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7.悪役の役を降りますわ

「外から来た観測者は困りますね」


 その一言が、予備審問室の空気ぜんぶをひっくり返した気がしましたわ。


 さっきまで床に落ちた偽の結晶片が、青白い光を受けてまだ細かくきらめいている。商人書記も、台所の女将も、祭礼委員の生徒たちも、みんな今は「捏造が崩れた」ことへ気を取られている。

 なのに、わたくしだけは、その柔らかすぎる声に背筋を冷やしていた。


 濃紺の長衣。銀の星模様。整いすぎた微笑み。

 カルヴァン星導卿は、騒ぎの中心へ少しも近づかず、それでも最初から全部見ていた人の顔をしていた。


「何のことかしら」

 わたくしはできるだけ涼しい声を作る。

「観測者だなんて、ずいぶん仰々しいですわね」


「仰々しい?」

 カルヴァンは目を細めた。

「いいえ、むしろ正確ですよ。あなたはこの国の理屈で動いていない。こちらの作法だけでは説明のつかない視線を、外から持ち込んでいる」

「詩的すぎて意味がわかりませんわ」

「では、わかる形にして差し上げましょうか」


 その瞬間、シオンがわたくしの前へ半歩出た。

「星導卿」

「おや、監察候補殿。あなたは鋭い。だから少しだけ困る」

「答えになっていません」

「そういう会話は、落ち着いた場所でやるべきでしょう」


 カルヴァンは、青白くほどけた註記の残光を指先で一つつまむみたいな仕草をした。触れたはずのない光が、彼の指先でふっと揺れる。


「知りたいのでしょう?」

 今度はわたくしにだけ聞こえるくらいの、静かな声だった。

「自分が何を壊し始めたのか。なぜ王国の記録が、あなた一人をこれほど嫌うのか。なぜ註記の光が、こんなにもよく効くのか」

「……」

「最終鐘のあと、天文塔へ。逃げるなら、それでも結構」


 言うだけ言って、彼は一礼した。丁寧で、隙がなくて、嫌になるほど上品だ。

 そしてそのまま、まるで風景の一部みたいに人の流れへ混ざり、審問室から出ていく。


 残されたわたくしは、やっと一つ息を吸った。


「お嬢」

 ペトラがすぐ耳元まで来る。

「いまの、めちゃくちゃ怪しいです」

「ええ、存じておりますわ」

「あと、お嬢の顔色がめちゃくちゃ悪いです」

「それも存じておりますわよ」


 シオンが低く言った。

「今の話、聞き流すことはできません」

「できませんわね」

「ですが一人では行かせません」

「一人で行くつもりもありませんわ」


 そう返したものの、胸の中は正直かなりぐらぐらしていた。

 外から来た観測者。

 その呼び方が、あまりにも核心すぎる。

 前世のこと。スマホのこと。向こう側の人たちのこと。どこまで見抜かれているのかわからない。

 わからないから怖い。

 そして怖いのに、知りたい気持ちも確かにある。あの男は、ただ脅しているだけではなかった。わたくしが触れてしまったものの正体を、たぶん本当に知っている。


 審問室を出て、長い回廊へ出る。

 高い窓から夕方の光が斜めに差し、床の石へ金色の帯を落としていた。さっきまで青白かった世界が、少しずつ夜の色へ沈み始めている。遠くでは、星冠祭の準備に使う楽器の音合わせがかすかに響いていた。


 ルナさんが、おそるおそる近づいてくる。

「ヴィオレッタ様」

「どうかなさいました?」

「さっきの……外から来たって」

 彼女は言い淀み、でも逃げずに続けた。

「わたし、ぜんぶはわからないです。でも、もしヴィオレッタ様が、ほんとうに何か隠してるなら」

「……」

「一人で抱えないでください」


 優しすぎますわね、この子は。

 いまこの状況で、普通なら問い詰めてもいい。怖がって距離を取ってもいい。なのに、先にそう言うのだから困る。


 シオンも静かに言った。

「前にも言いました。僕は全部を鵜呑みにしません。でも、いまは全部を知らないまま守れる段階でもない」

「そう、ですわね」

「だから順序立てて話してください」

「順序立てて、ね」


 逃げるのは簡単だ。

 誤魔化すのも、たぶんまだできる。

 でも、カルヴァンがあそこまで踏み込んできた以上、このまま半端な嘘で味方を巻き込むほうがよほど危ない。


 わたくしは回廊の窓辺へ歩き、指先でひんやりした石枠へ触れた。

 外の空は、夕焼けの金の底に薄い群青が混ざり始めている。星が出る前の、いちばん曖昧な色だった。


「……わたくし、前にも少しだけ申し上げましたわよね」

 振り返らずに言う。

「急に性格が変わったみたいに見えるのは、昔を思い出したからだと」

「ええ」

 シオンが答える。

「その“昔”が、少し普通ではありませんの」

「どのくらい」

「かなり」

 ペトラがすかさず口を挟む。

「お嬢の普通、もともと怪しいので比較が難しいです」

「今いちばん要らない感想ですわ!」


 それでも、少しだけ笑いがこぼれたおかげで、喉の固さが取れた。

 わたくしは深く息を吸う。


「わたくしには、この世界とは別の世界の記憶がありますの」

 言ってしまうと、思ったより静かだった。

「そちらでのわたくしは、ただの学生でした。そして、こちらの世界を“物語”として知っていた」

「物語」

 ルナさんが小さく復唱する。


「ええ。“聖女と七つの星冠”というお話ですわ。少なくとも、向こうではそういう形で存在していた」

「待ってください」

 シオンの声だけが、いつも通り冷静だ。

「つまり、あなたはこの世界の未来を知っている?」

「全部ではありませんわ」

 そこは即座に否定した。

「むしろ、そこが問題ですの。わたくし、最後まできちんと知らなかった」

「知らなかった?」

「切り抜きと考察と、まとめだけで“だいたいわかった”気になっていたんですのよ」

「……」

「自分で言ってて最悪ですわね。ええ、存じておりますわ。けれど事実ですの」


 回廊に、少しだけ沈黙が落ちる。

 石壁の向こうで、夕方の鐘がひとつ鳴った。


「だから、前に申し上げた“知った気になるのが危険”って」

 シオンが呟く。

「ええ。ほんとうに、その通りですわ」

 わたくしは苦く笑う。

「わたくしはこの世界を“知ってるつもり”でした。でも実際は、見栄えの良い場面と、人が語りたがる部分だけをつまみ食いしていただけ」

「それで、わたしが聖女候補で」

 ルナさんが、自分の胸元へ手を当てた。

「ヴィオレッタ様が悪役令嬢……?」

「そういう筋書きでしたの」

「筋書き」

 彼女の声は震えていた。でも、責めるような震えではない。自分の立っていた床が、急に薄くなったみたいな震えだ。

「それ、わたしたちは、誰かに決められた役をやってるってことですか」

「少なくとも、そう見ている何かがいる。わたくしはそう感じていますわ」

「そして、いまの星導卿は、それを知っている」

 シオンが結論づける。

「ええ」


 ペトラは腕を組み、少しだけ顎を上げた。

「理解は半分くらいですけど、お嬢が急に変な知識で走り出した説明としては一番しっくりきます」

「そこ、半分で済みますの?」

「転生までは予想してませんでした」

「予想していたらそれはそれで怖いですわ」


 ルナさんが、しばらく黙ったあと、小さく言った。

「じゃあ、ヴィオレッタ様は……ずっと一人で怖かったんですね」

「え」

「だって、知ってるつもりなのに、ほんとは全部知らないって、すごく怖いです」

 その言葉が、胸に深く刺さった。

 誰かに責められるより、そう理解されるほうがよほど痛い。


 わたくしは視線を落とした。

「怖いですわよ。とても」

「……」

「しかも、わたくしの浅い知識のせいで、あなたまで危険へ巻き込んだ。昨日の黒い火花も、たぶんそうですわ。向こう側の“熱”を、わたくしが気持ちよくなって雑に使ったから」

「でも、今日は」

 ルナさんは、少しだけ笑った。

「今日は、ちゃんと助けてって言ってました」

「ええ。やっとですの」

「なら、まだやり直せます」

 はっきりと言われて、思わず目を瞬く。

「簡単に言ってくれますわね」

「簡単じゃないです。でも、やり直せるときにやり直すしかないので」

「……そうですわね」


 最終鐘まで、まだ少し時間がある。

 わたくしたちは、回廊の端の小机で簡単に作戦を決めた。カルヴァンの呼び出しへは、わたくしとシオンが行く。ペトラは塔の下で待機。ルナさんは今日は来ない。彼女を巻き込みたくないし、もし本当に星導卿が何か仕掛けてくるなら、聖女候補をわざわざ危険へ連れていく理由がない。


「嫌です」

 ルナさんは珍しく即答した。

「一人で行かせたくないです」

「二人ですわよ」

「そういう意味じゃなくて」

 その言い方があまりにもまっすぐで、少し笑いそうになる。こんなときなのに。

「戻ってきてください。ちゃんと」

「もちろんですわ」

「約束です」

「ええ。約束いたします」


 それからペトラが、わたくしの肩へそっと上着をかけた。

「夜は冷えるので」

「ありがとう」

「あと、やばかったら逃げてください」

「身も蓋もありませんわね」

「塔の上で理屈に勝っても、落ちたら終わりです」

「それはそうですわ」

「お嬢、たまに勢いで危ないとこまで行くので」

「今日は勢いより先に怖いですの」

「じゃあその怖さ、ちゃんと連れて行ってください」

 その言い方が、妙に優しかった。


 最終鐘が鳴る。

 群青の空へ、冷たい音が溶けていく。


 わたくしは一度だけスマホを見た。

 画面は静かだ。通知は切ってある。けれど向こう側に人がいる感覚は、ちゃんと残っている。

 それだけをお守りみたいに胸へしまって、天文塔へ向かった。


 天文塔は、夜になると王立星冠学園のどこよりも異世界じみて見えた。


 白い石の円塔が、闇色の空へ細く伸びている。頂の半球ドームは閉じられているのに、隙間から青白い光が漏れ、まるで夜そのものを内側から呼吸させているみたいだった。塔の周囲を囲む植え込みには薄い霜が下り、踏むたび細かな音がする。空気は冷たいのに、星は妙に近い。

 こんなところで「あなたは外から来た観測者ですね」なんて言われたら、そりゃあ現実味も薄れますわね。いや薄れてほしくないのですけれども。


「緊張していますか」

 階段を上りながら、シオンが訊いた。

「しておりませんと言ったら嘘になりますわ」

「それなら正常です」

「あなたは」

「しています」

「見えませんわね」

「見せていないだけです」

 短い会話なのに、少しだけ救われる。こんなときまで理詰めなのに、きちんと隣にいてくれるからだ。


 最上階の扉を押し開けると、そこはまるで夜空の機関室だった。


 丸い天井は開かれ、頭上いっぱいに星が見えている。中心には巨大な天球儀。真鍮の輪が何重にも重なり、ゆっくりと回転しては金の光を返していた。歯車の噛み合う低い音。細い鎖が滑る音。冷えた空気に、金属の匂いと灯油に似た甘い香が混ざる。

 塔の床には、王都と星座を重ねたような巨大な術式円が刻まれていた。見ただけでわかる。ここは、ただ綺麗なだけの場所ではない。世界のどこかと直接つながっている場所だ。


「ようこそ」

 カルヴァンは天球儀のそばに立っていた。

「二人で来ましたか」

「一人で来いとは言われませんでしたもの」

 わたくしが返すと、彼は微笑む。

「ええ。あなたが一人で来るほど、まだ世界を諦めていないのは知っていました」


「話を」

 シオンが短く言う。

「外から来た観測者とは何です」

「そう急がず」

 カルヴァンはゆっくりと天球儀へ触れた。

 すると、金の輪が音もなく加速し、床の術式円へ青白い光が流れ込む。空中に、王都の街並みと、その上へ重なるように幾本もの光の糸が浮かび上がった。


「星導王国アステリアは、人の祈りと観測で成り立っています」

 彼の声は、講義みたいに穏やかだ。

「王族の血、神殿の術、学園の教育、記録官の筆。そのすべては、同じ仕組みの上に積まれている。つまり、人々が何を見て、何を信じ、何を語るか」

「そんなもの、どこの国でも同じでしょう」

 わたくしが言う。

「いいえ」

 カルヴァンは首を振る。

「こちらは比喩ではない。本当に、世界の骨組みそのものなのですよ」


 彼が指を振ると、空中の街並みの上へ三つの光点が浮かぶ。

 一つは王城の上に、青金の星。

 一つは神殿の上に、白い星。

 そして最後の一つは、学園の上に黒い紫の星。


「王子」

 青金の星が脈打つ。

「聖女」

 白い星が揺れる。

「そして悪役」


 黒紫の星が、ゆっくりと濃くなる。


 わたくしの喉が、ひゅっと鳴った。


「人々は単純な物語を好みます。救う者、救われる者、裁く者、裁かれる者。秩序は、その見やすさによって保たれる」

 カルヴァンの指が、王都の上をなぞる。

「王子は正義の顔を与える。聖女は希望の顔を与える。そして悪役は、嫉妬、怒り、矛盾、不満、そうした濁りを一身に引き受ける器となる」

「……器」

「ええ。誰か一人が憎まれることで、多くが自分を善側へ置いて安心できる。そうすれば国の物語はまとまり、星導は安定する」

「最悪ですわね」

 思わず吐き捨てる。

「人を便利なゴミ箱みたいに扱っておいて、安定ですって?」


「ゴミ箱、ですか」

 カルヴァンは少しだけ肩をすくめた。

「言い方はどうあれ、役割は必要です。王国は長くそうして揺れを受け止めてきた」

「だからわたくしを悪役令嬢に仕立てて、吊るし上げる?」

「“仕立てる”というより、そうなるよう導く、と言ったほうが正確です」

「同じですわ!」


 声が尖る。

 でも、カルヴァンは少しも動じない。


「あなたの家柄、気位、婚約関係。条件はそろっていた。少しの記録操作と、少しの噂と、少しの行き違い。人は見たい物語へ自分から寄っていく」

「だからって!」

「しかも今回は、都合がよかった」

 カルヴァンの言葉が、刃みたいに落ちる。

「あなた自身が、物語を最後まで知らなかったのですから」

 息が止まった。


「何を」

「知っているつもりで、最後まで見ていない。違いますか?」

 その微笑みが、今夜初めて冷たく見えた。

「向こうの世界で、あなたはこの物語を断片でしか知らなかった。切り抜き、感想、名場面、誰かが面白がった部分だけを拾って、全体を見た顔をしていた」


「っ」

「その浅さがなければ、もっと早く気づけたでしょうに。聖女が本当に救われるのか。王子が最後まで正義のままか。悪役令嬢が落ちたあと、何が起きるのか」


 天球儀の輪がひときわ大きく回転した。

 空中に、新しい光景が浮かぶ。


 大広間。歓声。頭を垂れる悪役令嬢。

 白い服の聖女。

 剣を掲げる王子。

 そこで映像は終わらない。


 次に現れたのは、夜の王都だった。

 空から青白いものが降っている。人々が逃げる。建物の上で、白い光に包まれた誰かが、細い腕を空へ伸ばしている。


「……ルナさん」

 わたくしの声が掠れた。


 そこにいたのは、白い祭服のルナさんだった。

 でも、いま隣にいる彼女ではない。もっと痩せて、もっと疲れきって、なのに逃げられず、星の祭壇みたいな場所へ立たされている。

 手首には光の輪。足元には術式。空から降る災厄を一身に受け止めるみたいに。


「原典の最後です」

 カルヴァンが言う。

「あなたの失墜後、国の物語は一時的に整う。けれど、その歪みは別の形で噴き出し、聖女が星災の楔にされる」

「うそ」

「うそではありません」

「そんなの、そんなの、聞いておりませんわよ!」

「ええ。あなたは見ていなかったのだから」


 脚から力が抜けそうになる。

 頭の中で、前世のタイムラインが一気に逆流した。

 名場面切り抜き。婚約破棄スチル。悪役令嬢断罪ざまぁ。聖女ルート尊い。王子の決め台詞がどうこう。そんな、途中までの、みんなが盛り上がるところだけ。

 そのあとに、ルナさんがこうなるなんて、知らなかった。

 知ろうともしなかった。


(わたくし、何を知ってるつもりでいたんですの)


 悔しさより先に、情けなさが来る。

 自分の浅さが、今度は骨まで痛い。


「あなたは自分を救うために動いてきた」

 カルヴァンの声は穏やかだ。

「悪いことではありません。ですが、外から持ち込んだ観測で筋書きを壊せば、支える柱も壊れる。あなたは自分を救えても、聖女を救えるとは限らない」

「黙りなさい」

 わたくしは顔を上げた。

 熱い。

 さっきまでの動揺が、今度は別の火に変わる。

「あなたたちは、最初から誰かを犠牲にするつもりで国を保ってきたのでしょう」

「犠牲ではなく役割です」

「言い換えても同じですわ!」

 声が塔の中へ響き返る。

「王子を正義に見せるために、聖女を希望に見せるために、悪役が必要? そのうえ最後は聖女まで祭壇へ縛る? そんなもののどこが安定ですの! ただの卑怯な先送りでしょう!」

「秩序なき混乱を見たことがないから言える」

 カルヴァンの微笑みが、やっと少しだけ硬くなる。

「誰も悪役を引き受けなければ、不満は国中へ散る。王族も聖職者も商人も教師も、互いに喰い合う。物語があるから、人は迷わずに済む」

「迷わずに誰かを吊るすほうがましだと?」

「多くはそう望む」

「わたくしは望みませんわ」

「あなた一人の望みで世界が回ると思うのですか」

「回らないから変えるんですのよ!」


 言い切った瞬間、天球儀の金輪がきい、と低く鳴った。

 カルヴァンはわたくしをしばらく見つめ、それからふっと笑った。

「だから困るのですよ。あなたは、役に収まる気がない」

「当然ですわ」

「そして、外からの観測があなたを支える」

 彼の視線が、わたくしの袖の内へ落ちる。

「異界の鳥籠。異なる立場からの注釈。王国の中だけでは作れない合意。あれは、こちらの設計と相性が悪すぎる」

「設計、ね」

 シオンが初めて強く口を開いた。

「やはり、あなたが意図的に学園と祭礼の物語を調整していた」

「調整というと聞こえは悪いですが」

「よくないことをしているから悪く聞こえるのです」

「手厳しい」

「事実です」


 シオンが一歩前へ出る。

 青い瞳が、いつも以上に冷たく澄んでいた。

「あなたが言っているのは、世界の安定のために、個人を物語の部品へ固定してきたということだ」

「固定ではありません。誘導です」

「なら、なお悪い」

 シオンの言葉は短く、鋭い。

「本人に選ばせず、周囲の認識ごと誘導する。自由意志の剥奪と変わらない」


「自由意志」

 カルヴァンはその単語を少しだけ味わうみたいに繰り返した。

「美しい響きですね。だが、美しいものだけで国は持たない」

「そう思うから、いつまでも同じことを繰り返すのです」

 シオンは譲らない。

「ヴィオレッタ様は確かに未熟でした。知識も浅かった。ですが、間違えたあとに学び、謝り、修正してきた」

「……」

「それを見てなお、“役に戻れ”と言うなら、あなたのほうがよほど浅い」


 胸の奥で、何かが震えた。

 庇われた、というより、見ていてくれたのだと思った。

 わたくしがみっともなく転び、煽って失敗し、勉強し、謝って、少しずつ変わってきたことを、この人はちゃんと見ていた。


 カルヴァンは、そこで初めてわずかに目を細めた。

「あなたは彼女に甘い」

「事実に甘いも辛いもありません」

「そうですか」


 彼は手を下ろす。

 空中の映像が、ふっと消えた。残ったのは夜空と、静かな歯車の音だけだ。


「考える時間をあげましょう、ヴィオレッタ・ローゼンティア」

 その言い方が嫌に優しい。

「筋書きを壊し続ければ、婚約破棄だけで済まなくなる。あなたも、聖女も、王都も。どこまで守れるか、よく考えるといい」

「脅しですの?」

「助言ですよ」

「最悪の」

「役割には、そう見えるでしょうね」


 最後まで微笑んだまま、カルヴァンは塔の外周へ伸びる夜の回廊へ歩き出した。

 長衣の裾が風に揺れる。追おうと思えば追えたのに、足が動かなかった。

 たぶん、わたくしのほうが今は追うより先に受け止めるので精一杯だったからだ。


 しばらく、誰も何も言えなかった。


 夜の回廊へ出る。

 塔を取り巻く細い石の道。手すりの向こうには、学園の屋根と、その先の王都の灯りが広がっている。冷えた夜気が頬へ当たり、頭の中の熱を少しずつ冷ましていく。遠くの空には、冬に近い星座が白く並んでいた。

 きれいなのに、さっき見た映像のせいで、全部がどこか残酷に見える。


「……最低ですわね」

 やっと出た声が、それだった。

「ええ」

 シオンが隣に立つ。

「最低です」

「わたくしのことですわよ」

「そちらも少し」

「少し!?」

 思わず振り向く。

 シオンはいつもの無表情に近い顔をしているのに、わざと少しだけ間を置いて続けた。

「三割くらいです」

「増えましたわね!?」

「正確さを上げました」

「慰める気がございませんわ!」

「慰めてはいません。ですが、全部をあなたのせいにすると、肝心の敵が喜ぶので」


 その言い方が、あまりにもシオンらしくて、逆に少しだけ息がしやすくなる。

 けれど、次の瞬間にはまた胸の奥が重くなった。


「わたくし……」

 手すりへ両手をつく。石が冷たくて気持ちいい。

「わたくし、自分を救えば、少なくともルナさんは大丈夫だと思っていたんですの」

 喉が詰まる。

「聖女なんて、物語の中心で、守られる側で、最後には祝福される役だと。だって皆そういうところしか語らなかったんですもの。ハッピーエンドの絵だけ見て、安心した気になって……」

 笑おうとして失敗する。

「そんなの、読んでないのと同じですわね」

「ええ」

「否定しませんの!?」

「しません」

 シオンの即答が鋭い。

「読んでいないのと、断片だけで語るのは、最悪の組み合わせです」

「痛いですわねえ」

「今日はそういう日です」


 痛い。ものすごく痛い。

 でも、その痛さから逃げたら、たぶんカルヴァンの言った通りにしかならない。


「わたくし、知ってるふりで人を巻き込んだんですのよ」

 声が少し震える。

「ルナさんの運命だって、あなたたちの立場だって、半分もわからないまま走って、黒い火花まで出して……。昨日までは、浅いくせに自信だけはあって。ほんとうに、みっともない」

「そうですね」

「本日ほんとうに遠慮がありませんわね!?」

「遠慮して誤魔化す場面ではありません」

 シオンはわたくしの横に立ったまま、夜空を見る。

「ですが」

 低い声が、冷えた空気の中でよく通る。

「知らなかったことと、知らなかったままでいることは違います」

「……」

「あなたは前者です。後者ではない」

 胸の奥が、きゅっと掴まれる。

「わたくし、でも」

「だから今ここで学んだのでしょう」

 その一言で、視界が少し揺れた。

 真正面からそう言われると、弱い。

「あなたは完璧な未来予知でここまで来たわけではない。むしろ失敗だらけです」

「そこはもう少し言い方が」

「ですが」

 シオンはわたくしを見る。

「失敗したあと、認めて、謝って、修正した。学んだ。助けを求めた。そこまでやってきた人間に、今さら“最初に知らなかった”だけを罪として背負わせる気はありません」

「……」

「カルヴァンは、あなたの浅さだけを見ている。変わった部分を計算に入れていない」

「買いかぶりでは?」

「いいえ」

「そんなに信じられても困りますわ」

「困ってください」

 言い切られて、変な笑いが出そうになる。

「ほんとうに、どうしてこういうときだけ格好いいんですの」

「普段も格好いいと思っていますが」

「自分で言いましたわね!?」

「訂正します」

「遅いですわ!」


 でも、その軽口が挟まったおかげで、胸に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。

 夜気が冷たい。頬も冷たい。なのに目の奥だけが熱い。

 泣くのは負けではないと思うけれど、ここでぼろぼろ泣いたら、たぶん後で自分が一番恥ずかしい。だからぐっと堪える。


「それでも」

 わたくしは小さく言う。

「わたくし、ルナさんまで救えると思います?」

「思うかどうかではなく、救う前提で動くしかありません」

 シオンは即答した。

「あなたがこれまでやってきたのは、そういうことです」

「強引ですわね」

「現実的です」

「現実的って、ときどき魔法より心強いですのよ」

「知っています」

 そう言って、彼は自分の外套を肩から外した。

「寒いので」

「そこはもう少し雰囲気を」

「風邪をひかれると困る」

「色気がございませんわね」

「役に立てば十分です」

 外套が肩へかかる。思ったよりあたたかい。悔しいけれど、ありがたい。


 手の中のスマホが、静かに沈黙している。

 いつもなら、ここで気持ちを紛らわすように、強い言葉を投げていたかもしれない。可哀想なわたくしを見てほしい、ひどい世界を燃やしたい、そんな半分子どもみたいな衝動で。

 けれど、いま欲しいのはそれではない。


「……ちゃんと書きますわ」

 わたくしは言った。

「今度こそ、ごまかさずに」

「投稿ですか」

「ええ」

「煽りはなしで」

「ええ」

「盛りもなしで」

「ひどい信頼のされ方ですわね」

「実績があります」

「それは、否定できませんわ」


 わたくしは深呼吸をして、投稿欄を開いた。

 指先が少し震える。画面に映る自分の顔は、疲れていて、情けなくて、でも逃げたくない顔をしていた。


 何度か打っては消し、打っては消す。

 格好をつけそうになるたび、削る。

 面白くしそうになるたび、やめる。

 そして、最後に残ったのは、ほんとうに今のわたくしの言葉だった。


 正直に申しますと、怖いですわ。

 わたくしはこの世界を全部知っているわけではありません。

 半端な知識で知った気になって、大事な人を危険にさらしました。

 それでも逃げたくありません。

 ルナさんも、わたくしも、この国も救いたいです。

 いま知っていることを一つずつ集め直します。

 どうか力を貸してくださいませ。


 送信。


 押した瞬間、世界が少しだけ息を止めた気がした。

 昨日までのような、黒い火花の混じるざらついた熱はない。

 代わりに、スマホの縁から、ごく細い青白い光がゆっくりとほどけた。まるで雪の最初のひとひらみたいに、静かで、やわらかい。


「色が違う」

 シオンが小さく呟く。

「ええ」

 わたくしも見ていた。

 昨日の炎上熱は、目に刺さるような黒だった。今の光は違う。淡くて、静かで、でもちゃんとあたたかい。


 通知は、派手に爆ぜるのではなく、じわりと満ちていった。

 最初の三つは、いつもの面々。


 @法務カピバラ

 知らないと認めて助けを求めるのは強いです。ここからは事実を積みましょう。


 @理系の竜

 前提更新。救う対象はルナ、本人、王都。未確定情報を再整理する。


 @考察班長

 逃げない悪役令嬢、こっちも逃げない。全力で見届ける。


 そのあとも、流れてくる言葉は、いつもと少し違った。

 怖いって言ってくれてありがとう。

 音声のことなら見れる。

 市場のことなら知ってる。

 手伝う。

 読む。

 調べる。

 まとめる。

 ちゃんと見てる。


 面白い、強い、もっとやれ、だけではない。

 こちらの失敗も、怖さも、未熟さも見たうえで、それでも手を貸すと言ってくれる熱だ。


「……」

 胸の奥が、じわっとあたたかくなる。

 気持ちいい、ではない。あれよりずっと静かで、でも深い。立ち上がる力が戻ってくる感じ。

 これなら、たぶん黒くならない。


 その予感どおり、塔の上空に細かな星屑が舞い始めた。

 青白い光が、夜空から降るというより、向こう側の人たちの言葉に引かれてこちらへ染み出してくるみたいに、静かにふわふわと集まってくる。

 回廊の手すりへ、シオンの外套へ、わたくしの髪へ、白く細い光が一つずつ落ちる。

 冷たいはずなのに、不思議と寒くない。


「やさしい大バズ、という感じですわね」

「その表現は少しどうかと思います」

「でもそうでしょう?」

「……否定はしません」

 シオンが苦笑した気配がした。

 珍しい。こんな夜に、それだけで少し得した気分になる。


 スマホの画面では、投稿がゆっくり、でも確実に広がっていた。

 煽りで伸びたときのような、目が回る勢いではない。

 代わりに、返信一つひとつが長く、丁寧で、手触りがある。

 向こう側の人たちが、いまこの瞬間、こちらを笑いものではなく、助ける相手として見てくれているのがわかる。


 その中に、短いけれど妙に効く一言もあった。


 知らないなら、今から読めばいい。

 途中までしか見てないなら、ここから最後を書き換えればいい。


「……」

 わたくしはその文をしばらく見つめた。

 そうだ。

 最後まで読まなかったのなら、今から最後まで責任を持てばいい。

 途中までしか知らないのなら、ここから先は、知らないまま終わらせなければいい。


「シオン」

「何です」

「わたくし、腹が立ってまいりましたわ」

「それはよかった」

「よろしいのですの?」

「落ち込んだままよりずっといい」

 彼は外套の襟を少し整えながら言う。

「怒っているほうのあなたは、たいてい次に動きます」

「買いかぶりではなくて?」

「観測結果です」

「そこでその言い方を使いますのね」

「今夜に合っているので」

 悔しい。悔しいけれど、少し笑ってしまった。


 そのまま、わたくしたちは夜の回廊で、遅くまで話した。

 カルヴァンの言葉を一つずつ分ける。

 何が事実で、何が誘導か。

 王国の物語構造。

 悪役の器。

 ルナさんの巻き込まれる終わり。

 市場操作の偽造手口。

 音声の切り貼り。

 そして、外からの観測がどこまで効くのか。


 タイムラインの向こうでも、見知らぬ誰かたちがもう動き始めていた。

 音声分析の観点を三つに分けてまとめる者。

 市場価格と祭礼需要の関係を図にする者。

 これまでの出来事を日付順に並べる者。

 熱狂ではない。分担だ。協力だ。

 それが、こんなにも頼もしいものだとは思わなかった。


「向こう側の人たち」

 わたくしはスマホの画面を見ながら呟く。

「祭りのときは一瞬で集まって、一瞬で散ると思っていましたわ」

「それはそうでしょう」

 シオンが言う。

「ですが今は、散っていない」

「ええ」

「あなたがやっと、煽るためではなく、頼るために使ったからでは」

「耳が痛いですわねえ」

「今日はずっとそうです」

「本当に」

 それでも笑えた。

 痛くても、今日は痛さが前へ進むほうへ働いている。


 やがて、東の空がほんの少しだけ白んだ。

 星の強さが薄れ、王都の灯りが一つずつ意味を失っていく。夜と朝の境目は、いつも少しだけぼんやりしている。けれど、そのぼんやりした時間が、今夜はありがたかった。

 昨日までのわたくしと、今日からのわたくしの境目も、きっとこんなものだ。ぱきっと切り替わるわけではない。でも、確かに色は変わっていく。


「お嬢ー!」

 塔の下からペトラの声が響いた。

「生きてますかー!」

「失礼ですわね、生きておりますわよ!」

「返事がでかいので元気そうです!」

「そこだけで判断しないでくださる!?」

 シオンが、珍しくはっきりと笑った。

「元気で何よりです」

「あなたまで」

 でも、そのやり取りで最後の硬さも少し解けた。


 階段を下りるころには、空はもう淡い青だ。

 学園の中庭では、星冠祭の準備が最終段階へ入っていた。花輪が運ばれ、青金の布が張り直され、楽師が朝の調律をしている。普段より少しだけ浮ついた空気。けれどその底には、何か大きなものが起こる前の張りつめた感じもある。


 スマホを開く。

 待ち受けの七本の棘は、夜のうちに少しだけ色を変えていた。

 完全には折れていない。けれど、家門没落と民衆の敵認定を示す棘の表面へ、細い青い筋がさらに増えている。黒の中に、まだ譲らない光が走っている。

 そして、その隣。

 ひときわ長く、ひときわ鋭い一本――婚約破棄を示す棘だけが、まだ深い黒のままだった。


 その黒が、どくり、と一度脈を打つ。


 思わず息を呑む。

 画面の端に、小さく日付が浮かぶ。

 星冠祭当日。


「……来ましたわね」

 誰にともなく、そう呟く。

 ルナさんを救う。

 わたくしも救う。

 この国の、誰かを悪役へ押し込める仕組みも、まとめてぶち抜く。


 夜のあいだに固めた決意を、胸の真ん中へ押し込む。

 でも、決意があるのと、怖くないのは別だ。

 婚約破棄の棘は、こちらの覚悟なんてお構いなしに、またどくり、と脈を打った。

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