揺れる。

「市場を絞って値を上げたい人間の言うことじゃないさね」


 カルヴァンの目がわずかに細くなる。よろしい。効いておりますわね。

 でも、まだ足りない。皆さまが自分で辿り着くところまで持っていかなければ。


「四つ目」

 最後に、ルナさんへ視線を送る。

 彼女は息を吸い、まっすぐ前へ出た。白い祭服の裾が、青金の灯りに揺れる。


「ヴィオレッタ様は、わたしにひどいことを言ったことがない、とは言えません」

 会場がどよめく。

 そこで逃げないのが、ルナさんですわね。

「でも、少なくとも、結晶の中のあの言い方は聞いたことがありません。慈善茶会でも、わたしを飾りだなんて言いませんでした」

「印象論だ」

 エドガーが低く言う。

「ええ」

 ルナさんは頷く。

「だから、記録も帳面も、みんなで見てほしいんです。わたしの気持ちだけで決めないでください」

 強い。

 この子、ほんとうに強いですわね。


 ここでカルヴァンが静かに口を開いた。

「美しい話です。ですが、印象と美談で偽音声の継ぎ目が消えるわけでも、帳簿の写しの出所が変わるわけでもありません」

「その通りですわ」

 わたくしは笑った。

「ですから、本物をお見せいたします」


「ペトラ、星鏡を」


 その合図と同時に、大広間の左右へ飾られていた星飾りが、ばさり、と開いた。


 金の羽根みたいに見えていた装飾布が下へ落ち、その奥から銀の鏡板が左右へせり出す。さらに天井近くの青金布がゆるみ、細い鎖に吊られた中央鏡が、ゆっくりと降りてきた。

 昼間、工房で組んだ星鏡ですわ。

 祭りの装飾に紛れ込ませておいたものが、今ここで初めて姿を現す。


「なっ」

 エドガーが一歩前へ出る。

「これは何だ」

「公開の場に相応しい、公開反証のための舞台装置ですわ」

 わたくしは言い切る。

「物語で殴られるなら、物語ごとひっくり返すための鏡が要りますもの」


 ペトラが脇の鎖を引き、シオンが中央鏡の台座へ封印筒を差し込む。

 中核結晶と残膜が、銀の鏡板へ噛み合う。

 青白い光が、大広間の床一面を走った。


 註記増幅陣、起動。


 ルナさんの足元から、淡い白が広がる。浄化の光ですわ。人を傷つけるのではなく、混ざった嘘だけを薄くするための、静かな術。

 その光が星鏡と重なった瞬間、鏡面へまず一つ目の違和感が映る。


 封印色不一致


 青白い文字が、中央鏡から天井近くまで大きく浮かんだ。

 ざわめき。

 続いて左右の鏡へ、


 単位表記不一致

 価格変動の対象誤認


 文字が現れる。

 それだけでも会場の空気が傾く。大きな罪を告げる派手な言葉ではない。細く、しかし無視できない違和感。皆が「なんだそれは」と目を上げる。

 青白い文字は、ただ浮かぶだけではなかった。

 封印色不一致の註記が灯るたび、銀盆の上の蝋影へ細い光が吸い寄せられ、違う角度の星印だけをくっきり照らし出す。単位表記不一致の註記が走るたび、帳簿写しの「箱」の字だけが黒く滲んで浮き上がる。価格変動の対象誤認という註記は、南市書記の胸元で一度またたき、それから会場後方の商人たちの顔を順に照らした。

 誰か一人の主張ではない、というのが目でわかる。

 違う立場の人間が、別々の場所から、同じ誤りへ指を向けている。だからこそ、さっきまで面白がっていた貴族たちですら、もう軽口で流せない。


「なんだ、あの光……」

「文字が……帳簿の上に」

「封印がちがう?」

「模写鏡って、劇場の……?」

 ざわめきが、今度はこちらへではなく、証拠そのものへ集まっていく。

 その流れの変わり方が、背筋がぞくぞくするほど気持ちよかった。


 そこへ、シオンが冷静な声を重ねた。

「さらに、偽音声」

 彼は封印筒から残膜を取り出し、鏡面へかざした。

「保存層に継ぎ目。部屋鳴りが冒頭と末尾で一致。自然採取ではありえません」


 鏡の中で、さっきまでわたくしの偽声を宿していた結晶片が、拡大されて映る。

 その表面に、青白い註記が次々と貼られていく。


 保存層継ぎ目

 残響一致

 採取時刻と現場環境に不整合

 模写鏡由来の反射膜痕


「模写鏡」

 どこかで誰かが呟いた。

 その一言が、会場全体の理解を一段深くする。劇場や儀礼に関わる者ほど、その名を知っているからだ。


 スマホが震える。

 わたくしはすばやく覗いた。


 @法務カピバラ

 今です。結論を。


 @理系の竜

 観客はもう自分で辿った。刺せる。


 @考察班長

 いけ!!!!!


 よろしい。

 では、刺しますわ。


「殿下」

 わたくしは高壇の中央へ向き直る。

「民の声が証明している、と前におっしゃいましたわね」

「……」

「ええ、民の声は強いですわ。でも、声は時々、嘘まで拾う。だから必要なのは、声そのものではなく、違う立場の人たちが同じ場所を指さすことですの」

 鏡の光が、わたくしの肩と髪へ青白く落ちる。

「見た人。数えた人。持っていた人。市場を知る人。台所を回した人。全部の違和感が揃った時、嘘だけが崩れましたでしょう?」


 さらに、左右の鏡面がひらく。

 そこへ映るのは、昨夜の審問で集まった異なる証言の断片だ。市場の価格表、慈善茶会の支出帳、台所の配分表、会計補助の記録欄。どれも地味で、絵面としては面白くない。だからこそ効く。見栄えだけなら、婚約破棄の宣言と涙の一つで十分でしょう。でも本物の反証は、だいたい地味ですの。

 そして、その地味さの上へ、註記の光が静かに積み重なっていく。


 出所一致

 時刻整合

 証言独立

 封印真正


 青白い四つの語が中央で重なった瞬間、会場の空気がはっきり変わった。

 今までは「ヴィオレッタがどう言い逃れるか」を眺めていた人たちが、「あの証拠、どこからおかしいのだ」と自分で辿り始めたのだ。


 まるで答えるみたいに、銀盆の上の写しと偽結晶が、ぱき、ぱき、と細く割れた。

 紙吹雪みたいに舞い上がる破片。青い註記の光。会場の誰もが見ている前で、偽造だけが綺麗に崩れていく。


 痛快、とはこのことですわね。


「ばかな」

 カルヴァンが初めて、はっきり顔をしかめた。

「その中核はどこから」

「青玻璃の間ですわ」

 わたくしは答える。

「双羽紋の模写鏡。中核を抜けば残膜が崩れる。助かりましたわ、鏡職人の皆さま」


 わざとそう言うと、向こう側の群衆だけでなく、こちらの観客もどよめいた。

 外からの観測者を嫌うなら嫌えばいい。でも、違う場所の違う知恵が集まるほど、今夜の光は強くなる。


 エドガーが、初めて明確に動揺した顔を見せた。

「カルヴァン卿、これは」

「落ち着いてください、殿下」

 星導卿はなおも整った声を保とうとする。

「まだ物語の全体は崩れていない」

「物語、ですって?」

 会場のどこかで、誰かがその単語を拾った。

 しまった、とカルヴァンの目がほんの一瞬だけ細くなる。その小さな綻びを、わたくしは見逃さない。


「ええ、物語ですわ」

 わたくしは敢えて広間全体へ向き直った。

「皆さまは今夜、“悪役令嬢が吊るされる話”を見に集められた。でも出てきたのは、雑な写しと、切り貼りされた声と、誰かが見たい筋書きばかりでしたわね」

 ざわめきが広がる。

「なら、その筋書きのほうを疑っていただいてよろしい頃合いではなくて?」


「落ち着いてください、殿下」

 カルヴァンはなおも整った声を保とうとする。

「些細な不整合を大げさに見せているだけです。肝心なのは、ヴィオレッタがこれまで積み上げてきた悪意ある言動――」

「ならば」

 わたくしは遮った。

「それも今夜、全部ここでやりましょう」

 会場が息を呑む。

「わたくしが嫌い。結構ですわ。言い方がきつい。認めます。高慢だ。ええ、そうでしょうね」

 自分で言って胸が痛い。でも、ここで逃げたら今までの勉強が嘘になる。

「ですが、嫌われていることと、有罪であることは違いますわ」

「ヴィオレッタ」

 エドガーの声が、やっと少し揺れる。

「君は……」

「そして」

 わたくしはゆっくり手を胸元へやった。

 そこには、王家との婚約を示す青金の飾章。今まで何度も重く感じた印だ。悪役令嬢としての舞台装置の一つでもある。


 指先で留め具を外す。

 ちり、と小さな音がした。

 昔のわたくしなら、こんな場で手を震わせていたでしょうね。いまも震えていないわけではない。けれど、その震えは怖さだけではない。自分の意志で終わらせると決めた人間の震えですの。


「その婚約」

 会場中が静まり返る。

 わたくしは飾章を外し、まっすぐエドガーへ向けた。

「こちらからお返しいたしますわ」


 銀の盆へ、飾章を置く。

 澄んだ金属音が、大広間の真ん中へすとんと落ちた。


 その瞬間、スマホの待ち受けで、婚約破棄を示す黒い棘が、ついに砕けた。


 見なくてもわかる。胸の奥へ伝わる。長く長く刺さっていた棘が、青白い光へ変わって崩れる感触。

 その音は小さいのに、わたくしには雷みたいに聞こえた。

 耳ではなく、胸の奥で鳴る音ですわ。王家の飾章が盆へ返った瞬間、ずっと首元へ巻きついていた見えない縄が、ようやく自分の手で切れたみたいだった。

 怖さが消えたわけではない。婚約者を失う痛みも、周囲の視線の鋭さも残っている。けれど、少なくとも“捨てられる側”の役だけは、いまここで終わった。


 怖かった。

 ずっと怖かった。

 でも今、少なくともこの一点については、向こうの筋書きではなく、わたくしの意志で終わらせた。

 それだけで、背筋に一本、まっすぐな芯が通る。


「君、は……!」

 エドガーが言葉を失う。

 怒りでも、失望でもなく、ただ予想外を叩きつけられた顔だ。

 あなたはそういう顔をするのですわね。少しだけ溜飲が下がります。


「王家に返すなら、受け取りは私が」

 カルヴァンが前へ出ようとした、その瞬間。


 天井近くの星鏡が、びり、と異音を立てた。


「え」

 誰かが小さく漏らす。

 続けて、シャンデリアの光が一斉に明滅した。青金の布が風もないのに揺れ、床へ走っていた註記の線が、今度は逆流するように天井へ吸い上がっていく。


 シオンの顔色が変わる。

「まずい」

「何がですの」

「物語秩序が、支えを失っている」

「わかりやすく!」

「カルヴァンが固定していた役割が一気に崩れた!」


 次の瞬間、天井の開閉窓の向こう、王都の夜空がひび割れた。


 音はしなかった。

 なのに、空そのものへ青白い亀裂が走ったのが、誰の目にもわかった。

 星座の線が、変な角度で折れ曲がる。黒い夜の奥から、冷たすぎる光がじわじわと滲み出る。遠くの塔の上で、見張りの鐘が一つ鳴り、二つ目の途中で掠れた。


「星災だ……」

 会場のどこかで、掠れた声が落ちた。


 ざわめきは悲鳴へ変わる。

 貴族たちが一斉に立ち上がり、椅子が倒れ、楽器が床へ落ちる。青金の祝祭は一瞬で崩れ、広間の空気はさっきまでとは別の恐怖で満ちた。

 カルヴァンの微笑みが、ほんのわずかだけ消える。


 わたくしは反射的にスマホを見た。

 七本あった棘は、もう一本しか残っていない。

 その最後の一本が、画面の中で、どくり、と脈を打つ。


 星災の発生。


 そして、王都の夜空に、青白い災厄の口が開いた。

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