035
ドッドッ、と心臓が早鐘を打つ。
ダメだ、その短剣は父上から譲り受けた――!
焦燥に駆られて、体が勝手に動いた。
けれど縛られた身では、僅かに肩が揺れた程度だ。
「ふんっ、貴族のクセに魔法が使えねぇんだもんな。おかげでこっちは楽な仕事だぜ」
それきり、誘拐犯が喋ることはなかった。
短剣を奪われ、足が軽く感じるのが悔しい。
チリチリとこめかみを焼く感情が、怒りなのか、情けなさからくるものなのかわからない。
どうすればよかった?
もっと抵抗して騒げばよかったのか?
テディが人質になっているのに?
とりとめのない自問自答が浮かんでは消えていく。
途中で体が担がれ、馬車を乗り換えさせられた。
今日、街には特別な許可証がないと馬車は入れなかったはずだ。そこから足がつくかと思ったけど、乗り換えたらどうなる?
僕たちは、どこへ連れて行かれるんだ。
わからないことが辛い。
わかったところで、何もできないであろう自分が不甲斐なかった。
◆◆◆◆◆◆
どれだけ馬車に揺られただろうか。
時間感覚は、すっかりなくなっていた。
担がれ、次に降ろされた床は揺れていない。ズボン越しに、ヒンヤリとした冷たさを感じる。
目的地に到着した?
地面の上にいるのだろうか。硬質な感触が、歩いた街の石畳を思わせる。
けれど、そこは室内だった。
前触れもなく視界が晴れる。分厚い布を被せられていたのが、取られたらしい。
薄暗い中、急いで首を巡らし、テディを探す。
テディは思いの外、すぐ近くにいた。隣で同じように転がされていたんだ。
帽子は目隠しされるときに外されたのか、どこにも見当たらない。
テディの意識はしっかりしているらしく、目が合うと頷きで無事であることを示された。
僕も無事だと頷き返す。
ケガがないようで良かったと思う反面、後悔が胸を占めていく。
僕のせいだ。
テディが、僕の誘拐に巻き込まれたことは明白だった。
僕が魔法を使えないことを誘拐犯は知っていた。正確には、全く使えないわけじゃないけど、誘拐犯たちにしてみれば、初級魔法程度なら難なく防げるんだろう。
ウッドワード家の魔力が少ないことを、知っていたんだ。
僕が街の案内にと、テディを同行させなければ、彼が巻き込まれることもなかった。
テディをウッドワード家に招いた日を思いだす。
馬車の中で、震えていたテディを。
きっと今も凄く怖いだろうに、テディの目は力強かった。こんな奴らには負けない、という気概が傍目にも伝わってくる。
どうにかしてテディだけでも逃がしたい。
しかし、場所が悪かった。
連れて来られたのは地下室らしく、室内には窓がなかった。
空気が淀んで、カビ臭い。
部屋というよりは倉庫なのか、感じたまま、床は石畳だった。
出入り口は一か所だけ。
隙を見て、逃げ出せるだろうか?
今のところ、室内にいるのは僕を誘拐した一人だけだ。
けどテディを捕まえた男がもう一人いた。待機している可能性がある。
外から出入り口を見張られていれば脱出は困難だ。
「叫んでも、外には聞こえないからな」
そう言われ、猿ぐつわも解かれた。
けれど僕だけで、テディのものは解かれない。
やはり標的は僕なんだろう。
「僕をどうするつもりだ」
「決めるのは俺じゃねぇさ」
別にリーダーがいるのか。
交渉するなら、そいつが相手か。
身代金目的の誘拐なら、お金さえ手に入れば、命は助けられることもある。
目の前の男も、まだ布で顔を隠していた。顔を見られたからと、殺される危険は少ないはず。
必死に、前世の記憶をたぐり寄せる。
ルーファスとしての人生の中に、その手の知識はない。
動きが制限されている今、前世の記憶だけが頼みの綱だった。
大丈夫だ、落ち着け。
少なくとも、殺すのが目的じゃない。
だったらもう殺されてる。
捕まえたからには、何か要求があるはずだ。
要求を聞いて、対処する。
僕にできることをするんだ。
大丈夫、大丈夫……。
緊張で、心臓が痛い。
じっとりと全身に滲む汗が不快だった。
恐怖に支配されそうになるのを、必死で堪える。
僕が、テディを守らないと。
ただその一心で、自分を奮い立たせる。
大丈夫、絶対助けが来る。
父上が助けてくれる。その自信はあった。
だから今は助けが来るまで、無事でいることを一番に考えよう。
キィ、と木のドアが音を立てて開かれる。
入ってきたのは、身なりがいいものの、顔に仮面をつけた男だった。
彼がリーダーか。
仮面の男は、僕を見下ろすなり、笑う。
「ふっ、無様だな。魔法が使えないと、こんな姿を晒すことになるのか。……だが縛られても涼しい顔をしているのは気に入らないな」
そして横向きに転がる僕の頭を踏みつけた。
「全く、可愛げのない」
「ーーー!」
ゴリゴリと革靴の底で撫でられる。
目を瞑って痛みに耐える直前、テディが怒っているのが見えた。
しかし仮面の男は気にした様子もなく、僕の頭を靴の下で数度転がす。
「何か言ったらどうかな?」
「要求は、何ですか」
「ふふっ、要求か。きみは本当に、わたしの神経を逆撫でるのが上手い」
僕が回答に失敗したのは、すぐにわかった。
先ほどよりも強く踏みつけられ、逆側の耳が石畳で擦れる。
鋭く走った痛みに、耳が切れたのだと悟った。
「助けを求めるでも、命乞いするでもなく、要求を聞くか。いや、だが、実にきみらしい」
あぁ、そうか。
僕は交渉することで頭がいっぱいだった。
けど彼は、僕に子どもらしい反応を期待していたんだろう。
今から縋るのは……白々しいか。
「そうだな、まずは下僕の前で靴でも舐めてもらおうか」
下僕? ここにいる、もう一人の男のことだろうか。
僕の頭を踏みつけていた靴が、目の前に差し出される。
「ふふ、きみはどうかね? 目の前で主人が他人の靴を舐める姿を見るのは」
そう言うと、仮面の男はテディに視線をやった。
もしかして下僕ってテディのことか!?
一緒にいたから侍従と勘違いされたのだろうか。
「ーーー!」
「ふふふ、こんな主人でも忠誠心はあるのかな?」
憤るテディに、仮面の男は楽しそうだ。
見せ付けるように、靴先を僕の唇に持ってくる。
「さぁ、綺麗にしてくれたまえ」
「……」
靴に汚れはなかった。丁寧に磨かれている。
眼前に見える、ズボンの裾のあつらえも綺麗だ。
抵抗すべきか悩む一方で、観察して得られた答えは、あまりいいものじゃなかった。
仮面の男は、貴族だ。