第7話 兎肉
「……あふっ!?」
突然、口に熱い何かを押し付けられて、私の意識は強制的に浮上させられた。
見れば、私を黒い魔獣から助けてくれた人間の人が、片膝立ちで私の前に座り込んでいて、私の右手に何かを握り込ませて、それを口に押し当てていた。
一体何をされそうになってるんだろうか……まるで状況が分からなかった。
取り敢えず言えるのは、唇が火傷しそうだから、その熱いのを口に押し付けるのは、やめて欲しい……。
でも悠長に言葉に出している余裕もなかったので、私は頭を身体ごと後ろに反らすことで、熱い何かから遠ざかろうと試みる。
嫌がってるのを分かってくれたのか、人間の人はそれ以上、熱いのを押し付けてくることはなかった。
それどころか、
「……あー……そうか。申し訳なかった……。」
と、気まずそうに謝罪をしてくれたので、嫌がらせを目的とした行動ではなかったんだろう、というのだけは伝わった。
「手を離すけど、落とさないようにね?」
言われて、私の右手が人間の人に支えられていて、上に持ち上げられていたということを知覚した。
自分で右腕に力を入れて、右手に握らされていた細い棒のような何かも、ちゃんと握り直す。
そうしてから恐る恐る、コクリと頷くと、ゆっくり右手が解放された。
人間の人は、立ち上がると、私の前から退いていった。
私は唇が火傷してないかが気になって、唇を舐めてみる。
──……あれ?
舐めると塩の味がした。
それから改めて、自分が持たされている物に視線を向けてみる。
「……あ。……お肉……。」
焚火で焼かれていた、鉄串が刺さった半身の兎肉だった。
──……嫌がらせなんかじゃ、なかった。……私が、塞ぎ込んじゃってたから、……お肉、食べさせようとしてくれてたんだ。
悪い人じゃ、ないのかもしれない。
この人は、『半魔』の私にも普通に接してくれる人なのかも……なんてことを、期待してしまう。
でも、まだ分からない。最初は優しそうな顔をしてても、後から酷いことするかもしれない……。
ジッと人間の人を見る。
焚火の周りからお肉を一つ持ち上げて、私と向かい合う形で丸太に座ると、そのお肉を食べ始める。
それを見たら、ぐぅぅ、とお腹が鳴った。
そろそろお昼時なのだろうし、何より魔力を使うとお腹が減る。
一度魔力を使い切ったのだから、当然お腹は減っていた。
人間の人を観察するのは中止して、私も右手に握ったままのお肉を食べることにした。
熱そう……というか実際に熱かったのを体感済みなので、用心して何度かフーフーと息を吹きかけてから、兎肉を口に運ぶ。
最初に口の中にやってくるのは、主張の強い塩。更に、ほんのりと胡椒の味だ。
そして、肉を噛みしめると、……──
「…………んぅ?」
──……取り敢えず、もう一口食べてみよう。
第一陣として噛み取った口内の肉を咀嚼して、飲み込んでから、私は再度お肉を齧り取る。
二口目は塩の味が薄く、胡椒が主張し過ぎていた。
「……あんまり美味しくない。」
思わず口から零れてしまった。
塩が均等に塗されていないからか、塩が強い部分と弱い部分がある。胡椒も同様だ。
何より、血抜きが甘いのか、下処理が雑なのか、あるいは焼き加減がいまいちなのか……何が原因なのかは定かでないけれど、ちょっと獣臭さが気になる。
もしも普段から兎肉を口にしていなければ、獣臭さ自体は、「そんなものかな」と思って気にならない範囲だったかもしれないけど。
しかし私は、“あの屋台”で売ってる兎肉の味を知っている。
お気に入りの屋台の串焼きの場合は、複数のスパイスで肉の臭みを緩和させてる……という面は、確かにあるのだろう。
──……でも、それにしても、これは…………。
と、呆然としている私に、声がかけられた。
「あー……兎の肉は、若い子の口には合わなかったかな?おじさんは嫌いじゃないんだが……。」
いやいや兎肉が口に合わなんじゃない。“この兎肉”が口に合わないんだ。……なんてことは、面と向かって言える訳もなく……。
厚意で食事の用意をしてくれたんだろうから、否定的な言葉は避けないと……と、
「……その……兎肉は……よく、食べて……ます……。」
考え考え、何とか絞り出した。
嘘を言ってる訳じゃない。……“この兎”に触れてないだけで。
けど、そういうのは、どうしても伝わってしまうもの……なのだろう。
「ははは、そうか。じゃあ、“この兎”がダメだったってことか。申し訳なかったね。」
人間の人は、暗い雰囲気になるのを避けるように、明るく振る舞っているようだった。
けど、私は言葉の裏に隠したものを引っ張り出された心地で、何も言えなくなった。
代わりに、肉を口に運んで咀嚼する。
「無理に食べる必要はないからね?」
「……お腹空いてる、から……。」
私の言葉を、この人がどう受け取ったのかは分からない。
「……そうか。」
と、相槌を打つと、後はお互い無言で、兎肉を食べた。
食事が終わって、お腹はそこそこ満ちた。
私が兎の半身を一つ食べる間に、人間の人は二つを食べ終えていた。
目が覚めてからマジックポーションを飲んだし、食事もしたので、魔力欠乏の症状は、すっかり消えて、なくなっていた。
食事と魔力は、多少は関係あるけど、そこまで大きくは関係しない。単にマジックポーションが即時全回復という訳ではないから、食べてる間にも少しずつ回復していた……みたいな意味だ。
なので、視界はちゃんと正常に戻ったし、歩いたり走ったりする分には、もう不都合はない。……戦闘となると、ちょっと不安は残るけど。
私は立ち上がって、ローブを一旦脱いで、背中側に付いていた草や土の汚れを払ってから、再びローブを着込む。
自分一人の時なら《洗浄》の魔法を使えば良かったけど……『半魔』だと知られてしまった人間の前で魔法を使うのは、何となく怖いことのように思った。
私がローブを着直している間に、人間の人は焚火の始末を終えたらしく、こっちに向けて声を上げる。
「もう歩けるなら、山を下りようか。」
その提案に、私は軽い頷きで応じた。
人間の人は無防備に背中を向けて、丸太の方に歩き出す。
ふと、今私が後ろから魔法を使ったら、どうするつもりなんだろう……と、疑問が湧いた。
勿論、命を助けられておいて、そんな不義理な真似をするつもりはないんだけど……、
──……私には、秘密を知られたっていう、殺す動機だってあるのに。……もっと警戒しても良いんじゃないのかな……。
それとも……と、瞼を閉じて、脳裏に焼き付いた光景を思い出す。
気付かない内に現れた黒い魔獣。同じく、気付かない内に現れた大きな背中。
この人間の人が黒い魔獣と同じかそれ以上の速度で動けるんだとしたら、私が背後から攻撃したとしても、何でもない事のように避けられる自信があるのだろうか。
そうなのだとしたら……私は、もっと強くならなくちゃいけない。
ギュッと拳を握りしめる。
目を開けると、人間の人は、いつの間にか背に大きな黒い剣を背負っていて、丸太の傍に立って腕を組みながら、私を見ていた。
その姿が、何故だか……ハッキリとは覚えていないはずの、お父さんの姿に重なる。
けれど、この人は人間なのだから、私のお父さんではあり得ない。
きっと雰囲気が似ているとか、そういうことなのだろう、と自分を納得させる。
「大丈夫かい?」
優しく問い掛けられる声に、私は頷きで答えて、一歩踏み出す。
もう魔力欠乏の影響は残っておらず、歩き始めても、ふらついたりしない。
人間の人は、私が傍に来て足を止めるまで待ってから、言った。
「それじゃ、山を下りるとしよう。」
「……はい。」
三度目は、言葉と共に頷いた。