5.ちゃんと学ぶ、ちゃんと謝る
いちばん痛い勉強は、自分が浅いと認めるところから始まりますのね。
翌朝のわたくしは、まだ少し熱の残る頬を両手で押さえながら、王立星冠学園の書庫の前に立っていた。高い窓から落ちる朝の光は青白く、石床の上を細い川みたいに流れている。古い扉の金具はひやりと冷たく、触れた指先へ現実だけをきっちり教えてきた。
昨日、わたくしは数字に酔ってルナさんを危険へ晒した。
言葉にすると短い。けれど、その短さのぶんだけ逃げ場がない。タイムラインの向こうで拍手が増えても、現実で震えたルナさんの肩は一つしかないし、シオンが切った術式の線も一本しかない。そして、その一本に黒い火花を混ぜたのは、おそらくわたくしだ。
(はい、反省会終了ですわ。ここからは再発防止ですの)
胸の内でそう言い切って、扉を押し開けた。
書庫の空気は、外より少しだけ冷たい。紙と革とインクの匂いが重なり、静かなのに妙に背筋が伸びる場所だ。棚のあいだを青い朝光が走り、細かな埃まで星屑みたいに見える。いかにも頭が良くなりそうな空間で、いかにも頭の悪い決意を抱えたわたくしは、一番奥の机にまっすぐ歩いた。
そこにはもう、シオンがいた。
灰色の髪は朝の光を受けて少し白く見え、青い瞳だけがやたらと醒めている。机には本の山。法規集、祭礼運営記録、星導術基礎論、王国史、そしてなぜか礼法書まで積まれていた。
「ごきげんよう」
「おはようございます。逃げずに来たのは評価します」
「初手の台詞が厳しすぎませんこと?」
「昨日のあなたはもっと厳しかったので、これでも温情です」
「それは痛いところを突いてきますわね……」
でも、その痛さが今日はありがたい。甘やかされたら、たぶんわたくしは途中でまた都合のいいほうへ逃げる。
わたくしは椅子を引き、鞄――という名の上品な手提げ袋を机へ置いた。
「学びに参りましたわ」
「漠然としていますね」
「全部ですの」
「全部」
「法律、歴史、星導術、民衆対応、あと自制」
「最後の分野が最難関です」
悔しいけれど、そこは否定できない。
シオンは本を四冊、どん、とこちらへ寄せた。机が少し揺れる。
「今日の優先順位です。第一に、学園と祭礼の運営規則。第二に、証拠保全と申告の基本。第三に、星導術の基礎。第四に、慈善行事の実務」
「盛りだくさんですわね」
「あなたが足りていないもの一覧です」
「容赦がありませんわ!」
「昨日、数字だけ見て走った人に遠慮している場合ではないので」
そこへ、パンの香りと一緒にペトラが滑り込んできた。片手に紙袋、もう片手に筆記具の束。
「お嬢、朝食を持ってきました。あと、途中で倒れたら面倒なので糖分も」
「ありがとう、ペトラ。あなた、いま一瞬だけわたくしを荷物扱いしませんでした?」
「大事な荷物です」
「荷物ですのね」
「褒め言葉ではありませんが、愛はあります」
「微妙ですわねえ!」
ペトラが机へパンと果物と甘い茶を並べる。シオンはそれを横目で見てから、わたくしへ一枚の紙を差し出した。
「まずは反省文ではなく、事実整理です」
「事実整理」
「昨日、何を投稿し、どんな反応が来て、どの時点で黒い火花が混じったか」
「うっ」
「痛そうな顔をしない」
「だって一番見たくないところですの」
「だから見るんです」
ぐうの音も出ない。
わたくしはスマホを取り出し、通知を切ったまま投稿履歴だけを開いた。昨日の自分の言葉が、朝の書庫の冷たい光の下だと余計に軽薄に見える。王子様は舞台がお好き、主役級のライトを当ててほしい、だの何だの。たしかにその瞬間は気持ちよかったのだ。けれど、いま読むと「うわぁ……」しか出ない。
「……これ、ひどいですわね」
「やっと自覚しましたか」
「しておりましたわよ! でも朝の客観視で追い打ちされると、ひどさが増しますの」
「よかったです。客観視の第一歩です」
「よくありませんわ」
それでも、シオンに促されるままに時系列を書き出す。どの投稿で数字が跳ねたか。どの返信から雑な熱が増えたか。小箱が何を落としたか。黒い火花がいつ混ざったか。
並べてみると、気持ち悪いくらいはっきりしていた。事実確認と助言が多いときは青く穏やか。煽りと野次馬の熱が増えると、黒い火花が混じる。しかも出てくる物まで、見栄え重視の舞台小道具に寄っていた。
シオンが紙を覗き込む。
「傾向は明確ですね」
「……ええ」
「つまり、現象は数字の量だけでなく、熱の質にも影響される」
「そうなりますわね」
「なら今後は、数字を取りにいくのではなく、必要な質を選んで集めるべきです」
「必要な質」
「事実、工夫、共感、手伝い」
「まるで教科書の見出しですわ」
「教科書から学ぶべきなので」
悔しい。悔しいけれど正しい。
わたくしは顔を上げた。
「では質問ですわ。王国法における正式な供述調書の要件は、採録者名、採録時刻、保管者名――」
「いきなりそこから?」
「昨日いちばん効いたところですもの」
「一夜漬けの匂いがすごい」
「いま必要なのは点数ではなく生存ですの」
シオンの口元がほんの少しだけ動いた。たぶん笑いをこらえたのだ。今のところ、それだけでちょっと嬉しい。
そこからの二時間は、容赦のない勉強会になった。
契約と慣習の違い。
学園規則と王家勅令の優先順位。
祭礼委員会の権限範囲。
保管印の意味。
星導術における共鳴と増幅の区別。
慈善行事で最初に確認すべきは見栄えではなく、人数、動線、水、火気、記録。
わたくしは何度も間違えた。
びっくりするくらい間違えた。
しかも間違えるたび、「その言葉だけは聞いたことありますの」「まとめではそう言っておりましたのに」と、前世のTwitter教養がぴょこぴょこ顔を出す。そこへシオンが一つずつ冷静に刃を入れる。
「知っている言葉を並べるのと、使える知識を持つのは別です」
「ぐっ」
「今のは刺さるとわかっていて言いました」
「自白なさいましたわね!?」
「ええ」
「清々しいほど嫌な男ですわ」
「うるさいですが、そこは長所です」
「それ、自分で言ってよい台詞ではありませんのよ」
ペトラは隣で、わたくしの解答用紙に小さく丸や三角を書き込んでいた。
「お嬢、今日のところは六割です」
「思ったより高いですわね」
「昨日が三割だったので伸び幅で見てます」
「採点が優しくて複雑ですわ」
「伸びる人を褒めるのが教育です」
「あなた、わりと先生向きではなくて?」
「問題児相手はちょっと」
「誰が問題児ですの」
「ここにいる三人のうち二人は先生側なので」
「消去法が露骨ですわねえ!」
机に突っ伏したくなるたび、わたくしはスマホを開いた。ただし今日は、煽りではなく質問のために。
慈善茶会の準備を手伝うことになりましたわ。五十人規模の行事で、まず何を整えるべきですの?
返信はすぐに来た。
@法務カピバラ
記録係と金銭係を分けて。
@理系の竜
入口と出口を分ける。列を作らせるな。
@考察班長
お年寄りと子ども優先の席つくろう!
今日はその三つが胸へすとんと落ちた。熱いけれど薄い言葉ではなく、現場で使える言葉。しかも、読むだけで具体的な絵が浮かぶ。
「シオン、列を作らせない、ってどういう意味ですの」
「入口で詰まると人は不安になる。視線も熱も集中して、事故が起きやすい」
「では札を用意して、役割ごとに入口を分ければ」
「正解」
「正解ですわよね!? いまの正解でしたわよね!?」
「騒がしいですが正解です」
「うれしいですわ!」
それだけで頬が緩む。昨日のような爆発的な気持ちよさではない。もっと地味で、もっと着実で、でもたしかに嬉しい。
わたくしは投稿を続けた。
ありがとうございます。では色札と役割分担ですわね。記録係と会計係は分けますの。
その直後、青白い星屑が机の上へぱらりと落ちた。小さな箱が二つ。開けると、色分けされた札束、細い紐、目印の木札、記録用の小帳面がきちんと入っている。
「今度は完全に実用品です」
ペトラが目を丸くした。
「昨日のキラキラ小道具祭りより、だいぶ平和ですわね」
「必要に寄せたからでしょう」
シオンは木札を一枚取り上げ、裏表を確かめる。
「……品質も悪くない」
「褒めました?」
「事実を述べただけです」
「最近その逃げ方が多くありません?」
「褒められたいなら、次も正解してください」
「上等ですわ」
「失礼、します」
振り向けば、ルナさんが立っていた。
白い制服の胸元に、薄水色のリボン。手には湯気の立つポットと小皿を載せた盆。朝の光が後ろから差して、栗色の髪の縁をやわらかく透かしている。昨日のホールでの恐怖が完全に消えたわけではないのだろう。それでも彼女は、ちゃんとここへ来てくれた。
「ルナさん」
「えっと、書庫の司書さんから、お茶を……長くなるって聞いて」
「助かりますわ!」
ほとんど反射で立ち上がり、慌てて盆を受け取る。少し熱くて、少し嬉しい。
ルナさんは机に並ぶ本の山を見て、目をぱちぱちさせた。
「ほんとうに、勉強してるんですね」
「疑っておいででしたの?」
「少しだけ」
「正直でよろしいですわ」
言いながら、胸がちくりとする。そうだ。まだわたくしは、こういうふうに疑われる位置にいる。それは当然だ。だからこそ、言葉ではなく積み上げで見せるしかない。
わたくしは一度、息を整えた。
「ルナさん」
「はい」
「昨日のこと、あらためてお詫びいたしますわ」
盆を置き、まっすぐ彼女を見る。
「わたくし、あなたを守ると言いながら、自分の焦りと見栄で危険に巻き込みました。ほんとうに申し訳ありませんでした」
ペトラもシオンも口を挟まない。書庫の空気だけが、少し冷えて、少し澄む。
ルナさんは驚いたみたいに目を見開き、それから小さく首を振った。
「怖かったです。でも、ヴィオレッタ様がちゃんと謝ってくれたから」
「それで消えることではありませんわ」
「うん。でも、謝ってくれない人より、ずっと信じたいです」
柔らかな声なのに、芯がある。
「わたし、今日の午後、街の慈善茶会を手伝うんです。学園からも何人か行くので……もし、ヴィオレッタ様が来てくれるなら、うれしいです」
「わたくしが?」
「はい」
「嫌ではなくて?」
「昨日のあとだと、ちょっと不安です」
「そこも正直ですわね!」
「でも」
ルナさんは少し笑った。
「逃げないって言ってくれたので」
その一言で、胸の奥がきゅっとした。
逃げない。たしかにわたくしはそう言った。言った以上、やるしかない。
「参りますわ」
わたくしは即答した。
「ただし条件がございます」
「条件?」
「表で目立つのではなく、裏方からですの。給仕でも、会計でも、記録でも、何でもいたしますわ」
ルナさんは少し驚いて、それからほっとしたように笑った。
「それなら、ぜひ」
シオンが机の上を指で叩く。
「ちょうどいい実地訓練ですね」
「人を教材扱いしないでくださいまし」
「教材になるのはあなたです」
「なお悪いですわ!」
でも、彼の目はさっきより柔らかい。たぶん、わたくしが逃げずに謝ったことを見ていたからだ。
結局、昼までの残り時間は慈善茶会の準備勉強に変わった。
寄付金の管理方法。
名簿のつけ方。
茶の配り方。
子どもと高齢者の動線分け。
こぼした場合の対応。
貴族の善意が押しつけにならない声かけの仕方。
「“施してあげる”ではなく、“今日はお越しくださってありがとうございます”」
シオンが文例を読み上げる。
「立場を高く置いたままだと反発が生まれます」
「うっ」
「刺さるなら覚えてください」
「本日何本目のうっ、かしら」
ペトラが数えていた紙を見た。
「十四本目です」
「数えてましたの!?」
「伸び代の記録です」
「楽しそうですわねえ!」
「ちょっと」
ルナさんはそのやり取りを聞いて、ついに声を上げて笑った。書庫に似合わないくらい明るい笑いだったけれど、不思議と誰も咎めなかった。たぶんそれだけ、空気が和らいでいた。
午後、街の慈善茶会が開かれる広間は、学園よりずっと人の温度が近かった。
石造りの町会堂を借りた会場には、やわらかなクリーム色の布がかけられ、窓辺には小さな花瓶が並んでいる。高窓からの陽はもう昼の金色で、並べられた茶器やガラス瓶をあたたかく照らしていた。外からは市場の賑わいが遠く聞こえ、焼きたてのパンと砂糖菓子の香りが風に混じる。華美ではない。でも人が安心して座れそうな、いい場所だった。
そして、その入口で、数人の町人がわたくしを見て固まった。
「……ローゼンティア様?」
「まあ」
「え、なんであの方が」
ええ、そうなりますわよね。
公爵令嬢が慈善茶会の裏方にいるなんて、どう考えても絵としておかしい。しかも学園での噂つきだ。歓迎されないのは当然だ。
でも、今日はそこでむっとしている場合ではない。
「ごきげんよう」
わたくしは持ってきた木札の束を抱え直し、会釈した。
「本日はお手伝いに参りましたわ。立っていると邪魔ですので、働きます」
言い切って、すぐ動く。
入口と出口を分ける札を吊るす。記録係の机を窓際へ。寄付金箱は二人で見える位置へ。子ども用の低い卓と、高齢者が立ち上がりやすい背つき椅子を奥へ。水差しは目立たないがすぐ届く位置へ。
「ペトラ、その紐をこちらへ」
「はい!」
「ルナさん、挨拶の席は入口から見える位置に」
「わかりました」
「シオン、会計係の位置、ここでよろしい?」
「動線としては及第点です」
「褒めました?」
「半分だけ」
開場前は、嵐の前みたいに忙しい。
布が足りない、茶葉の箱が開かない、椅子の数が合わない、子どもが早く来て走り回る。小さな問題が次々に起こる。そのたび、わたくしは深呼吸して、一つずつ処理した。
机で学んだことを、そのまま手でなぞるみたいに。
スマホへも一つだけ短く投稿した。
慈善茶会、開場前ですの。人を待たせすぎず、焦らせず、でも回るようにしたいですわ。声かけのコツ、まだあります?
返ってきたのは熱い声ではなく、実務の声だった。
@法務カピバラ
名簿記入は入口で詰まる。着席後でも可に。
@理系の竜
先に茶ではなく水。喉の乾きが苛立ちを増やす。
@考察班長
来てくれてありがとうって最初に言うと空気やわらぐよ!
「……」
「どうしました、お嬢」
ペトラが首を傾げる。
「いえ、なんだか向こう側まで、今日は優しいですわね」
「昨日ほど燃えてないからでは」
「それはそうですわね」
青白い星屑が一筋だけ落ち、小箱が一つ現れた。中には小さな水杯の印をつけた木札と、簡単な名簿用紙。必要なものが、必要なだけ。派手さはない。けれど、昨日の見栄えだけの品より、ずっと嬉しかった。
開場すると、最初はみんなぎこちなかった。
町の母親たちは、わたくしを見るたび少し背筋を伸ばし、老人たちは目を丸くし、子どもたちは「きれいな人」と「こわい人」のあいだで揺れる顔をする。学園の令嬢たちも、わたくしが本当に裏方へ回るとは思っていなかったのか、何度もこちらを見ていた。
でも、わたくしは表に立たなかった。
挨拶の中心はルナさんに任せ、自分は受付の動線を見て回る。こぼれた茶を拭き、空いた椅子を詰め、子どもの高さに合わせて焼き菓子の皿を置き直す。会計係が戸惑えば帳面を開き、寄付金箱の封を確認し、足りないカップがあれば予備を持って走る。
公爵令嬢が走るな、という声がどこかから聞こえた気がした。知りませんわ。いま必要なのは体裁ではなく回転ですもの。
「ヴィオレッタ様、こちらのおばあさまが段差で」
「ただいまですわ」
銀髪の老婦人の前にしゃがみこむ。床と靴の高さを見て、すぐ脇の板を持ってくる。
「こちらを渡せば楽になりますわ」
「まあ……そんなことまで」
「立派な茶会ほど、座るまでが大事ですのよ」
前世のわたしなら絶対に言わなかった台詞だ。でも今日は、こういうところが本当に大事だと知っている。
小さな男の子が皿をひっくり返したときも、わたくしはまず「火傷はありませんこと?」と膝をつき、ペトラに布を頼んで、子どもと母親を落ち着かせた。自分のドレスの袖が少し汚れたけれど、そんなのどうでもいい。
むしろ、汚れた袖を見て初めて、ちゃんと働いている気がした。
そうしているうちに、最初は刺さっていた視線が、少しずつほどけていくのがわかった。
賞賛ではない。けれど、警戒だけではなくなる。目が合えば小さく会釈が返る。道を譲れば「ありがとう」と言われる。学園の令嬢の一人が、恐る恐る「次は何を運べば」と訊いてくる。
たったそれだけのことで、胸の中の黒く濃くなった棘が、ほんの少し軋んだ気がした。
「ヴィオレッタ様」
会場の一角から、ルナさんの声が飛ぶ。
「入口が少し詰まってきました」
「名簿は着席後に回してくださいまし! 先にお水を」
「はい!」
ちゃんと回る。
昨日みたいに、勢いだけで暴れない。学んだ分だけ、整う。
そのときだった。
受付付近で、ひそひそ声が少し大きくなる。
「でも、所詮は公爵家の見せかけでは?」
「評判を戻したいだけじゃないの」
「ほら、やっぱり前へ出てきたでしょう?」
うわ、来ましたわね。
町の噂というやつは、黙って消えるほどやさしくない。むしろ、少しでも目立てばすぐ芽を出す。
昨日までのわたくしなら、たぶん即座に振り向いて言い返していた。わたくしがどれだけ動いていると思ってますの、見る目がございませんわね、と。
でも今日は、一歩だけ止まる。
言い返したくて、舌の先が熱くなる。けれど、その熱の味を昨日もう知った。
だから、ぐっと飲み込んだ。
代わりに、近くで困っていた配茶係へ行く。
「そちらの列、子どもを先に通して」
「は、はいっ」
「こちらはカップが足りておりませんわね。予備をお持ちします」
聞こえないふりではない。聞こえている。でも、その声にいちいち火をつけて回るより、目の前の一人を楽にしたほうが、今日の目的に近い。
それがわかったのは、たぶん少しだけ成長だ。
とはいえ、内心は普通に痛い。
(いや、聞こえておりますわよ。見せかけ、評判戻し、全部図星っぽいのが腹立ちますわね!)
けれど、その痛さを抱えたまま手を動かす。布を直し、茶を注ぎ、水を足し、帳面へ印をつける。
そうしていると、背後で、ルナさんの声が響いた。
「違います」
会場のざわめきが、ふっと薄くなる。
ルナさんは受付近くへ立ち、噂話をしていた女性たちをまっすぐ見ていた。柔らかい子なのに、こういうときの芯は驚くほど強い。
「ヴィオレッタ様は、今日ずっと裏で動いてくれています。配置も、お水も、名簿の順番も、全部考えてくれたんです」
「ルナさん……」
「見せかけで、こんなに走れません」
その言葉に、何人かが気まずそうに目を逸らす。
「わたし、昨日まで怖かったです。でも、今は助けられています。だから、わたしはそう思いません」
胸が、ぎゅっと掴まれたみたいになった。
ずるい。
そういうの、真正面から言われると、ほんとうに弱いですのよ。
シオンまで、会計卓から顔を上げて言った。
「本日の帳面、札、寄付金の封、導線の整理、いずれもヴィオレッタ様が主導しています。少なくとも、僕は実務上とても助かっています」
「シオンまで」
「事実です」
「……ほんとうに事実しか言いませんわね」
「そこが長所なので」
「自分でまた言いましたわね!?」
周囲から、小さな笑いが漏れた。
それは嘲笑ではなく、ようやく肩の力が抜けたような笑いだった。空気が、少しあたたかくなる。
町の母親の一人が、おそるおそるこちらを見た。
「その……お嬢様、さっきは水をありがとうございます」
「どういたしまして」
「あと、椅子も」
「当然のことですわ」
「当然って、なかなかできないですよ」
照れたように言われて、わたくしのほうが言葉に詰まる。たったそれだけの感謝が、昨日まで浴びていた拍手より重く感じた。
会場の空気は、それから目に見えて変わっていった。
子どもがわたくしの裾をつついて「おかわり」と言う。
老婦人が「その札、見やすくて助かるわ」と微笑む。
学園の令嬢が「次は何をしたら」と自分から尋ねてくる。
わたくしが何かをするたび、周りがそれを見て、次の一人が少しだけ近づく。
派手な逆転ではない。じわじわと、でも確実に、敵意がほどけていく。
スマホが一度だけ震えた。
覗くと、通知はやはり穏やかなものばかりだ。
@考察班長
今日の悪役令嬢、地味にめちゃくちゃかっこいい。
@理系の竜
現場改善の話は強い。
@法務カピバラ
人は手続きと誠実さの積み重ねで動きます。続けて。
わたくしは、画面を見て、少しだけ笑った。
前みたいな爆発じゃない。けれど、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
向こう側の人たちも、今日は煽りを求めていない。ちゃんと見て、ちゃんと応援してくれている。それが伝わる。
茶会の終盤、最後のポットの湯を注ぎ終えたころには、夕方の光が窓辺を淡い橙に染めていた。ガラス器の縁に金が走り、会場の空気は最初よりずっと柔らかい。子どもたちの笑い声。椅子を引く音。茶器の軽い触れ合い。人が安心して帰っていくときの、やわらかなざわめき。
その真ん中で、わたくしはようやく息を吐いた。
「終わりましたわね……」
「ええ」
ペトラが腕を伸ばす。
「お嬢、今日めっちゃ働きました」
「でしょう?」
「しかも怒鳴ってません」
「そこはもっと別の褒め方がございません?」
「でも大事です」
「大事ですわね……」
自分で言って、自分で少し笑う。ほんとうに、そこからなのだ。
ルナさんが小さな包みを持って近づいてきた。
「お疲れさまです。お礼に、お菓子を少しだけ」
「まあ」
「台所の人が、ヴィオレッタ様によくしてもらったからって」
「わたくし、泣いてしまいそうですわ」
「泣きます?」
「公爵令嬢ですので、ここでは耐えますの」
「そこは耐えるんですね」
「いま泣いたら、たぶん全部こぼれますもの」
シオンが帳面を閉じる。
「寄付金の帳尻も合いました。札の配置も有効でした。入口と出口を分けたのも正解です」
「つまり?」
「今日のあなたは、及第点です」
「……っ」
その一言が、思った以上に響いた。
「及第点、ですの?」
「はい」
「それ、だいぶ嬉しいですわ」
「そうでしょうね」
「もっともったいぶってくださいまし」
「うるさいですが、今日はよくやりました」
「褒めましたわ!」
「事実を述べました」
「逃げないでくださいまし!」
笑いながら、ふとスマホを開く。
待ち受けの七本の棘。
そのうち二本――学園での孤立と、民衆の敵認定を示すはずの棘に、はっきりとひびが入っていた。黒い表面の内側から、細い青白い光がのぞいている。
大きく、深く。まだ折れてはいない。けれど昨日までの黒一色とは違う。
胸が、じん、とした。
それはバズったときの熱とはまるで違う。もっと静かで、でも深いところへ届く熱だ。
「……応援されるって、こういうことですのね」
気づけば、ぽつりとそう呟いていた。
ルナさんが首を傾げる。
「応援?」
「ええ」
わたくしはスマホを軽く持ち上げ、それからすぐ下ろした。
「向こう側の人たちもそうですけれど、今ここで、次は何をしたらいいかって聞いてくださる声とか、ありがとうって言ってくださる声とか、そういうのが……」
うまく言葉にならない。
けれど、胸の中には確かにある。
「気持ちの良い拍手より、ずっと重いですわ」
シオンが静かに言う。
「それはたぶん、あなたが自分で積み上げた分の重さです」
「……それ、今日いちばん良いことを言っておりますわよ」
「不本意です」
「台無しですわね!」
会場を片づけ、外へ出ると、夕暮れの街は蜂蜜みたいな金色に溶けていた。石畳は昼の熱を少しだけ残し、屋台からは焼き栗の匂い、遠くからは鐘の音。肩の力が抜けた人たちの歩く速さまで、どこかやさしい。
書庫へ戻って帳面をしまい、最後の確認を終えるころには、窓の外は青い夕闇へ沈み始めていた。高窓に残る光は薄く、棚の縁だけがかすかに銀を帯びている。静かな夜の入り口だ。
わたくしは今日一日のまとめを、短く投稿した。
本日は慈善茶会のお手伝いでしたわ。煽るより、整えるほうがずっと難しいですのね。でも、そのぶん、うれしさも深いですわ。助言をくださった皆さま、ありがとうございました。
送信して、すぐに画面を閉じる。
今日は数字を見ない。そう決める。
見なくても、きっと届いていると、少しだけ信じられるから。
その瞬間だった。
スマホの中央で、今までなかった小さな光点が灯った。青白い羽根みたいな印。細い線が円を描き、その中心へ、見覚えのない文字がゆっくり浮かび上がる。
註記
「……は?」
わたくしは目を瞬いた。
ペトラが横からのぞき込む。
「新しいの出ました?」
「出ましたわ」
「今度は何です」
「わかりませんの」
シオンも机越しに身を乗り出す。
「表示を」
「ええ」
羽根の印が一度だけまたたき、続けて説明文めいた短い文が現れた。
異なる立場からの納得が集まると、虚偽を弱らせます
書庫の夕闇の中で、その文字だけがひどくはっきり光っていた。




