02.
北の離宮での生活は、ミシェルにとって楽園そのものだった。
朝、鳥のさえずりで目覚める。目覚まし時計の不快な電子音ではない。
窓を開ければ、排気ガスの混じらない澄んだ空気が肺を満たす。
そして何より、誰も「至急」のチャットを送ってこない。
ミシェルは毎朝、感動に打ち震えながら、硬い黒パンをスープに浸して食べた。
温かい。
食事が温かいというだけで、ミシェルの涙腺は緩む。
前世では、パソコンの放熱で温まったゼリー飲料が主食だったのだ。
そんな彼女の日課は、国王が「罰」として与えた勉強だった。
埃っぽい図書室。
カビと古い紙の匂いが充満するその部屋で、ミシェルは目を輝かせ、一心不乱にページをめくっていた。
猛烈な勢いである。
教育係として派遣された老教師は、嫌がらせのつもりで、誰も読まないような難解な『古代魔法言語論』や『大陸税法全集』を課題に出した。
普通の六歳児なら五分で泣き出す代物だ。
だが、ミシェルは違った。
「先生、この税法の抜け穴、凄いです。貴族の経費計上ルールが杜撰すぎて、逆に興奮してきました」
鼻息を荒くし、頬を紅潮させて詰め寄ってくる。
老教師はのけぞった。
ミシェルにとって、勉強は最高の娯楽だった。
知識が増えれば、将来の生存率が上がる。
しかも、図書館の利用料も授業料もタダ。
前世で資格取得のために数十万をローンで払っていたことを思えば、ここは知識のバイキング会場だ。食わねば損である。
数年が経ち、ミシェルが十歳になる頃には、彼女の頭脳は王宮の誰よりも鋭利になっていた。
特に「数字」に関しては。
◇
ある冬の日。
離宮の食卓に異変が起きた。
出されたスープが、ただの白湯同然に薄まっていたのだ。具材の野菜も見当たらない。
ミシェルはスプーンを止め、静かに震えた。
空腹への恐怖ではない。
契約違反への怒りだ。
「……衣食住の保証は、軟禁の条件だったはず」
ミシェルは厨房へ直行した。
そこでは、恰幅のいい料理長と、離宮の予算を管理する執事長が、高級なワインを片手に談笑していた。
彼らのテーブルには、ミシェルの皿にはないローストビーフが並んでいる。
横領だ。
ミシェルの中で、何かが切れる音がした。
前世、なけなしの残業代を税金で引かれ、その税金が政治家の裏金に消えていた理不尽な記憶がフラッシュバックする。
「――おい」
ドス、と低い音が響く。
ミシェルが、執事長の目の前のテーブルに、分厚い帳簿を叩きつけた音だ。
「ひっ。な、なんだ王女様か。驚かせないで……」
「今月の予算執行書と、納品書の突き合わせを行いました」
ミシェルは無表情で、淡々と告げた。
その瞳は、深夜残業三日目のSEのように据わっている。
「食材費の計上が先月比で一五〇パーセント。ですが、市場価格は豊作で二割下落しています。差額の金貨三〇枚、どこへ消えました」
「な、何を馬鹿な……子供に何がわかる」
「黙って聞きなさい」
ミシェルは執事長の言葉を遮り、帳簿のページを指先で弾いた。
「裏帳簿を作るなら、もっとマシな偽装をしなさい。薪の購入量が物理的に倉庫に入りきらない量になっています。あと、架空の修繕費を計上するなら、実際に壁のヒビくらい直してからにしなさい。詰めが甘い」
完璧な監査だった。
言い逃れのできない証拠の羅列に、執事長は顔面蒼白になり、膝から崩れ落ちた。
「こ、これを国王陛下に……」
「いいえ」
ミシェルは首を横に振る。
「陛下に報告すれば、あなたたちは処刑され、新しい管理者が来るでしょう。引き継ぎが面倒です。代案を提示します」
ミシェルは、ニッコリと微笑んだ。
それは慈愛の笑みではなく、逃げ場のない交渉相手に向ける悪魔のスマイルだった。
「横領した分は、今後一年かけて離宮の設備投資と食費に充てなさい。その代わり、私が完璧な節税対策と資産運用プランを組みます。あなたたちの懐を痛めず、私の生活水準を上げる。……Win-Winですよね」




