59.
ギデオンに案内され、二人は下町の薄暗い路地裏にある古びた飲み屋へと足を踏み入れた。
色剥げた看板には「黒い迷い犬」と記されている。
カランと乾いた鐘の音が鳴り、巨大な皇帝が姿を現すと、店内の空気は一変した。
顔を青ざめて震え上がる一般客もいる中で、下働きの従業員や身なりの貧しい者たちはまったく怖がる様子がない。
「ギデオン様。いらっしゃいませ」
「ああ。いつもの席を頼む」
むしろ彼らは、心からの笑顔を浮かべて皇帝を歓迎していた。
ミシェルは案内された木製の椅子に腰を下ろし、そのいびつな反応の差に少しだけ疑問を抱いた。
やがてギデオンが席を外し、奥の化粧室へと向かう。
ミシェルはテーブルを拭きに来た若いウェイターに、静かに声をかけた。
「彼が来ると、怯える者と喜ぶ者が極端に分かれていますね」
「ええ。ギデオン様は昔から、お忍びで下町によく来られていたんですよ。権力を笠に着る悪い奴らを、武力で徹底的にボコボコにして懲らしめてくれたんです」
ウェイターは嬉しそうに口元を綻ばせ、当時の様子を語った。
横暴な貴族や悪徳商人から弱者を守るため、皇帝自らが拳を振るっていたというのだ。
「一部の弱い者たちからは、本当に深く愛されているんです。ただ、あまりにも情け容赦なくやりすぎるため、怖がる人も多いんですけどね」
「へえ」
ミシェルは冷めたお冷のグラスを見つめ、彼の意外な一面に興味を持った。
そこへ、用を済ませたギデオンがのっそりと戻ってくる。
「何をしているのだ」
「あなたこそ。昔はなぜ、自ら下町で暴力を振るっていたのですか」
ミシェルが単刀直入に尋ねると、ギデオンは真顔になり、静かに椅子へ座った。
彼はグラスの酒をあおり、低く落ち着いた声で語り始める。
「俺は嫌いなのだ。大して強くもないくせに、世襲やら運やらだけで上の立場にふんぞり返っている連中が」
「それは、帝国の方針と矛盾していますね」
「ああ。かつての帝国は実力主義を掲げていながら、実際は貴族の特権がまかり通る、とんだお笑い種の国だった。俺はそれが許せなかったのだ」
ギデオンは自嘲するように鼻を鳴らし、ミシェルを真っ直ぐに見つめた。
「ミシェル。ありがとう」
「え」
突然の真っ直ぐな感謝の言葉に、ミシェルはわずかに目を見開く。
「俺は結局、暴力でしか物事を解決できなかった。その場で悪党を殴り飛ばしても、一時凌ぎにしかならず、根本的な解決はできなかったのだ」
「それは」
「だが、お前は違う。お前が来てから、俺の理想に近づいている。頑張った者が報われる、真の実力主義国へと国が変わり始めているのだ。お前のおかげだ」
自らの限界を認め、事務官であるミシェルの手腕を心から讃える。
いつもは大人げない巨大な皇帝が、国を想う君主としての本音を吐露したのだ。
ミシェルは口元をグラスで隠し、内心で深く感心していた。
ただの力馬鹿ではなく、国の矛盾に苦悩し、弱者を思いやる優しさを持っていたのだと。
一方、店の外の窓際では、木箱に乗って覗き見をしている尾行トリオが身を乗り出していた。
「おっ。これはついに好感度爆上がりの予感ですぅ」
「黙ってなさい。いいところなんだから」
ティルが長い耳を揺らして興奮し、フローラが慌ててその口を塞ぐ。
ピクシーは丸眼鏡を光らせながら、二人の関係の変化を嬉しそうに見守っていた。




