早速の完!!(よまなくてもいいかな)
あまり出来が良くない、次の話に行ってもいいぐらいです。
湖は朝の光を受けて、静かに揺れていた。
水面は鏡みたいに澄んでいて、空と雲と、岸辺の木々をそのまま写している。
俺――ヒロシは、その湖のほとりに建つ小さな家に住んでいる。
住んでいる、という言い方が正しいのかは分からない。
少なくとも、目が覚めたときには、もうここにいた。
玄関を出ると、冷たい空気が肺に入ってくる。
この感覚がやけに生々しいのも、未だに慣れない。
「おはよう、ヒロシ」
背後から、柔らかい声がした。
振り返ると、彼女がいた。
白いシャツに、落ち着いた色のスカート。
清楚という言葉がそのまま当てはまる佇まいで、柴犬を思わせる垂れ耳が、朝の風にわずかに揺れている。
腰の後ろには、ふさりとした尻尾。
顔立ちは人間そのものなのに、決定的に違う。
ラウだ。
この湖畔の家には、最初から彼女がいた。
――正確に言えば、俺がここに来たとき、すでに住んでいた。
仮住まいらしい、と本人は言っていた。
理由は詳しく聞いていない。聞く必要を、感じなかった。
「おはよう」
そう返事をしながら、俺は一瞬、視線の置き場に困る。
耳。
尻尾。
……まずい。
頭の奥で、昔の記憶がざわつく。
あれは事故だったはずなのに、俺の中の何かは、確実に反応してしまう。
ときめき、だ。
認めたくはないが、胸がほんの少し高鳴っている。
ラウはそんな俺の内心など知らず、湖の方を見た。
「今日は風も弱いし、釣りできそう」
「……ああ、そうだな」
釣り。
この世界に来てから、何度か一緒にやっている。
最初に誘ったのは、ラウの方だった。
俺がこの家の前で、意味もなく湖を眺めていたときだ。
『ぼーっとしてると、魚に笑われるよ』
そう言って、竿を差し出された。
断る理由はなかった。
今思えば、あのときから、俺と彼女の距離は不自然なほど近かったのかもしれない。
二人並んで岸に腰を下ろす。
湖面に浮かぶウキを見つめながら、沈黙が続く。
この沈黙が、居心地いい。
それもまた、違和感だ。
俺は、つい昨日まで、別の世界にいたはずなのに。
「……ラウ」
「なに?」
「俺がここに来た経緯、覚えてる?」
ラウは首をかしげる。
「急に現れた、って言ったよね。湖のそばで倒れてた」
「そうだったな」
自分の言葉をなぞるように呟く。
倒れていた。
それだけだ。
本当は、その前がある。
意識が途切れる直前、俺は“声”を聞いた。
神なのか、管理者なのか、そんな分類はどうでもいい。
あれは、人間ではなかった。
理由は語られた。
それは抽象的なんかじゃなく、むしろ拍子抜けするほど具体的だった。
『この世界には、文明の継ぎ目が必要だ』
『お前には、向こうの世界の知識がある』
『それを使って、この土地を安定させろ』
湖。
水。
力に変える仕組み。
人々の暮らしを支える基盤。
要するに――
俺は「この世界に、技術を根付かせる役目」を与えられた。
立派だ。
使命感に満ちている。
物語としては、たぶん正解なんだろう。
でも正直に言えば、その瞬間の俺の感想はひとつだけだった。
――めんどくさい。
過労で倒れたばかりの人間に、
異世界のインフラ整備を任せるな。
そう言い返す前に、意識は途切れて、
次に目を開けたとき、俺はこの湖畔にいた。。
ただ一つ、確かなことがある。
俺は、自分の意思でここに来たわけじゃない。
ウキが揺れた。
ラウが竿を引き上げ、小さな魚を針から外す。
「ねえ、ヒロシ」
「ん?」
「この家、変だと思わない?」
「……どの辺が」
「音」
彼女は足元を軽く踏み鳴らす。
「下から、ずっと水の音がする」
俺は視線を逸らした。
地下にあるものを、思い出してしまう。
水路。
タービン。
発電機。
この世界の風景と、まったく噛み合わない設備。
「あとで、説明する」
「うん」
ラウは深く追及しなかった。
それが、ありがたい。
俺は湖を見つめながら、心の中で整理しようとする。
異世界。
獣人。
文明にそぐわない水力発電所。
そして、なぜか叶ってしまいそうな予感。
ずっと胸の奥にあった、
言葉にしなかった“夢”。
ここに来た意味が、
まだ輪郭だけしか見えていない。
それでも――
この湖畔の朝は、あまりにも穏やかで、
俺は混乱したまま、その中に立ち尽くしていた。
湖は夕方になると、昼とは別の顔を見せる。
水面の光が落ち着き、音だけがはっきり残る。
俺とラウは並んで腰を下ろし、釣り糸を垂らしていた。
話すことは多くない。けれど、気まずさもない。
「ヒロシ、少し引いてる」
ラウは穏やかな声で言う。
視線は水面のまま、距離も変えない。
「ほんとだな」
竿を上げるが、魚は逃げた。
失敗なのに、なぜか肩の力が抜ける。
こういう時間を、俺はずっと欲しがっていた気がする。
湖のそばで、誰かと、ただ並んで過ごす時間。
理屈では分かっている。
俺は転生したばかりで、混乱している。
使命もあるし、この世界にはやるべきことがある。
それでも、視界の端で揺れる尻尾を見てしまうと、
思考が一段、どうでもよくなる。
家に戻ると、ラウは迷いなく中へ入った。
台所で鍋をかけ、手慣れた動きで準備を始める。
客ではない。
居候だ。
もう、そういう存在だ。
食事を終え、明かりを落とす。
家の中は静かで、湖の音だけが遠くで続いている。
「おやすみ、ヒロシ」
「ああ、おやすみ」
ラウは自分の寝床へ向かい、扉を閉めた。
その音を聞いてから、俺はしばらく動けずにいた。
一軒家。
湖畔。
無理のない暮らし。
同じ屋根の下で過ごす誰か。
現実世界では、
全部「いつか」と言い換えて、
結局は口に出さなかった夢だ。
過労で倒れるまで働いて、
それでも何も手に入れられなかった。
なのに今は、
説明も覚悟も追いつかないまま、
全部そろっている。
俺は小さく息を吐いた。
ああ、そうか。
現実で果たせなかった俺の夢は、
もう、かなっているじゃないか。




