表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】加護なしの第八王女は、前世が社畜だったので王宮生活がイージーモードにしか見えない  作者: 茨木野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/12

05.



 国境の砦を後にした帝国の馬車は、石畳の街道を滑るように進んでいた。

 車輪が石畳を叩く規則的な音が、微かな振動と共に伝わってくる。王族が乗るに相応しい、最高級のサスペンションが効いた乗り心地だ。革張りのシートからは、手入れの行き届いた香油の良い香りが漂っている。


 だが、車内の空気は重かった。

 向かいの席には、血の色の瞳をした「冷血皇帝」ギデオンが、無言で腕を組んでいる。彼が放つ威圧感だけで、普通の人間なら胃に穴が開くところだろう。


 しかし、ミシェルは平然としていた。

 彼女の視線は、ギデオンの膝の上に積み上げられた、小山のような書類の束に注がれている。


「ミシェル、今一度問おう。先ほどの言葉、嘘ではなかろうな」


 ギデオンが低い声で問いかけた。


「『事務処理が特技』という言葉だ。口先だけで俺の軍略にケチをつけたのであれば、今ここで斬り捨てるが」

「どうぞ、お試しください。そのために書類をお持ちなのでしょう」


 ミシェルは優雅に微笑み、手を差し出した。

 彼女にとって、目の前の書類の山は恐怖の対象ではない。前世の繁忙期に比べれば、この程度の量は「午前中の軽いウォーミングアップ」に過ぎなかった。


 ギデオンは鼻を鳴らし、書類の束をミシェルの膝にドサリと置いた。

 ずしりとした紙の重みが、ミシェルの太ももに伝わる。


「帝国の年間予算案の未決裁分だ。あと二日で帝都に着く。それまでに全て精査し、不要な項目を洗い出せ」

「承知いたしました。ペンとインクをお借りしても?」


 ペンを受け取った瞬間、ミシェルの雰囲気が変わった。

 穏やかな王女の仮面が剥がれ落ち、獲物を前にした猛禽類のような鋭い眼光が宿る。


 カリカリ、サラサラ。

 静寂な車内に、ペン先が紙を走る音だけが響き渡る。

 ミシェルは驚くべき速度でページをめくり、躊躇なく赤線を引き、修正事項を書き込んでいった。


「陛下、この南方の治水工事予算ですが、却下を推奨します」

「理由は」

「業者の見積もりが杜撰です。過去十年の同規模工事と比較し、人件費が三割水増しされています。癒着の疑いがありますね。再見積もりを」

「ほう」

「こちらの秋の祝賀会費用も、半分削減できます。装飾用の生花を輸入する必要はありません。国内産で十分です。浮いた予算は、北方の国境警備隊の暖房設備費に回すべきかと」


 次々と繰り出される的確な指摘。

 ギデオンの赤い瞳が、わずかに見開かれた。

 彼は知力においても他国を圧倒してきた自負がある。その彼から見ても、ミシェルの視点は合理的であり、一切の無駄がなかった。


 何より、その速度だ。

 人間が思考するスピードを超えているようにすら見えた。


「貴様、頭の中に計算機でも埋め込んでいるのか」

「いいえ、ただの慣れですわ」


 ミシェルは手を止めずに答えた。

 前世では、これより複雑怪奇なブラック企業の経理を、一人で回していたのだ。国家予算とはいえ、整理されていない数字の羅列など、彼女にとってはパズル遊びに等しい。


 二時間後。

 ミシェルは最後の書類に赤を入れると、ペンを置いて小さく息を吐いた。


「終わりました。本日の業務は終了でよろしいでしょうか」

「何?」


 ギデオンが書類の山を検分する。完璧だ。文句のつけようがない。

 通常なら文官十人が三日かけて行う仕事を、この小柄な少女は、揺れる馬車の中で、たった二時間で完遂してみせたのだ。


「貴様、化け物か」

「お褒めいただき光栄です。では、報酬として睡眠時間を頂戴したく。流石に馬車酔いしました」


 ミシェルが少し青ざめた顔で、座席に倒れ込もうとする。コクリ、と小首を傾げるその姿は、仕事中の鬼気迫る様子とは打って変わって年相応に愛らしい。

 その無防備な姿を見て、ギデオンの喉の奥から、ククッという低い笑い声が漏れた。


「面白い。実に面白いぞ、ミシェル」


 彼は座席の下から、さらに新しい書類の束を取り出した。


「まだ終わりではない。次は軍事費の特別会計だ。これも片付けろ」

「ブラック企業ですね」

「だが、そうだな。これを帝都に着くまでに終わらせたら、特別手当を出そう」


 ギデオンは自身の太ももをポンと叩き、獰猛な笑みを浮かべた。


「俺の膝を貸してやる。帝国の最高級品だ。そんじょそこらのクッションより寝心地はいいぞ」

「ご採用ありがとうございます」


 ミシェルは即座に姿勢を正し、再びペンを握った。

 その瞳には、先程以上の労働意欲の炎が燃え盛っていた。


    ◇


 丸二日後。

 帝国の威信を示す巨大な城壁に囲まれた帝都に、皇帝の馬車列が到着した。


 王城の前には、皇帝の帰還を出迎える近衛騎士や文官たちが整列し、緊張した面持ちで待機していた。

 彼らの関心は一つ。「人質として連れてこられた隣国の王女」の安否だ。

 あの冷酷無比な皇帝のことだ。すでに車内で斬り捨てられているか、あるいは恐怖で発狂しているのではないか。


「到着されたぞ。総員、敬礼」


 馬車が止まり、重厚な扉が開かれる。

 誰もが固唾を呑んだ。


 最初に現れたのは、皇帝ギデオンだった。

 相変わらずの圧倒的な威圧感。だが、その腕には、何かが抱えられていた。


「す、すぅ……残業代は……きちんと支払っ……」


 それは、小柄な少女だった。

 彼女は皇帝の腕の中で、完全に脱力し、幸せそうな寝息を立てて爆睡していた。よほど疲れていたのか、口元からは涎すら垂れている。

 そして、何よりも周囲を戦慄させたのは、皇帝の表情だった。

 あの「鉄の皇帝」が。

 腕の中の無防備な寝顔を見下ろし、満足げに、微かだが口角を上げて笑っていたのだ。


(陛下が、笑っておられる……?)


 帝国のエリートたちが、一斉に恐怖で震え上がった瞬間だった。

 彼らはまだ知らない。

 この眠り姫が、彼らの数倍の速度で仕事を片付ける「事務処理の怪物」であり、皇帝が手に入れた最強の懐刀であることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ついに始まった短編の続き、楽しみです。 描写は軽くしか描かれてませんが、揺れる馬車内で、インクをつけるタイプのペンで、複数人で処理する書類作業を超速で終わらせる。 現実世界でも欲しい事務さんだぁ……
 とても興味深く読ませていただきました。、  事務系無双。とても面白いです。  しかし、予算の配分に口出すのはあ政治とか行政とかに関連するので越権行為なのでは、と、ハラハラします。  もし、ブサ…
連載ありがとうございます! 無理のない様、続けて下さい。 楽しみにしてます!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ