042
眩しさを感じる。
頭には、大きな手があった。
何度も往復する手に、目を開けろと、言われている気がした。
「ルーファス……」
「父上?」
耳馴れた低い声。
僕は、夢でも見ていたんだろうか?
起きた出来事が、まどろみの中でうつろう。
誘拐されて、闇の化身になった。
体を乗っ取られて……でも、最期を迎えられた。
なのに、僕はベッドの上で寝ている。
どうなっているんだ?
あれは夢だったのか?
父上を見上げる。
でも明るさに目が馴れなくて、よく見えない。
体を起こそうとして、ヒヤリと、心臓が冷える。
動かない。
動けない。
僕は、体を乗っ取られ――、
「お兄様? お目覚めになったの?」
「ヴィー……?」
動かない腕の上には、ヴィヴィアンがいた。
ずっと圧迫されていたのか、動かない以前に感覚がなくなっている。
「よかった、お兄様っ!」
「痛っ!?」
抱き締められて、胸に激痛が走る。
僕が呻くと、ヴィヴィアンの体が宙に浮いた。
父上に抱き上げられたらしい。
「こら、無理をさせるなと言っただろう」
「だって……」
「このまま部屋を出るか?」
「嫌です! わたくしは、もうお兄様と離れません!」
「ならば、静かにしていろ」
ちょこんと、ヴィヴィアンはベッドの端に座らせられた。
「父上、状況がわからないのですが」
「あぁ、説明しよう。だが先に侍医に診てもらうほうが先だ」
昼間だったこともあり、侍医はすぐにやって来た。
眩しく感じたのは、カーテンが開かれ、窓から陽光が入ってきていたからだ。
明るさに目が馴れた今では、温かい光が心地良い。
控えていた侍女にシャツの前を開かれ、胸に包帯が巻かれているのが見える。
「出血は治まっていますね。ですが安静が必要です。次に、私が立てている指の数はわかりますか?」
僕は矢継ぎ早に出される侍医からの質問に答えていく。
回答に頷くと、絶対安静を言い残して、侍医は部屋を後にした。
父上が、ヴィヴィアンの隣に腰かける。
「ヴィヴィアンがいる手前、話せることは少ないが……簡潔に言うと、お前は助かった」
「……簡潔過ぎませんか?」
全然、実感が湧かない。
しかし詳細を聞くには、ヴィヴィアンに席を外してもらう必要があった。
「ヴィー、僕は父上と話があるから」
「嫌ですわ」
ぶー、とヴィヴィアンは聞く耳をもたない。
「頬を膨らませても可愛いだけだよ。ヴィー、お願いだ」
重ねて言う僕の顔を、ヴィヴィアンが覗き込んでくる。
青い瞳は潤んでいた。
「たくさん、たくさん心配しましたのよ。もう二度と近付くな、なんて言われたくありませんわ」
「言わないよ。もう言わない」
痺れている腕とは逆の手で、ヴィヴィアンの頭を撫でる。
久しぶりに触れるヴィヴィアンの髪は、今日も艶がのってサラサラしていた。
本当に危険がなくなったというなら、僕がヴィヴィアンを遠ざける必要はない。
「約束ですわよ! それと、これはお返しします」
ヴィヴィアンはベッドの上で膝立ちになると、僕の首にペンダントをかけた。
「あと二年したら、わたくしもお父様からいただけますもの。お兄様のものは、お兄様がお持ちになって!」
「そうか……そうだな」
戻って来たペンダントに触れる。
これも二度と手放さなくて済むんだろうか。
「お兄様、わたくし、髪が乱れてしまいましたわ」
「あ、すまない」
「いいえ、もっと撫でてくださっていいのですけど、身だしなみを整えてきますわね」
そう言って、ヴィヴィアンはベッドから下りる。
「ヴィー?」
「でもすぐに戻ってまいりますから!」
「ありがとう、ヴィー」
父上と話す時間を作ってくれるようだ。
迂遠な言い回しに、貴族の女の子らしさを感じた。
手を振りながらヴィヴィアンは侍女と一緒に部屋を出る。
もうドアの傍に甲冑をきた護衛はいなかった。
父上と二人っきりになった途端、視界が遮られる。
「父上」
「良かった。お前を失うなんて、耐えられなかった」
胸に抱かれ、僕も父上の背に手を回した。
広い背中が震えている。
「僕は、どうなったのですか」
「ペーパーナイフを胸に突き刺した状態でいるのを、ドアを押し開けた護衛が発見した。すぐさま侍医を呼んで治療が施された」
「『怨』は……」
「お前が鎮めたのだ。お前は自害することで、『怨』を種に戻したのだ。命が助かったのは、奇跡的だとしか言いようがない。幸い、心臓から刃が左にそれていた」
父上の言葉に、前世の記憶から身体図が浮かぶ。
あぁ、そうか……心臓は左胸にあると思ってたけど、実際は胸の中央にあるんだ。
あのときは焦っていて、深く考えている余裕がなかった。それが、よかったのかな?
「いまわの際に、闇の化身となった者が理性を取り戻すことはわかっていたが」
父上は語る。
今まで闇の化身となった者は、すぐに理性を失ったと。
けれど理性的な僕を見て、伝えられている記録との違いに悩んでいたことを。
「私にはお前が闇の化身になったと確証が持てなかった。けれど、お前の体から『怨』の気配は感じられた。不甲斐ないな、自害しろとお前に言っておきながら、私は右往左往するばかりだった」
そんな中、ヴィヴィアンだけは異変に気付いた。
「父親失格だ。よもやお前の体が乗っ取られていたとは、思いもしなかった。ヴィヴィアンから話を聞かされたときも、てっきりウッドワード家の者として『怨』の気配を感じているのだと」
「父上は事情を知っていたでしょう? ヴィヴィアンは僕がすべきことを知らなかった。だから直感を得られたのかもしれません」
何を知らなかったからこそ、純粋に僕が僕でなくなったことに気付けたんだと思う。
それからヴィヴィアンが、アルフレッドに助けを求めたことを聞かされて驚いた。
「私も信じられなかったが……自分が頼れる、一番の権力者に訴えたのだ。それは成功し、殿下は力尽くでお前に会うことを決められた」
「あれは、単なる見舞いじゃなかったのですか」
「お前のことは、ずっと面会謝絶にしていたからな」
だから部屋の外が騒がしかったのか。
無茶をする。
けど、その無茶に、僕は救われた。
「『怨』は、本当に種に戻ったのですか」
「あぁ、気配が完全になくなっている。口で説明しても実感がないかもしれないが、我々は血で種を共有している。それが芽吹く気配は、自ずとわかるのだ。といっても、私も今回はじめて経験したのだが」
ヴィヴィアンも、感覚で大丈夫だとわかっているらしい。
「それでも、お前と話すと確証が揺らいだ。『怨』の手強さを思い知らされた」
「確かに巧妙でした。今後は、どうなりますか?」
「これまで通りだ」
これまで通り。
その言葉を噛みしめる。
「我々は、これからも種を鎮め、身に持ち続ける」
「はい」
「怨」を消すことはできない。
種を身に封じ、持ち続けるしかないんだ。
「お前にはしばらく護衛兼、監視が陛下よりつけられるが……この話は後でいいだろう。ヴィヴィアンが戻って来たようだ」
視線をドアに向けると、影からスカートのフリルが見えた。
髪を整えるついでに、お色直しもしてきたらしい。
父上がヴィヴィアンを手招きする。
すぐにヴィヴィアンは、僕と父上の間に収まった。
「お前たちに一つ話をしておこう。ある部族に伝わる話だ」
父上が何かを語るのは珍しい。
僕とヴィヴィアンは目を合わせながら、静かに父上の言葉を聞く。
「人の心には、二匹のオオカミがいる。この二匹は常に心の中で争い続けている」
父上は、一本指を立てる。
「一匹は、恐れや怒り、恨みや妬み、傲慢のオオカミ」
今度は逆の手で、指を立てる。
「もう一匹は、愛や平和、希望や寛容、謙虚のオオカミ。この二匹は、誰の心でも、お前たちの心でも、常に争っている」
剣を交差させるように、父上は指を打ち合った。
「ずっと争っていますの?」
「ずっとだ」
「争いは、終わりませんの?」
「終わらない。けれど、どちらかが勝つときはある」
「どちらか、ですか?」
ヴィヴィアンの質問の後、僕も父上に問う。
「そうだ。お前がエサを与えたほうが勝つ」
父上は、育むことを忘れるな、と僕たちに教える。
どちらを育てるべきかは、明白だった。