05.
国境の砦を後にした帝国の馬車は、石畳の街道を滑るように進んでいた。
車輪が石畳を叩く規則的な音が、微かな振動と共に伝わってくる。王族が乗るに相応しい、最高級のサスペンションが効いた乗り心地だ。革張りのシートからは、手入れの行き届いた香油の良い香りが漂っている。
だが、車内の空気は重かった。
向かいの席には、血の色の瞳をした「冷血皇帝」ギデオンが、無言で腕を組んでいる。彼が放つ威圧感だけで、普通の人間なら胃に穴が開くところだろう。
しかし、ミシェルは平然としていた。
彼女の視線は、ギデオンの膝の上に積み上げられた、小山のような書類の束に注がれている。
「ミシェル、今一度問おう。先ほどの言葉、嘘ではなかろうな」
ギデオンが低い声で問いかけた。
「『事務処理が特技』という言葉だ。口先だけで俺の軍略にケチをつけたのであれば、今ここで斬り捨てるが」
「どうぞ、お試しください。そのために書類をお持ちなのでしょう」
ミシェルは優雅に微笑み、手を差し出した。
彼女にとって、目の前の書類の山は恐怖の対象ではない。前世の繁忙期に比べれば、この程度の量は「午前中の軽いウォーミングアップ」に過ぎなかった。
ギデオンは鼻を鳴らし、書類の束をミシェルの膝にドサリと置いた。
ずしりとした紙の重みが、ミシェルの太ももに伝わる。
「帝国の年間予算案の未決裁分だ。あと二日で帝都に着く。それまでに全て精査し、不要な項目を洗い出せ」
「承知いたしました。ペンとインクをお借りしても?」
ペンを受け取った瞬間、ミシェルの雰囲気が変わった。
穏やかな王女の仮面が剥がれ落ち、獲物を前にした猛禽類のような鋭い眼光が宿る。
カリカリ、サラサラ。
静寂な車内に、ペン先が紙を走る音だけが響き渡る。
ミシェルは驚くべき速度でページをめくり、躊躇なく赤線を引き、修正事項を書き込んでいった。
「陛下、この南方の治水工事予算ですが、却下を推奨します」
「理由は」
「業者の見積もりが杜撰です。過去十年の同規模工事と比較し、人件費が三割水増しされています。癒着の疑いがありますね。再見積もりを」
「ほう」
「こちらの秋の祝賀会費用も、半分削減できます。装飾用の生花を輸入する必要はありません。国内産で十分です。浮いた予算は、北方の国境警備隊の暖房設備費に回すべきかと」
次々と繰り出される的確な指摘。
ギデオンの赤い瞳が、わずかに見開かれた。
彼は知力においても他国を圧倒してきた自負がある。その彼から見ても、ミシェルの視点は合理的であり、一切の無駄がなかった。
何より、その速度だ。
人間が思考するスピードを超えているようにすら見えた。
「貴様、頭の中に計算機でも埋め込んでいるのか」
「いいえ、ただの慣れですわ」
ミシェルは手を止めずに答えた。
前世では、これより複雑怪奇なブラック企業の経理を、一人で回していたのだ。国家予算とはいえ、整理されていない数字の羅列など、彼女にとってはパズル遊びに等しい。
二時間後。
ミシェルは最後の書類に赤を入れると、ペンを置いて小さく息を吐いた。
「終わりました。本日の業務は終了でよろしいでしょうか」
「何?」
ギデオンが書類の山を検分する。完璧だ。文句のつけようがない。
通常なら文官十人が三日かけて行う仕事を、この小柄な少女は、揺れる馬車の中で、たった二時間で完遂してみせたのだ。
「貴様、化け物か」
「お褒めいただき光栄です。では、報酬として睡眠時間を頂戴したく。流石に馬車酔いしました」
ミシェルが少し青ざめた顔で、座席に倒れ込もうとする。コクリ、と小首を傾げるその姿は、仕事中の鬼気迫る様子とは打って変わって年相応に愛らしい。
その無防備な姿を見て、ギデオンの喉の奥から、ククッという低い笑い声が漏れた。
「面白い。実に面白いぞ、ミシェル」
彼は座席の下から、さらに新しい書類の束を取り出した。
「まだ終わりではない。次は軍事費の特別会計だ。これも片付けろ」
「ブラック企業ですね」
「だが、そうだな。これを帝都に着くまでに終わらせたら、特別手当を出そう」
ギデオンは自身の太ももをポンと叩き、獰猛な笑みを浮かべた。
「俺の膝を貸してやる。帝国の最高級品だ。そんじょそこらのクッションより寝心地はいいぞ」
「ご採用ありがとうございます」
ミシェルは即座に姿勢を正し、再びペンを握った。
その瞳には、先程以上の労働意欲の炎が燃え盛っていた。
◇
丸二日後。
帝国の威信を示す巨大な城壁に囲まれた帝都に、皇帝の馬車列が到着した。
王城の前には、皇帝の帰還を出迎える近衛騎士や文官たちが整列し、緊張した面持ちで待機していた。
彼らの関心は一つ。「人質として連れてこられた隣国の王女」の安否だ。
あの冷酷無比な皇帝のことだ。すでに車内で斬り捨てられているか、あるいは恐怖で発狂しているのではないか。
「到着されたぞ。総員、敬礼」
馬車が止まり、重厚な扉が開かれる。
誰もが固唾を呑んだ。
最初に現れたのは、皇帝ギデオンだった。
相変わらずの圧倒的な威圧感。だが、その腕には、何かが抱えられていた。
「す、すぅ……残業代は……きちんと支払っ……」
それは、小柄な少女だった。
彼女は皇帝の腕の中で、完全に脱力し、幸せそうな寝息を立てて爆睡していた。よほど疲れていたのか、口元からは涎すら垂れている。
そして、何よりも周囲を戦慄させたのは、皇帝の表情だった。
あの「鉄の皇帝」が。
腕の中の無防備な寝顔を見下ろし、満足げに、微かだが口角を上げて笑っていたのだ。
(陛下が、笑っておられる……?)
帝国のエリートたちが、一斉に恐怖で震え上がった瞬間だった。
彼らはまだ知らない。
この眠り姫が、彼らの数倍の速度で仕事を片付ける「事務処理の怪物」であり、皇帝が手に入れた最強の懐刀であることを。




