嘘と書いてフィクションと読む
「今日は髪を切りに床屋に出掛けたが、床屋は閉まっていて、それでちょっと遠い美容室に行こうと、電車に乗ろうとするが財布を忘れたことに気付き、家に引き返し、財布を手にするが、別に今日でなくてもいいかと思い、茶を入れて思案し、やっぱり決めたのだから行くことにした、再び家を出、最寄りの駅に行くが電車は一向にこないのでイライラしながら時計に目をやり、時刻表を眺めようとしたちょうどその時ホームに電車が滑り込み、イライラしたことにイライラし、電車に乗り込み席に座る、とたんに咽る、それが少し離れた、けばけばしい――友人ならギャルギャルしいと形容するだろう――女性の香水であると判断する、席を移動し無臭の空間を占めることができたがそれでも不快感は納まらない、席は結構空いているのに、なんだってまたあの香水女の近くに座ったのだろうと三度イライラし、二駅目で降り、目当ての美容室に訪れる、それにしても今日は人が込んでいる、受付のきれいな女の人に、今日は一杯ですと言われ、すごすごと引き下がり、このまま帰るのは癪だということでファミレスに入りドリアを注文するが思いなおしてグラタンにし、ついでにドリンクバーも追加する、数分後グラタンが来る、フォークを手にマカロニを突き刺し、口に運んで舌を火傷して悪態を――、という風に、主人公の下らない日常を物語にするのはナンセンスだ。おもしろくないし、つまらないし、楽しくないし、退屈だ。読者はそんなものを求めていない。読者が求めているのは、求めているのは……。
嘘だ。もちろんそうとも、嘘だ。フィクションだ。マジックショウに行き、スパンコールのレオタードを着た派手な女性が棺桶の様な箱に入れられ、マジシャンが何本も剣を突き刺すのを見てはらはらし、無事女性が生きて脱出するのを見て凄い、いったいどうなっているのだろうと思うが、実際にマジシャンが裏をみせたとたん、おもしろくなくなるのと似ている、と私は思う。人は騙されていたいのだ、だから主人公はかっこよくなくてはならないしヒロインだってかわいくなくてはならない。主人公は肝心な時、クライマックスや見せ場に尿意を感じることはないし、ヒロインはいつだって主人公に惹かれる。
ノンフィクション? ははあ、あなたはノンフィクションを否定するのかとおっしゃる。しかしだね、ノンフィクションだってかなり脚色している筈だ。その証拠に、ほら、どのノンフィクションを読んでも、観ても、私が先にいったような糞つまらないだらだらとした描写はない。何故って? おもしろくないからだ。歴史物はどうなんだと、あなたはそう訊くのか。歴史だって確かなことはわからない。卑弥呼だのナポレオンだのガイ・フォークスの火薬陰謀事件だの、誰にわかるというんだ? 学者? 学者はどうかって? 学者はそう思いたいのさ、そうあったらいいなと思うのさ。出土したハニワや、文書を見つけ、多分こうだったのだろうな、なんて考えない。否、頭の固い、脳みそが全部鉛でできているような学者はそんなふうに考えるかもしれない。でもねえ、そんなのはつまらない。まったく楽しくないよ。
そうやって歴史は出来上がってゆくのだ。つまりだね、我々は嘘の中に生きているのだよ。皮肉じゃないかね? 今日の講義はここまで。来週までに諸君の一日の行動をこと細かに描写した糞つまらないレポートを提出すること。おもしろかった者には特別点を与えるがおもしろいなんてことはありえないので嘘をついたとみなす、以上」
――彼は自分が嘘であることを、知っているのだろうか?
かなり前の作品。
最後の一文以外はぜんぶ台詞です。
これはオチているといえるのだろうか......。
感想評価コメント等お待ちしております。