06.
翌朝。
ミシェルが目を覚ました時、最初に感じたのは「寒さ」だった。
暖炉には火が入っておらず、窓の隙間からは冷たい風が吹き込んでいる。
さらに、テーブルに置かれた朝食を見て、ミシェルの眉がピクリと動いた。
明らかに、自分の食事だ。起きる前から用意……もとい、放置されている。
その事実、そしてメニューから、明確な悪意をかんじとれた。
カビの生えたパンと、泥水のように濁った冷たいスープ。
これが、皇帝が馬車の中で約束した「最高の衣食住」なのか。
「……あら、お目覚めですか。人質様」
部屋の入口に、恰幅の良い中年の女が立っていた。
この後宮を取り仕切るメイド長だ。
社畜の脳内には、新しい職場のメンバーの名前、特徴が、情報としてインプットされている。
彼女の後ろには、数名のメイドがニヤニヤと卑しい笑みを浮かべて控えている。
「お食事はお気に召しましたか。当帝国は実力主義でしてね。何も生産しない『お荷物』に割く予算はないのですよ」
メイド長が嘲るように言った。
典型的な嫁いびりである。よそ者の、しかも加護なし王女など、少し脅せば泣いて縮こまると高を括っているのだ。
だが、ミシェルは動じない。
こんな嫌がらせも、それをしてくるこの連中も、パワハラ・セクハラが日常だった元社畜からすれば、可愛いものだ。
彼女はパンの皿を指先で押しやり、静かに口を開いた。
「契約違反ですね」
「は?」
「私はギデオン皇帝陛下と契約を交わしました。労働の対価として、最高の衣食住を提供されると。……この環境は、明らかに契約不履行です」
ミシェルはベッドから降りると、パジャマ姿のまま、迷いなく部屋を出ようとした。
「ちょ、どこへ行くつもりです」
「管理室です。現場の環境が契約と乖離している以上、管理体制に問題がある。監査を行います」
ミシェルは、制止しようとするメイドたちの腕をすり抜け、廊下を早足で進んでいく。
その背中は、クレーム対応に向かう管理職の如く、殺気立っていた。
◇
後宮管理室。
そこは、お局と取り巻きメイドたちが優雅にお茶を楽しむ休憩所と化していた。
バーン、と扉が開く。
ミシェルが踏み込んできた。
「帳簿を出しなさい」
「な、何ですか貴女は! ここは関係者以外立ち入り禁……」
「監査だと言っているのです」
ミシェルは机の上に積まれていた出納帳をひったくると、パラパラとページをめくり始めた。
その目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「……やはり。リネンのクリーニング代が市場価格の五倍。特定の業者に発注が偏っていますね。癒着ですか」
「なっ、何を勝手なことを!」
「暖炉の薪代。帳簿上は最高級の樫の木を購入したことになっていますが、私の部屋には木屑すらありませんでした。差額はどこへ消えましたか」
「そ、それは……在庫管理の誤差で……」
「食費もです。一人あたりの単価が金貨一枚? あのカビたパンが金貨一枚なら、小麦粉はこの世から消滅していますよ」
ミシェルの指摘は、鋭利な刃物のように的確だった。
お局とメイドたちの顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
長年、女主人が不在だったこの後宮は、彼女たちにとって格好の餌場だったのだ。誰もチェックしないことをいいことに、予算で私腹を肥やしていたのである。
「ふざけるな! たかが人質の分際で、偉そうに!」
追い詰められたお局メイドが、逆上してミシェルに掴みかかろうとした。
その時だ。
「――何事だ」
氷点下の声が響いた。
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
入り口に立っていたのは、軍服姿の皇帝ギデオンだった。
朝の視察の途中、騒ぎを聞きつけて立ち寄ったのだ。
「へ、陛下! 聞いてくださいませ! この娘が、突然押し入ってきて、わたくしどもに乱暴を!」
お局メイドが泣き真似をしながら縋り付く。
ギデオンの赤い瞳が、ミシェルに向けられた。
「ミシェル。説明しろ」
「おはようございます、陛下。ただいま後宮の『大掃除』をしておりました」
ミシェルは表情一つ変えず、赤ペンで修正だらけになった帳簿をギデオンに手渡した。
「当後宮の運営コストにおいて、約四割の使途不明金が確認されました。主にリネン、燃料、食費の不正流用です。その証拠がこれです」
ギデオンは帳簿を受け取り、数秒ほど目を通した。
それだけで十分だった。
彼もまた、数字には強い。ページのあちこちに踊る不自然な支出と、ミシェルが書き込んだ正しい計算式を見れば、事態は明白だった。
「……ほう。俺の城で、ネズミを飼っていた覚えはないのだがな」
ギデオンが低い声で呟く。
その瞬間、メイド長たちは悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。皇帝の殺気が、物理的な重圧となって彼女たちを押し潰したのだ。
「へ、陛下、お許しを! 魔が差しただけで……」
「連れて行け。鉱山送りにしろ」
ギデオンが短く命じると、控えていた近衛兵たちが雪崩れ込み、泣き叫ぶメイドたちを容赦なく引きずっていった。
嵐のような粛清劇。
部屋には、ミシェルとギデオンだけが残された。
「……朝から精が出るな」
ギデオンが呆れたように言う。
ミシェルは埃を払うようにスカートを整え、涼しい顔で答えた。
「私の快適な寝床と食事を守るためです。害虫駆除は急務でしたので」
「そうか。で、これからどうする。管理者がいなくなったぞ」
「問題ありません。これが新しいシフト表と予算案です」
ミシェルは懐から、すでに書き上げていた羊皮紙を取り出した。
「人員配置を見直し、無駄な待機時間を削減しました。これでメイドの数を三割減らしても回ります」
「よくもまあ、この短時間でこれだけの仕事をこなしたものだ」
「こんなの文字通り朝飯前ですわ」
あっけらかんと言い放つミシェル。
「浮いた人件費で、朝食のグレードを上げてください。具体的には、温かいコンソメスープと、焼きたてのクロワッサンを希望します」
用意周到すぎる。
ギデオンは羊皮紙を受け取り、その完璧な計画表を見て、口元を緩めた。
「……強欲な女だ。だが、悪くない」
彼はミシェルの頭に大きな手を乗せ、ポンポンと無造作に撫でた。
「許可する。好きにやれ」
「承知いたしました」
「ミシェル」
皇帝……旦那となる男に、初めて、呼ばれた気がする。
「俺は、できる奴が大好きだ」
「? 左様でございますか」
「ああ。ではな」
ギデオンは部屋を出ていく。どことなく、足取りが軽そうに、ミシェルには見えた。
こうして、後宮の主はわずか半日で交代した。
ミシェルは「人質」から「後宮の支配者」へと昇格し、ついでに皇帝との朝食デート権まで獲得してしまったのである。
彼女がただ、美味しいご飯を食べたかっただけだとしても、周囲には「皇帝の寵愛を受けた切れ者」として、その名は深く刻まれることとなった。




