08.
その日の午後。
執務室で黙々と書類を捌いていたミシェルに、ギデオンが唐突に告げた。
「今夜、城の大広間で舞踏会を開く。お前の歓迎会も兼ねている。ドレスに着替えておけ」
「……勤務時間外です。残業代は出ますか」
ミシェルはペンを止めずに即答した。
定時後の拘束。社畜にとって最も忌むべき言葉、それは「会社の飲み会」である。
ましてや、貴族たちが腹の探り合いをする舞踏会など、サービス残業以外の何物でもない。
「金銭での支給はない」
「では欠席します。部屋で寝ています」
「だが、料理には王室専属パティシエの新作ケーキが出る。食べ放題だ」
「……参加します」
ミシェルは即座にペンを置き、立ち上がった。
現金支給がないなら、現物支給で元を取るまでだ。
◇
夜。
シャンデリアが煌めく大広間は、着飾った貴族たちで埋め尽くされていた。
その片隅にあるビュッフェコーナーに、ミシェルの姿はあった。
彼女が選んだドレスは、装飾の少ないシンプルな紺色のものだ。予算削減と動きやすさを重視した結果である。
彼女は挨拶もそこそこに、周囲の視線を無視してローストビーフを皿に積んでいた。
「……あれが、噂の人質王女か」
「なんと地味な。華やかさの欠片もない」
「所詮は捨てられた身。帝国には不釣り合いだ」
貴族たちが扇子で口元を隠し、嘲笑の視線を送ってくる。
だが、ミシェルには雑音でしかない。彼女の興味は、目の前のとろけるような肉の脂身にしかないからだ。
「おい、そこの娘」
不躾な声がかかった。
ミシェルが顔を上げると、ワイングラスを持った肥満体の男が立っていた。
全身を宝石で飾り立て、脂ぎった顔には不遜な笑みが張り付いている。
反皇帝派の筆頭、ベルンシュタイン公爵だ。
「我が国の舞踏会に、随分とみすぼらしい格好で来たものだ。掃除婦と間違えられるぞ」
「これは公爵様。動きやすくて機能的ですよ。何か問題でも?」
「品格の問題だと言っている。これだから貧乏国の王女は困る」
公爵は大げさに肩をすくめ、周囲の取り巻きたちと笑い合った。
ミシェルへの侮辱を通じて、彼女を連れてきたギデオンの権威を傷つける腹づもりだろう。
ミシェルは、口元のソースをナプキンで拭い、じっと公爵を見つめた。
その視線は、熱のこもったものではない。
冷徹な監査官が、貸借対照表の不整合を見つけた時の目だ。
「……公爵様。その首飾り、素晴らしい輝きですね。大粒のサファイア……市場価格で金貨五〇〇枚は下らないでしょう」
「ふん、見る目だけはあるようだな。これは南方の特注品だ」
公爵は自慢げに胸を張った。
ミシェルは小首を傾げた。
「ですが、不思議です」
「何がだ」
「先日、私が整理した財務資料によれば……公爵様の領地は、ここ三年連続で『大赤字』として報告されていますよね」
ミシェルの声は大きくはない。だが、よく通る声だった。
周囲の話し声が、ピタリと止まる。
「前年度の収支報告書、三ページ目の四行目。貴方は『凶作による税収減』を理由に、国への納税免除を申請し、受理されています。……赤字で苦しんでいるはずの領主が、なぜ金貨五〇〇枚の宝石を買えるのですか」
「なっ……」
公爵の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「そ、それは、先祖代々の……」
「いいえ。そのデザインは、帝都の宝石店『ルミエール』が先月発表した新作モデルです。購入履歴を照会すれば、すぐに分かりますよ」
ミシェルは一歩踏み出した。
「赤字報告をして税を逃れ、裏で私財を肥やす。……粉飾決算、いえ、脱税ですね」
決定的な言葉。
公爵の手からワイングラスが滑り落ち、床で砕け散った。
「ば、馬鹿な! 言いがかりだ!」
公爵は顔を真っ赤にして叫んだ。
図星を突かれた人間の反応だ。
「他国の小娘風情が、公爵である私を愚弄するか! 不愉快だ! 帰らせてもらう!」
公爵は踵を返し、足早に出口へと向かおうとした。
逃げる気だ。
だが、その行く手を遮るように、黒い影が立ちはだかった。
「待て」
ギデオンだ。
氷のような視線で公爵を見下ろしている。
「公爵。まだ話は終わっていないぞ」
「ど、どけ! 『若君』ごときが、この私に指図するか!」
焦りのあまり、公爵は口を滑らせた。
若君。
それは皇帝に対する敬称ではない。先代と比較し、ギデオンを未熟者と侮る古参たちの隠語だ。
会場の空気が凍りついた。
ギデオンの目が、スッと細められる。
「……今、なんと呼んだ?」
「ひっ……!」
「ご同行願おうか。別室を用意してある。そこでゆっくりと、先ほどの『赤字報告』の真偽を確かめさせてもらう」
ギデオンが指を鳴らすと、衛兵たちが公爵を取り囲んだ。
「そこの部屋へ軟禁しておけ。おい、誰か。財務局からベルンシュタイン領の過去五年分の収支報告書を持ってこい。今すぐにだ」
皇帝の命令が飛ぶ。
公爵は「ち、違う、あれは……!」と喚きながら、ズルズルと別室へ引きずられていった。
もはや言い逃れは不可能だ。ミシェルの脳内にある数字と、現物の書類が照合されれば、彼の政治生命は終わる。
「……余興にしては上出来だ」
ギデオンは愉快そうに笑い、ミシェルに向き直った。
「仕事は終わったか、補佐官」
「はい。害虫駆除完了です」
(これが目的だったのね、何が歓迎会ですか……変だと思ってた、ガラじゃないって)
ミシェルは平然と頷き、皿に残っていた最後のケーキを口に放り込んだ。
「では、定時ですので失礼します。おやすみなさいませ」
ミシェルは優雅にカーテシーをすると、呆気にとられる貴族たちを背に、颯爽と会場を後にした。
甘いケーキと、大物の告発。
彼女にとっては、実に実入りの良いサービス残業となったのだった。




