8.祭りの前夜は忙しい
星冠祭当日といっても、婚約破棄の大舞踏会は日が落ちてからですの。
つまり朝から見れば、まだ前夜みたいなもの。息を吐く暇もない最終準備の時間が、たっぷり残っているということですわね。ぜんぜんありがたくありませんけれど。
学園旧工房は、朝から戦場でした。
天井の高い石造りの工房には、磨りガラス越しの白い光が流れ込み、古い作業台の上で銀の工具と真鍮の枠を冷たく光らせている。壁沿いにはレンズ、鏡板、星導灯の予備芯、細い鎖、記録結晶、巻いた布、何に使うのか一瞬ではわからない部品がぎっしり並んでいて、油と金属と乾いた木の匂いが混ざっていた。
こんな場所に公爵令嬢が朝から入りびたるのは、どう考えても品位が足りない。ですが本日は品位より勝機ですわ。
「お嬢、そこ踏むと危ないです」
「どこですの」
「足元の銀線です。踏むと註記増幅陣の外周がずれます」
「朝から専門用語の密度が高すぎますわね」
「昨日の夜、お嬢が“公開断罪を公開でぶっ壊したいですわ”って言った結果です」
「言いましたけれども」
ペトラは床へしゃがみこみ、青い粉筆代わりの星導粉で引いた円の上へ細い金具を置いている。線は複雑だ。外周は七つの尖りを持つ星型、その内側へさらに小さな円が幾重にも走っていて、見ているだけで目が回りそうになる。
反対側では、ルナさんが白い手袋をはめ、浄化用の水晶へ祈りの息を吹き込んでいた。彼女の指先から落ちる淡い光は朝の工房によく似合う。柔らかいのに、芯だけはぶれない。
「ここへわたしの浄化術を通して、註記の光が偽物だけを削れるようにします」
「浄化って、そういう使い方もできるんですの?」
「人を消すんじゃなくて、混ざった汚れだけを薄くする感じ、です」
「わかりやすいですわ」
「昨日、シオンさんに絵で説明してもらいました」
「わたくしにも絵でお願いしたいですわね」
「あなたは文章で理解してください」
工房の奥から即座に飛んできた声は、もちろんシオンだ。
灰色の髪を無造作にかき上げ、彼は星鏡の骨組みにあたる大きな銀枠を組んでいた。真鍮の歯車に細いレンズを差し込み、記録結晶を固定する台座へ魔力の線を通している。理屈の塊みたいな男が工具を持つと、やたらと絵になりますわね。悔しいですけれど。
「いまの、ちょっと格好よかったですわよ」
「ありがとうございます」
「認めますの!?」
「事実なので」
「最近、褒めへの受け身が自然になってきていません?」
「あなたがうるさいので慣れました」
「そこはもっと別の言い方がございません?」
「ありません」
でも、口は冷たいのに手は止まらない。組み上がっていく星鏡は、昨日までただの部品だったものを一つの武器へ変えていく。
中央に立つ銀の鏡板。左右に展開式の記録結晶座。下部には註記増幅陣と接続する脚。これを大舞踏会の片隅へ持ち込み、偽造証拠を会場全体へ見せる。誰か一人を説得するのではなく、目の前の大勢へ同時に見せるための道具だ。
カルヴァンの物語が舞台装置なら、こちらも舞台装置で返す。昨日の夜の時点で、その方針だけは全員一致だった。
「公開断罪が来るなら、公開反証で迎え撃つ」
わたくしが言うと、
「ええ」
ルナさんが頷き、
「結論としてはそうです」
シオンが頷き、
「勝ち筋がわかりやすすぎて好きです」
ペトラが頷いた。
この一致だけで、少しだけ胸が楽になる。
さらに、念のための念として、控えを分けた。
偽造結晶の残膜は封印筒に一本、筆写した要点を紙で二組、舞踏会で読む順番を書いた小札を三枚。ひとつ奪われても、ひとつ燃えても、全部は消えないようにする。法務カピバラの“控えを複数”が、こんなに身に染みる日が来るとは思いませんでしたわ。
「お嬢、これ誰が持ちます?」
「筆写はわたくしとルナさん。残膜はシオン。小札はペトラ」
「分散ですね」
「ええ。わたくしが転んでも、物語まで転ばせないように」
「その発言、今日は少しだけ格好いいです」
「少しだけなんですの?」
「昨日までとの差分で」
「採点が渋いですわねえ」
作業台の端へ置いたスマホが震えた。
今朝はもう、向こう側の人たちにも事情を共有してある。
今夜、大勢の前で偽造を崩したいですの。映す、順番をつける、逃げ道を作る。その三つを考えていますわ。なにか抜けております?
返信は、相変わらず早い。
@法務カピバラ
控えを複数。一つ奪われても終わらない形に。
@理系の竜
順番。弱い嘘から崩す。観客の理解速度を越えるな。
@考察班長
誰が見てもわかる図! あと、帰り道も作っとけ!
「帰り道」
わたくしは画面を見ながら呟く。
「それですわね」
「何が」
ペトラが顔を上げる。
「勝っても終わりではないという話ですわ。会場で崩したあと、証拠ごと潰しに来られたら厄介」
「それは最初から考えてます」
ペトラは床の線へ金具を置きながら言う。
「大広間から厨房通路、洗濯場、裏階段、馬車寄せ。四本引いてます」
「偉すぎませんこと?」
「お嬢が勢いで前に出るので、後ろは私が作ります」
「耳が痛いですわねえ」
「本日は最初から最後までそういう日です」
シオンが淡々と補足する。
「それに、カルヴァンは正面から負けるだけで終わる人ではない。証拠の奪取、端末の奪取、証人の分断、最低でもこの三つは想定すべきです」
「端末の奪取」
スマホを握る手に力が入る。
「やっぱり、狙ってきますわよね」
「昨日、あなたを“外から来た観測者”と呼んだ」
シオンは銀枠を締めながら言う。
「意味がわからないふりはできます。ですが、彼が端末の重要性を察している前提で動くべきです」
「うわぁ」
口から素直な声が漏れた。
「うわぁ、ですの?」
「だってそれ、つまり今夜のわたくし、めちゃくちゃ盗難対象ではありませんこと?」
「やっと危機感を持ちましたか」
「最初から持っておりますわよ! ただちょっと、こう、実感の種類が違っただけで」
「それを危機感が薄いと言います」
ぐぬぬ。
言い返せない。
それでも今日は、言い返せないことから逃げないと決めている。
だから、別の手を打つ。
「では投稿しますわ」
「何を」
「大舞踏会で偽物を崩すために必要なもの一覧です」
「それを向こうへ?」
「ええ」
わたくしは画面を開き、すばやく打ち込む。
今夜の決戦用。必要なのは一、遠くからでも見える映写。二、記録の控え。三、証人の立ち位置。四、逃げ道。ほかに大勢へ“納得”を広げる工夫はあります?
返信は三つだけに絞られて返ってきた。
@法務カピバラ
証人は順番を守る。同じ話を重ねるより、立場の違う人を短く。
@理系の竜
結論を先に言うな。観客が自分で辿れる形にしろ。
@考察班長
“見た”“数えた”“持ってた”の三種類を並べると強い!
「見た、数えた、持ってた」
ルナさんが復唱する。
「視覚、数字、所持。ほんとだ、立場が違う」
「それですわね!」
わたくしは思わず机を叩きかけ、シオンに睨まれて寸前で止める。
「つまり最初に感情へ入るのではなく、観客に“あれ?”と思わせる小さな違和感を順番に渡す」
「正解」
シオンの即答が飛ぶ。
「やればできる」
「その褒め方、ほんとうにぎりぎりですわね」
でも嬉しい。
昨日までみたいな派手な拍手ではない。小さくても、ちゃんと積み上がる実感だ。
その確認のついでに、わたくしたちは実際に“見せ方”の稽古までやった。
「最初の証人は台所の女将。理由は、専門用語が少なくても一番わかりやすいから」
わたくしが紙を掲げる。
「次に会計補助のリゼさん。“数えた”人は、観客の頭を冷やしますの」
「そのあと市場書記ですね」
シオンが星鏡へ結晶を差し込みながら言う。
「価格の話は難しい。だから先に感覚で納得させてから数字へ行く」
「最後に、わたし」
ルナさんが自分の胸元へ手を当てた。
「“持っていた”じゃなくて、“言われたことがない”を言います」
「ええ」
わたくしは頷く。
「あなたは最後ですわ。最初から泣かせる必要はありませんもの」
「泣きません」
「そこは強いんですのよね」
「ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
試しに星鏡へ昨日の註記残光を流すと、銀の鏡板に青白い文字がふわりと浮かんだ。離れていても読める。しかも、読む順番までこちらで薄く誘導できる。鏡面の端から端へ文字が流れるのではなく、まず左上、次に右下、最後に中央へ収束する。
理系の竜が言っていた“観客が自分で辿れる形”というのが、ようやく感覚でわかった。
「すごい」
ルナさんが息を呑む。
「これなら、後ろの人にも見えます」
「だから作っているんです」
シオンは平然としているが、声の端だけ少し誇らしげだ。
「問題は運搬と設置です」
「そこは私です」
ペトラが手を挙げる。
「大広間の裏口までの最短は厨房脇。でも荷車は通しにくい。なので一回バラして、人が担げる単位にします」
「そんなことまで考えていたんですの?」
「お嬢、今日はずっと工房の真ん中でしゃべってたので」
「やめてくださいまし、何もしていない人みたいですわ」
「してましたよ。うるさく」
「そこを主業績にしないでくださる!?」
でも、こういう軽口が交わるたび、空気が前向きにまとまっていくのがわかる。
大舞踏会は怖い。婚約破棄も断罪も、向こうは最初から舞台の主導権を取るつもりだ。
それでも、こちらにもやることが山ほどある。やることがあるという事実は、怖さを少しだけ小さくする。
星鏡の調整をしながら、わたくしたちはさらに詰めていく。
誰が最初の証人になるか。市場側の書記か、会計補助の生徒か、台所の女将か。ルナさんはどこで前へ出るか。エドガーがこちらを遮ったら、何を先に突きつけるか。カルヴァンが術式で流れを切ろうとしたら、註記増幅陣をどの角度で張るか。
その作業の途中、シオンがふと、机の隅へ置いた通信結晶の欠片を光へ透かした。
「おかしい」
「何がですの」
「昨日崩れた偽造結晶の膜」
「また何か?」
「この縁」
彼は一片を、細いピンセットで持ち上げる。
「見てください。反射の癖が鏡板由来です」
「鏡板?」
「音声の切り貼りだけではない。像まで一度、鏡で“なぞって”いる」
「なぞる」
わたくしは欠片をのぞき込んだ。
確かに、銀の裏打ちみたいな微細な筋がある。普通の記録結晶の残膜より、少しだけ鏡面に近い。
シオンの目が鋭くなる。
「模写の鏡」
「なんですの、それ」
「昔の劇場や式典で使われた模倣具です。声と姿を少し遅れてなぞり、別の結晶へ移す。正規品は芝居用で、個人認証の術式とは相性が悪いから、今はほぼ使われない」
「でも、偽造には使える」
「ええ。しかも、切り貼りと合わせればかなり厄介です」
胸が高鳴る。
来た。犯行道具だ。ここを押さえれば、カルヴァンが“たまたま偽物が紛れただけ”と逃げる余地が減る。
「どこにありますの、その鏡」
「問題はそこです」
シオンは眉を寄せた。
「旧式の模写鏡を整備できる工房は、王都でも数が少ない。王宮儀礼局、劇場組合、あとは……」
「言い淀みましたわね」
「鏡職人の旧工房街です」
「どこに」
「南の夜市寄り」
「夜市」
ペトラが顔を上げる。
「今日いちばん追いかけっこが起きそうな単語出ました」
「やめてくださいまし、予言みたいで嫌ですわ」
けれど、そこへさらにスマホが震えた。
わたくしは、欠片の縁に刻まれていた小さな紋を急いで撮り、簡単な説明つきで投稿したのだ。
鏡面の反射膜に、この紋が残っていましたの。見覚えある方、いらして?
返信は、今まででいちばん早かったかもしれない。
@考察班長
それ、双羽の鏡職人紋じゃない!?
@理系の竜
古い光学工房の意匠。劇場関係で使うやつ。
見知らぬアカウント
王都南、旧レンズ職人通りの《青玻璃の間》で見たことある
見知らぬ別アカウント
舞台用模写鏡なら《青玻璃の間》か《月鱗の鏡室》、ただし双羽紋なら前者寄り
「来ましたわ」
わたくしは立ち上がった。
「場所が絞れましたわよ!」
「ええ」
シオンもすぐ立つ。
「《青玻璃の間》。旧レンズ職人通りなら、夜市の裏手です」
「今からですの?」
ルナさんが驚く。
「今しかありませんわ」
わたくしは断言した。
「今夜の大舞踏会までに、模写の鏡の現物か、せめて中核部品を押さえなければ、カルヴァンの逃げ道が残る」
「でも、危なくないですか」
「危ないですわよ」
即答する。
「だから、危なくないように動きますの」
「まったく安心できない日本語ですね」
ペトラが冷静につっこむ。
「ですが行きます」
その顔が、もう走る前の顔だった。頼もしすぎて、ちょっとだけ笑いそうになる。
「ルナさん」
わたくしは彼女へ向き直る。
「あなたには工房へ残って、註記増幅陣の最終調整をお願いしたいの」
「わたし、行かなくていいんですか」
「行きたいんですの?」
「ちょっと」
「正直ですわね」
「でも、今日の夜にいちばん必要なのは、わたしがここで整えることの気がします」
「ええ」
わたくしは頷いた。
「そこがあなたの大事な役割ですわ。逃げではありませんのよ」
「はい」
ルナさんの目が、ぎゅっと引き締まる。
「絶対、戻ってきてください」
「もちろんですわ」
星鏡の仮組みと註記増幅陣の線を確認し、控えの記録結晶を三つに分け、証人の呼び順を書いた紙を封に入れる。
ペトラは裏通路の地図を書き、シオンは偽造結晶の欠片を封印筒へ収める。わたくしはスマホと控えの控え、つまり筆写した要点メモを胸元へ忍ばせた。
準備が終わったころには、工房の窓はもう紫がかった夕闇を映していた。
夜市へ向かう道は、祭りの華やぎと裏路地の匂いが、奇妙に混ざり合っていた。
学園の正門側は青金の布と笑い声で溢れ、焼き菓子や蜂蜜酒の甘い香りが風に乗る。けれど南へ回り込むほど、灯りは低くなり、石畳は少し荒れ、店の看板も実用品寄りになる。夜市の喧騒は明るいのに、その裏手だけ音の色が違う。笑いより囁きが多い。
空気は冷え、吐く息が白い。
その分だけ、胸の中は熱かった。
夜市の角を曲がるたび、祭りの色が変わるのも妙だった。
表通りは蜂蜜色の灯りと笑い声。けれど一本裏へ入れば、青いガラス灯と、閉まりかけた店の硬い音。さらにその裏では、劇場小道具の羽飾りが風に揺れ、仮面屋の窓がこちらを覗いているみたいに光る。
わたくしは走りながら思った。カルヴァンの言う“物語”も、たぶんこういうものだ。表はきらびやかでわかりやすい。けれど裏には、吊るすための紐や、光を当てる角度や、隠しておく道具がある。
そして今夜、わたくしたちはその裏口へ踏み込んでいる。
《青玻璃の間》へ入る直前、スマホへもう一つだけ返信が来ていた。
見知らぬアカウント
双羽紋の模写鏡は、裏面の結節が三つ。真ん中が核、左右は残像用。核だけ抜けば止まる
その一文がなければ、シオンの手もほんの少し遅れたかもしれない。
向こう側の誰かが、こちらの誰かの命綱になる。その実感が、追われながらでも妙に頼もしかった。
「お嬢、息上がってます」
「早歩きですもの」
「いえ、興奮のほうです」
「それもありますわ」
「正直でよろしい」
「あなたまでルナさんみたいなことを」
「かわいさは出ませんか」
「まったくですわね」
言い返したところで、前を歩くシオンが手を上げた。
「灯りを落として」
「見つけたんですの?」
「たぶん」
彼が指した先、路地の奥に、薄青く光るガラス窓の建物があった。
看板は外されている。けれど門柱の上に、双羽を広げた鏡の紋がうっすら残っている。まるで捨てられた劇場の裏口みたいに静かだ。
《青玻璃の間》。
当たりだ。
「堂々と不法侵入ですか」
ペトラが低く言う。
「証拠保全の緊急性が高いと判断します」
シオンの返しはいつも通り硬い。
「なお、お嬢は中へ入ったら私の後ろです」
「なぜ」
「危機感が薄いので」
「最近そればかりですわね!」
「実績が更新され続けているので」
路地へ足を踏み入れた、そのときだった。
背後で、乾いた拍手が二つ鳴る。
「感心しませんね」
ぞくり、と首筋が冷えた。
振り向く。
そこには、濃紺の外套を着た男が二人立っていた。王宮警備隊の正式装ではない。けれど、腰の星導短杖と立ち方だけでわかる。素人ではない。
カルヴァンの私兵、とまでは言わないまでも、彼の意向で動いている顔だ。
「こんな夜更けに、壊れた工房へ女生徒を連れて」
一人が言う。
「学園の名誉に関わります」
「壊れたかどうかを確かめに来ただけですわ」
わたくしは即座に返す。
「鏡職人の旧工房に、祭礼関連の不審物が残っている疑いがありますの」
「証拠は?」
「これから取ります」
「通しません」
来る。
そう思った瞬間には、ペトラがもう一歩前へ出ていた。
「お嬢、左」
「え?」
「走ります」
次の瞬間、彼女が足元へ小さな閃光球を叩きつけた。青白い光がぱん、と弾け、路地が一瞬だけ昼みたいに白くなる。
「きゃっ」
「うわっ」
相手が目を細めた隙に、ペトラがわたくしの袖を引いた。
「今です!」
走る。
石畳を蹴る。冷たい夜気が喉へ刺さる。背後で怒声。短杖の音。シオンが一番先に工房の扉を蹴り開け、わたくしとペトラが続く。
《青玻璃の間》の内部は、薄い青の死体みたいな光に満ちていた。
天井の高い室内。壁一面の鏡板。割れたレンズ。半分ほど布をかぶった劇場用の小道具。細い鎖に吊られたフレームが、風もないのにかすかに揺れている。どこもかしこも青玻璃で、どこを見ても自分の影が分裂して映る。
気味が悪い。
でも、犯行道具がありそうという意味では完璧にそれっぽい。
「奥です」
シオンが迷いなく進む。
「どうしてわかりますの」
「反射膜の臭い」
「すごい説明が雑ですわね!?」
「わかれば十分です!」
奥の作業卓に、布をかけられた大きな鏡が一枚あった。
縦長で、人の背丈ほど。枠には双羽紋。裏面から、まだ微かに熱を持つような青い線が走っている。
「これですわね」
「たぶん」
シオンが布をはぎ取る。
鏡面は普通の銀ではない。どこか水面に近い青を帯び、覗き込むと顔が少し遅れて動く。
「うわ」
わたくしは思わず後ずさる。
「気味が悪いですわ」
「模写の鏡です」
シオンはすぐ裏面へ回り、固定具を探る。
「中核結晶があるはず」
そこへ、外から足音が雪崩れ込んだ。
「工房内を封鎖しろ!」
「端末を優先だ!」
「ほら来ましたわ!」
わたくしが叫ぶ。
「だから言いました」
シオンは鏡の背へ工具を差し込み、固定枠をこじる。
「ペトラ、時間を」
「得意分野です!」
ペトラが近くの三脚を蹴飛ばし、ガラスの反射幕をばさっと倒す。路地から入ってきた男たちの視界に、青い鏡板が乱反射を起こし、一瞬だけ動きが鈍る。
その隙に、わたくしはスマホを開いた。
模写の鏡を見つけましたわ。中核を抜けば勝ち筋ですの。たぶん今、端末を奪いに来ています。静かな加護をくださいまし。
送信。
こんなときに何を、と思う。
でも、いま欲しいのは黒い熱ではない。落ち着いた集中だ。前に進むための、静かな支えだ。
すぐに返信がつく。
@法務カピバラ
端末死守より証拠の複製。中核を確保して人を分けて。
@理系の竜
鏡は外枠より中心軸。裏面の一番熱い結節を抜け。
@考察班長
がんばれ!!! でも落ち着け!!! いける!!!
「中心軸!」
わたくしは叫ぶ。
「シオン、一番熱い結節ですの!」
「見えています!」
青い火花が散る。シオンの指先が鏡裏の固定環へ差し込まれた瞬間、水面みたいな鏡面がぶるりと震えた。
こちらへ映る自分たちの像が、一拍遅れてにやりと笑う。ぞっとする暇もなく、次の瞬間には鏡面から、わたくしに似た影が半歩分だけ前へ出かかった。
「きゃあ!?」
「気にしないで!」
シオンが叫ぶ。
「ただの残像です!」
「ただの残像にしては怖すぎますわよ!」
後ろから伸びた腕が、わたくしのスマホを狙う。
でも、そこへペトラの肘が飛ぶ。
「触るな!」
軽快な音と一緒に男がのけぞる。ペトラ、つよい。頼もしすぎますわね。
「お嬢、右からもう一人!」
「見えておりますわ!」
わたくしはそばにあった丸鏡を持ち上げ、相手の顔へ向けて投げつけた。割りはしない。けれど怯んだ。その隙に後ろへ下がり、スマホを胸元へ押し込む。
工房じゅうの鏡が、ばたばたと揺れる。
青い光が跳ねる。外の夜気まで青く見える。
シオンの工具が、ついに何か硬いものを引っかけた。
「……抜ける!」
「がんばってくださいまし!」
「言われなくても!」
甲高い音。
鏡の裏面が裂けるみたいに開き、拳大の青黒い結晶が一つ、がくんと外れた。中核部だ。細い金線が絡み、脈みたいにまだ光っている。
「取った!」
シオンがそれを掴んだ瞬間、工房中の鏡が一斉に暗くなる。
遅れて、わたくしたちの分裂していた影も全部元へ戻った。
「勝ち筋!」
思わず叫ぶ。
「確保ですわ!」
「まだです!」
ペトラの声が飛ぶ。
「出口まで持っていって初めて勝ちです!」
その通りでしたわね。
背後の男が再び短杖を向ける。先端へ青い火が灯る。
でも同時に、スマホの縁から細かな星屑がぱらりと落ちた。黒くない、静かな青だ。
足元へ小さな箱が一つ転がる。
こんな状況でも来ますの?
蹴飛ばして開いた箱の中には、細い紐付きの金具が三つ。
理解は一瞬だった。
「ペトラ!」
「了解!」
彼女が金具を取り、路地側の柱と棚へ素早く引っかける。わたくしも残りを持って反対側へ走る。紐を引く。細い銀糸がぴんと張られ、ちょうど膝の高さになる。
「そこ!」
追ってきた男が、それに見事に引っかかった。
「うわっ」
豪快に転ぶ。いやもう、向こう側の人たち、たまにこういう妙に実用的な支援をくれますわね。
「お嬢、出ます!」
「ええ!」
シオンが中核結晶を封印筒へ押し込み、わたくしたちは一気に工房を飛び出した。
夜市の裏路地は、さっきよりずっと騒がしい。追っ手の怒声、店を閉める音、逃げるわたくしたちの靴音。冷たい夜気が肺に刺さる。けれど、胸の中は高揚で熱い。
「右!」
ペトラが先導する。
「染物屋の裏を抜ける!」
「路地細すぎませんこと!?」
「追手も細いのでたぶん大丈夫です!」
「たぶんが雑ですわ!」
曲がった先で、洗濯物が顔に当たる。さらに先で、木箱の山。ペトラがひょいと飛び越え、シオンがわたくしの手首を掴んだ。
「ここ」
「え」
「跳んで」
「ちょっと待っ」
言い終わる前に引かれた。
石段二段分の高さを、半分飛ぶみたいに越える。心臓が跳ねる。着地はなんとか成功。悔しい。悔しいけれど助かりましたわ。
「いまの、もう少し事前説明を」
「してる時間がなかった」
「どきどきしましたのに」
「生きてるので問題ない」
「そこですのよ、その雑な安全確認!」
言い合いながらも足は止めない。
その最中、スマホがまた震える。
短く開くと、返信が増えていた。
@法務カピバラ
中核確保なら次は人を分ける。証拠と本人を同じ動線に乗せるな。
@理系の竜
追跡されてるなら反射の多い場所を避けろ。模写残光が使われるかも。
@考察班長
全力で逃げろ! でも証拠は落とすな!
「人を分ける!」
走りながら叫ぶ。
「証拠と本人を同じ動線に乗せるな、と」
「同意です」
シオンは即答した。
「ペトラ! 次の角で分かれる!」
「え、お嬢と別ですか!?」
「中核は僕が持つ」
「嫌ですわ」
わたくしは反射で言った。
「あなた一人に背負わせるのは」
「合理的です」
「合理的でも嫌ですの!」
「感情はあとで」
「今ですわよ!」
そのやり取りの最中、路地の先へ、青い灯りが並んで見えた。
人影。甲冑。槍ではなく、星導短杖。
王宮警備隊だ。
「……いや待って」
足が止まりかける。
「それは聞いてない」
隊列の先頭にいた隊長格が、一歩前へ出た。
夜気が一気に肺へ刺さる。
後ろには追っ手、前には王宮警備隊。しかもシオンの懐には中核結晶、わたくしの胸元にはスマホ。最悪の挟み撃ちですわね、と理解した瞬間、婚約破棄の棘が待ち受けの中でどくりと脈を打った。
来た。舞踏会の前から、もう舞台は始まっている。
「ヴィオレッタ・ローゼンティア」
夜気より冷たい声だった。
「王家への証拠隠滅、祭礼関連物資の不正持ち出し、ならびに審問妨害の疑いにより、あなたを拘束する」




