10.星の雨がやむ前に
空が裂けるところなんて、比喩でも現実でも、そうそう見たいものではありませんわね。
大広間の天井を越え、そのさらに向こう、王都の夜空に走った青白い亀裂は、まるで星座そのものを誰かが横からへし折ったみたいでした。音はない。なのに、見た瞬間に、会場じゅうの心臓が同時に冷たくなるのがわかる。
次の瞬間には悲鳴。椅子が倒れ、グラスが転がり、青金の祝祭は一息でただの混乱へ変わった。
「落ち着いてください!」
わたくしより先に響いたのは、シオンの声でした。よく通る。理屈だけではなく、こういうときにもちゃんと通るの、ずるいですわね。
「出口は三つ。押し合わないで。子どもと高齢者を先に!」
床を走る註記増幅陣の残光を踏み越え、彼は大広間の中心へ出る。青い術式が足元から広がり、まず近くの人波を三方向へ分けた。
「騎士は避難誘導へ!」
今度は、エドガーの声。
わたくしは一瞬、そちらを見た。彼の顔からは、さっきまでの冷たい裁きの色が抜けていた。代わりにあるのは、明らかな動揺と、それでも王子として立たねばならないという遅すぎる決意だ。
「神殿側は負傷者の保護を! 楽師は演奏を止めろ、灯りを保て!」
命令が飛ぶたび、混乱がほんの少しだけ形を持つ。遅い。けれど、立ち尽くしているよりは何倍もましだ。
カルヴァンだけが、静かでした。
高壇の縁に立ち、裂けた夜空を見上げたまま、彼はひどく穏やかな声で言うのです。
「ほら、ご覧なさい。役を壊せば、世界はこうして口を開く」
「黙りなさい!」
わたくしは反射で叫び返していた。
「今する話ではありませんわ!」
「今だからこそ、です」
カルヴァンはゆっくりこちらを見る。
「悪役が悪役でなくなり、正義が裁きを失い、聖女が希望の座標からずれる。支えていた物語が崩れれば、歪みは空へ出る」
「だったら戻せと?」
「少なくとも、誰かが引き受けるべきでしょうね」
彼の視線が、わたくしとルナさんのあいだを行き来する。
「悪意を集める器か、浄化を捧げる楔か」
その言い方に、ぞっとした。
やっぱりだ。この男は、最後の最後まで誰かを役へ押し戻すつもりでいる。
「お断りですわ」
わたくしは一歩前へ出る。
「あなたの都合の良い器にも、楔にも、なりません」
「そうですか」
カルヴァンは少しだけ笑った。
「では、その理想で王都を守ってみせてください」
言うが早いか、裂け目の向こうから、青白い粒が降り始めた。
最初は一つ、二つ。雪みたいに綺麗な光。けれどそれが床へ落ちた瞬間、白い大理石がじり、と焦げる。
会場のあちこちで悲鳴が上がった。
「星災!」
誰かが叫ぶ。
そう。これが、ルナさんの未来にあったはずの災厄。
空から落ちる星の傷。綺麗で、冷たくて、触れた場所の現実を削るもの。
「シオン!」
「わかってる!」
彼は高壇の前へ跳び、両手を床へついた。青白い術式が円を描いて広がり、落ちてくる星災の粒を大広間の天井近くで一度だけ逸らす。
「ルナさん! 浄化は局所でいい、まず人のいる場所!」
「はい!」
ルナさんも祭壇側の白い燭台をひとつ掴み、その先へ細い光を通した。白い線が走り、落ちてきた粒のいくつかが、床へ届く前にふわりと薄くなる。
「ペトラ!」
「出口右を空けます!」
彼女はすでにテーブルクロスを引き、倒れた椅子を蹴りのけ、子どもと高齢者の動線を作っていた。いつも思いますけれど、判断の速さが現場向きすぎますわね。
そしてわたくしは――その瞬間、最悪なことに気づいてしまったのです。
胸元のスマホが、燃えるみたいに熱い。
見なくてもわかる。今、向こう側では大変なことになっている。婚約破棄の大舞踏会、悪役令嬢の逆転、そして空が裂けた。こんなの、タイムラインが放っておくわけがない。
たぶん、いま見れば、とんでもない数字が跳ねている。
そしてその想像が、ひどく甘い。
トレンドの頂上。切り抜き映え。世界の終わりの真ん中で、それでも自分の名前が一番大きく流れる快感。
ここで「全部まとめてわたくしが背負って差し上げますわ」とでも書けば、どれだけ数字が跳ねるでしょう。どれだけ簡単に、皆の視線を一身に集められるでしょう。
その一瞬の万能感が、信じられないほど魅力的に見えてしまったからこそ、わたくしは自分で自分へ腹が立った。
(いや待って)
親指が、ほとんど反射で画面を開きかける。
(待ちなさい、わたくし)
ここで欲しいのは注目ではない。
前世のわたしなら、こういう極限でバズりそうな一言を探していた。世界が終わる瞬間ですわ、とか、婚約破棄どころではありませんの、とか。そういう切れ味の良いフレーズ。
でも、いまその衝動へ乗れば、また黒い火花が混ざる。昨日の炎上熱より、もっと大きな形で。
それで王都が救われたとしても。
もしそれが「悪役令嬢の華麗な自爆ショー」として救われるなら、カルヴァンの土俵から一歩も出られない。
わたくしは目を閉じた。
呼吸を一つ。
速く打つ心臓の音を、無理やり数える。
(わたくしは、見られ続けるために生き延びたいんじゃありませんの)
画面を開く。
通知は予想通り、爆発していた。数字の桁が、いままで見たことのない速さで上がっていく。知らない人たちの叫び。驚き。煽り。面白がり。怖がり。
それを一瞬だけ見て、わたくしは全部閉じた。
投稿欄へ打つ。
王都上空で星災が発生しましたわ。
いま必要なのは見物ではなく、避難と保護ですの。
高い場所、子ども、高齢者、火気、出入口、今すぐ必要な順でくださいませ。
わたくしは目立つためではなく、守るために力を借ります。
送信。
その瞬間、熱の質が変わった。
じりじり焦げるみたいな熱ではない。冬の朝、手袋の中へ戻ってくる体温みたいな、静かで深いあたたかさ。
「色が……」
ルナさんが空を見上げる。
裂け目の縁が、わずかに青から白へ寄る。まだ閉じない。でも、さっきまでのむき出しの悪意みたいなギラつきが少しだけ薄れた。
返信は、今まででいちばん速いのに、いちばん落ち着いていた。
@法務カピバラ
出口を三つに分けて。押し合いを作るな。
@理系の竜
上ではなく壁沿いへ。粒は落下角がぶれる。
@考察班長
見てるだけじゃなく拡散する! 避難の声、拾う!
そのあとも、短く、具体的な助言が次々流れ込む。
子どもを抱えてしゃがめ。
布は頭に。
水を先に。
灯りを一点に集めるな。
窓際から離せ。
神殿側の白布は反射を鈍らせる。
屋根の金具を避けろ。
人を落ち着かせるときは具体語を繰り返せ。
「シオン! 壁沿い!」
「もう動かしてる!」
「神殿の白布を、窓へ!」
「はい!」
ルナさんが走る。
「ペトラ、頭を守る布!」
「もう配ってます!」
わたくしの言葉が、向こう側の知恵を受け取り、こちらの行動へ変わる。
そうやって流れがつながるたび、小さな星の箱が天井近くでいくつも現れた。中身は、毛布、白布、軽いヘルメット代わりの固い帽子、細い笛、誘導用の青い紐。派手さはない。けれど今必要なものばかりだ。
「落ちてきますわよ!」
「全部当たりです!」
ペトラが箱を空中で受け取り、まるで最初から自分の荷物だったみたいに配り始める。
「お嬢、向こう側の人たち、本気ですね!」
「ええ!」
答えながら、胸が熱い。
これはもう“見物人の祭り”ではない。助けるために動いている熱だ。
けれど、カルヴァンはなおも笑っていた。
「小手先でどれほど持つでしょう」
彼は高壇の上で両手を広げる。
「人は結局、単純な役割へ戻りたがる。恐怖の中ではなおさらだ」
青白い裂け目の下で、彼の足元に黒い星形の術式が浮かぶ。
「ならば、私が役を整え直して差し上げましょう」
床を走る黒い線が、ルナさんの足元へ伸びた。
「っ!」
彼女が息を呑む。
白い祭服の裾へ、黒紫の星鎖みたいな光が絡みつく。星災の裂け目と直結するように、細い柱が天井から彼女へ降りようとする。
「ルナさん!」
わたくしは駆け出した。
シャンデリア事故のときと同じだ。考えるより先に身体が動く。
でも、今度は一人ではない。
「浄化線、そっちへ!」
ルナさん自身が叫ぶ。強い。
シオンがすぐに註記増幅陣の角度を変える。
「ヴィオレッタ、言葉を!」
「何を」
「その鎖が“当然の役目”ではないと、ここにいる全員へ言わせろ!」
言わせろ。
つまり、納得を集めろ。違う立場からの合意。註記の本質。
だったら、やることは一つですわね。
わたくしは高壇の階段を駆け上がり、カルヴァンの真正面へ立った。
こわい。普通にこわい。相手は星導卿で、空は裂けていて、下では王都の悲鳴が響いている。
でも、今ここで黙るほうがもっと怖い。
「皆さま!」
わたくしは大広間じゅうへ向かって叫んだ。
「ルナさんがこの災厄の楔になることを、当然だと思う方はいらして!?」
場が凍る。
貴族たちが顔を見合わせる。神官たちが揺れる。楽師たち、侍女たち、騎士たち、みんな一瞬だけ考える。
この沈黙が大事だ。誰かの命を“そういう役だから”で差し出してよいのか。自分の言葉で答える前の沈黙。
「私は認めません!」
最初に声を上げたのは、シオンだった。
「彼女は装置ではない。人です」
「私は、一番最初の日から見ています」
シオンの声は、広間の隅々まで不思議なくらいまっすぐ届いた。
「茶会の日、ヴィオレッタ様はルナさんを庇って落下物の下へ飛び込みました。あれは見栄でも演出でもなく、反射です。そこから先の記録も、僕はずっと追ってきた。少なくとも“誰かを祭壇へ縛って平然としていられる人間”ではありません」
「わたしも嫌です!」
ルナさんが、黒い鎖に絡まれながら叫ぶ。
「助けるために祈りたい。でも、誰かが決めた役だから縛られるのは嫌!」
「私も認めません!」
今度は、まさかのエドガーだった。
高壇の横から、彼は一歩前へ出る。
その顔は、今まで見たことがないほど苦い。
「私は……私は今日まで、“正しい王子”を演じることばかり考えていた。民の声を聞くふりをして、見たい物語を選んでいた」
会場がざわつく。王子の口から出る懺悔としては十分すぎる重さだ。
「ヴィオレッタへの判断は早計だった。ルナにも、王国にも、私は謝らなければならない。だから命じる。聖女候補を楔として扱うことを、王家は認めない」
胸が熱くなる。
遅い。遅すぎる。けれど、この場でそれを言えるなら、まだ捨てるには惜しい人間なのかもしれない。
神殿側からも声が上がる。
「神意は生贄を命じません!」
「記録をとれ! この術式は祭式ではない!」
「白布を広げろ! 浄化の線を補助する!」
騎士たちが応じ、侍女たちが走る。楽師の一人が、落ち着かせるための低い音をひとつ鳴らす。商人たちも窓布を押さえ、使用人たちが避難誘導を続ける。
違う立場の声が、次々に重なる。
認めない。違う。縛るな。守れ。
その一つひとつへ、スマホの中の言葉も重なった。
勝手な役を押しつけるな。
聖女だから犠牲、は違う。
悪役に全部背負わせるな。
責任ある人間がそれぞれ動け。
名前で呼べ。
向こう側の熱も、こちらの声も、青白い糸になって広間を走る。
註記増幅陣がそれを拾い、ルナさんへ絡んだ黒い鎖へ突き刺さる。
ぱき、ぱき、と音がする。
鎖の表面に、青白い文字が浮かんだ。
本人の同意なし
役割の強制
祭式要件不一致
王家承認なし
神殿教義不一致
「……!」
カルヴァンの顔から、ついに微笑みが剥がれた。
「やめろ」
「嫌ですわ」
わたくしは即答した。
「あなたの都合の良い物語に、これ以上だれも入れません」
彼は術式をさらに強めようとした。
黒紫の線が、今度はわたくしへ向かって伸びる。
悪役へ戻れ、と。ならおまえが全部背負え、と。
ああ、これですわね。最後までそのやり方。
なら、ここで終わらせますの。
わたくしはスマホを高く掲げた。
画面の中で、最後の棘――星災を示す黒い一本だけが、まだ脈打っている。
これを折る方法は、もうわかっている。
バズることではない。
誰か一人が全部を引き受けることでもない。
違う立場の人間が、それぞれの責任で、同じ方向を見ること。
わたくしは息を吸う。
喉が焼けるみたいに熱い。泣きたいくらい怖い。けれど、いま言わなければ、たぶん一生言えない。
「聞きなさい、カルヴァン!」
大広間がしんと静まる。
「わたくしは、あなたの用意した悪役令嬢ではありません」
黒紫の線が足元まで来る。
でも止まらない。
「誰かに都合よく憎まれるための器でも」
「ヴィオレッタ!」
シオンの声が飛ぶ。彼は註記線をこちらへ寄せる。
ルナさんも白い光を伸ばす。ペトラはわたくしの前へ半歩出て、飛んできた星災の粒を布で払う。エドガーは騎士へ叫び、窓際の人を下げさせる。
みんなが動く。
みんなが、わたくし一人へ任せない。
だから、言える。
「わたくしは悪役令嬢ではなく――」
最後の言葉だけは、胸の奥から引っ張り出した。
「ヴィオレッタ・ローゼンティアですわ!」
その瞬間だった。
スマホの中の最後の棘が、真っ二つに砕けた。
青白い光が、手の中から空へ噴き上がる。
大広間の註記増幅陣、ルナさんの浄化線、シオンの固定術、騎士たちの保護陣、神殿の白布、向こう側の返信、リポスト、助言、見届けるという声。全部が一本の流れへつながって、裂けた夜空そのものへ突き刺さった。
青白い亀裂が、一瞬だけ大きく開く。
みんなが息を呑む。
次に来るのが破壊だと思ったからだ。
けれど違った。
裂け目の向こうから降ってきたのは、刃のような星災ではなく、やわらかな星の雨だった。
細かな青白い粒が、今度は床を焦がさず、窓を割らず、ひとつひとつが薄い膜みたいに人々の肩へ、王都の屋根へ、街路の灯りへ降りていく。落ちた場所へ、冷たい傷ではなく、淡い加護の膜が残る。
大広間の窓から見える王都でも、同じだった。屋根へ降る星の雨。塔を包む膜。路地を走る人々の頭上を覆う、かすかな青白い庇。
広場へ逃げていた人の頭上には、青白い傘みたいな膜。屋根の端で砕けかけていた瓦へは、薄い補強の光。橋の上で立ちすくんでいた馬車の上には、白くやわらかな粒がいくつも重なって、落ちてくる星の欠片を弾いている。
破壊ではなく、防ぐための星。怖さを煽るためではなく、誰かが誰かを庇ったその延長みたいな光。
ああ、これならきっと、最初の奇跡と同じ線の上にある。あのシャンデリアの下で、たった一人を守った小さな星粒が、いま街じゅうを覆う大きさになっただけなのだと、目で見てわかった。
「書き換わって……る」
ルナさんが、ほとんど息みたいな声で呟く。
カルヴァンは後ずさった。
「そんな、はずは」
「ありますわ」
わたくしは高壇の上から彼を見た。
「怒りだけでは世界は救えませんもの」
彼はなおも何かを言おうとしたが、足元の黒紫の術式が、自分自身へ巻き戻るみたいに縮み始めていた。物語の役を他人へ押しつけるための線が、もうだれにも繋がらない。行き場を失った線は、最終的に術者自身へ返る。
そして、広間中の註記の光が一斉に彼を照らした。
本人意思の不在
記録誘導
役割固定
祭式逸脱
「やめろ……!」
「嫌ですわ」
「私は、王国のために」
「誰かを悪役へ押し込める王国なら、変わるべきですの」
カルヴァンの長衣の星模様が、ひとつずつ消えていく。肩書きを支えていた権威の光が剥がれ落ちるみたいに。
騎士たちが、今度は迷いなく彼を囲んだ。もう彼の微笑みは効かない。場の“納得”が、完全に別のところへ移ったからだ。
「星導卿カルヴァン」
エドガーが、はっきりと言った。
「記録誘導、祭式逸脱、王家と神殿の名を騙った役割固定の疑いにより、その権限を停止する」
王子の声が、今度はちゃんと“正しく使われる権力”に聞こえた。
やっとですわね。本当にやっと。
カルヴァンは何か言い返そうとしたが、もう誰もその顔を見ていない。騎士に囲まれた彼は、そのまま広間の外へ連れ出されていく。
倒す、というより、物語の中心から降ろす。あの男に一番効くのは、たぶんそれだ。
静寂が落ちる。
長く、長く張りつめていた夜の糸が、ようやく切れたみたいに。
わたくしはその場で、へたりこみそうになる膝を必死で支えた。
終わった?
いや、終わったのですわね?
王都の上空の裂け目は、もう傷口ではなく、星の雨を落とす柔らかな雲へ変わっている。
誰も泣き叫んでいない。
大広間の窓は割れていない。
ルナさんは立っている。
シオンも、ペトラも、みんなここにいる。
「ヴィオレッタ!」
誰より先に飛んできたのは、ペトラでした。
「生きてます!?」
「第一声がそれですの!?」
「だっていま、めちゃくちゃ光ってましたよ!」
「ええ、ちょっとだけ自分でもびっくりいたしましたわ」
「ちょっとじゃないです!」
その勢いに、変な笑いが漏れる。
笑えるなら大丈夫。少なくとも今は、そういうことですのよね。
ルナさんも駆け寄ってきて、わたくしの手を両手で握った。
「よかった……!」
「ええ」
「ほんとうに、よかった」
「ええ」
それしか言えないのに、胸の奥はいっぱいだった。
この子がこうして笑っている。それだけで、いままでの全部に意味があった気がする。
シオンは、少し遅れて近づいた。
顔はいつも通り冷静寄りなのに、耳の先だけ少し赤い。走ったからかしら。そういうことにしておきますわ。
「結論から言います」
「ええ」
「無茶でした」
「知っておりますわ」
「ですが」
彼は一呼吸置いた。
「よくやりました」
その一言に、胸の内側がじわっと熱くなる。
「……それ、だいぶ嬉しいですわ」
「でしょうね」
「もっともったいぶっていただいてもよろしくてよ?」
「いまはこれで十分です」
「ずるいですわねえ」
高壇の上では、エドガーがまだ立ち尽くしていた。
わたくしと目が合う。
逃げないで、彼は階段を下りてきた。
「ヴィオレッタ」
「何ですの」
いまさらまた上から物を言われたら、さすがに一発くらい言い返しますわよ。
けれど、彼はそこで深く頭を下げた。
「私の判断は誤っていた」
広間が静まる。
「君を、そしてルナを、物語に沿って裁けると思い込んでいた。証拠を見る前に、見たい筋書きを選んだ。王族として、責任者として、謝罪する」
遅い。すごく遅い。けれど、逃げずに公の前でやるなら、最低限の線は引ける。
広間の後方では、さっきまで面白がっていた視線の色まで変わっていた。
悪役令嬢が裁かれるのを楽しみにしていた人たちが、今は自分たちがどんな筋書きへ乗せられていたのかを噛みしめる顔をしている。ざまあみろ、とは少し違う。けれど、こういう気まずさごと引き受けさせるのもまた、公開でひっくり返す意味なのだとわたくしは思った。
見物人のままでいられなくする。
それが、今夜わたくしたちが本当にやったことなのかもしれない。
「受け取りますわ」
わたくしは言った。
「ただし、忘れません」
「……ああ」
「それと」
少しだけ唇を上げる。
「婚約は、もう返しましたものね」
「それと、ヴィオレッタ」
エドガーが言い淀む。
「私は今後、王家の名の下で“民の声”を使うとき、記録と反証の場を必ず先に置く」
「最初からそうなさいませ」
「耳が痛い」
「一生痛がっておくとよろしいですわ」
周囲からまた小さな笑いが漏れた。笑えるのなら、たぶんこの国はまだ立て直せる。
「そうだったな」
と答えた。
その素直さが、ちょっとだけ可笑しい。もう遅いんですのよ、殿下。
神殿側からは、正式にルナさんへ拘束のない立場が保証された。聖女候補であっても、役として祭壇へ縛ることはしない。本人の意志を最優先する、と。
学園側も、予備審問の捏造資料は無効。ローゼンティア家への処分手続きは停止。家門没落の筋書きも、ここで完全に潰えた。
さらに、騎士と書記たちが、今夜の混乱と反証の記録をその場でまとめ始める。これは大事だ。勝った瞬間に記録を残さないと、また後で誰かが“なかったこと”にしたがるから。
法務カピバラ、あなたの教えは本当に染みておりますわよ。
神殿長代理と学監補佐はその場で、今夜の断罪手続きと関連審問の無効を宣言した。ローゼンティア家への一切の没落措置は停止、押収予定だった資産目録も凍結の上で再審査。父と母の顔が頭をよぎって、そこでやっと、家まで本当に守れたのだと実感が遅れて押し寄せる。
膝から力が抜けそうになったのは、その瞬間でしたわ。
星の雨は、やがてやさしい霧みたいに薄れていった。
窓の外では、王都の屋根が一枚ずつ青白く乾き、遠くの鐘楼が無事な音を鳴らし直している。人々のざわめきは、恐怖から安堵へ変わり、その中に少しずつ笑いまで戻ってきた。
夜が明ける。
大広間の高窓から、今度はほんものの朝の光が差し込む。青ではなく、淡い金色。床へ散った星粒の名残が、その光を受けて、まるで朝露みたいにきらめいていた。
その頃には、わたくしの手首の封鎖環も外されていた。
王都の上では、最後の星の雨がゆっくり薄れていった。
だれかを刺すための光ではなく、夜を越えた証拠みたいに、屋根の縁と窓硝子へ静かに残っている。
その景色を見て、わたくしはようやく実感した。破滅フラグは、待っていれば折れるものではない。人と人のあいだに手間をかけて、何度でも折り直すものなのだと。
あとには薄い赤みが残っただけ。大した傷ではない。もっと深いところにあった見えない傷のほうが、今はずっと軽くなっている。
広間の片づけが始まる中、わたくしたちは一度だけ静かな窓辺へ集まった。
ルナさんは、疲れているのに晴れやかな顔をしていた。
ペトラは「徹夜明けでテンションが変」と自分で言いながら、やけに元気だ。
シオンは帳面と記録結晶を抱えたまま、やはり忙しそうで、それでもわたくしたちのそばを離れない。
「今後についてですが」
シオンが早速現実へ戻す。
「王国側は記録制度の再整備を急ぐはずです」
「そうですわね」
「註記の扱い、証拠保全、祭礼と神殿の権限分離、広報手順」
「わたくし、まだ寝ておりませんのに急に仕事の話ですの?」
「寝たら忘れそうなので」
「ひどい信頼ですわね」
「でも必要です」
ルナさんが小さく笑う。
「わたしも、それはそう思います」
ふと、隣へ立ったシオンの外套の袖が肩に触れる。いつの間にか、彼は帳面を脇へ抱え直し、こちらと同じ方角――朝焼けにほどける王都のほうを見ていた。
「また厄介事が増えますね」
「ええ」
「逃げますか」
「まさか」
「でしょうね」
その短いやりとりだけで、今後もこの人が隣へいるのだと、妙に自然に思えた。
エドガーも、少し離れたところから近づいてきた。
「王家として、記録と広報の仕組みを見直す。カルヴァンのような誘導を許さないために」
「今さらですわね」
「耳が痛い」
「大事なことですのよ」
「わかっている」
彼は頷く。
「だから、もし受けてもらえるなら……ヴィオレッタ、シオン。新たな記録制度の整備へ力を貸してほしい」
「殿下」
シオンが先に言う。
「命令ですか」
「依頼だ」
「なら、条件次第です」
そこもいつも通りで、少し笑いそうになる。
わたくしは窓の外の朝を見た。
王都はまだ少し混乱している。でも、崩れてはいない。家門も、ルナさんも、わたくしも、ちゃんとここにいる。
だったら。
「受けますわ」
そう答えた。
「だって、せっかく一回ぶち壊したのですもの。次は、もう少しましな形に作り直さなければ損でしょう?」
「名称は仮ですが」
シオンが帳面を閉じる。
「王国広報記録室準備室、というところでしょう」
「長いですわね」
「短くするとだいたい雑になります」
「そこは妙に説得力がありますわ」
「あなたが証明しました」
「ぐぬぬですわね」
ペトラが吹き出した。
「お嬢らしい」
「褒めております?」
「だいぶ」
「それはよろしいですわ」
そして、みんなが少しだけ笑った、そのときだった。
胸元のスマホが、ぴこん、と軽い音を立てた。
今度の音は、警告でも、爆発的な通知でもない。朝の机に置いた湯呑みが小さく鳴るみたいな、ごく控えめな新着音。
画面を開く。
通知欄のいちばん上に、見覚えのない新しい名前がひとつだけ浮かんでいた。
北方辺境伯令嬢です。助けてくださいませ




