09.
数日後。
帝城の謁見の間に、招かれざる客が現れた。
ミシェルの祖国である王国から派遣された特使、ゼファー財務大臣だ。
かつてミシェルに理不尽な課題を押し付けていた張本人である。
彼は慇懃無礼な態度で一礼すると、ギデオンに向かって薄ら笑いを浮かべた。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。……いやはや、先代の崩御は痛ましいことでしたな。『若君』におかれましては、さぞご心労も深いことでしょう」
若君。
それは皇帝に対する言葉ではない。
彼がギデオンを「親の七光りで即位した若造」と見下している証拠だ。
さらに、その視線はギデオンの横に控えるミシェルへと向けられた。
(フン。あの『加護なし』を側近に置いているとは。噂通りの世間知らずか、あるいは色に溺れた愚王か。……これなら御しやすい)
そんな大臣の内心を、ミシェルは冷めた目で見透かしていた。
彼は「無能な王女」を重用している皇帝など、恐れるに足りないと高を括っているのだ。
「さて、本日は両国の友好を深めるため、通商条約の草案をお持ちしました」
大臣は分厚い羊皮紙の束を取り出し、恭しく差し出した。
「我が国の王女を娶られるのです。結納代わりと思って、サインをいただけますかな? 単なる事務的な手続きですので、今すぐに」
大臣がペンを差し出す。
ギデオンは、動かない。
彼はペンを受け取らず、ただ無言で、横に控えるミシェルへチラリと視線を流した。
その赤の瞳が、静かに語りかけてくる。
――『やれ』と。
(……はいはい、お任せを)
ミシェルは小さく頷き、大臣の前にスッと手を差し出した。
「失礼。事務的な手続きであれば、補佐官である私が確認するのが筋ですので」
ミシェルは大臣の手から契約書をひったくった。
「なっ……無礼な! たかが人質の分際で、陛下の御手を煩わせるな!」
「煩わせないために確認するのです」
ミシェルは大臣の怒声を無視し、書類に目を走らせた。
そして、数秒で眉をひそめた。
「大臣。第十条の欄外にあるこの黒い点、インクの染みかと思いましたけど、文字ですね」
「なっ、そ、それは……」
「虫眼鏡が必要なサイズですが、こう書いてあります。『帝国は、王国の対外債務の三割を肩代わりするものとする』……と」
ミシェルはさらにページをめくり、次々と指摘を重ねた。
「第十二条。『関税の撤廃』とありますが、特約事項に極小文字で『ただし王国からの輸出品に限る』とありますね。不平等です」
「第十五条。『為替レートの固定』。これ、十年前の相場です。今契約すれば、帝国は毎年二割の損失を出します」
ミシェルは顔を上げ、冷徹な視線を大臣に突き刺した。
「視認困難な文字での特約、および錯誤を狙った記載。これは国際法上の『詐欺行為』に該当します」
「な……っ!?」
大臣の額から、滝のような冷や汗が噴き出した。
視線が泳ぐ。助けを求めるようにギデオンを見るが、皇帝は玉座で頬杖をつき、愉快そうに喉を鳴らしていた。
「ククッ……」
低い笑い声。だが、大臣にはそれが死神の足音のように聞こえただろう。
実際には、ギデオンはミシェルの容赦ない追い込みがあまりに鮮やかで、笑いを堪えきれなかっただけなのだが。
「……この場で破棄しますか? それとも国際司法裁判所に証拠として提出しましょうか?」
「あ、いや! それはご勘弁を!」
大臣の顔から血の気が引いた。
ありえない。
あの無能な王女が、専門家たちが知恵を絞って隠蔽した罠を、一瞬で見抜くだと?
「ご、誤解だ! それは事務方の記載ミスで……!」
「ほう。ミス、か」
言い訳をしようとした大臣の全身が、ガタガタと震え上がった。
ギデオンだ。
玉座から立ち上がった彼が放つ、物理的な重圧すら感じるほどの殺気が、大臣を押し潰そうとしていた。
「俺の目を誤魔化せると思ったか? それとも、俺が『加護なし』を連れているから、その程度の能なしだと侮ったか?」
ギデオンが剣の柄に手をかける。
金属のこすれる音が、死刑宣告のように響いた。
「次にこのような『ミス』をした書類を持ってきたら、貴様のその耳を削ぎ落として、国へ送り届けてやる。……失せろ」
「ひ、ひいぃぃっ! 申し訳ございませんでしたぁぁ!」
大臣は脱兎のごとく逃げ出した。
書類を散乱させ、無様な悲鳴を残して。
◇
静寂が戻った謁見の間。
ミシェルは散らばった書類を拾い上げながら、小さくため息をついた。
「……陛下、やはり気づいておられましたね? 私に視線を送る前に、ご自分で指摘なさればよかったのでは」
ギデオンほどの切れ者なら、ミシェルが動く前に気づいていたはずだ。
ギデオンは玉座に座り直し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「『剣の研磨は鍛冶屋に』だ。俺がやるより、お前の方が早く、正確に急所を突ける」
(ああ、『餅は餅屋』ってことね)
ミシェルは脳内で翻訳し、納得した。
前世の上司たちは「俺の手柄」にするために部下を使ったが、この男は「適材適所」で部下を使いこなす。
ドライだが、悪い気分ではない。
「……ですが、私を連れ歩いていると、今後も陛下まで侮られるのではありませんか? 『無能』を重用する若君だと」
それが懸念だった。自分の悪評が、皇帝の権威を傷つけるのは契約外だ。
だが、ギデオンはフンと笑い飛ばした。
「気にすることはない。俺も若輩ゆえ、どのみち舐められる。ならば、使える駒を使って結果を出すのが皇帝の務めだ。お前は、有能な駒として働けばいい」
「……左様でございますか」
あくまで駒扱い。だが、そこには確かな信頼がある。
「見事な手際だった。報酬だ」
ギデオンが背後から何かを取り出し、投げ渡してきた。
ジャラリ、と重い革袋と、一枚の封筒。
袋の中身は金貨。そして封筒の中身を見た瞬間、ミシェルの目がカッと見開かれた。
「こ、これは……帝都ロイヤルホテルの、『季節のフルーツ&スイーツビュッフェ』のプレミアム招待券……!?」
「甘い物が好きだったろう。貸切にしておいた。好きなだけ食ってこい」
ミシェルは招待券を胸に抱きしめ、震える声で叫んだ。
「一生ついていきます」
「ふっ。矢張り、おまえは誰よりも面白い女だ」
ギデオンは笑った。
こうして、帝国と王国の「外交戦」は、帝国の圧勝に終わったのだった。




