2.お嬢様、バズの検証を始めます
翌朝のわたくしは、朝食より先にスマホを見ていた。
よろしくない習慣ですわね、と口では言える。けれど、異世界で唯一つながるのがこの青白い画面だけなら、話は別だ。昨夜の茶会、シャンデリアの落下、ルナを庇ったこと、王子の冷たい視線、そしてトレンド入り。全部が夢ではないと確認するには、まずこの四角い板を見るしかない。
ローゼンティア公爵家の温室は、朝日を受けてやわらかく輝いていた。高い硝子壁の向こうで露をのせた葉が揺れ、白薔薇の香りに湿った土と茶葉の青い匂いが混ざる。丸卓には銀のポットと焼きたてのスコーン。優雅そのものの景色なのに、そこへスマホが置かれているだけで、急に世界の継ぎ目が見える気がした。
フォロワー数は一晩で一二〇〇を超えていた。
「増えすぎですわよ……」
向かいでスコーンをつついていたペトラが肩をすくめる。
「朝から何回目です、それ」
「だって増えておりますもの」
「使用人は朝起きたら太陽と予定表を見ます。四角い板を拝むのはお嬢くらいです」
「これは四角い板ではなく、運命改変装置ですわ」
「昨日より名前が雑になってません?」
昨夜、わたくしはペトラに事情を半分だけ話した。異世界で、変な魔道具みたいなものがあって、反応を集めると奇妙な現象が起きる、と。転生だのXだのまではさすがに言っていない。そこまで言ったら、わたくしでも信じられないからだ。
「で、その運命改変装置とやら、本当に物を出すんですか」
「昨日の光を見る限り、いいねは加護。返信は知恵。なら、内容次第で具体的な何かが出てもおかしくありませんわ」
「仮説だけで温室を実験場にするんですね」
「検証は大事ですの」
我ながら、ちょっと賢そうな言い方でしたわね。
けれど内心はだいぶ浮ついていた。異世界の悪役令嬢が、現代のタイムラインを頼りに法則検証。設定としては最高だ。最高だが、油断すると死ぬので、まずは安全な題材から行く。
「何から試します?」
「お茶ですわ」
投稿欄を開く。
事故の記録は取りましたわ。今日は温室で検証ですの。異世界の朝はおいしい紅茶が飲みたいのですが、そういう話題でも何か起きるのでしょうか?
送信してすぐ、三つ返信がついた。
@考察班長
検証回だ! 紅茶は全人類の味方。
@理系の竜
欲しい物を具体化して。
@法務カピバラ
出た物は入手経路と保管者をメモしてください。
「最後の方だけ急に現実ですわね」
「向こう側、まともな大人がいますね」
「ネットの向こうにまともな大人がいる時点で奇跡ですの」
軽口を叩いた、そのときだった。
温室の天井近くで、ぴし、と青白い火花が弾けた。朝の金色に混ざるには冷たすぎる光だ。火花は渦を巻き、星座みたいな銀模様の小箱をひとつ、テーブルの上へ落としていく。
「……出ましたわ」
「出ましたね」
ペトラと顔を見合わせ、そろそろと蓋を開けた。
中には茶葉と角砂糖が、きちんと並んで入っていた。ふわりと立つ香りが上品すぎて、思わず変な笑いが漏れる。
「紅茶ですわ!」
「ほんとに紅茶ですね……」
ペトラが湯を注ぐ。白い蒸気が朝日に透け、琥珀色の液面にごく薄い青のきらめきが沈んだ。一口飲んだ瞬間、肩の力が抜ける。
「おいしい……」
「そんなに?」
「おいしいですわ。向こう側の人たち、紅茶の趣味まで良いんですの?」
「感想の方向がズレてます」
スマホが震える。
@考察班長
何が出た!?
@理系の竜
箱の材質と品目報告。
@法務カピバラ
飲む前に記録を。
「やっぱり最後の人だけ本気ですわね」
「親戚に一人ほしいタイプです」
「絶対怖いですわよ、その親戚」
わたくしは箱の模様と中身を急いでメモし、返信した。
茶葉と角砂糖ですわ。箱は星模様。手触りは冷たいのに不思議とあたたかい。あと紅茶がおいしすぎますの。
送信すると、また反応がつく。
昨日は「何このなりきり垢?」みたいな温度も多かったのに、今は検証を一緒に見ている感じが強い。その変化が、素直にうれしかった。
「よし、次ですわ」
「今の一杯で満足しないんですね」
「成功体験のあとには追加検証が必要ですの」
「顔がだいぶ調子乗ってますよ」
否定できない。
だが止まれない。
わたくしはさらに投稿する。
検証その二。お茶請けもほしいですわ。サクサク系希望ですの。
「欲望が雑!」
「具体的ですわよ!」
送ると、今度は箱が二つ落ちてきた。一つには焼き菓子、もう一つには苺ジャム。ペトラまで目を輝かせる。
「増えましたわ!」
「増えましたね!?」
「これは勝ち筋ありますわよ」
「お嬢、その顔よくないです」
わたくしはその忠告を聞き流し、完全に調子に乗った。
食べ物が出る。実用品もたぶん出る。なら、もっと大きなものはどうか。たとえば金塊とか。いや、さすがに露骨かしら。でも困っているのは本当だ。家門没落ルートを折るには財力だって必要なはずで――
公爵家令嬢として品位あるお願いをいたしますわ。金塊とか降りませんこと?
送信。
一秒。二秒。三秒。
何も起きない。
ペトラがじっと見る。
「品位って何でしたっけ」
「黙ってくださいまし」
しかも返信まで容赦がなかった。
@理系の竜
連想が雑。
@考察班長
好きだけど世界観が許さないやつ。
@法務カピバラ
財産形成を未知の現象に依存しないでください。
「最後の人、ほんとうに怖いですわね」
「でも正しいです」
「ぐうの音も出ませんわ」
羞恥で頬が熱い。やってしまった。成功した直後に雑な万能感へ転ぶ、いかにもツイ廃っぽい失敗である。けれど、ここで恥をかいただけで済んだのはむしろ安い。大事なのは、次に何を欲しがるかだ。
証拠。記録。保全。
昨日の返信がよみがえる。これから先、わたくしは必ず「やっていないことをやった」と言われる。なら必要なのは金塊ではなく、それを砕く道具だ。
投稿欄に打つ。
次の問題は証拠ですわ。触れた人、時間、ものの状態を守れる道具が必要ですの。
温室の空気が一段ひんやりした。今度の光は細く鋭く、朝日を青に染める。現れた箱は先ほどより細長く、きっちりした角を持っていた。
中には透明な結晶板が三枚。小さな封蝋。白手袋。銀筆。
「うわ……」
ペトラが先に息を呑んだ。
「これ、王宮の保管庫で使う記録結晶に近いです」
「近い?」
「本物より簡易ですけど、十分使えそうです」
胸の奥がどくりと鳴る。やれる。たぶん本当にやれる。
いいねは加護。返信は知恵。話題が揃えば必要物資まで落ちる。ならこの世界は、わたくしの発信に確実に反応している。
けれど、さっきの金塊失敗がいい薬にもなった。何でも出るわけではない。欲望を雑に投げれば、世界のほうがそっぽを向く。たぶん必要なのは、目先の大金より、状況と目的がはっきり噛み合った願いだ。
つまり、わたくしがこの現象を使いこなせるかどうかは、何を欲しがるかにかかっている。そこを間違えれば、また昨日のわたくしみたいな「知った気だけの人間」に戻る。浮かれている場合ではない、と自分へ言い聞かせる。半分くらいは失敗の恥で自然に冷えましたけれど。
「ペトラ、記録を」
「箱一、結晶三、封蝋、手袋、銀筆。お嬢、字が綺麗ですね」
「それが公爵令嬢ですわ」
と、言ったところで。
「昨日の光は見間違いではなかったようですね」
温室の入り口から、涼しい声が落ちてきた。
危うく結晶を落とすところだった。そこに立っていたのは、案の定シオン・グレイ。灰色の髪、青い目、朝から理屈で刺してきそうな顔。
「どうしてここに」
「発光現象の残滓を辿ってきました」
「残滓を辿るって、便利すぎません?」
「便利でなければ監察魔術師候補は務まりません」
シオンはテーブルの箱と結晶板、そしてスマホへ順に視線を落とした。完全に見られている。ごまかしきれる量ではない。
「説明を」
「挨拶が先ではなくて?」
「ごきげんよう。では説明を」
「省略が早いですわね」
ペトラが半歩前へ出る。
「朝から女性の温室へ踏み込むの、減点ですよ」
「護衛がいる時点で不法侵入ではありません」
「法律で殴り返しました?」
「感想は後で」
こんな軽口を叩いている場合ではないのに、やたら息が合う二人である。だが助かった。わたくし一人なら、今ごろ怪しさで自滅していた。
シオンの瞳はスマホから逸れない。
「未知の魔道具ですか」
「未知の現象ですわ」
「違いは?」
「わたくしにも全部はわかっていないところですの」
ここで全部話すのは無理だ。異世界転生だの、現代からの反応だの、さすがに飛びすぎている。だから切り取って言うしかない。
「条件次第で必要な物が現れますわ。さきほどは茶葉と菓子、今は記録結晶。わたくしは今後の冤罪対策に使えると考えていますの」
「空から出た、と?」
「ええ」
「真顔で言われると困ります」
「困っているのはこちらですわ!」
つい声が上ずったが、シオンは少しだけ目を細めただけだった。
シオンは記録結晶を指先で弾き、目を細めた。
「既存の工房印がない。誰かの登録魔力にも紐づいていない。なおさら厄介です」
「厄介で片づけないでくださいまし」
「片づけてはいません。見張ると言っています」
言い方は冷たいのに、昨日のような即断の拒絶ではない。そこだけは救いだった。
「昨日、あなたはルナさんを庇った。あれは事実です。だから即座に取り上げるつもりはありません。ですが放置もできない」
「当然ですわね」
「少なくとも、僕は見張ります」
そこまで言われたところで、温室の外から慌ただしい足音が飛び込んできた。
「お嬢様! 学園から急ぎの使いが!」
若い侍女が息を切らしている。
「ルナ様が、祭具倉庫で盗みを働いた疑いがあると……星涙のブローチがなくなって、ルナ様の足元から包みが見つかったそうです!」
来た。
嫌な音が頭の奥で鳴る。こういうのは始まると早い。空気が向こうを向いた瞬間に、人は一気に悪者になる。
「ペトラ、結晶と封を持ちなさい」
「はい!」
「シオン、来てくださる?」
「断る余地があるように聞こえません」
「今だけは空気を読んでくださいまし」
「最初からそのつもりです」
スマホが震えた。
@法務カピバラ
現場なら触らせないで。最初に触った人間ほど強い。
わたくしはドレスの裾をつまみ上げ、走った。
祭具倉庫は、学園の華やかな表側とまるで違う。石壁はひんやりと冷たく、高窓から差す光だけが埃を細く照らしている。積まれた布箱、燭台、祭礼用の飾り。木と油と金属の匂い。舞台裏らしく豪華なのに息苦しい。
その中央で、ルナが硬く立ち尽くしていた。
小さな肩がこわばり、白い制服の裾がくしゃくしゃになるほど握られている。囲むのは祭礼委員、倉庫番、それに昨日の茶会にいた令嬢たち。もう空気ができあがっていた。疑いの熱、値踏みする目、ひとりを悪者にして落ち着きたい群衆の顔だ。
「ルナさん」
彼女がはっと振り向く。泣いてはいない。けれど、昨日よりずっと痛そうな顔だった。
「状況を」
わたくしが短く言うと、倉庫番の女性が慌てて口を開いた。
「点検中に星涙のブローチが一つ足りないとわかりまして、探していたところ、この方の足元の箱の陰から包みが」
「見つけたのは誰ですの?」
「わたくしですわ」
「見つかったなら決まりでは?」
どこかの令嬢が小さく漏らしたその一言に、倉庫の空気がまたざらりと尖る。
「決まりませんわ」
わたくしは間髪入れずに返した。
「見つかったことと、盗んだことは同じではありません。そこを雑に繋げるから、冤罪は生まれますの」
前へ出たのはミレイユ・バルザック子爵令嬢。昨日の茶会でも、わたくしに合わせてルナへ棘を投げていた子だ。今も困った顔を作っているが、目の奥だけが妙に忙しい。
誰が包みに触りましたの?」
「え?」
「包みですわ。見つけてから、誰が、何人、どの順に」
周囲がぴたりと黙る。
この質問が予想外だったのだろう。なら、まだ勝てる。
ここで下手に「原作で見た気がする犯人」を決め打ちしたら終わる。切り抜きの記憶はこういうときほど危ない。まとめで読んだ定番展開を現実へ雑に貼るな。事実だけを見ろ。わたくしは胸の内でそう唱え、スマホを強く握った。
「今、包みはどこに」
「こちらです」
倉庫番が差し出した布包みは、銀糸の紐で結ばれていた。中のブローチは涙型の青石を星の爪で留めた華やかな意匠。たしかに祭具らしい高級品だ。
わたくしは手を出しかけ、すぐ止めた。
「ペトラ、手袋」
「はい」
白手袋をはめるだけで、周囲のざわめきが少し変わる。昨日までのわたくしなら、勢いで包みをひったくっていただろう。今は違う。少なくともそう見せる。
シオンが隣へ来る。
「術式痕を見ます。誰も近づかないでください」
「シオン様まで?」
ミレイユが目を見開く。
「盗難の疑いがあるなら確認は当然です。騒ぐ前に順序を守ってください」
好きですわ、その言い方。
ルナがおずおずと言う。
「わたし、倉庫番さんに布の数を見てきてって言われて、奥の棚を見ていました。その前に、ミレイユ様が、こっちの箱が足りないかもって」
「まあ、わたくしが? ルナさん、わたくしに罪を着せるつもりですの?」
「ち、違っ……」
「黙りなさいな」
わたくしの声が倉庫の空気を切った。
「今は話を混ぜるべきではありませんわ。ルナさんは説明しているだけですもの」
ミレイユの唇が震える。昨日までなら、わたくしはこういう場で彼女を止めなかった。だからまだ、その延長で動けると思っているのだろう。そこが腹立たしい。ルナにも、自分自身にも。
スマホを覗き、短く打つ。
倉庫で盗難疑惑。包みは発見済み。何を見るべきですの?
返信はすぐ来た。
@法務カピバラ
最初の発見者、保管者、指示を出した人を分けて。
@理系の竜
物だけじゃなく配置。誰がそこへ置けたかを見る。
@考察班長
絶対はめられてるだろこれ。がんばれ悪役令嬢。
よし。
「倉庫番、最初に紛失へ気づいたのはあなたですの?」
「はい」
「包みを見つけたのはミレイユ様」
「ええ」
「そしてルナさんをその棚へ向かわせたのも、ミレイユ様?」
「わたくしは、箱が足りないかもと申し上げただけですわ」
「なるほど」
平坦に返す。
平坦な声ほど、人は勝手に怖がる。悪役令嬢の見た目、こういうときだけ便利ですわね。
シオンが結晶板を包みへかざした。内部の金糸がじり、と赤く瞬き、薄い靄が浮かぶ。
「おかしい」
「何がですの」
「保管印のほかに、ごく最近ついた移動痕があります。棚から持ち出され、別の位置へ置かれた形です」
「それはルナさんが」
「断定は早いです」
シオンの声が冷える。
「痕の向きが、彼女の立ち位置と逆です」
ルナが息を呑み、倉庫番が目を見開く。
ミレイユの顔色だけが、露骨に変わった。
だがこれだけでは足りない。移動されたとわかっても、誰が置いたかまでは届かない。決め手が要る。
わたくしは記録結晶を一枚取り出した。
「ペトラ、扉を見張りなさい。誰も出さないで」
「了解です、お嬢」
結晶を包みのあった箱陰へ置く。
「シオン。これ、使えますわね?」
「原理が近いなら残光を再生できます」
「失敗したら」
「恥をかきます」
「よろしい。やりますわ」
シオンが魔力を流す。結晶の中で青白い線が走り、小さな歯車みたいな音が鳴った。空気がぴんと張り、表面へぼやけた映像が浮かぶ。
棚。布箱。そこへ伸びる細い手。袖口のレース。青い石の指輪。
包みをそっと置き、影へ引く。
「そんな……」
倉庫番の声が震えた。
映っていたのは、まぎれもなくミレイユだった。
「ミレイユ様、その指輪を見せてください」
シオンが言う。
「な、なぜ」
「映像の手に同じ石がある」
彼女が反射的に手を隠した時点で、もう答えはほとんど出ていた。けれどシオンは逃がさない。半歩踏み込み、冷静に続ける。
「右手中指、青石。袖口のレース幅も一致。まだ否定しますか」
ミレイユの肩が大きく揺れた。
「ち、違……何かの間違いですわ!」
「映っていますわね」
「わたくし、ただ、ヴィオレッタ様のために……!」
その言い訳が、胸の奥の火に油を注いだ。
「わたくしのため?」
静かに言う。静かなほうが、よく響く。
「ルナさんのような方が祭の中心へ出れば、皆さま不安に思われるでしょう? だから少し痛い目を見れば、身のほどを……それにヴィオレッタ様もいつもあの子を」
「わたくしの名を、そんな卑怯の免罪符に使わないでちょうだい」
倉庫の空気が凍った。
「わたくしは昨日まで、たしかに止めませんでしたわ。あなたたちがルナさんへ棘のある言葉を投げるのを、都合よく見過ごしました。そこはわたくしの責任です」
喉が熱い。でも止まらない。
「けれど、してもいない盗みを着せて、泣かせて、居場所を奪うことを、わたくしは命じてなどいません」
ルナが小さく、それでもはっきりと言った。
「わたし、盗っていません」
「ええ、存じておりますわ」
「……信じてくれるんですか」
「昨日、命を懸けて守った相手ですもの。ここで疑っていたら笑い話ですわよ」
ルナの目が揺れる。けれど彼女は泣かなかった。ただ、こくりと頷くだけだ。強い子だ。本当に。
倉庫番が頭を下げる。
「ルナ様、申し訳ございません!」
「確認は次から徹底してくださいまし」
少し強く言うと、倉庫番はさらに恐縮した。でも必要だ。こういう場を曖昧にすると、また繰り返される。
ミレイユは青ざめたまま縋るようにわたくしを見た。
「ヴィオレッタ様、わたくしはただ、あなたのお役に立ちたくて……」
「役に立つ?」
わたくしは一歩だけ近づいた。
「なら覚えておきなさい。ルナさんへ同じことをする者は、今日からわたくしが許しません」
胸元のスマホが、ぴし、と震えた。
見なくてもわかった。七本の棘のうち、ルナとの敵対を示す一本が、今度こそ砕けたのだ。
結晶映像が消える直前、青白い光がひとすじだけ空へ逃げた。その尾が、わたくしの胸元のスマホへ吸い込まれていく。待ち受けを開かなくてもわかる。さっきまで黒く軋んでいた棘の一本が、砕けて光へ変わったのだ。
たった一本。それでも、昨日までは絶対に動かないと思っていた運命が、今は確かに削れている。そう思うだけで、膝の奥に変な力が入った。
シオンが結晶板を回収しながら言う。
「結論から言います。ルナさんの疑いは晴れました。ミレイユ様については祭礼委員会と学園側へ正式に報告します」
「待ってくださいませ!」
「盗難の捏造が大ごとでないと?」
シオンの正論は容赦がない。
「君は人を一人、社会的に壊そうとした。十分に大ごとです」
ペトラが扉の前で腕を組み、にやっと笑った。
「お嬢、今のは勝ちです」
「あなた、本当にそればかりですわね」
「だってわかりやすいです。空気がひっくり返りました」
「……それは、少しわかりますけれど」
本当にそうだった。さっきまでルナへ向いていた熱は、もう違う。驚きと気まずさと、ほんの少しの見直し。風向きが変わる瞬間というのは、見えないのにわかる。
スマホを見る。通知が跳ねていた。
盗難疑惑、逆転しましたわ。記録結晶が有能ですの。あと、やっていない罪を人に着せるのは最低ですわね。
返信が流れる。
@考察班長
悪役令嬢がヒロイン守ってるの熱すぎる!
@理系の竜
初動が良かった。配置を見たのが勝因。
@法務カピバラ
よくやりました。記録は複製を。関係者名も残してください。
褒められた。
いや、喜んでばかりもいられないのに、嬉しいものは嬉しい。昨日までのわたくしは、知った気になっていたばかりで、ほんとうに誰かを助けてはいなかったから。
「ヴィオレッタ様」
ルナが、昨日よりずっとまっすぐな目で言う。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「二回目ですわね」
「何回でも言います」
「……反則ですわよ」
頬が熱い。だめだ、真正面から感謝されるのは本当に効く。
ルナは少し笑って続けた。
「昨日は、まだ怖かったです。でも今は、少し信じたいです」
「少し、ですの?」
「いきなり全部は難しいので」
「正直でよろしいですわ」
シオンが咳払いをした。
「感動のところ申し訳ありませんが、ヴィオレッタ様」
「なんですの」
「あなたの未知の現象、放置はできません」
「でしょうね」
「ですが」
彼はわたくしをまっすぐ見た。
警戒だけではない、もっと複雑な目だった。
「監視付きで協力します」
「条件があります」
「もうありますの?」
「あります。危険だと思ったら止めます。現象が暴走しそうなら僕に先に見せてください。証拠に関わる話なら、投稿前に一度共有を」
「だいぶ本格的に共同戦線ですわね」
「監視付きです」
「そこ強調しますの?」
「重要です」
でも、その細かい条件出しは、見捨てる気のない人のやり方だ。そう思うと、口元が少しだけ緩むのを止められなかった。
「監視が先ですの?」
「未知の発光現象を持ち歩く人には当然です」
「当然ではありませんわ」
「では特例です。あなたが危なっかしいので」
「褒め言葉として受け取りますわ」
「褒めていません」
でも胸の奥では別の感情が膨らんでいた。うれしい。
この理屈男が、ちゃんと見たうえで協力すると言った。その重さがわかるから、なおさら。
「……よろしくてよ」
「それと」
シオンがわたくしの胸元をちらりと見た。
「その端末を人前で軽々しく出さないでください。あなたは危機感が薄い」
「昨日よりは危機感ありますわ」
「昨日はゼロだったので比較になりません」
「ひどいですわね?」
「事実です」
でもその事実を、なぜかあまり不快に思わなかった。わたくしが雑に突っ込んでいくたび、こうして止める人がいる。それだけで、破滅ルートの景色が少し変わって見える。
「上からですね」
「公爵令嬢ですもの」
ペトラが吹き出し、ルナまで小さく笑う。倉庫の冷たい空気が、それだけで少しやわらいだ。
わたくしはスマホを握り直した。フォロワー数がまた跳ねる。一五〇〇、一八〇〇、二〇〇〇。
けれど見ているのは数字だけではない。流れてくる言葉だ。
記録残して
次も報告して
味方が増えてきた
応援してる
がんばれ、悪役令嬢
昨日は見物の熱が多かった。
今は違う。まだ安全な場所から見ている人も多いだろう。それでも、ただ面白がるだけの熱ではない。こちらへ一歩近づいた体温がある。
通知欄には、さっきまでの「面白そう」ではなく、「お嬢、次も報告して」「証拠保全班待機」「ちゃんと味方いるから」という言葉が増えていた。たまたま流れてきた祭りを眺める通行人ではない。少なくとも、次の投稿を待つくらいにはこちらへ気持ちを置いた人たちだ。
数字の向こうにあるのが、ただの好奇心ではなくなる。その瞬間の熱が、こんなにも心強いとは思わなかった。
フォロワー数が二二〇〇を越えたところで、通知欄の流れがまた少し変わった。検証好きの声だけでなく、「ルナさんも守って」「王子が何を言うか見届ける」「次の聴取は絶対記録して」と、先の展開を一緒に越える前提の言葉が混ざり始める。
もう単発の見物ではない。昨日の一件を面白がっただけの通行人が、今日の逆転で足を止め、明日の戦いへまで気持ちを伸ばしてくれている。そんな熱が、青白い画面の向こうでじわじわ膨らんでいた。見物から応援へ、確かに色が変わっていく。
見物席にいたはずの群衆が、少しずつ応援席へ移ってくる。
その変化を、わたくしは指先の震えで知った。運命を変えるのは、特別な一撃だけではない。こういう小さな味方の積み重ねなのだと、ようやく信じられた。
きっと向こう側の人たちにとって、わたくしはまだ「面白い悪役令嬢」なのだろう。けれど、その軽さが、今日のわたくしには救いでもある。面白半分でも、好奇心でも、見守りでもいい。そこから始まって、記録と検証を重ね、いつか本物の信頼へ変えてしまえばいい。
そして通知欄のいちばん上に、新しい返信が跳ねた。
次の聴取、絶対に記録して。今度は見てるだけじゃなく、手伝う。
青白い画面の向こうで、見物人はもう、ただの見物人ではなくなり始めていた。




