003
昨夜は不在だった母上も、朝食には顔を見せた。
父上が同席する場では、沈黙が破られることはない。
けれど、今朝はいつもと違った。
昨晩の出来事を、興奮しながら母上に報告するヴィヴィアンがその証拠だ。
「お兄様ったら、抱き上げていただいてる間も、終始真顔でしたのよ!」
「ふふっ、ルーファスらしいわね。ズルいわ、あたしのいないところで、そんな楽しいことをしていたなんて」
ウッドワード家に嫁入りし、二人の子をもうけた今でも社交界の華と謳われる母上は、あどけなく頬を膨らます。
初対面の人にも好印象を与える母上は、父上と対極の存在だった。
政略結婚だったとはいえ、よく一緒になれたものだと子どもながらに思う。
ふむ……。
「この後、母上も甘えられてはどうですか」
「あらいいわね」
「ごふっ……」
母上のイタズラな視線を受けた父上がむせる。
まんざらでもない父上の反応に、母上は満足したようだった。
とりあえず夫婦仲は悪くないらしい。
「ごほん。ところでルーファス」
「父上、口の端にパンくずがついてます」
「……」
口元を拭い終わった父上が、改めて僕に顔を向ける。
相変わらず目付きは鋭かったけど、昨晩からの流れで、すっかり畏怖は薄れていた。
「今日はアルフレッド殿下との顔合わせだ。ぬかりないように」
アルフレッド・ロングバード。
我がウッドワード侯爵家を筆頭とした貴族を束ねる、ロングバード王家の嫡男。
ゲーム主人公の攻略対象だ。
真っ赤な髪色が示唆するとおり、性格は苛烈で、乱暴。
ゲーム主人公ともよく衝突する。
けれど親密になると、それが他人に対する不安からだとわかり、二人の距離は一気に縮まるのだ。
ツンデレキャラでもあり、四人いる攻略対象の中でも人気が高い。
そして、僕の敵だ。
前世の僕がプレイしていたのは、RPG要素の強い乙女ゲームだった。
ゲーム主人公は平民だったものの男爵家の血筋だとわかり、ゲームの舞台となる高等学院へ入学する。
そこで仲間になる攻略対象と親密な関係を築きながら、王都で起こる事件を解決し、ラストは闇の化身である僕を倒すことで、世界を救うんだ。
そう、彼らが世界を救うのである。
だから僕は――死ななければならない。
◆◆◆◆◆◆
「こちらでお待ちください」
父上と別れ、殿下に呼ばれるのを一人で待つ。
部屋の前に設けられた待機場所ですら、華美なゴシック様式が取り入れられて、内装は絢爛豪華だった。
将来、ゲーム主人公の攻略対象になる殿下は、現在ヴィヴィアンと同じ十歳。
僕は十二歳になり、先日社交界デビューをしたばかりだ。
殿下とは、今日がはじめての顔合わせとなる。
同じ年なら、遊び相手として呼ばれることもあったかもしれないけど、終ぞ僕にその機会は訪れなかった。
殿下の同い年には、ゲームの攻略対象が二人いる。
一人は男爵家だが、もう一人は僕と同じ侯爵家だ。
他にも名家の子どもがいることを鑑みれば、二歳とはいえ、年の離れた僕が呼ばれないのも頷けた。
ゲーム同様、既に彼は暴君なんだろうか。
ウッドワード家の盾のエンブレムが入ったペンダントを弄びながら、殿下の設定を思いだす。
アルフレッド・ロングバードの固定武器は、王家のエンブレムにもなっている光剣。魔力を通すことで、スキルとして光属性の攻撃が可能になるものだ。
ゲーム主人公との交流で新たなスキルを取得でき、二人で力を合わせて必殺技を繰り出すのも、ゲームの魅力だった。
壁にかけられた王家のエンブレムを眺めていると、先ほど案内してくれた侍女が戻ってくる。
「……お待たせいたしました」
どこか疲れた様子の侍女に案内され、分厚い木造のドアが開かれるのを待つ。
部屋の様子が露わになった瞬間、僕の視界は遮られた。
「帰れ! どうせオマエもオレに取り入りたいだけだろ!」
声高な拒絶と共に、ぼふんと顔に何かが直撃する。
落ちていく影を追うと、それはクマのぬいぐるみだった。
隣にいた侍女は、あまりの事態に固まってしまっている。
どうやら殿下の粗暴さは、幼少期からのものらしい。
しかし、視線を向けたソファには――赤毛の天使がいた。
直毛で重そうに見える僕の黒髪とは違い、殿下の髪はふわふわしていて綿毛を連想させる。
りんごのような赤い頬は、触れたら溶けてしまいそうだ。
ゲームでは十六歳だった。
その六年前というだけで、こうも幼い印象を受けるのか。
大きな目を釣り上げているのも、子猫が威嚇しているようで微笑ましい。
「……な、何か言ったらどうだ!」
「失礼いたしました。ウッドワード侯爵家のルーファスと申します。以後お見知りおきを」
つい見入ってしまい、慌てて挨拶する。
しまった、髪が乱れたままだ。
さり気なく直しながら、落ちたままのぬいぐるみを拾う。
「殿下、よろしいですか?」
「そ、そこにいたオマエが悪いんだからな!」
ぬいぐるみを渡そうとして、殿下の言い分に首を傾げた。
もしかして、僕に当てる気はなかった?
最初から当てるつもりなら、「そこ」なんて曖昧な言い方はしないのではないか。
近づいてみると、殿下はあたふたと手を動かして落ち着かない。
彼の隣にぬいぐるみを置けば、きょとんと見上げられた。
「お、怒らないのか?」
「驚きましたが、痛くはありませんでしたので。座らせていただいても、よろしいですか?」
「ダメだっ、さては何か企んでるんだろう! お母様がウッドワード家は信用ならないって言ってたぞ!」
父上、王妃様に信用されてないんですか。
「僕のことも信用できないと、おっしゃってましたか?」
「それは……」
「まずは殿下ご自身の目で、確かめられてはいかがでしょう」
ここで僕が帰ったら、殿下が追い返したことになる。
王妃様がウッドワード家をどう思っているにしろ、今日僕は招かれて城にいるのだ。
早々に立ち去るのは、双方にとってあまりよろしくないように思えた。
上流階級の侯爵家を招いておいて追い返すのだ。いくら王家といえども、いい評判にはならない。
父上からはぬかりなく、と言われている。
ウッドワード家としては、関係を悪くする意図はない。
「……座るのは許す」
「ありがとうございます」
許しが出たので、殿下の正面に腰を下ろす。
同時に殿下は、横に置かれた――僕が置いた――クマのぬいぐるみを胸に抱いた。
美少年とぬいぐるみの組み合わせとか……尊い。
思わず拝みそうになるのを耐える。
ショートパンツから伸びる足も目の毒だった。白い靴下がソックスガーターで留められているのに心が躍る。
どうやら前世の記憶を理解してから、人格もそちらに引っ張られているようだ。
テンションの上がる気持ちを落ち着かせようと、用意された紅茶に手を伸ばした。
子どもでも飲みやすい温度になっているおかげで、喉が潤される。
ふう、おいしい。
紅茶の香りでリラックスしている間も、大きな目で殿下はじっと僕を見ていた。
先ほどは燃え盛るようだった瞳も、今は宝石のルビーに姿を変えている。
僕の言葉どおりに、目で確かめようとしているんだろうか。何それ尊い。
しかし悪いことをしていなくても、天使に見つめられていると緊張を強いられる。
取り戻せつつある平静を失いたくはなかった。
何か話で気を紛らわせられればと、広い室内に視線を巡らせて話題を探す。
案内してくれた侍女は、部屋の入口で待機していた。
僕が訪ねる直前にも一暴れしたのか、勉強机と思しき周辺には、紙とペンが散乱している。
そこに白紙の紙と重なって落ちている地図が見えた。
「地理の勉強をされていたのですか?」
「っ……うるさい!」
「え」
何が癇に障ったのか。
急に立ち上がった殿下は、手元にあった紅茶を僕に浴びせた。
「きゃぁあああ!」
部屋にいた侍女の悲鳴が耳をつんざく。
熱い。
いくら飲みやすい温度になっているとはいえ、肌に触れるには十分熱かった。
咄嗟に張りつくシャツを引っ張る。
頬にかかった部分が、ジンジンと痛んだ。
「ぁ……ちが……」
「殿下?」
何故か僕以上に、殿下が震えている。
大丈夫か尋ねたかったけれど、悲鳴を聞いて駆けつけた大人たちに視界を遮られた。
「早く、侍医の手配を! ウッドワード様、失礼いたします!」
抱き上げられ、浴室へと連れていかれる。
その後、僕が殿下と顔を合わすことはなかった。