6.ノートは剣より強い
朝から、空気が重いですわね。
それが最初の感想でした。
王立星冠学園の予備審問室は、前よりひと回り大きい。高窓から落ちる青白い光が床へ細く伸び、磨かれた濃茶の机と背の高い椅子を冷たく照らしている。壁には王家の紋章、隅には記録用の結晶台。いかにも「ここで軽率なことを言うと人生が面倒になります」と顔に書いてある部屋だ。
しかも今日は、前回と違って見物人までいる。学監補佐のセレス教諭、祭礼委員の上級生たち、数名の教員、学園の生徒、そしてなぜか町の商人風の男まで座っていた。少人数のはずの予備審問にしては、どう見ても空気が大げさである。
「お嬢、これ、だいぶ嫌な感じです」
わたくしの少し後ろで、ペトラが小声を落とす。
「ええ。嫌な感じというより、向こうが本気ですわね」
「やっと実感しました?」
斜め隣のシオンが、今日も今日とて容赦がない。
「昨日までの資料不備で押し返されたので、向こうも整えてきたのでしょう」
「整えてきた、で済めばよろしいのですけれど」
「済まないから僕も来ています」
その一言だけで、少しだけ呼吸が楽になる。
ルナさんも今日は傍聴席にいた。白い制服の袖をきゅっと握って、でもまっすぐこちらを見て、小さく頷いてくれる。大丈夫、と言われている気がした。守ると決めた相手に、逆に支えられているのだから世話がない。
正面では、エドガー第一王子が静かに座っていた。
青の礼装に、金の縁。高窓の光を背にした顔はやけに整って見えるのに、目だけが冷たい。こちらへ失望しきったような、けれど今日は必ず逃がさないという種類の冷たさだ。
「ヴィオレッタ」
低い声が室内の空気を切る。
「本日の予備審問は、前回より一段重い。個人的な感情のもつれではなく、王国の民生と祭礼の公正に関わる疑いが出たためだ」
「ずいぶん大きくお出しになりますのね」
「冗談で済む内容ではない」
「そうですの」
喉の奥が少しだけ乾く。
王国の民生。祭礼の公正。嫌な言葉だ。こういうときの「大きな言葉」は、個人の評判どころか家門ごと巻き込む。
セレス教諭が書面を開いた。
「提出された資料によれば、ヴィオレッタ・ローゼンティアは聖女候補ルナ・フローレンスを侮蔑する発言を繰り返し、さらに祭礼用穀物の買い付けへ不当に介入して市場価格を乱し、一部商家へ圧力をかけた疑いがあります」
「は?」
素で声が出た。
「穀物」
「静粛に」
「だって聞いておりませんわよ、そんな大ごと」
「だから今聞かせている」
エドガーの返しが腹立たしいほど冷静だ。
けれど腹を立てている場合ではない。
穀物価格の操作。そんなの、ただの感じ悪い令嬢という話では済まない。貧民街にも市場にも直撃する。証明されれば、ローゼンティア家ごと焼かれる。
しかもルナさんへの侮蔑と抱き合わせにされている。個人の嫌がらせと公共への害悪を一つの筋で結ばれたら、印象は最悪だ。
(いや待って、待ちなさい。落ち着きなさいな)
頭の中で叫ぶ。
否定したい。今すぐ叫んで「そんなこと言っておりませんわ!」と机を叩きたい。
でも、その衝動だけで動いたら終わると、前回と前々回で嫌というほど学んだ。
「資料を」
シオンが先に言った。
「閲覧を求めます」
「もちろんだ」
エドガーが顎を引く。
「本日は写しではない。保管印つきの原本を持ってきた」
机の中央へ、二つの品が置かれた。
一つは薄い青色の通信結晶。手のひら大で、内部に金糸の筋が幾重にも走っている。
もう一つは帳簿の写しと、封のされた数枚の伝票。
嫌な予感しかしない取り合わせだ。
「まず通信結晶」
セレス教諭が結晶を台座へ置く。
「三日前、旧南倉庫街の路地裏にて採取。再生します」
青い光が台座から立ち上る。
室内の空気が少し冷え、結晶の中央へぼんやりと影が映った。音が走る。ざらついているのに、聞き取れる程度には鮮明だ。
『……あの方、最近すこし人気があるからといって、ほんとうに目障りですわね』
女の声。
わたくしの声だった。
心臓が、変なふうに縮む。
いや、似ている、ではない。ほとんど同じだ。抑えた高音、語尾の跳ね方、息を吐く癖まで、嫌になるほど自分の声に近い。
『平民上がりの聖女候補なんて、飾りに過ぎませんのに』
次いで、別の男の声が応じる。
『では、ご指示どおり穀物の流れを絞りますか』
『ええ。市場が少し泣けば、あの子が善人ぶる余裕もなくなりますもの。ついでに祭礼の慈善茶会へ回す分も、こちらで見栄えよく調整なさい』
『ですが価格が上がれば』
『構いませんわ。困る顔を見れば、立場というものがわかりますでしょう?』
そこで結晶が暗くなった。
室内に落ちた沈黙が、重い。
見物席の空気が、一気に冷えたのがわかる。さっきまで半信半疑だった人たちの目が、今は露骨な嫌悪と警戒へ変わっている。
だって、今のはひどい。もし本物なら、わたくしが聞いてもひどい。
しかも最悪なのは、慈善茶会の話まで混ざっていたことだ。
あれは、ようやく少しずつ信頼を積めた場だ。それを見栄えのための偽善と市場操作のカバーへ変換されたら、わたくし一人の評判では済まない。
「何か言うことは」
エドガーがこちらを見る。
「ございますわ」
わたくしはまっすぐ彼を見返した。
「こんな下劣なこと、しておりません」
「音声は」
「似せたのでしょう」
「ここまで?」
「それを今から確かめるのです」
セレス教諭が次の資料を示す。
「こちらは穀物買い付けに関する帳簿写しと伝票です。ローゼンティア家の名義印に近い封が使われ、祭礼前の二日間で南市の小麦価格が上昇した記録と符合しています」
「符合“しています”」
シオンがすぐ反応した。
「近い封、というのは一致していない?」
「……精査中です」
「精査中の段階で、王国の民生に関わるとまで言い切りましたか」
「通信結晶の内容も合わせれば」
「合わせる前に、それぞれの真正性を確認すべきです」
室内がまた少しざわつく。
けれど、わたくしの胸の中は、ざわつくどころかほとんど嵐だった。
声は似すぎている。帳簿は見慣れない。でも“近い封”という曖昧な言い方は引っかかる。引っかかるけれど、いまこの空気の中では、そんな細い違和感は簡単に踏み潰される。
なにより、ルナさんが青ざめていた。
自分を侮蔑する声を、わたくしのものとして聞かされたのだ。当然だ。あれが偽物だと確かめる前に、傷つかないはずがない。
その事実が、胃の奥へ重く落ちる。
悔しい。腹が立つ。情けない。怖い。
でも、ここで沈んでいる暇はない。
しかも、見物席の端には、昨日の慈善茶会で見かけた町の女性たちまでいた。あの場で「ありがとう」と言ってくれた人の一人が、いまは信じたくないものを見る顔でわたくしを見ている。
その視線が、通信結晶の台詞よりずっと痛かった。
だって、あの場で積んだものが、こうして一つの偽音声でまとめて踏みにじられかけているのだ。
「まさか、本当に……」
「ルナ様にあんな……」
「市場まで巻き込むなんて」
ひそひそ声が、針みたいに飛んでくる。
違う、と叫びたい。
でも今は、叫べば叫ぶほど「図星だからうるさい」と見える空気だ。前回までのわたくしなら、ここでたぶん負けていた。
机の下で、知らないうちに手が震えていた。
銀筆を握る指へ力が入りすぎて、関節が白くなる。
最悪の想像が、頭の中を勝手に走る。ローゼンティア家への査察。慈善茶会の帳面差し押さえ。ルナさんの失望。積み上げたものの全損。
(いや、だから落ち着きなさいな! まだ本物と決まったわけではありませんの!)
呼吸をひとつ、ふたつ。
うまく吸えない。
そのとき、机の下でペトラの靴先が、こつ、とわたくしのつま先へ軽く触れた。
「お嬢」
振り向かずに、彼女が囁く。
「いま怒鳴ったら相手の勝ちです」
「……わかっておりますわ」
「半分くらい顔に出てます」
「やめてくださいまし」
「だから半分で止まってるうちに戻ってきてください」
隣でシオンが静かに言った。
「顔を上げて」
「……ええ」
「いまやることは一つです。出所、記録、術式痕。順序を忘れない」
「わかっておりますわ」
声が少しだけ掠れた。
それでも言えた。逃げない。
袖の内でスマホを開く。
今日は事前に、通知は最低限、書き込みは短くと決めていた。
予備審問ですわ。わたくしの声そっくりの音声と、穀物価格操作の帳簿を出されました。偽物だと思いますの。見るべき点を最小限で。
送信。
いつもより指が震える。
通知欄には、いつもの三人だけでなく、見知らぬ肩書きめいた名前もいくつか滑り込んできていた。音を扱う者、帳簿をつける者、家計簿で市場を見る者。派手な言葉ではなく、「ここを見ろ」とだけ置いていく短い助言。その冷たさが、いまはありがたい。
返信は、数秒で来た。
@法務カピバラ
結晶の採取者、採取時刻、保管者。帳簿は原本の所在、封印の一致、閲覧記録。
@理系の竜
音声は背景音と息継ぎ。波形がなくても、反復ノイズと部屋鳴りの不自然さはある。
@考察班長
落ち着け。今はブチ切れるな。あと慈善茶会を知る人の証言取れ。
よし。
呼吸がひとつ分、戻ってくる。
向こう側の熱が今日は黒くない。こういうときの言葉なら、手を貸してくれる。
「学監補佐」
わたくしは机へ手を置いた。
「通信結晶の採取者、採取時刻、保管者、閲覧者をお示しくださいまし」
「採取者は祭礼委員補佐の――」
「名前を」
「ラドフォード教員」
「採取時刻は?」
「三日前の夜」
「何刻ですの」
「八刻半」
「保管者は」
「学園保全部」
「閲覧者は」
そこまで矢継ぎ早に問うと、セレス教諭の言葉が一拍遅れた。
その遅れだけで、見物席の空気が少し揺れる。
シオンが畳みかける。
「帳簿伝票の原本は?」
「商人側から提出された写しです」
「原本ではない」
「原本の所在確認中」
「なら、いま机にあるのは“写し”でしかない」
「しかし」
「しかし、ではありません」
シオンの声は低いのに、よく響いた。
「前回の反省があるはずです。曖昧な資料を重ねて印象だけを固めるのは順序が逆だ」
エドガーが苛立ったように指を組む。
「では、君たちはこの結晶が完全な偽物だとでも?」
「完全かどうかはまだ言いません」
わたくしは答えた。
「ですが、少なくとも、わたくしは言っていない」
「自己弁護だな」
「当然でしょう? 言ってもいないことを言ったとされているのですから」
その勢いのまま、もう一歩進む。
「そして、もし本当にわたくしが市場価格へ介入したのなら、慈善茶会の現場で、茶葉も菓子も水も足りていた理由が説明できませんわ」
「何?」
エドガーが眉をひそめる。
「価格を吊り上げて困窮を煽るつもりの人間が、自分で現場を回して列を崩し、水を足し、寄付金箱の封まで確認しますの? 見栄えのためだけなら、表へ立って笑っているほうが楽ですわ」
「それも演出かもしれない」
「なら、その証明を」
言い切る。
ルナさんが、傍聴席から小さく手を上げた。
「わたし、発言してもいいですか」
セレス教諭が少しためらい、エドガーを見る。王子は不機嫌そうだったが、結局頷いた。
「短く」
「はい」
ルナさんは立ち上がり、緊張しながらもこちらを見た。
「昨日の慈善茶会で、ヴィオレッタ様はほんとうにずっと裏方でした。入口の札も、水の補充も、寄付の帳面も、全部確認してくれて……市場を困らせて人を泣かせたい人の動きには、わたしには見えませんでした」
「印象論だ」
エドガーが切る。
「ええ、印象だけならそうです」
ルナさんは震えながらも言い返した。
「だから、帳面も見てほしいです。寄付金の封も、支出の数も、全部残してあります。ヴィオレッタ様がそこを一番気にしていました」
胸が熱くなる。
助けてもらってばかりだ。いや違う。一緒に立ってくれているのだ。
「会場の帳面は僕も確認済みです」
シオンが続ける。
「寄付金と支出は整合しています。市場価格の乱れがあったというなら、少なくとも慈善茶会の記録と照合して判断すべきでしょう」
「……」
「加えて」
シオンは結晶台のそばへ歩み寄った。
「この通信結晶、再生前から違和感があります」
全員の視線が集まる。
シオンは結晶を持ち上げ、光へ透かした。
「採取結晶なら、保存層の外側へ時刻印がうっすら残るはずです。これは薄すぎる」
「摩耗では」
セレス教諭が言う。
「三日前採取で摩耗?」
シオンの返しは鋭い。
「それに、音声保存層の継ぎ目が二つあります。普通の会話記録なら、連続層はもっと滑らかです」
彼は指先へ淡い青を灯し、結晶の表面をなぞった。すると内部の金糸がいくつかだけ赤く光り、結び目のような節が二箇所、いやにはっきり浮かび上がる。
「ほら。術式を編み直した痕です。自然採取なら、こんなふうに同じ間隔で節は出ない」
理系の竜が言っていた、反復ノイズと部屋鳴り。
わたくしはすぐスマホへ目を落とし、結晶の特徴を短く打った。
保存層に継ぎ目。音声も変?
返ってきたのは、予想以上に速かった。
@理系の竜
再生音の最初と最後で部屋鳴りが同じなら切り貼り濃厚。人の会話で完全一致はしにくい。
@法務カピバラ
採取直後の封印痕と閲覧痕も確認して。
シオンへ画面を見せる。
「部屋鳴り」
「……なるほど」
彼は短く頷き、結晶台へ戻った。
「再生をもう一度。今度は最初と最後の残響だけを」
「そこまで必要ですか」
セレス教諭が言う。
「必要です」
わたくしが先に答えた。
「大きな罪を着せるのですもの。細部まで見ませんと」
再生。
同じ声、同じ嫌な台詞。
けれど今度は、内容ではなく音の端へ耳を澄ます。
最初に男の声が響いた直後、遠くで小さな金属音が鳴る。最後、わたくしの偽の声が消えたあと、まったく同じ位置で、同じ金属音が鳴った。
「同じですわ」
思わず声が出た。
「ええ」
シオンの目が細くなる。
「不自然なくらいに」
セレス教諭の顔色が少し変わる。
「たまたまでしょう」
「たまたまなら、採取時刻の現場に立ち会った者へ確認を」
「……」
そこへ、後方の席から咳払いがした。
「わたし、その時刻の旧南倉庫街にいましたよ」
商人風の男が手を挙げる。傍聴席にいた人物だ。
「南市で茶葉を運んでおりまして。あの時刻は鐘楼の修理で、金属の打音はしませんでした」
「あなたは」
セレス教諭が目を向ける。
「南市の茶商組合の書記です。慈善茶会の納品確認で呼ばれました」
「……なぜここに」
「市場操作の話が出たからです。組合としても、濡れ衣なら困りますので」
考察班長の言っていた、慈善茶会を知る人の証言。
思ったより早く刺さった。
しかも今のは、学園内でも王族でもなく、市場側の書記だ。立場が違う。
註記。
昨夜解放された新機能の羽根印が、スマホの端で小さくまたたいた気がした。
まだだ。
でも、集まり始めている。
「帳簿も見せていただけますか」
商人書記が続ける。
「南市の小麦価格上昇と言われましたが、その日、上がったのは上等粉だけです。祭礼用の菓子向けに一時的な需要が出ただけで、一般向けの普段粉は据え置きでした」
「そんなことまで」
わたくしが呟くと、男は肩をすくめた。
「市場の字は、細かく見ないと人が死にます」
法務カピバラみたいなことを現実で言う人がいた。ちょっと感動している場合ではないが、ありがたい。
「それなら、わたしからも」
今度は傍聴席の端にいた、年配の女性が手を挙げた。慈善茶会の台所で見かけた、焼き菓子担当の女将だ。
「昨日の茶会で菓子を焼いた者です。ローゼンティア様は、飾り砂糖を減らしてでも数を増やしましょうっておっしゃった。上等粉をぜんぶ使うより、混ぜ粉にして子どもの皿を増やせって。値を釣り上げたい人の口じゃないですよ」
さらに、祭礼委員の控え席からおずおずと一人の女子生徒が立つ。
「会計補助のリゼです。慈善茶会の購入伝票、わたしが整理しました。公爵家側の封はいつも深紅の蝋で、星印は縦に入ります。でも今ある写しの封影は青蝋で、印の角度も違います」
「リゼ!」
祭礼委員の上級生が慌てる。
「でも、違うものは違うので……」
違う立場の声が、もう一つ、もう一つと重なる。
市場。
台所。
会計。
学園。
ルナさん。
シオン。
向こう側の人たち。
それぞれ向いているものが違うからこそ、同じ一点を指したときの重さが増していく。
シオンが写しを受け取り、素早く目を走らせる。
「見てください。品名が雑です。ここ、“粉類”でひとまとめになっている」
「写しだからでは」
「むしろ写しだから誤魔化しやすい」
彼の指が一点を叩いた。
「単位も変です。南市は樽表記、東市は袋表記なのに、この写しは全部箱で統一されている。こんな都合のいい帳簿はありません」
「……!」
周囲のざわめきが大きくなる。
わたくしの胸の中で、絶望が少しずつ集中へ変わっていく。
勝てる。
いや、まだ勝ちではない。
でも、崩れる音が聞こえ始めていた。
「殿下」
わたくしはエドガーを見る。
「いまの時点で、通信結晶は切り貼りの疑い、帳簿は写しで単位表記が不自然、市場側書記の証言では価格上昇の意味も別ですわ」
「それでも、君に向けられる疑念が消えるわけではない」
「疑念は自由です」
わたくしは言い切った。
「ですが、疑念で人を裁くのは違いますの」
そのとき。
スマホの画面中央で、羽根印がふっと大きく灯った。
「来ましたわ」
「何が」
ペトラが小声で問う。
「註記ですの」
青白い光が、今度は画面の外へゆっくりこぼれた。
派手ではない。細い糸のような光が、結晶台の通信結晶へ、帳簿の写しへ、ふわりとまとわりつく。そして、そこへ小さな文字のような光片が次々と浮かび上がる。
採取時刻と環境音に不整合
保存層に継ぎ目
封印痕が弱い
写しの単位表記が市場慣習と不一致
一般向け価格推移と結論が非連動
慈善茶会の実務記録と動機が不整合
封印色と印角が公爵家慣行と不一致
「な……」
セレス教諭が息を呑む。
「これは何だ」
エドガーの声まで揺れた。
見物席が一斉に立ち上がりかける。だが誰も騒げない。註記の光は静かで、淡くて、それなのに無視できないほど明確だった。
わたくしも一瞬、見とれた。
まるで、誰か一人の声ではなく、違う場所から集まった納得が、証拠そのものへ欄外の注釈として現れたみたいだった。
しかもその文字列は、ただ浮かぶだけではなかった。市場の不一致を示す註記が灯るたび商人書記の胸元で青くまたたき、封印色の違いを示す註記が会計補助の手元の帳面へ細く伸びる。慈善茶会の実務記録に関する註記は、ルナさんと台所の女将の足元をやわらかく照らした。
誰か一人の正しさではなく、違う場所で違うものを見ていた人たちの視線が、いまここで一本の線になる。その線が証拠の嘘だけを選んで削っているのだと、目で見てわかった。
見物席の生徒たちも、誰かの顔色ではなく、自分の目で納得せざるを得ない顔になっていた。
「多様な立場からの納得が集まると、虚偽を弱らせる……」
昨夜の説明文が頭の中でつながる。
「これが、註記」
シオンが結晶へ手をかざす。
「いまです。再生層を開きます」
「危険です!」
セレス教諭が言う。
「危険なのは偽物を本物として扱うことのほうです」
青白い註記の光が、結晶の表面を走る。
ぱき、と細い音がした。結晶の内部にあった偽の声の層が、薄い膜みたいに剥がれ始める。剥がれた膜は光を受けて紙片のように舞い、空中で細かい銀の粉へ変わった。
続けて、帳簿の写しにも青白い欄外光が走る。封の端がほどけ、紙面へ重ねられていた偽の数字だけが、雪のように浮き上がって崩れていく。
きれいだ。
きれいなくせに、めちゃくちゃ痛快だ。
ずっと胸に溜めていた泥が、一気に剥がれるみたいだった。
「崩れて……」
ペトラが目を丸くする。
「紙吹雪ですわね」
思わずわたくしは笑った。
「見事なくらい、捏造だけが崩れておりますわ」
見物席から、誰かの「うそだろ」という声が漏れる。
ルナさんが胸へ手を当て、ほっとしたように目を閉じた。
商人書記は「なるほど」と唸り、セレス教諭は完全に言葉を失っていた。
そして、スマホの待ち受けで、捏造証拠による冤罪を示す棘が、ついに音を立てて砕けた。
画面越しでもわかる。黒い表面が割れ、その中から青い線がまっすぐ走る。
痛快、とはたぶんこういう瞬間に使うのだ。
「殿下」
わたくしは立ち上がった。
自分でも驚くほど、声は澄んでいた。
「偽物で人を潰そうとするのは、ずいぶん雑なやり方ですわね」
「……」
「わたくしを嫌うのはご自由です。けれど、嘘でルナさんを傷つけ、市場まで巻き込むのは許しません」
エドガーは答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。彼の目は、怒りより先に驚きで揺れていた。自分が信じた“もっともらしい証拠”が、これほどあっさり崩れるとは思っていなかった顔だ。
セレス教諭がようやく口を開く。
「本件資料は、再鑑定に回します。予備審問における現時点の評価は保留――」
「保留では困りますわ」
わたくしは遮った。
「少なくとも、今ここで出された結晶と写しは、偽造の疑いが極めて高い。それは記録に残してくださいまし」
「……そうします」
「ありがとうございます」
そこでようやく、肩から力が抜けた。
怖かった。ほんとうに怖かった。さっき通信結晶が再生された瞬間は、もう終わったと思った。声まで似せられ、公共の害悪まで被せられたら、ひっくり返せないかもしれないと。
それでも、逃げずに細部を見た。
シオンが術式を追い、ルナさんが証言し、市場側の書記が数字を見た。台所の女将が現場の手触りを語り、会計補助の生徒が封の違和感を指した。向こう側の人たちも、最小限の言葉で要点をくれた。
誰か一人の機転ではない。違う立場の視点が合わさって、ようやく嘘を弱らせたのだ。
それが、昨日までのわたくしにはなかった強さだ。
審問がいったん解かれ、人々がざわめきながら席を立つ。
今度の空気は、前のような嫌悪ではない。驚きと戸惑いと、少しの恐れ。註記の光が本物だった以上、さっきまで“もっともらしい”と思っていた証拠そのものが、急に危険物へ変わったのだから当然だ。
ルナさんがこちらへ駆け寄る。
「ヴィオレッタ様、大丈夫でしたか」
「大丈夫ではありませんでしたけれど、今は大丈夫ですわ」
「その答え方、ちょっと好きです」
「こんなところで好感度を稼がないでくださいまし」
「稼いでません」
「いや、だいぶ稼いでおりますわよ」
緊張が解けたせいか、二人で少し笑ってしまう。
その横でシオンが小さく息を吐いた。
「結論から言います。今日のあなたはよく耐えました」
「……褒めました?」
「事実です」
「本日は事実でよく褒めてくださいますわね」
「昨日のあなたがひどすぎた反動です」
「差分で褒められておりますの!?」
ペトラが腕を組む。
「お嬢、今のは勝ちです」
「でしょう?」
「ただし命綱が三本くらいありました」
「そこは認めますわ」
「認めるんだ」
「今日は認めるほうが強いと学びましたの」
そのときだった。
「いやはや」
柔らかな声が、背後から落ちた。
振り向く。
そこにいたのは、濃紺の長衣へ銀の星模様をまとった男――カルヴァン星導卿だった。ホールで見たときと同じ、整いすぎた微笑み。穏やかなのに、近づかれるほど温度が下がるような気配。
「ずいぶんと、見事に崩しましたね」
「見事に偽物でしたもの」
わたくしは即答した。ここで怯んだら負けだ。
「嘘は崩れるようにできておりますの」
「普通なら、ここまで綺麗には崩れませんよ」
カルヴァンは、床へ散った光の名残を見下ろす。
「術者の偽装はもっと粘る。市場の写しも、もう少し時間を稼げたでしょう。ですが、あなたのそれは……異質だ」
視線が、まっすぐわたくしの袖の内へ落ちる。
スマホを隠している位置だ。
背筋がひやりとした。
シオンが半歩前へ出る。
「星導卿、何か」
「いえ。ただの感想です」
カルヴァンはやわらかく笑う。
「外から来た観測者は、困りますね」




