表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/9

5.ちゃんと学ぶ、ちゃんと謝る

 いちばん痛い勉強は、自分が浅いと認めるところから始まりますのね。


 翌朝のわたくしは、まだ少し熱の残る頬を両手で押さえながら、王立星冠学園の書庫の前に立っていた。高い窓から落ちる朝の光は青白く、石床の上を細い川みたいに流れている。古い扉の金具はひやりと冷たく、触れた指先へ現実だけをきっちり教えてきた。


 昨日、わたくしは数字に酔ってルナさんを危険へ晒した。


 言葉にすると短い。けれど、その短さのぶんだけ逃げ場がない。タイムラインの向こうで拍手が増えても、現実で震えたルナさんの肩は一つしかないし、シオンが切った術式の線も一本しかない。そして、その一本に黒い火花を混ぜたのは、おそらくわたくしだ。


(はい、反省会終了ですわ。ここからは再発防止ですの)


 胸の内でそう言い切って、扉を押し開けた。


 書庫の空気は、外より少しだけ冷たい。紙と革とインクの匂いが重なり、静かなのに妙に背筋が伸びる場所だ。棚のあいだを青い朝光が走り、細かな埃まで星屑みたいに見える。いかにも頭が良くなりそうな空間で、いかにも頭の悪い決意を抱えたわたくしは、一番奥の机にまっすぐ歩いた。


 そこにはもう、シオンがいた。


 灰色の髪は朝の光を受けて少し白く見え、青い瞳だけがやたらと醒めている。机には本の山。法規集、祭礼運営記録、星導術基礎論、王国史、そしてなぜか礼法書まで積まれていた。


「ごきげんよう」

「おはようございます。逃げずに来たのは評価します」

「初手の台詞が厳しすぎませんこと?」

「昨日のあなたはもっと厳しかったので、これでも温情です」

「それは痛いところを突いてきますわね……」


 でも、その痛さが今日はありがたい。甘やかされたら、たぶんわたくしは途中でまた都合のいいほうへ逃げる。


 わたくしは椅子を引き、鞄――という名の上品な手提げ袋を机へ置いた。

「学びに参りましたわ」

「漠然としていますね」

「全部ですの」

「全部」

「法律、歴史、星導術、民衆対応、あと自制」

「最後の分野が最難関です」


 悔しいけれど、そこは否定できない。

 シオンは本を四冊、どん、とこちらへ寄せた。机が少し揺れる。


「今日の優先順位です。第一に、学園と祭礼の運営規則。第二に、証拠保全と申告の基本。第三に、星導術の基礎。第四に、慈善行事の実務」

「盛りだくさんですわね」

「あなたが足りていないもの一覧です」

「容赦がありませんわ!」

「昨日、数字だけ見て走った人に遠慮している場合ではないので」


 そこへ、パンの香りと一緒にペトラが滑り込んできた。片手に紙袋、もう片手に筆記具の束。

「お嬢、朝食を持ってきました。あと、途中で倒れたら面倒なので糖分も」

「ありがとう、ペトラ。あなた、いま一瞬だけわたくしを荷物扱いしませんでした?」

「大事な荷物です」

「荷物ですのね」

「褒め言葉ではありませんが、愛はあります」

「微妙ですわねえ!」


 ペトラが机へパンと果物と甘い茶を並べる。シオンはそれを横目で見てから、わたくしへ一枚の紙を差し出した。

「まずは反省文ではなく、事実整理です」

「事実整理」

「昨日、何を投稿し、どんな反応が来て、どの時点で黒い火花が混じったか」

「うっ」

「痛そうな顔をしない」

「だって一番見たくないところですの」

「だから見るんです」


 ぐうの音も出ない。

 わたくしはスマホを取り出し、通知を切ったまま投稿履歴だけを開いた。昨日の自分の言葉が、朝の書庫の冷たい光の下だと余計に軽薄に見える。王子様は舞台がお好き、主役級のライトを当ててほしい、だの何だの。たしかにその瞬間は気持ちよかったのだ。けれど、いま読むと「うわぁ……」しか出ない。


「……これ、ひどいですわね」

「やっと自覚しましたか」

「しておりましたわよ! でも朝の客観視で追い打ちされると、ひどさが増しますの」

「よかったです。客観視の第一歩です」

「よくありませんわ」


 それでも、シオンに促されるままに時系列を書き出す。どの投稿で数字が跳ねたか。どの返信から雑な熱が増えたか。小箱が何を落としたか。黒い火花がいつ混ざったか。

 並べてみると、気持ち悪いくらいはっきりしていた。事実確認と助言が多いときは青く穏やか。煽りと野次馬の熱が増えると、黒い火花が混じる。しかも出てくる物まで、見栄え重視の舞台小道具に寄っていた。


 シオンが紙を覗き込む。

「傾向は明確ですね」

「……ええ」

「つまり、現象は数字の量だけでなく、熱の質にも影響される」

「そうなりますわね」

「なら今後は、数字を取りにいくのではなく、必要な質を選んで集めるべきです」

「必要な質」

「事実、工夫、共感、手伝い」

「まるで教科書の見出しですわ」

「教科書から学ぶべきなので」


 悔しい。悔しいけれど正しい。


 わたくしは顔を上げた。

「では質問ですわ。王国法における正式な供述調書の要件は、採録者名、採録時刻、保管者名――」

「いきなりそこから?」

「昨日いちばん効いたところですもの」

「一夜漬けの匂いがすごい」

「いま必要なのは点数ではなく生存ですの」


 シオンの口元がほんの少しだけ動いた。たぶん笑いをこらえたのだ。今のところ、それだけでちょっと嬉しい。


 そこからの二時間は、容赦のない勉強会になった。


 契約と慣習の違い。

 学園規則と王家勅令の優先順位。

 祭礼委員会の権限範囲。

 保管印の意味。

 星導術における共鳴と増幅の区別。

 慈善行事で最初に確認すべきは見栄えではなく、人数、動線、水、火気、記録。


 わたくしは何度も間違えた。

 びっくりするくらい間違えた。

 しかも間違えるたび、「その言葉だけは聞いたことありますの」「まとめではそう言っておりましたのに」と、前世のTwitter教養がぴょこぴょこ顔を出す。そこへシオンが一つずつ冷静に刃を入れる。


「知っている言葉を並べるのと、使える知識を持つのは別です」

「ぐっ」

「今のは刺さるとわかっていて言いました」

「自白なさいましたわね!?」

「ええ」

「清々しいほど嫌な男ですわ」

「うるさいですが、そこは長所です」

「それ、自分で言ってよい台詞ではありませんのよ」


 ペトラは隣で、わたくしの解答用紙に小さく丸や三角を書き込んでいた。

「お嬢、今日のところは六割です」

「思ったより高いですわね」

「昨日が三割だったので伸び幅で見てます」

「採点が優しくて複雑ですわ」

「伸びる人を褒めるのが教育です」

「あなた、わりと先生向きではなくて?」

「問題児相手はちょっと」

「誰が問題児ですの」

「ここにいる三人のうち二人は先生側なので」

「消去法が露骨ですわねえ!」


 机に突っ伏したくなるたび、わたくしはスマホを開いた。ただし今日は、煽りではなく質問のために。


 慈善茶会の準備を手伝うことになりましたわ。五十人規模の行事で、まず何を整えるべきですの?


 返信はすぐに来た。


 @法務カピバラ

 記録係と金銭係を分けて。


 @理系の竜

 入口と出口を分ける。列を作らせるな。


 @考察班長

 お年寄りと子ども優先の席つくろう!


 今日はその三つが胸へすとんと落ちた。熱いけれど薄い言葉ではなく、現場で使える言葉。しかも、読むだけで具体的な絵が浮かぶ。


「シオン、列を作らせない、ってどういう意味ですの」

「入口で詰まると人は不安になる。視線も熱も集中して、事故が起きやすい」

「では札を用意して、役割ごとに入口を分ければ」

「正解」

「正解ですわよね!? いまの正解でしたわよね!?」

「騒がしいですが正解です」

「うれしいですわ!」


 それだけで頬が緩む。昨日のような爆発的な気持ちよさではない。もっと地味で、もっと着実で、でもたしかに嬉しい。

 わたくしは投稿を続けた。


 ありがとうございます。では色札と役割分担ですわね。記録係と会計係は分けますの。


 その直後、青白い星屑が机の上へぱらりと落ちた。小さな箱が二つ。開けると、色分けされた札束、細い紐、目印の木札、記録用の小帳面がきちんと入っている。


「今度は完全に実用品です」

 ペトラが目を丸くした。

「昨日のキラキラ小道具祭りより、だいぶ平和ですわね」

「必要に寄せたからでしょう」

 シオンは木札を一枚取り上げ、裏表を確かめる。

「……品質も悪くない」

「褒めました?」

「事実を述べただけです」

「最近その逃げ方が多くありません?」

「褒められたいなら、次も正解してください」

「上等ですわ」


「失礼、します」


 振り向けば、ルナさんが立っていた。

 白い制服の胸元に、薄水色のリボン。手には湯気の立つポットと小皿を載せた盆。朝の光が後ろから差して、栗色の髪の縁をやわらかく透かしている。昨日のホールでの恐怖が完全に消えたわけではないのだろう。それでも彼女は、ちゃんとここへ来てくれた。


「ルナさん」

「えっと、書庫の司書さんから、お茶を……長くなるって聞いて」

「助かりますわ!」


 ほとんど反射で立ち上がり、慌てて盆を受け取る。少し熱くて、少し嬉しい。

 ルナさんは机に並ぶ本の山を見て、目をぱちぱちさせた。

「ほんとうに、勉強してるんですね」

「疑っておいででしたの?」

「少しだけ」

「正直でよろしいですわ」

 言いながら、胸がちくりとする。そうだ。まだわたくしは、こういうふうに疑われる位置にいる。それは当然だ。だからこそ、言葉ではなく積み上げで見せるしかない。


 わたくしは一度、息を整えた。

「ルナさん」

「はい」

「昨日のこと、あらためてお詫びいたしますわ」

 盆を置き、まっすぐ彼女を見る。

「わたくし、あなたを守ると言いながら、自分の焦りと見栄で危険に巻き込みました。ほんとうに申し訳ありませんでした」


 ペトラもシオンも口を挟まない。書庫の空気だけが、少し冷えて、少し澄む。


 ルナさんは驚いたみたいに目を見開き、それから小さく首を振った。

「怖かったです。でも、ヴィオレッタ様がちゃんと謝ってくれたから」

「それで消えることではありませんわ」

「うん。でも、謝ってくれない人より、ずっと信じたいです」

 柔らかな声なのに、芯がある。

「わたし、今日の午後、街の慈善茶会を手伝うんです。学園からも何人か行くので……もし、ヴィオレッタ様が来てくれるなら、うれしいです」


「わたくしが?」

「はい」

「嫌ではなくて?」

「昨日のあとだと、ちょっと不安です」

「そこも正直ですわね!」

「でも」

 ルナさんは少し笑った。

「逃げないって言ってくれたので」


 その一言で、胸の奥がきゅっとした。

 逃げない。たしかにわたくしはそう言った。言った以上、やるしかない。


「参りますわ」

 わたくしは即答した。

「ただし条件がございます」

「条件?」

「表で目立つのではなく、裏方からですの。給仕でも、会計でも、記録でも、何でもいたしますわ」

 ルナさんは少し驚いて、それからほっとしたように笑った。

「それなら、ぜひ」


 シオンが机の上を指で叩く。

「ちょうどいい実地訓練ですね」

「人を教材扱いしないでくださいまし」

「教材になるのはあなたです」

「なお悪いですわ!」

 でも、彼の目はさっきより柔らかい。たぶん、わたくしが逃げずに謝ったことを見ていたからだ。


 結局、昼までの残り時間は慈善茶会の準備勉強に変わった。

 寄付金の管理方法。

 名簿のつけ方。

 茶の配り方。

 子どもと高齢者の動線分け。

 こぼした場合の対応。

 貴族の善意が押しつけにならない声かけの仕方。


「“施してあげる”ではなく、“今日はお越しくださってありがとうございます”」

 シオンが文例を読み上げる。

「立場を高く置いたままだと反発が生まれます」

「うっ」

「刺さるなら覚えてください」

「本日何本目のうっ、かしら」

 ペトラが数えていた紙を見た。

「十四本目です」

「数えてましたの!?」

「伸び代の記録です」

「楽しそうですわねえ!」

「ちょっと」


 ルナさんはそのやり取りを聞いて、ついに声を上げて笑った。書庫に似合わないくらい明るい笑いだったけれど、不思議と誰も咎めなかった。たぶんそれだけ、空気が和らいでいた。


 午後、街の慈善茶会が開かれる広間は、学園よりずっと人の温度が近かった。


 石造りの町会堂を借りた会場には、やわらかなクリーム色の布がかけられ、窓辺には小さな花瓶が並んでいる。高窓からの陽はもう昼の金色で、並べられた茶器やガラス瓶をあたたかく照らしていた。外からは市場の賑わいが遠く聞こえ、焼きたてのパンと砂糖菓子の香りが風に混じる。華美ではない。でも人が安心して座れそうな、いい場所だった。


 そして、その入口で、数人の町人がわたくしを見て固まった。


「……ローゼンティア様?」

「まあ」

「え、なんであの方が」


 ええ、そうなりますわよね。

 公爵令嬢が慈善茶会の裏方にいるなんて、どう考えても絵としておかしい。しかも学園での噂つきだ。歓迎されないのは当然だ。


 でも、今日はそこでむっとしている場合ではない。


「ごきげんよう」

 わたくしは持ってきた木札の束を抱え直し、会釈した。

「本日はお手伝いに参りましたわ。立っていると邪魔ですので、働きます」

 言い切って、すぐ動く。

 入口と出口を分ける札を吊るす。記録係の机を窓際へ。寄付金箱は二人で見える位置へ。子ども用の低い卓と、高齢者が立ち上がりやすい背つき椅子を奥へ。水差しは目立たないがすぐ届く位置へ。


「ペトラ、その紐をこちらへ」

「はい!」

「ルナさん、挨拶の席は入口から見える位置に」

「わかりました」

「シオン、会計係の位置、ここでよろしい?」

「動線としては及第点です」

「褒めました?」

「半分だけ」


 開場前は、嵐の前みたいに忙しい。

 布が足りない、茶葉の箱が開かない、椅子の数が合わない、子どもが早く来て走り回る。小さな問題が次々に起こる。そのたび、わたくしは深呼吸して、一つずつ処理した。

 机で学んだことを、そのまま手でなぞるみたいに。


 スマホへも一つだけ短く投稿した。


 慈善茶会、開場前ですの。人を待たせすぎず、焦らせず、でも回るようにしたいですわ。声かけのコツ、まだあります?


 返ってきたのは熱い声ではなく、実務の声だった。


 @法務カピバラ

 名簿記入は入口で詰まる。着席後でも可に。


 @理系の竜

 先に茶ではなく水。喉の乾きが苛立ちを増やす。


 @考察班長

 来てくれてありがとうって最初に言うと空気やわらぐよ!


「……」

「どうしました、お嬢」

 ペトラが首を傾げる。

「いえ、なんだか向こう側まで、今日は優しいですわね」

「昨日ほど燃えてないからでは」

「それはそうですわね」


 青白い星屑が一筋だけ落ち、小箱が一つ現れた。中には小さな水杯の印をつけた木札と、簡単な名簿用紙。必要なものが、必要なだけ。派手さはない。けれど、昨日の見栄えだけの品より、ずっと嬉しかった。


 開場すると、最初はみんなぎこちなかった。


 町の母親たちは、わたくしを見るたび少し背筋を伸ばし、老人たちは目を丸くし、子どもたちは「きれいな人」と「こわい人」のあいだで揺れる顔をする。学園の令嬢たちも、わたくしが本当に裏方へ回るとは思っていなかったのか、何度もこちらを見ていた。


 でも、わたくしは表に立たなかった。

 挨拶の中心はルナさんに任せ、自分は受付の動線を見て回る。こぼれた茶を拭き、空いた椅子を詰め、子どもの高さに合わせて焼き菓子の皿を置き直す。会計係が戸惑えば帳面を開き、寄付金箱の封を確認し、足りないカップがあれば予備を持って走る。


 公爵令嬢が走るな、という声がどこかから聞こえた気がした。知りませんわ。いま必要なのは体裁ではなく回転ですもの。


「ヴィオレッタ様、こちらのおばあさまが段差で」

「ただいまですわ」


 銀髪の老婦人の前にしゃがみこむ。床と靴の高さを見て、すぐ脇の板を持ってくる。

「こちらを渡せば楽になりますわ」

「まあ……そんなことまで」

「立派な茶会ほど、座るまでが大事ですのよ」

 前世のわたしなら絶対に言わなかった台詞だ。でも今日は、こういうところが本当に大事だと知っている。


 小さな男の子が皿をひっくり返したときも、わたくしはまず「火傷はありませんこと?」と膝をつき、ペトラに布を頼んで、子どもと母親を落ち着かせた。自分のドレスの袖が少し汚れたけれど、そんなのどうでもいい。

 むしろ、汚れた袖を見て初めて、ちゃんと働いている気がした。


 そうしているうちに、最初は刺さっていた視線が、少しずつほどけていくのがわかった。

 賞賛ではない。けれど、警戒だけではなくなる。目が合えば小さく会釈が返る。道を譲れば「ありがとう」と言われる。学園の令嬢の一人が、恐る恐る「次は何を運べば」と訊いてくる。

 たったそれだけのことで、胸の中の黒く濃くなった棘が、ほんの少し軋んだ気がした。


「ヴィオレッタ様」

 会場の一角から、ルナさんの声が飛ぶ。

「入口が少し詰まってきました」

「名簿は着席後に回してくださいまし! 先にお水を」

「はい!」


 ちゃんと回る。

 昨日みたいに、勢いだけで暴れない。学んだ分だけ、整う。


 そのときだった。

 受付付近で、ひそひそ声が少し大きくなる。


「でも、所詮は公爵家の見せかけでは?」

「評判を戻したいだけじゃないの」

「ほら、やっぱり前へ出てきたでしょう?」


 うわ、来ましたわね。

 町の噂というやつは、黙って消えるほどやさしくない。むしろ、少しでも目立てばすぐ芽を出す。

 昨日までのわたくしなら、たぶん即座に振り向いて言い返していた。わたくしがどれだけ動いていると思ってますの、見る目がございませんわね、と。


 でも今日は、一歩だけ止まる。

 言い返したくて、舌の先が熱くなる。けれど、その熱の味を昨日もう知った。


 だから、ぐっと飲み込んだ。

 代わりに、近くで困っていた配茶係へ行く。

「そちらの列、子どもを先に通して」

「は、はいっ」

「こちらはカップが足りておりませんわね。予備をお持ちします」


 聞こえないふりではない。聞こえている。でも、その声にいちいち火をつけて回るより、目の前の一人を楽にしたほうが、今日の目的に近い。

 それがわかったのは、たぶん少しだけ成長だ。


 とはいえ、内心は普通に痛い。

(いや、聞こえておりますわよ。見せかけ、評判戻し、全部図星っぽいのが腹立ちますわね!)

 けれど、その痛さを抱えたまま手を動かす。布を直し、茶を注ぎ、水を足し、帳面へ印をつける。

 そうしていると、背後で、ルナさんの声が響いた。


「違います」

 会場のざわめきが、ふっと薄くなる。


 ルナさんは受付近くへ立ち、噂話をしていた女性たちをまっすぐ見ていた。柔らかい子なのに、こういうときの芯は驚くほど強い。


「ヴィオレッタ様は、今日ずっと裏で動いてくれています。配置も、お水も、名簿の順番も、全部考えてくれたんです」

「ルナさん……」

「見せかけで、こんなに走れません」

 その言葉に、何人かが気まずそうに目を逸らす。

「わたし、昨日まで怖かったです。でも、今は助けられています。だから、わたしはそう思いません」


 胸が、ぎゅっと掴まれたみたいになった。


 ずるい。

 そういうの、真正面から言われると、ほんとうに弱いですのよ。


 シオンまで、会計卓から顔を上げて言った。

「本日の帳面、札、寄付金の封、導線の整理、いずれもヴィオレッタ様が主導しています。少なくとも、僕は実務上とても助かっています」

「シオンまで」

「事実です」

「……ほんとうに事実しか言いませんわね」

「そこが長所なので」

「自分でまた言いましたわね!?」


 周囲から、小さな笑いが漏れた。

 それは嘲笑ではなく、ようやく肩の力が抜けたような笑いだった。空気が、少しあたたかくなる。

 町の母親の一人が、おそるおそるこちらを見た。

「その……お嬢様、さっきは水をありがとうございます」

「どういたしまして」

「あと、椅子も」

「当然のことですわ」

「当然って、なかなかできないですよ」

 照れたように言われて、わたくしのほうが言葉に詰まる。たったそれだけの感謝が、昨日まで浴びていた拍手より重く感じた。


 会場の空気は、それから目に見えて変わっていった。


 子どもがわたくしの裾をつついて「おかわり」と言う。

 老婦人が「その札、見やすくて助かるわ」と微笑む。

 学園の令嬢が「次は何をしたら」と自分から尋ねてくる。

 わたくしが何かをするたび、周りがそれを見て、次の一人が少しだけ近づく。

 派手な逆転ではない。じわじわと、でも確実に、敵意がほどけていく。


 スマホが一度だけ震えた。

 覗くと、通知はやはり穏やかなものばかりだ。


 @考察班長

 今日の悪役令嬢、地味にめちゃくちゃかっこいい。


 @理系の竜

 現場改善の話は強い。


 @法務カピバラ

 人は手続きと誠実さの積み重ねで動きます。続けて。


 わたくしは、画面を見て、少しだけ笑った。

 前みたいな爆発じゃない。けれど、胸の奥がじんわりあたたかくなる。

 向こう側の人たちも、今日は煽りを求めていない。ちゃんと見て、ちゃんと応援してくれている。それが伝わる。


 茶会の終盤、最後のポットの湯を注ぎ終えたころには、夕方の光が窓辺を淡い橙に染めていた。ガラス器の縁に金が走り、会場の空気は最初よりずっと柔らかい。子どもたちの笑い声。椅子を引く音。茶器の軽い触れ合い。人が安心して帰っていくときの、やわらかなざわめき。

 その真ん中で、わたくしはようやく息を吐いた。


「終わりましたわね……」

「ええ」

 ペトラが腕を伸ばす。

「お嬢、今日めっちゃ働きました」

「でしょう?」

「しかも怒鳴ってません」

「そこはもっと別の褒め方がございません?」

「でも大事です」

「大事ですわね……」

 自分で言って、自分で少し笑う。ほんとうに、そこからなのだ。


 ルナさんが小さな包みを持って近づいてきた。

「お疲れさまです。お礼に、お菓子を少しだけ」

「まあ」

「台所の人が、ヴィオレッタ様によくしてもらったからって」

「わたくし、泣いてしまいそうですわ」

「泣きます?」

「公爵令嬢ですので、ここでは耐えますの」

「そこは耐えるんですね」

「いま泣いたら、たぶん全部こぼれますもの」


 シオンが帳面を閉じる。

「寄付金の帳尻も合いました。札の配置も有効でした。入口と出口を分けたのも正解です」

「つまり?」

「今日のあなたは、及第点です」

「……っ」

 その一言が、思った以上に響いた。

「及第点、ですの?」

「はい」

「それ、だいぶ嬉しいですわ」

「そうでしょうね」

「もっともったいぶってくださいまし」

「うるさいですが、今日はよくやりました」

「褒めましたわ!」

「事実を述べました」

「逃げないでくださいまし!」


 笑いながら、ふとスマホを開く。

 待ち受けの七本の棘。

 そのうち二本――学園での孤立と、民衆の敵認定を示すはずの棘に、はっきりとひびが入っていた。黒い表面の内側から、細い青白い光がのぞいている。

 大きく、深く。まだ折れてはいない。けれど昨日までの黒一色とは違う。


 胸が、じん、とした。

 それはバズったときの熱とはまるで違う。もっと静かで、でも深いところへ届く熱だ。


「……応援されるって、こういうことですのね」

 気づけば、ぽつりとそう呟いていた。


 ルナさんが首を傾げる。

「応援?」

「ええ」

 わたくしはスマホを軽く持ち上げ、それからすぐ下ろした。

「向こう側の人たちもそうですけれど、今ここで、次は何をしたらいいかって聞いてくださる声とか、ありがとうって言ってくださる声とか、そういうのが……」

 うまく言葉にならない。

 けれど、胸の中には確かにある。

「気持ちの良い拍手より、ずっと重いですわ」

 シオンが静かに言う。

「それはたぶん、あなたが自分で積み上げた分の重さです」

「……それ、今日いちばん良いことを言っておりますわよ」

「不本意です」

「台無しですわね!」


 会場を片づけ、外へ出ると、夕暮れの街は蜂蜜みたいな金色に溶けていた。石畳は昼の熱を少しだけ残し、屋台からは焼き栗の匂い、遠くからは鐘の音。肩の力が抜けた人たちの歩く速さまで、どこかやさしい。


 書庫へ戻って帳面をしまい、最後の確認を終えるころには、窓の外は青い夕闇へ沈み始めていた。高窓に残る光は薄く、棚の縁だけがかすかに銀を帯びている。静かな夜の入り口だ。


 わたくしは今日一日のまとめを、短く投稿した。


 本日は慈善茶会のお手伝いでしたわ。煽るより、整えるほうがずっと難しいですのね。でも、そのぶん、うれしさも深いですわ。助言をくださった皆さま、ありがとうございました。


 送信して、すぐに画面を閉じる。

 今日は数字を見ない。そう決める。

 見なくても、きっと届いていると、少しだけ信じられるから。


 その瞬間だった。


 スマホの中央で、今までなかった小さな光点が灯った。青白い羽根みたいな印。細い線が円を描き、その中心へ、見覚えのない文字がゆっくり浮かび上がる。


 註記


「……は?」


 わたくしは目を瞬いた。

 ペトラが横からのぞき込む。

「新しいの出ました?」

「出ましたわ」

「今度は何です」

「わかりませんの」


 シオンも机越しに身を乗り出す。

「表示を」

「ええ」


 羽根の印が一度だけまたたき、続けて説明文めいた短い文が現れた。


 異なる立場からの納得が集まると、虚偽を弱らせます


 書庫の夕闇の中で、その文字だけがひどくはっきり光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ