001
「それ」は、日常の一コマで起こった。
夜、勉強机に向かっていたとき。
雨が窓を叩く音で、氷像のような少年がガラスに映るのを見る。
黒檀の髪に、凍てついた眼差し。
まだ幼いけれど、「彼」の面影があった。
ルーファス・ウッドワード。
前世でプレイした乙女ゲームのラスボス。闇の化身。
僕は、自分に前世があったことを「理解」した。
そして物心ついたときから、どこか自分のことを、他人のように感じる理由がわかった。
無意識に、胸にあるペンダントを握る。
――困った。
「僕は、死ななければならない」
呟きは、雨音にかき消される。
ドアがノックされ、ガラスに映った自分から目をそらした。
「ルーファス様、そろそろ旦那様がお着きです」
「今行く」
窓から離れ、エントランスホールへ向かう。
既に使用人たちが、父上を出迎えようと整列していた。
白と黒の装いが並ぶ中で、バラ色のワンピースを着た、一際目立つ美少女を見つける。
僕と同じ黒髪に、青い瞳。
耳の上あたりで丁寧に結われた長い髪が、鮮やかなワンピースによく映えている。
使用人たちの前で一人毅然と佇む姿は、草原に咲く一輪の花のようだ。
まだ十歳とはとても思えない。
「お兄様、遅いですわ!」
目尻を釣り上げる美少女の名は、ヴィヴィアン・ウッドワード。
僕の妹だ。
そして、ゲーム主人公を陥れようとする悪役令嬢であり、最後はラスボスである僕から使い捨てにされる不憫な子。
「夜会でお母様はおられないのですから、お兄様が率先してくださらないと困りますっ」
張り詰めた声音は、緊張の現れだった。
襟元を正してヴィヴィアンの隣に並ぶ。
古くから我が家に仕える白髪の執事は、門番から連絡を受けると僕に耳打ちした。
「お着きになられました」
隣で聞いていたヴィヴィアンが、内容にビクッと肩を揺らす。
無理もない。
彼女にとって父上は――。
「おかえりなさいませ、旦那様」
玄関のドアが開かれ、先に使用人たちが一斉に頭を下げる。
父上が姿を現すと、隣で息を飲むのが聞こえた。
妹、ヴィヴィアンにとって、父上は恐怖そのものだった。
僕たちの元である長い黒髪を後ろで結い、黒衣に身を包んだ姿は、死神の鎌を携えていても不思議じゃない。
肉食獣を思わせる三白眼が、それに拍車を掛けた。
ギロリと睨まれて胃が縮む。
高い身長から見下ろされると圧が増した。
「父上、おかえりなさい」
「お、おかえりなさいませ……」
可哀想に。
ヴィヴィアンは、すっかり萎縮してしまっている。
ここは彼女に言われたとおり、僕が率先してあげないと。
父上の前に一歩踏み出し、両手を広げる。
「何だ」
僕のいつにない行動に、父上が腹底に響く声で問う。
周囲に緊張が走るけど、前へ出たからにはやり遂げなければならない。
今にも逃げ出したくなる気持ちを叱咤し、一度だけヴィヴィアンを振り返る。
彼女の青い瞳が、涙で潤んでいるのを見て、決意を固めた。
僕が示さなければ。
父上に視線を戻し、震える口で願い出る。
「抱っこしてください」
そう……怖がるのではなく、甘えればいいのだと!
静寂が、場を支配した。
張り詰めた空気に、肌がピリピリする。
「おおお、お兄様!? 真顔で何をおっしゃいますの!?」
ヴィヴィアンが僕の背中に縋り付く。
突き刺さる視線が痛い。
でも、僕は負けない。
どれだけ父上に蔑むような目で見下ろされても、負けない。広げた手の震えが止まらないけど。
父上が白髪の執事に視線を向ける。
「……ルーファスは、頭でも打ったのか?」
「そのようなことはございません」
失礼な。
僕は錯乱しているわけじゃ――いや、しているのか?
先ほど前世を理解したことで、少なからず動揺はしている。
けど妹の、ヴィヴィアンのためにとった行動に、嘘はない。
「父上」
それを証明するために、言葉を重ねた。
「父上は、お顔が怖いのです」
「……」
「威厳があり、素敵だとも思いますが、ヴィーはすっかり震えて、素直に甘えることができません」
「お兄様!?」
いいんだ、わかってる。
父上を恐れる必要はないんだと、僕はヴィヴィアンに頷いた。
視線を、父上に戻す。
「ですから、僕を抱き上げることで、寛容さを示してくだしゃい」
大事なところで噛んだ。
皆が押し黙ったことで、更に空気が重くなる。
……負けない、僕はまだ負けないぞ。
希望はある。
怒鳴られていないのが、その証拠だ。
ペンダントに触れて気持ちを落ち着かせたくなるけど、両手を上げた状態では叶わない。
「僕が無理なら、ヴィーでもいいです」
「わたくしを巻き込まないでくださる!?」
「ヴィーだって、父上に抱き上げてもらいたいだろう?」
「それは……」
伸ばされた大きな手に、ヴィヴィアンがギュッと目を閉じる。
僕は身を包む浮遊感に、感嘆の声を漏らした。
「おおっ」
「これでいいのか」
なんと父上は、僕たちを同時に抱き上げたのだ!
力持ちである。
思いの外、高くなった視線に体が固まった。
けれど父上から体温が伝わってくると、それも次第に解けていく。
「よかったな、ヴィー」
「……」
ヴィヴィアンは驚きに目を丸くしていたけど、僕とお揃いの青い瞳は、キラキラと輝いていた。
目が合うと、満面の笑みを返される。僕の妹は、世界一可愛い。
「ヴィー、次は僕に続いて」
「つ、次ですの?」
ヴィヴィアンは戸惑いを見せるけど、気持ちは行動に表さないと伝わらない。
父上が良い例だ。
黙ったままだと、その見た目からは恐怖しか湧かない。けど、別に怒っているわけじゃないんだ。
僕も表情筋が動かないからよくわかる。
「父上、大好きです」
「っ……」
だからこそ、行動で表す必要があった。
頬を寄せて気持ちを伝える。
父上は一瞬肩を強張らせたけど、怒っているわけじゃない。
「お父様、大好き!」
僕に続いてヴィヴィアンも抱き付くと、父上の顔が真っ赤になる。けど、やっぱり怒っているわけじゃない。
視界の端に映る執事の笑顔が、それを裏付けてくれた。
――この夜、僕とヴィヴィアンは、生まれてはじめて、父上が照れる姿を見た。