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4.炎上は味方じゃない

 勝ったはずなのに、胸の奥がぜんぜん晴れませんの。


 小聴取室を出てからも、エドガーの最後の宣言が耳の奥へ張りついていた。

 星冠祭の夜、公の前で君との婚約を破棄し、正式に裁く。

 文字にしたらたった一行。けれど現実で聞くと、胃の底へ氷を放り込まれたみたいに重い。


 王立星冠学園の祭礼準備室は、その重さを笑うみたいにきらきらしていた。青と金の布が壁へ渡され、磨かれた星飾りが天井の灯りを跳ね返す。花蜜みたいに甘い香が漂い、遠くの廊下からは練習中の楽師たちの音まで聞こえてくる。誰が見ても浮き立つお祭りの裏側だ。なのに、わたくしだけが内側でどろっと沈んでいる感じがした。


「お嬢、顔こわいです」

 準備台へ肘をついていたペトラが、焼き菓子をひとつ差し出してくる。

「甘いもの入れます?」

「今のわたくしに必要なのは甘味ではなく勝機ですわ」

「どっちも入れたほうが元気出るやつでは?」

「否定できませんのが悔しいですわね」


 受け取って一口かじる。さくりと砕ける音だけがやけに明るい。おいしい。悔しい。こんなときでもお菓子がおいしいの、人生って容赦ありませんわね。


 シオンは少し離れた机で、学園規則の写しをめくっていた。

「言っておきますが、さっきのは勝利ではありません」

「わかっておりますわ」

「ほんとうに?」

「半分くらいは」

「少ない」

「うるさいですわね」

「うるさいのはあなたです。僕は静かです」


 悔しいけれど事実だ。わたくしは机へスマホを置いた。画面には通知が雪崩れている。フォロワーはまた増えた。予備聴取の顛末をぼかして伝えたポストへ、返信と引用がどんどんついている。


 予備聴取、手続きの甘さで押し返しましたわ。ですが殿下は星冠祭で正式に場を設けるそうですの。やる気満々でいらしてよ。


 通知欄の上から順に流れる。


 @考察班長

 きたきたきた! 公開断罪予約とか王子、劇場型すぎるだろ!


 @理系の竜

 勝ってない。時間を稼いだだけ。


 @法務カピバラ

 記録継続。次は向こうも整えてきます。


「ほら」

 シオンが画面を見ずに言う。

「向こう側の人の認識のほうが正確です」

「なぜ見てもいないのにわかりますの」

「あなたの顔です。いま、都合のいい反応だけ食べて気持ちよくなりかけている顔をしている」

「そんな顔ございます!?」

「あります」

「お嬢、あります」

 ペトラまで頷いた。

「二人そろって失礼ですわね!」


 けれど、言い返しながらも胸に刺さるものがある。都合のいい反応だけ食べている。まさにそうだ。最初の三件を見ただけで、わたくしの頭はもう次の一手へ飛んでいた。

 だって悔しかった。

 さっきの聴取では、あれだけ決め打ちで恥をかいたのに、最後に立て直した瞬間だけ切り取れば、いかにも「わたくしが勝ちましたわ」みたいな絵になる。

 そして、その絵がタイムラインで気持ちよく褒められると、つい錯覚してしまう。今なら流れを取れる、と。


(流れを取れれば、星冠祭の前に空気ごとひっくり返せるのではなくて?)


 その考えが頭をもたげた瞬間、胸の奥で小さな火花が散った。

 危うい火だ、と理性は言う。

 でも、目の前の数字はあまりにも甘い。


「少しだけ、試してみますわ」

「何を」

 シオンが嫌そうに眉を寄せる。

「空気づくりですの」

「その言い方、ろくでもない」

「向こうだって空気で押してくるのなら、こちらも空気を取りにいけばよろしくてよ」

「だから、その発想が危ういと言っているんです」


 聞こえないふりで、わたくしは投稿欄を開いた。


 婚約者に公開断罪を予告されるなんて、王子様はずいぶん舞台がお好きですのね。証拠より見栄え優先でいらっしゃるなら、こちらも少しは映えを意識すべきかしら。


 送信。


 一拍遅れて、画面の数字が跳ねた。

 いいね、リポスト、引用。いつもより明らかに速い。心臓までそれに合わせて跳ねる。これだ。反応の速さがぜんぜん違う。


 @考察班長

 言ったァーーー! 強い!


 @理系の竜

 煽りが強い。情報量は減った。


 @法務カピバラ

 感情に寄せすぎです。危険。


 危険、と言われても、今この気持ちよさの前では少し遠い。

 だって数字が伸びている。ものすごい勢いで伸びている。おすすめ欄とかいう見えない何かに押し上げられているみたいに、知らないアカウントからも反応が来る。引用では、かわいい、痛快、おもしれー女、悪役令嬢の逆襲が始まった、などと好き勝手に騒いでいる。


「……はや」

 自分でも情けない声が漏れた。


 スマホの縁から、青白い光が漏れる。

 だが今日は、それだけではなかった。

 青のあいだへ、黒に近い火花が細く混ざる。夜の炭みたいな、じり、とした色。見たことがないのに、なぜか嫌な予感だけははっきりする。


「お嬢」

 ペトラが声を落とした。

「なんか、色ちがいません?」

「少しだけですわ」

「少しだけが一番こわいです」

「大丈夫ですわよ。ほら、現象自体は強くなっておりますもの」


 まるで言葉に応じるみたいに、準備台の上へ小さな星の箱がぽん、と落ちた。今度の箱は薄い金の縁に黒い煤みたいな模様が混じっている。

 蓋を開けると、中には星形の髪飾りと、青金の薄布、きらきら光る粉の小瓶が入っていた。祭礼向きの、いかにも映える小道具である。


「ほら」

 わたくしは思わず笑った。

「世界もわかっておりますわ。どうせ晒されるなら、見栄えを取れと」

「そこだけ拾うのやめてください」

 シオンの声が低くなる。

「黒い火花が混ざった。僕はそれが気になる」

「でも成功しておりますわ」

「成功の定義が雑すぎる」

「現に物は出ましたのよ?」

「だから危険なんです。急激に伸びた反応に連動して現象が変質しているなら、安定性を疑うべきでしょう」

「安定性、安定性って」

 わたくしは少しだけ語気を強めた。

「こちらはあと三十日もないんですの。優雅に安全確認だけしていたら、星冠祭が先に来ますわ」

「焦るなと言っています」

「焦らなければ間に合いませんわよ!」


 言い切ってから、空気が少し冷えたのがわかった。

 ペトラが目をぱちぱちさせる。シオンは何も言わず、ただじっとこちらを見る。その青い瞳が妙に静かで、わたくしのほうが先に居心地悪くなった。


 けれど、スマホはそんな空気を無視するように震え続ける。

 気持ちいい。

 はっきり言えば、気持ちよすぎた。

 わたくしはまた投稿する。


 では宣言いたしますわ。悪役に仕立て上げるつもりなら、せめて主役級のライトを当てていただきたいですわね。


 今度は、送信した瞬間に数字が弾けた。

 いいねの増え方がさっきよりさらに速い。リポストも引用も滝みたいだ。脳の奥で変な鐘が鳴る。わたくしの言葉が、向こうの世界で波を立てている。考察班長みたいな常連だけでなく、知らない誰かが、好き勝手にこちらの物語を面白がり、盛り上げ、燃料を足していく。


 そしてスマホの縁から、黒い火花が今度は明確に散った。

 青白い星屑に、焦げた羽のような小さな黒が混じる。床へ落ちたそれは、消える前にじ、と音を立てた。


「……お嬢」

 ペトラが一歩引く。

「今の、ぜったい良くないやつです」

「見ればわかります」

「じゃあ止めましょうよ!」

「まだですわ」


 まだ、と自分で言って、ぞっとした。

 でも止まれない。ここで止まったら、この勢いが逃げる。そんな焦りが、まるで本能みたいに背中を押す。


 シオンが机の向こうから回り込み、わたくしの前へ立った。

「その端末を貸してください」

「嫌ですわ」

「貸してください」

「嫌です」

「ヴィオレッタ」

「いま止めたら流れが切れるんですの!」

「だから何です」

「何って――」


 言葉に詰まる。

 だから何。たしかにその通りだ。

 けれど、わたくしの頭の中ではもう「流れ」が現実の武器になっていた。向こうで盛り上がれば、こちらでも何かが落ちる。注目が増えれば、運命が削れる。だったら、数字は力だ。力なら、取りにいくのが正しい。そう思いかけている自分がいた。


 シオンはため息をついた。

「空気で負けそうになったばかりでしょう」

「……」

「しかも今日は、その空気に自分から飛び込んでいる」

「勝てる空気なら、利用すべきですわ」

「それは勝てる空気ではない。燃えているだけです」

「燃えていても明るければ道は見えますの」

「火事場で同じことを言ってください」


 返す言葉がない。

 返せないかわりに、むきになってスマホを握り込んだ。そのとたん、また小箱が落ちる。今度は細い金の鎖と、星砂を詰めた小瓶が二つ。祭礼の衣装や舞台装飾に使えそうなものばかりだ。

 ほら見ろ、と言いたくなる。

 世界はわたくしへ反応している。多少黒くても、力は力だ。


 だから、そのまま止まれなかった。


 準備室の鏡の前で髪飾りを試しながら、わたくしは次々に投稿を打った。貴族社会は見栄えと立場ばかり。証拠の形を整えるより、目立つ演出を愛している。そういう棘のある言い回しは、見事なくらい向こうで受けた。

 引用欄には、もっと言え、遠慮するな、王子ざまぁ予告、そんな軽い熱がどんどん集まる。

 中には、どうせ貴族なんて、燃やせ、晒せ、みたいな乱暴な声まで混ざり始めた。


 けれど、その頃のわたくしは、もう質より量に酔っていた。

 すごい。

 すごいですわ。

 わたくし、いま、完全に取っておりますわ――と。


「お嬢、顔」

 ペトラが鏡の向こうで眉をひそめた。

「いまめっちゃ危ない顔してます」

「勝ち顔ですわ」

「違います。たぶん、落ちる直前の顔です」

「縁起でもありませんわね!」

「その縁起の悪さを現実にしそうなのがお嬢なんですよ!」


 そこへ、廊下側の扉が開いた。

 祭礼委員の上級生が顔を出す。

「ヴィオレッタ様、ホールで位置確認を行います。ルナ様もいらしてますので、至急」

「参りますわ」

 わたくしは髪飾りを留め、薄布を羽織る。星砂の小瓶もつい手に取った。見た目がいい。見栄えがする。どうせ次の舞台が来るなら、こちらだって少しは主役らしく出てやろうじゃありませんの。


 シオンが低く言う。

「その小瓶は置いていってください」

「飾り用ですわよ」

「黒い火花と一緒に落ちた物です」

「気にしすぎです」

「その雑さが危ないと言っているんです」

「もう遅いですわ。呼ばれておりますもの」

「ヴィオレッタ」

「行ってまいりますわ!」


 逃げるように準備室を出た。

 呼吸が少し速い。たぶん、焦りもある。でもそれ以上に、いまのわたくしは変な万能感に押されていた。


 学院ホールは、夜の星空を昼の中へ閉じ込めたみたいに広かった。高い天井から吊られた青金の布が波打ち、壁沿いの星導灯が白い床へ細い光の円を落としている。中央の舞台では、星冠祭当日に使う大きな星輪が半分まで組み上がっていて、その向こうで楽師が音合わせをしていた。

 青白い光が柱の縁を走るたび、空気まで澄んだ冷たさを帯びる。ここで、あの婚約破棄が行われる。そう思うだけで、胸が一度きゅっと縮む。


「ヴィオレッタ様」

 ルナが先に気づいて、こちらへ会釈した。

 白い練習用ドレスに、薄金の刺繍。緊張しているのか肩が少し上がっている。でも笑おうとしているのがわかる。いい子だ。こんな状況でも。


「ごきげんよう、ルナさん」

「ごきげんよう。……あの、昨日と今日は、ありがとうございました」

「二日続けて礼を言われると照れますわね」

「じゃ、じゃあ、あとでにします」

「そういう意味ではありませんわよ!?」


 ルナはくすりと笑った。

 その笑顔を見て、少しだけ胸の奥がやわらぐ。そうだ。わたくしはこの子を守るために動いている。それを忘れてはいけない。

 忘れてはいけないのに。


 ホール中央で位置取りの説明が始まり、ルナが中央の星輪の下へ呼ばれた瞬間、スマホがまた震えた。

 通知だ。

 新しい引用が大量に来ている。見たい。ものすごく見たい。

 誰がどんなふうに騒いでいるのか、いま一番知りたい。


「ヴィオレッタ様、こちらへ」

 祭礼委員が呼ぶ。

「ええ」


 返事をしつつ、袖の陰で画面を開く。数字がさらに上がっている。おすすめ欄を駆け上がる感触。知らない誰かの「この悪役令嬢、最高におもしれー」が目に飛び込む。

 その一瞬、胸の奥の火が、ふっと大きくなった。


 気持ちいい。

 いっそ笑ってしまうくらい気持ちいい。

 現実の王子はわたくしを裁こうとしているのに、画面の向こうではわたくしが主役だ。こんな逆転、気持ちよくならないほうが無理でしょう?


「ヴィオレッタ様?」

 再度呼ばれて、顔を上げる。

「失礼。少し眩しかったものですから」

「端末を見ていただけでは」

 真横からシオンの声が刺さった。

「気のせいですわ」

「気のせいではありません」

「場を乱さないでくださいまし」

「乱しているのはあなたです」


 言い合いの最中、手の中のスマホがじわりと熱を持った。

 いやな熱だ。青白い加護のときみたいな優しい温度ではない。もっと乾いた、焦げたような熱。

 そして、袖の口から、黒い火花がふっとこぼれた。


「……っ」


 火花は床へ落ちず、そのままするりと這って、ホール中央の星輪へ吸い込まれた。


 まずい、とわかったのは、その次の瞬間だった。


 星輪の青白い光が、一拍遅れてどす黒く脈打つ。

 会場じゅうの星導灯が、ばちん、と嫌な音を立てた。

 誰かが悲鳴を上げる。


「ルナさん、離れて!」

 わたくしが叫ぶのと、中央の光が暴れ出すのはほぼ同時だった。


 星輪から伸びた光の帯が、鞭みたいに弾ける。

 本来なら天井へ向かうはずの青い柱が、途中でねじれ、中央にいたルナへ叩きつけるように落ちた。


「きゃっ……!」


 ルナの白い裾が風に煽られる。

 近くの祭礼委員が尻もちをつく。飾り布がばさばさと暴れ、金の粉が空中へ散った。その粉の中で、青と黒の火花が混ざって見える。きれいなのに、ぞっとするほど不穏だ。


 シオンがすぐ動いた。

「退いて!」

 片手を上げ、床へ術式円を走らせる。青い線がぱっと咲き、暴れた光の帯を横へ逸らす。けれど逸れた先に立っていた装飾台が弾け、星飾りが雨みたいに降る。


「ルナさん!」

 わたくしも駆けた。

 今度はシャンデリアみたいにまっすぐではない。光が暴れている。どこへ跳ねるかわからない。けれど、ルナの足がすくんでいるのが見えた以上、立ち止まれるわけがなかった。


 走りながら、スマホを強く握る。

 画面の中では、まだ数字が伸びている。

 そのくせ手の中の熱はさらにひどくなる。

 なんで。どうして。

 いや違う。わかってる。これはたぶん、さっきからわたくしが煽って集めた熱だ。青い加護に混ざった、黒い、ざらついた何か。


(こんなの、わたくしが呼んだんですの?)


 青い加護に混ざる黒い熱。これが炎上熱なのだと、嫌でもわかった。

 答えるみたいに、スマホの縁から黒い火花がさらに散った。

 その火花が床の術式へ触れ、シオンの展開した防御線を一瞬だけ歪ませる。


「ヴィオレッタ、端末を閉じろ!」

 シオンの声が飛ぶ。

「わ、わかって」

「今すぐ!」


 ルナの目の前で、もう一本、光の帯がしなる。

 わたくしは歯を食いしばり、スマホを胸へ押しつけた。画面を伏せる。けれど一度燃え上がった熱は、簡単には止まらない。周囲の星導灯がばちばち鳴り、ホール全体が呼吸を乱したみたいに明滅する。


「全員下がって!」

 祭礼委員が叫ぶ。

 誰かがルナへ駆け寄ろうとする。けれどその前へ、すっと一人の男が出た。


 濃紺の長衣。銀糸の星模様。柔らかな微笑み。

 年齢の読みにくい、整いすぎた顔立ち。

 知らないはずなのに、この人は危ない、と本能が先に言った。


 男は指を二本、軽く振る。

 たったそれだけで、暴れていた光の帯がすっとほどけた。青と黒の火花は空中で細かい塵になり、ゆっくり床へ落ちる。まるで最初から何もなかったみたいに。


 静寂が落ちた。


 ルナがその場にへたりこむ。

 わたくしも数歩手前で止まり、息がうまく吸えない。心臓が痛い。脈が速すぎる。ホールの真ん中で、わたくしの手の中のスマホだけがまだじりじり熱い。


「お怪我は?」

 男が、まずルナへ穏やかに訊いた。

「だ、だいじょうぶ、です……」

「それは何より」


 声まで柔らかい。なのに、その柔らかさが気味悪い。羊の毛皮をきた何か、みたいな感触がある。


 祭礼委員が慌てて頭を下げた。

「カルヴァン星導卿! お見苦しいところを……」

 星導卿。

 その肩書きに、わたくしの首筋がぞくりとした。


 男――カルヴァンは、ゆっくりと視線を巡らせた。倒れた装飾台、散った星飾り、青ざめた生徒たち、そして、スマホを握りしめたまま立ち尽くすわたくしへ。

 その目は笑っているのに、何ひとつ見逃していない。


「ずいぶんと、よく燃えましたね」

 彼はそう言った。

 軽い感想みたいに。天気のことでも言うみたいに。


 喉がひゅっと鳴る。

 シオンがすぐ前へ出た。

「星導卿、現象の原因は確認中です」

「そうでしょうとも」

 カルヴァンは笑みを崩さない。

「ですが、熱というものはおおむね、集めた者の色を帯びるものですから」


 その一言で、胃の底が冷え切った。

 集めた者。

 それは、たぶん、わたくしだ。


 周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。

 さっきまでのざわめきが、今度は別の意味で重い。事故の中心にいたルナではなく、いま視線を浴びているのはわたくしだった。

 当然だ。わたくしは袖に変な端末を隠し、練習中もよそ見をし、直前まで棘だらけの投稿へ酔っていた。もし誰かが「ヴィオレッタ様が何かしたのでは」と思っても、反論できる材料がない。


 そのとき、スマホがまた震えた。

 怖いのに、見てしまう。


 画面の中では、まだ引用が増えていた。

 強すぎ、もっとやれ、王子も貴族社会も燃やせ、そんな軽い熱がずらりと並ぶ。

 さっきまで気持ちよかったはずの言葉が、いまはどれも紙みたいに薄い。


 だって現実では、ルナが震えている。

 ホールの空気は凍り、生徒たちは怯え、シオンはわたくしの尻ぬぐいで術式を切った。

 それなのに画面の向こうでは、誰かが「おもしれー女」と笑っている。


 急に、すごく空っぽになった。


(何をしていたんですの、わたくし)


 勝ちたかった。

 怖かった。

 エドガーに先手を取られたくなくて、空気ごと奪い返したかった。

 でもそのために集めたのは、助けになる知恵ではなく、ただの熱だ。

 そしてその熱は、いちばん守りたい相手を危険へ晒した。


 最悪だ。

 ほんとうに、最悪だ。


「ヴィオレッタ様」

 ルナの声が小さく震える。

 責める声ではない。怯えと、戸惑いと、それでも何かを信じたい気持ちが、全部まじった声だった。

 その優しさが、いちばん痛かった。


 わたくしはその場で、スマホの画面を見たまま、ゆっくり親指を動かした。

 通知欄を閉じる。

 投稿欄を開く。

 いまから「違いますわ」「わたくしは悪くありませんの」と書けば、また向こうは盛り上がるだろう。もっと派手に煽れば、もっと数字は伸びるかもしれない。

 でも、その先にルナが笑っている景色が、どうしても見えなかった。


(もういいですわ)


 電源を落とす代わりに、わたくしは通知を切った。震え続ける画面が、ようやく静かになる。

 それだけなのに、身体の中のざわめきまで半分ほど引いていくのがわかった。気持ちよさに似た高揚も、すっと冷える。

 残ったのは、みっともないくらいの後悔だけだった。


 わたくしはルナの前まで歩いた。

 周囲が息を呑むのがわかる。星導卿も、シオンも、祭礼委員も、みんな見ている。こういう場で頭を下げることの重さくらい、公爵令嬢の身体は嫌というほど知っていた。

 知っているから、膝が少し笑う。


「ルナさん」

「は、はい」

「先ほどの乱れは、わたくしの未熟さが招いたものですわ」

 喉がからからだ。けれど逃げない。

「わたくし、数字に酔っておりました。目立つこと、勝つことばかり考えて、あなたを危険へ晒しました。申し訳ありませんでした」


 言い切って、わたくしは深く頭を下げた。


 床へ散った金の飾りが視界の端でぼやける。青白い光が睫毛の影へ落ちて、ほんの少しだけ冷たい。こんなふうに誰かへ頭を下げるのは、たぶん前世を入れても数えるほどしかない。まして人前で、平民出身の聖女候補へ、悪役令嬢のわたくしが。

 プライドが痛まないわけがない。

 でも、それ以上に、守れなかった事実のほうが痛かった。


 しん、と静まり返ったホールの中で、最初に聞こえたのはルナの声だった。

「……顔を、上げてください」

 おそるおそる視線を上げると、ルナはまだ青ざめていた。それでもまっすぐこちらを見ていた。

「怖かったです。でも、ヴィオレッタ様がわざとじゃないって、わたしは思います」

「ルナさん」

「だから、次は、ちゃんと一緒に気をつけてください」

 その言い方があまりにも真っ直ぐで、泣きそうになる。こんなときまで、この子は責めるより先に一緒にと言うのだ。

 わたくし、ほんとうに何をしていたんですの。


 シオンが一歩進み出る。

「現象の原因は断定できませんが、少なくとも故意の攻撃ではありません」

 それから、ほんの少しだけ視線を和らげてわたくしを見る。

「ですが、未知の共鳴を煽りで増幅させた可能性は高い。次は止めます」

「……ええ」

 今度は素直に頷けた。

「次は、止められる前に止まりますわ」


 カルヴァンがくすりと笑った。

「残念ですね。よく燃えるものは、観客をよく集めるのに」

 ぞわり、と背筋が粟立つ。

「観客より先に守る相手がありますの」

 思ったより強い声が出た。

 カルヴァンは満足そうでも、不満そうでもない、奇妙な笑みを浮かべる。

「なるほど。熱ではなく、信頼を選ぶのですか。そちらは時間がかかる」

「かかっても、そちらにいたしますわ」

「そうですか」

 それだけ言って、彼は舞台中央の星輪を一瞥した。微笑みは柔らかいままなのに、なぜかこちらの答えを試すみたいな目だった。


 祭礼委員たちは慌てて周囲の片づけへ走り、生徒たちは小声でざわめきながらも、さっきまでみたいなあからさまな糾弾はしなくなった。わたくしが頭を下げたことに驚いているのもあるだろう。ルナが、わざとじゃないと言ったのも大きい。

 けれど、それで全部が消えたわけではない。空気はまだ硬い。信じるには早い、という顔があちこちに残っている。


 それが当たり前だと、今ならわかる。

 誰かが目を逸らし、誰かがひそひそとわたくしの名を呼ぶ。さっきまで向こう側で浴びていた拍手とは違う、重くて遅い現実の視線だった。笑顔の数では測れない。好意の勢いでは塗り替えられない。信頼というものは、こうして一人ずつ、目の前で積み直すしかないのだと、骨まで思い知らされる。見物人は一瞬で集まる。でも、味方は育てなければ増えない。


 たった一度バズったくらいで、人の信頼は買えない。

 たった一度頭を下げたくらいで、積み上げた印象は消えない。


 ペトラがそろそろと近づいてきた。

「お嬢」

「なんですの」

「今のは……負けじゃないです」

「慰めが下手ですわね」

「でも勝ちでもないです」

「知っておりますわよ」

 言いながら、少しだけ笑ってしまう。ほんとうに下手だ。けれど今は、その不器用さがありがたかった。


 ホールの端へ下がり、わたくしはようやくスマホを開いた。

 通知は切ったまま。画面は静かだ。さっきまでの熱狂が嘘みたいに、ただ黒いガラスがこちらを映している。

 ロック画面を出す。


 七本の棘。

 そのうち一本だけが、じわりとどす黒く濃くなっていた。

 砕けるどころか、根元から墨を流し込まれたみたいに太く、重く。

 孤立の棘だ、と直感でわかった。


 数字は増えた。

 フォロワーも拍手も、昨日よりずっと多かった。

 それでも目の前の一人を危険へ晒した瞬間、運命は折れるどころか、別の形でこちらを締めつけてきた。


「お嬢?」

 ペトラがのぞき込む。

 わたくしは画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……数字だけじゃ、勝てませんのね」


 その言葉は、だれに向けたものでもないのに、妙にはっきりホールの冷えた空気へ落ちた。青白い星導灯が遠くでまたたき、片づけの音がかすかに響く。

 星冠祭まで、あと二十七日。

 黒く濃くなった棘は、そう簡単には折れないと、静かに笑っているようだった。

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