007
弟がいたらこんな感じなのだろうか。
少なくとも殿下に悪感情は抱かれていないらしい。
じゃなきゃ、隣に座ったとしても、太ももは密着しないだろう。
キツネ狩りに行くからか、今日の殿下は裾の長いズボンを履いている。
しかし殿下、くっつき過ぎではありませんか? 別にもたれかかってくれるのはいいんですけど。
「アルフレッドには、そなたを見習って落ち着いて欲しいものだ。座学の成績も素晴らしいと聞いている」
「過分なお言葉です」
落ち着いているのではなく、僕の場合は感情が顔に出ないだけだ。
今も内心では、伝わってくる殿下の体温の高さに焦っている。
ロリとショタはノータッチが原則だと、前世の記憶が訴えていた。
「謙遜するでない。そうだ、勉強のコツを教えてやってくれんか? アルフレッドは地理が苦手でな」
陛下の言葉に、殿下が居心地悪そうに身を揺らす。
「勉強は嫌いだ」
「他の科目は成績がいいではないか。全て得意である必要はないが、地理は必須だぞ」
地理を理解していなければ、他国との関係や、貴族の領地がどういったものかもわからなくなる。
僕も歴史と地理については、重点的に教えられていた。
「アルフレッドにも地理の教師にはコーン氏をつけているから、教え方に差異はないはずだ」
「もうっ、今日はキツネ狩りに行くんだ!」
殿下が僕の腕に絡みついて顔を隠す。よほど嫌な話題らしい。
あぁ、でも……。
「僕も苦手だな」
「地理がか? コーン氏はそなたを褒めていたぞ」
つい呟いてしまった言葉を、陛下に拾われる。
一度口から出た言葉は取り消せない。
「地理というか、コーン氏が……です」
苦みが隠せない返答に、隣から予想外の反応があった。
「ルーファスも?」
「殿下もですか?」
「なんだ、氏は厳しいのか?」
僕たちの共通点に、陛下が笑う。
厳しいだけなら、まだ耐えられるのだけど。
「教えは素晴らしいです。ただ僕は……距離感が苦手で」
「ふむ? 距離感かね?」
「教師として親切にしてくださってるのが、合わなくて……」
他にどう表現したらいいのかわからない。
視線が粘着質に感じるのは主観だ。
殿下はどうなのだろうと視線を向けると、首を大きく縦に振っていた。
「そうなんだ! やたら触ってくるし!」
「あぁ、肩とか」
「太ももとか! 疲れてないのに揉んでくる!」
え。
「尻もだ。座りっぱなしだからって」
「アルフレッド、それは本当か?」
陛下もおかしいと気づいたのか、声音が低くなった。
前世の記憶が、ギルティー! と叫ぶ。
「部屋には侍女がいるだろう?」
「いるけど……こっち向かない」
殿下の部屋は広い。
侍女は基本的に入口付近で待機するから、目が届いていなかったんだろう。
それにコーン氏が、あからさまに怪しい動きをするとは考えられなかった。
犯罪は得てして隠れておこなわれる。
「ルーファス、そなたにもか?」
「僕は軽く触れられた程度です。……けど違和感はずっとありました」
僕の被害が少なかった理由は、おおよそ見当が付いた。
きっと僕が、子どもらしい子どもじゃなかったからだ。
ふー、と陛下が目を閉じて長い息を吐く。
馬車内の空気が変わったことに殿下も気づいたのか、キョロキョロと僕と陛下の間で視線を行き交わせた。
やがて陛下が目を開き、宣言する。
「今日のキツネ狩りは中止だ」
「何で!? 嫌だよ、お父様も一緒なのに!」
「やることができた。お前からも詳しく話を聞かねばならん」
「嫌だ! やだったら、やだ!」
僕は前世の記憶もあって状況を理解できるけど、殿下にはまだ難しいのだろう。
聞き分けの悪い態度に、陛下の目が釣り上がる。
僕は咄嗟に殿下の顔を覗き込んで、その視界を遮った。
不敬だ。
けど、ここで殿下が怒られるのも間違っている。殿下は何も悪くないのだから。
「殿下、次はいつにしましょう?」
「次……?」
「キツネ狩りです。実は僕、キツネ狩りが苦手で不安だったのです。次までに練習させてください」
「でも……」
「殿下が教えてはくださりませんか? 城でなら、乗馬もできます。狭くても構わないなら、我が家でも」
「行っていいのか!?」
よし、気はそらせたみたいだ。
弾む声にほっとする。
しかし残念ながら、殿下が城を出られるかは、僕にはわからない。
振り向くと、陛下が呆気にとられていた。
陛下も気が抜けるときがあるのだと、当然のことを意外に思う。
「お父様っ、ルーファスの家に行ってもいいですか!?」
「構わんが……ウードワッド家の予定もある。相談せねばなるまい」
「やった! ルーファス、オマエがどうしても言うから、キツネ狩りを教えてやる! オレは厳しいからな!」
「覚悟しておきます」
僕――大人たち――にとっては、仲直りが本題だったので、キツネ狩りはオマケでしかない。
けど殿下が楽しみにしていたなら、機会を改めるのもいいだろう。
殿下の機嫌が直ったところで、陛下は御者に進路変更を告げた。
帰りしな、陛下に小声で尋ねられる。
「キツネ狩りが苦手なのか?」
「改善する余地は多いです」
「ものは言いようだな……」
◆◆◆◆◆◆
夜、勉強机に向かっていると、珍しく父上が部屋を訪ねてきた。
「少し話せるか」
すぐに頷いてソファを勧める。
対面して腰を落ち着けると、予想外の言葉が父上の口から出てきた。
「すまなかった」
「……何がですか?」
父上が謝罪する意味がわからず、訊き返すしかない。
「コーン氏の件だ。調べが足りてなかった。お前も不快だっただろう」
「あぁ、陛下から話が行ったのですか」
「来ないわけがない。私はお前の父親だぞ。何故私に相談しなかった!」
重く響く声に、身が竦む。
父上は立ち上がると、僕に影を落とした。
感じる圧力に、顔を上げられない。
「確信が持てなくて……」
「不快だと感じた時点で教えろ。判断違いなら私が指摘する。一人で抱え込むのではない!」
ごめんなさい。
そう言いたいのに、開いた口から声が出てきてくれない。
思うように動いてくれない体に、焦りが募る。
まごつく僕に、落ちる影が濃くなって――。
父上のコロンが鼻をついた理由に思い至るまで、時間を要した。
「怒りにきたのではない、謝りにきたのだ」
「父上……」
父上の胸が、目の前にあった。
服越しに体温が伝わってきて、ようやく抱きしめられているのだとわかる。
「気づくべきだった。お前に問題はないと無責任に思い込んでいた。お前の気持ちを、また見過ごしていた」
「父上に相談しなかった僕の落ち度です」
「それも否定しない。次はないぞ、私も、お前もだ」
その言葉に目頭が熱くなって、顔を父上の胸に押し付けた。
抱きしめられる腕の力が強くなる。
あぁ、僕は。
僕は、ちゃんと愛されている。
実感した父上の思いに、心が満たされていく。
温かい。
幸福感に包まれて、このまま眠ってしまいそうだった。
けれど浮かんできた疑問が、それを邪魔する。
何故僕は、闇の化身になった?
愛する家族がいる現状からは、到底考えられない。
ゲームの舞台となる六年後までに、闇に堕ちる事態が発生するのだろうか。
それとも。
僕は、既にやらかしてしまっているのだろうか。
死ななければならないと思った。
それが世界を救う方法だから。
けどもし、僕が前世の記憶を理解したことで、流れが変わっていたら……?
父上が自主的に僕を抱きしめたのは、これがはじめてだった。