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セピア8 PAIN

作者: 山本哲也

「…あ、そうそう、め、飯なんだけどさ、忙しかったら、無理に作りに来なくても良いよ。俺、バイト先で食べる事も出来るし…」

 別に、それが言いたかったわけではない。

 ただ、自分から典子を引き留めてしまったので何か言わなくてはと焦り、咄嗟に口をついて出てしまった言葉がそれだったのだ。

 そして、それはその後に続くであろういつものような会話の呼び水であるはずだったのだ。

 しかし、あの花火の時から二人の歯車はどこかズレ始めてしまったらしい。というのも、典子にとってのその言葉は、単なる呼び水以上のものだったらしいからだ。

 その言葉を聞いた瞬間、典子の目が驚いたように見開かれた。それから、悲しげにゆっくりと視線を逸らす。その瞬間、どうしてかは分からなかったが、典子を深く傷つけてしまったのが分かった。だが、亮太にはもうどうしようもなかった。

「そ、そう…わかった…」

 俯き、絞り出すように呟く典子。

 そして、巾着の中から黒猫のキーホルダーの付いた合鍵を取り出した。

「…これ…」

「…う、うん」

 予想外の典子の反応に、一瞬躊躇った亮太だったが、仕方なくそのまま受け取るとただぼんやりとそれを見つめる。怖くて典子の方に視線を戻す事は出来なかった。

「…じゃ」

 かすれ声で呟くようにそう言うと、典子はそそくさとその場を後にする。

「あ…」

 何かを言いかけた亮太だったが、廊下を小走りで走っていく典子の背中に、かけるべき言葉は見つからなかった。ただ、もやもやとした言葉にならない想いが胸に広がっていただけだった。

「…じゃ…気を付けて…」

 仕方なく、遠ざかっていく典子の背中に向かって、亮太も呟くようにそう答える。その言葉は誰にも届かず、ただあてどもなくその辺を彷徨っているだけだった。

 胸が、張り裂けるように痛い。そして、まるで自分の半身がもがれてしまったかのような、激しい喪失感を感じていた。


 どうして、あんな事を言ってしまったのだろう。

 一体、自分は何がしたかったのだろう。何が言いたかったのだろう。そして、何と言えば良かったのだろう。

 気だるい気分のまま、薄暗い部屋でベットに寝転がった亮太は、先日の夏祭りの後での出来事を幾度となく反芻していた。

 真吾に気兼ねをしながら料理を作りに来なくても良くなるのではないのか?

 自分に気兼ねせずに真吾と付き合えるのではないのか?

 それなのに、何故…?

 どうして、典子はあんな顏をしたのだろう。確かに、あの時の亮太は少しふてくされていたかも知れない。だが、それ程ひどい事を言ったつもりもない。なのに、それが典子にとってショックだったというのなら、典子は真吾と付き合いつつも亮太のために料理を作る事を楽しんでいる、という事になる。

(普通、そんな風に思わないだろ…)

 もしそうだとするのなら、真吾との事を秘密にして欲しくなどなかった。そうしてくれていれば、もっと別の対応もできたはずなのに。

 今となっては恨み事でしかないが、亮太はそう思わずにはいられなかった。

 しかし、もしそうなっていたら、自分は一体どう対応していただろう。はたして、二人を祝福出来ていただろうか?

 亮太は自問する。

 別の事をしていても、ゲームをしている時でさえ、気が付くとその事を考えてしまっていた。

 だが、はっきりこうだという答えは、見いだせなかった。ただ、多分、二人を祝福しただろうと、するはずだと、思ってはいた。

 ちくりと、心のどこかが痛む。だが、それが何なのか、亮太には分からなかった。

 ピピピピ…

 と、不意に枕元の目覚まし時計が鳴り出し、亮太を現実に引き戻す。ゲームに夢中になっていたり、寝てしまった時のための用心なのだ。

 アラームを止め、亮太はめんどくさそうに起きあがるともう一度溜め息をつき、それからもたもたと支度を始めた。今日も、これからバイトなのだ。


「もう、いい加減にしてよね!!」

 薄暗くなりかけている町並みに、あずさの子供っぽい声が響いた。いや、子供っぽいというのは適当ではないのかも知れない。現にあずさはまだ中学三年生なのだから。

 ただ、あずさは同年代の女の子と比べても少々発育が…よろしくないようで、外見はまだ幼さが残る、と言うよりは子供そのまんま、という感じだ。セミロングの髪を左右でリボンでまとめ、ブルーの地に黒で横縞の入ったTシャツに下は黒のキュロットスカート、といういでたちも、これまたその印象を強めている。

 対する、あずさに『いい加減にしてよね!!』と言われた少年の方も、小柄で、飾り気のないTシャツに膝丈ぐらいまでの半ズボン。全体的に短い髪はくしゃくしゃで、これまた『小学生?』と尋ねられそうな少年だ。

 彼の名は『東 徹雄』。あずさと同じ中学で同じクラスだ。ついでに、今では塾まで同じになっている。

 精一杯頬を膨らませ怒っているあずさを見て、東はニヤニヤと笑う。あずさがすごんで見せても全く効果がないらしい。それどころかあずさの怒った様子を見て楽しんでさえいるようだ。

「へへーん、悔しかったら取り返してみろよ」

 と、あずさの鞄を頭の上でブンブン振り回しつつ、馬鹿にした様子で言うばかり。

「東君のバカっ! だいっっキライ!!」

 顔を真っ赤にしたあずさが両手を振り回して東を叩こうとするが、東はひらりひらりと身をかわし、

「悔しかったら取り返してみな〜」

 と言って舌を出す。憎らしい事この上ない。

「バカバカバカバカっ!!」

 半ばヤケを起こして、追いかけるあずさ。

 東はそんなあずさから逃げつつも、あずさの様子を見てニヤニヤ笑っていたのだが、角を曲がったところで

 ゴッ!

 と鈍い音と共にしりもちをついた。

「イタタ…」

「だ、大丈夫!?」

 おでこを痛そうに押さえ、うずくまっている東に、あずさは駆け寄った。さすがに、この状況で『自業自得』等と言える程、あずさは冷たくはなかった。

 良く見ると、東の他にも曲がり角の向こうでもう一人しりもちをついている人がいる。どうやら出会い頭にぶつかってしまったらしい。

「イテテ…」

「あ…」

『大丈夫ですか』

 と声を掛けようとしたあずさの表情がこわばった。

 飾り気のないジーンズにTシャツ姿でうずくまっているのは、亮太だったのだ。

「イタタ…畜生、ちゃんと前見て…」

 涙目になりながら顔を上げた東の表情もまた、凍り付いた。

「…またお前か」

 吐き捨てるようにそう呟くと、東は素早い動作で立ち上がり、うずくまっている亮太の脛を蹴った。

 ガッ!

「ヴッ…」

 青ざめた顔で声にならない声を上げ、痛さにふるえている亮太に

「とっとと消えろ! このバーカ!!」

 と捨て台詞を残し、東は一目散に逃げていく。

「…あ、あのガキ…今度会ったら…」

 あっという間に小さくなっていく東の背中を睨みつつ、亮太は呟く。

「あ、あの…」

 俯いて真っ赤になったあずさは、ようやくそれだけ呟く。

「ん…ああ、あずさちゃん。またあいつにいじめられてたの?」

 東の背中が見えなくなってからも東の去っていった方を睨んでいた亮太が、ようやくあずさの方を向いた。あずさはそれには答えずに

「ご、ごめんなさいっ!」

 いきなりそう言って深々と頭を下げた。

「い、いや、あずさちゃんが謝る事じゃないよ。それに、もう平気だから」

 脛をさするのを止め、立ち上がった亮太はジーンズの埃をはたく。

「学校…じゃ、ないよね?」

『学校』と言いかけた亮太は、あずさの格好を見て言いかえた。

「あ、は、はい…か、夏期講習です…」

 消え入りそうな声でやっとそう呟くあずさ。

「夏期講習か…大変だね」

「…」

 あずさは『別にそんな事ないです』と言おうとしたのだが、声にはならなかった。二人の間に暫し、沈黙が流れる。

(…どうしよう、何か言わなくちゃ…)

(…でも…やっぱり…)

『出来ないよ』と心の中で呟きそうになった時、

『…そのままでいれば、いいと思うよ』

 と言う亮太の顔が目の前の亮太の顔とダブった。

(…そ、そうだよね…普通にしてれば…)

「あ、あの…り、亮太さんは…?」

 ややあって、あずさは絞り出すようにそう呟く。

「ああ…俺はこれからバイトなんだ。駅の近くの『ジョックス』って言うファミレスだけどね」

 そう答えた亮太は、急に何かを思い出したようになって腕時計を見る。そして、みるみる顔が青くなっていった。

「や、ヤバイ…あずさちゃん、ゴメン、ちょっと時間がないんでこれで!!」

 慌ただしくそう言うと、あずさの返事も待たずに駆けだしていく。

「亮太さん…」

 あずさはぼんやりと立ったまま、その背中をいつまでも見つめていた。


 家に帰り着いたあずさは、早速さつきの部屋へと飛んで行き、机に向かって勉強をしていたさつきに、亮太にまた会えた事、亮太が今ファミレスでバイトをしている事を興奮した様子で伝えていた。

「でね、お姉ちゃん、亮太さんって駅前の『ジョックス』で働いてるんだって!!」

 だが、目をキラキラと輝かせ、飛び跳ねんばかりの勢いでまくし立てるあずさとは裏腹に、さつきはほとんど仏頂面と言ってもいいような表情をしている。そして、話し終わったあずさが期待を込めた目で見つめていると、興味なさそうな様子でぽつりと言った。

「ふーん。だから?」

 途端に、あずさの表情が曇り出す。もちろん、さつきが本気で言っているわけではないのは分かっている。

「うー、お姉ーちゃんのイジワルっ!!」

 頬をプクリと膨らませたあずさは拗ねたような目でさつきを見、それからポカポカと叩いた。

「いたた、痛いってば、あずさ。イジワルって、当たり前の事言っただけでしょ」

 片手で防御しつつ、さつきが苦笑いする。

「イジワルイジワルっ!!」

 そんな事は分かっている。分かってはいるのだが…。

「分かったわよ、あずさ、ゴメンって。これから、行ってみる?」

 苦笑いしながらさつきが言う。途端に、あずさの表情がぱあっと明るくなった。

「全く、ゲンキンなんだから」

 さつきがそう言ってあずさの頬を突き、立ち上がる。

「…だって…」

 あずさは、顔を真っ赤にして俯いた。

 自分でもつくづくそう思っていたのだ。

(…そのままでいれば、いいと思うよ)

 亮太の台詞がよぎる。

(…やっぱり、そんなの出来ないよ…)

 あずさは、心の中で溜め息をついていた。


 一方その頃、全力ダッシュをしたおかげで、亮太はどうにかこうにかバイトには間に合っていた。これも学校での日頃の訓練(つまり、いつも遅刻しかけている、という事)のたまもの…と思ったかどうかは定かではないが、反面、バイトが始まったばかりだというのに既に疲れている、という、かなり悲惨な状況でもあった。ファミレスでのバイトはそれほど重労働というわけではないのだが、常に周りに気を配り、笑顔を絶やさないようにする、というのは気疲れするものだ。亮太はサブチーフという、他のバイト達をフォローする立場でもあったので尚更だった。それに、誰しも汗くさい店員に注文を取りに来てもらったり、料理を運ばれたくはないだろう。黒のズボンに白いYシャツ、それに黒のベストに黒のネクタイ、という制服に着替える際に一応タオルで汗を拭きはしたのだが、何となく気になってしまって仕方がない。

(クソ…東とか言ったかあのクソガキめ…)

「何してんの? 制服、全然洗ってないとか?」

 暇を見てパントリー―ナイフやフォーク、食器などが置いてあり、セッティングをしたりする所―で自分の臭いをかいでいた亮太を、加奈が道端の犬のフ○でも見るような目で見ている。加奈は亮太と同い歳なのだが、高校を三ヶ月でさっさと中退し、一人田舎から出てきてフリーターをしているのだ。そう聞くとわがままなのではないかと思うかも知れないが、実際そんな事はなく、肩ぐらいまでの長さにそろえた髪に、片方の前髪をボンボン―髪をまとめるためのゴムで、プラスチックの玉が飾りに付いている―で上げた加奈は、ちょっと幼い感じもするが、接客応対や目上の人間との話し方などはとても穏やかで、きちんとした躾を受けた事をうかがわせていた。それに、一人暮らしをしているせいなのか、実際の年齢以上にしっかりとしている。同じ一人暮らしでも、いつまで経ってもだらしのない自堕落な生活をしている亮太などとは大違いだ。

「い、いや、ちょっと遅刻しそうになってさ。慌てて走ってきたから…」

「もう、一応サブチーフなんだからそれじゃ困るでしょ。例の彼女と別れられず…後朝の別れってヤツ?」

 加奈がニヤニヤ笑いながら尋ねる。

「何だよそれ。変なガキとぶつかって、おまけにガキに蹴られたんだよ」

 そう言って、亮太はズボンをまくって紫色になった臑の痣を見せる。

 途端に、加奈は顔をしかめた。

「やだな、生足なんて見せないでよ」

「あ、ご、ゴメン」

 亮太は慌ててまくっていた裾をおろした。そういう所に、加奈はちょっと極端に反応する。育ちの良さのせいだろうか。

「あ…こっちこそゴメン。さて、仕事仕事っ! 亮太君も程々にねっ!」

 とってつけたように明るくそう言うと、加奈は店内に出て行く。

「あ、ところで『後朝の別れ』って何だよ…」

 言いかけた亮太の声は加奈の背中には届いておらず、途中で辺りの騒音の中に紛れていった。

「…それに、典子は『彼女』じゃないよ…」

 それは、誰かに聞かせると言うよりは、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。

 ちくりと、心のどこかが痛む。


 キイ…

「いらっしゃい…」

 それから暫くした頃、レジの釣り銭のチェックをしていた亮太がドアの開く音で反射的に顔を上げると、ニットのノースリーブにミニスカート姿のさつきと、その後ろに半ば隠れるようにしてあずさが立っていた。あずさはオレンジのスカートにノースリーブのブラウス姿に着替えている。そういう格好をしていると、さすがにさつきの妹だと亮太は思う。

「今晩は」

 さつきがにこやかな笑顔で挨拶する。

「さつき先輩。どうしたんですか? 急に」

「な〜によそれ。まるであたしがファミレスに来ちゃいけないみたいじゃない」

 悪戯っぽく微笑んで、さつきが続ける。

「それにね、今回、行こうって言ったのはこっち」

 そう言うと、さつきは自分の後ろに半ば隠れるようにしていたあずさを無理矢理引っ張り出す。あずさは最初のうちは前に出されまいとしてじたばた暴れていたのだが、亮太と目が合うとすぐに大人しくなって俯いた。

「あずさ、何黙ってるのよ」

「…こ、今晩は…」

 さつきに小突かれ、あずさが消え入りそうな声で言う。

「今晩は。ま、まぁとにかく、どうぞ」

 いつまでも店の入り口に立たせたまま喋っているわけにもいかない。亮太はさつき達を席に案内すると、パントリーにメニューと水を取りに行く。

「で? 制服姿の亮太君が見られて、ご満足ですか?」

 その亮太の後ろ姿を見送りつつ、さつきが言う。

「うー。違うもん。そんなんじゃないもん」

 あずさは頬をぷくっと膨らませ、抗議する。だが、普段着や学生服姿でない亮太を見るのは初めてで(もっとも、そもそもあずさはそんなに何度も亮太を見た事はないのだが)、確かに新鮮だった。

「それで? これからどうするの?」

 さつきが尋ねる。

「どうするって?」

 あずさがキョトンとした顔で聞き返すと、さつきは

「んーん、何でも〜」

 とはぐらかして悪戯っぽく微笑む。

「む〜、お姉ちゃんのイジワル〜」

 再びあずさは頬をぷくっと膨らませ、恨みがましい目でさつきを見る。だが、さつきはそれには気付いていないようだった。あるいは、(こちらの方が遙かに可能性が高いが)気付かないフリをしているのか。

 やがて、トレンチ(お盆)に水の入ったグラスとメニューを持って亮太が戻ってくると、さつきは不意に口を開いた。

「ね、亮太君、あずさが亮太君とハイランド・パークに行きたいって言ってるんだけど…どうかな? 受験勉強で息が詰まっちゃうから少し気晴らしがしたいんだって」

 ハイランド・パークというのは高原にある遊園地だ。

「ええっ!? そんな事…うぐ…」

『そんな事言ってない』と言いかけたあずさの足を、テーブルの下でさつきが思いっきり踏んで黙らせる。亮太は一瞬戸惑ったようだったが、意外な事に

「いつですか?」

 と聞き返してくる。

「確か、今度の日曜は空いてたと思うけど。亮太君の都合は?」

「…その日だったらバイトもないし、大丈夫ですよ」

「じゃ、決まりね。詳しい事はまた連絡するわ。いいわね、あずさ」

「…」

 あずさが黙っているのを了解と取ったのか、さつきはさっさと話をまとめてしまう。

「んじゃ、そう言う事で頑張ってね、あずさ?」

 亮太が行ってしまうとさつきがそう言って悪戯っぽく微笑む。

「お、お姉ちゃんも付いてきてくれるんだよね?」

 さつきにすがりつきながら、あずさは尋ねた。

「何であたしがデートについて行かなくちゃなんないのよ。そういう事すると馬に蹴られるって言うでしょ?」

「ダメだよ、お姉ちゃんも付いてきてくれなきゃ出来ないよ。ね? 付いてきてくれるでしょ? 付いてきてくれるよね?」

 すがりついてさつきを揺すりながらあずさが重ねて尋ねる。

「…しょうがないわね。分かったわよ」

 さつきは盛大に溜め息をつき、そう答えた。

 もっとも、そうなるんじゃないかと半ば予想していたのではあったが。


「ね、さっきの人たち、誰?」

 さつきたちが帰ってから暫くして、パントリーで一息ついていた亮太に、加奈が思い詰めた表情で声を掛けてくる。

「え? ああ、学校の先輩とその妹さんだよ」

 ただならぬ加奈の雰囲気に警戒しつつ、亮太は答える。加奈がこういう態度で接してきた時は油断してはいけない―以前の手痛い失敗(?)から学んだ貴重な教訓だ。もっとも、その時は結局典子と…。

 その瞬間、何かが亮太の脳裏にひらめいたのだが、それも次の加奈の言葉でどこか遠い記憶の底に潜っていってしまう。

「ふーん。ね…亮太君、よけいなお世話なのは充分分かってるつもりだけどさ…その、良くないよ、二股かけるのって」

「はぁ!?」

 亮太はバイト中なのも忘れて素っ頓狂な声を上げてしまい、怪訝な顔でキッチンから顔を出したコックに向かって身振りで『なんでもない』と示した。

「だ、誰が二股かけてるって言うんだよ!?」

 押し殺した声で亮太が尋ねる。全く、加奈は何を言い出すか油断がならない。

「亮太君以外の人のことを亮太君に言ってどうするの? あたし、今はちょっと真面目なんだよ。ごまかさないで」

 亮太が惚けていると思ったのだろうか、加奈は少々ムッとした表情で亮太を見つめて言い返す。

「別にふざけてなんかないって。ホントに、そんな事ないよ。それに…」

『綾瀬さんとは別に恋人でも何でもない』という、その後に言おうとした言葉を、亮太は飲み込んだ。加奈が亮太の恋人だと思っている相手は美雪ではなかったからだ。下手に美雪の事を口に出せば、また突っ込まれるに決まってる。

「それに?」

 案の定、加奈が聞き返してくる。

「…何でも。とにかく、加奈ちゃんが思っている相手は別に俺の恋人じゃないし、さっきの人達の事も違う。大体、二股なんてかけられるほど器用だったら苦労なんかしてないよ」

 それだけ言うと、亮太は店内に出て行く。加奈は黙ってその背中を見送っていたが、やがて

「…分かってないなぁ…」

 と呟いた。


 そして、その週の土曜日。

 あずさはいつもの通り塾で授業を受けていた。そしてその授業も、この時間が最後だ。この授業さえ終われば明日は亮太と遊園地―。そう思うと、あずさは何だか自分が別世界にいるような気分になってくる。既に、心は明日へと飛んでいるのだ。

(ハイランド・パークかぁ…)

 ハイランド・パークというのは霜降り高原という高原にある老舗の遊園地で、某埋め立て地にある有名なテーマパークに比べるとデートスポットとしては少々地味ではあるものの、ジェットコースター等のいわゆる絶叫マシーン類の充実ぶりで有名で、そういうのが好きな、もしくは一つの乗り物に乗るのに数時間も待たされるのが嫌いな人たちには人気の場所だった。

あずさも家族となら何度か行った事があるのだが、家族以外の、ましてや男の人と行くのはこれが初めてだ。

(どうすればいいのかな…)

 その事を考えると少々不安にもなるのだが、最後には

(お姉ちゃんがいるし、大丈夫だよね)

 という事で自分を落ち着かせる。それが、自分でも少々情けなくはあった。

「では本日の授業はこれまで」

 先生がそう告げてテキストを閉じると、それまでシンとしていた教室がにわかに活気づいてくる。

 これでやっと解放されたのだ。帰り支度をするあずさの頬は、自然とゆるんでしまっていた。

「気持ちわりぃな、何ニヤけてんだよ」

 そんなあずさに気付いたのか、東が側にやってくる。塾に入った頃の東は一番下のクラスで、箸にも棒にもかからない様な成績だと言われていたのだが、今では数学以外はそれなりの成績を示すまでになっていて、特に現国ではあずさと同じ、一番上のクラスになっていた。

「に、ニヤけてなんかないよ」

 あずさは慌てて頬を引き締めつつ、そう答えた。

「ウソつけ。ニヤけてたじゃないかよ。授業中だって時々こっそり笑ってやがったし。気持ちわりぃぜ」

「そんなコトしてないもん。大体、どっちにしたって東君には関係ないじゃない」

 恥ずかしさも手伝って、突っ慳貪にそう言ったあずさは教室を出て行こうとする。せっかく授業から解放されて明日の事を考えながら楽しい気分でいたのに、東のせいで何もかもだいなした。それに、またいつものように回り道に付き合わされたくもない。

「待て。関係あるかないかは俺が決めるんだ。俺があると言ったらあるんだよ!」

 東は出て行こうとしたあずさの腕を掴んで引き留めた。あずさはその腕を振り解き、

「何よ〜、東君なんて大っっキライ!!」

 無駄だと知りつつも、あずさは精一杯頬を膨らませ怒っているというジェスチャーをしてみせる。

「俺だってお前みたいな泣き虫のブス嫌いだ。どうせ泣き虫だから誰からも相手にされないんだぜ」

 東がからかうように言った。

「ふ〜んだ。あずさだってデートぐらいするもん」

 何も知らない東がおかしくて、あずさはちょっとした優越感に浸ってしまう。

「へ、へぇ、そりゃいつだよ」

 いつも通り顔を真っ赤にして食ってかかってくると思っていたあずさが、あまりにも余裕たっぷりの様子で答えるので東は少々うろたえているらしい。

「そんな事東君には関係ないでしょー」

 意外な東の様子を楽しみながら、あずさが答える。日頃の仕返しとばかりに、少しイジワルするつもりだった。それに、もともと本当の事を言うつもりもなかったのだ。

「やーっぱりウソだ」

 だが、具体的な話ではなかったので自信を取り戻したのか、東はニヤニヤ笑いながら言った。

「ウソじゃないもん!」

「だったらいつかぐらい言えるだろ。それが言えないって事はウソだね。ウソつきあずさ〜」

 そう言いながら、東はやーい、やーいとはやし立てる。

「ウソじゃないってば!! 今度の日曜に行くんだから!!」

 はやし立てていた東はこれを聞いて驚いたように動きを止める。それから、ややあって引きつった表情で言った。

「へ、へん、苦し紛れのウソつくなよ」

「ホントだよーだ。朝早くから待ち合わせして行くんだからね」

 こうなると実際に明日行くという事実があるだけにあずさの方が圧倒的に強い。あずさは優越感に浸りながら東のうろたえた様子を見ていた。

「ケッ。物好きなヤツもいるもんだぜ」

 否定しきれなくなったのか、東は捨て台詞を残すと壁を蹴っ飛ばし、すごすごとその場を去っていく。あずさは初めて東に勝てたという優越感に浸りつつ、その背中に向かって思いっきり舌を出していた。


 その夜。

「うーん…どれにしよう…」

 ベットの上に広げた何着かの服を前にして、ネコのプリント柄のパジャマ姿のあずさは悩んでいた。どんな服を着ていけばいいのか、迷っていたのだ。元々あずさは大人っぽい服や、いわゆる『勝負服』のような物は持っていなかったのだ。気に入っている服がないわけではなかったが、それもどちらかと言えば普段着に属するような服でしかない。

「お姉ちゃんの服は…」

 困り果てたあずさは一瞬さつきの服を借りる事も考えたが、直ぐにその考えを否定した。さつきの身長は百六十五センチ。対するあずさは百四十七センチ。さつきの服では全くサイズが合わない。単純な服のサイズ以外のサイズ(何のサイズの事かはお分かりと思うが)に関しても、だ。

(…お姉ちゃんみたいになれたら…)

 あずさはさつきのスタイルを思い出し、それを自分のそれと比べ、溜め息をつく。

 そもそも、服をどうするか、という事以外にもまだ問題はある。一体どのように亮太に接すればいいのか、という事だ。

 いくら何でも一日中さつきの後ろにいるわけにもいくまいし、さつきもそうはさせないだろう。でも、考えれば考える程、一体何を話せばいいのか全く見当が付かないのだ。なにより、そうやって考えているだけでも心臓がドキドキしてきてしまうくらいで、こんなので明日は大丈夫なのだろうかと自分でも思う程だった。

(お姉ちゃんみたいだったら良かったのに…)

 さつきは社交性があり、だれとでも気兼ねなく話す事が出来るのだ。

 胸が、ちくりと痛い。

 さつきは勉強だって、ゲーム以外の他のどんなことだってあずさより出来るのだ。あずさでは一生敵わないのではないだろうか、という思いが胸をよぎる。さつきには人を惹きつける魅力のようなものがあるのだ。あの東でさえ、さつきの前では緊張して、借りてきた猫…とまではいかないが、緊張して大人しくなっていた。

 あずさは、以前さつきと会った時の東の様子を思い出す。それは、まるで魔法のようだった。亮太でさえ…。

(…はぁ…いいよな、お姉ちゃんは…)

 あずさが亮太と何の気兼ねなく話すさつきを思い出しながら何度目かの溜め息をついていると、

 コンコン

 とドアがノックされ、風呂上がりだろうか、濡れた髪にタオルを巻いたさつきが顔を覗かせる。

「ドアが少し開いてて、明かりが漏れてたから…まだ起きてたの? 明日は早いわよ」

「うん…服、どうしようかとか考えてたら眠れなくなっちゃって…。どう思う? お姉ちゃん」

「あずさのお気に入りのヤツで良いんじゃない? オーバーオールみたいになった、キュロットと上はノースリーブのカットソー」

 ベットの上に広げられた服を見ながらさつきが答える。手には湯気の立つマグカップを持っていた。多分、ハーブティか中国茶だろう。さつきは寝る前にお茶を飲むのが日課になっているのだ。

「…でも、子供っぽくない? もっとワンピースとかスカートの方が…」

 あずさがそう言いかけると、さつきがクスリと笑って答えた。

「明日行くのはハイランド・パークよ? スカートじゃ、困ると思うけど?」

「あ…そっか…」

 そう呟くあずさの頬がほんのりと赤くなる。

 ハイランド・パークはジェットコースターの類が多いのをすっかり忘れていた。確かに、スカートではちょっと困る。

「それにね、自分のお気に入りの服を着ていた方が、着慣れない服を着ているよりずっと落ち着くし、自信が持てるわよ。一番大事なのは、他人がどう思うかじゃなくて自分がどうしたいのか、なんだから。もちろん、他人を不愉快にさせないだけの最低限のラインはあるけどね」

 そう言うと、さつきはマグカップをあずさの方に差し出す。

「飲む? 落ち着くわよ」

 あずさがそれを受け取って一口すすると、ミント系の清涼感と菊の花のような香りがした。

「カモミールとミントのブレンド。カモミールには鎮静作用があると言われてるの」

 顔を上げてさつきの方を見たあずさの意をくみ取ってか、あずさが何も言う前にさつきが解説する。さつきは本当に博学だ。もっとも、好きだから、と言うのもあるのだろうが…。あずさがよく知っているのは、ゲームの事ぐらいだ。あずさは、また少し落ち込んでしまう。

「お気に入りの服で決まり、ね? じゃ、それ飲んだら寝ちゃいなさいな。明日は早いわよ」

 さつきはそう言ってあずさの頭をなでた。

「…ごめんね、お姉ちゃん」

「何が?」

 俯いてぽつりと呟いたあずさを、キョトンとした顔でさつきが見つめる。

「お姉ちゃんは大学受験があるのに、一日付き合わせる事になっちゃって…」

 さつきはふっと微笑んであずさの頭をくしゃくしゃとかき回す。

「そう思ってるんなら明日はあずさ一人で行く?」

 あずさの顔を覗き込むようにして、さつきが言った。

「ええっ…ダメだよ…」

 あずさは消え入りそうな声で答え、さつきを上目遣いで見つめる。

「冗談よ。どうでもいい事気にしないの。それに、あたしにだって気晴らしになるもの」

 明るくそう言ったさつきは、悪戯っぽく微笑んでこう付け加えた。

「もちろん、そんな事言うくらいなんだから、この次からは自分で亮太君誘って、一人で行けるでしょ?」

「う〜。お姉ちゃんのイジワルっ」

 捨てられた子犬のような顔をして、あずさは言った。

 いや、あずさ自身、そうなれればいいと思ってはいるのだが…。

 亮太とさつきのように気兼ねなく話せる自分を想像してみる。

 いつか、自分もそんな風に出来る日が来るのだろうか?

 もしそんな日が来るとしても、それは遙か遠い日の事の様な気がする。

 また胸が、ちくりと痛んだ。

(…しっかりしなきゃ。いつまでもお姉ちゃんに頼ってばかりじゃダメだもんね…)

 あずさは、弱気な自分を何とか励まそうとする。そして、必ず一度は自分から亮太に話しかけようと心に誓っていた。

 だが、それが実行出来るかどうか、怪しんでいるのも自分自身だった。


 そして、翌朝―つまり、デート当日の朝―。

 蒼く晴れ上がった空に、点々と真っ白な雲が浮かんでいる。朝八時半という時間だけにまだ気温はそんなに上がっていなかったが、照りつける日差しが今日も暑い日になりそうな事を告げている。眩しそうに空を見上げた亮太は、眠そうに大きなあくびをした。別に、昨日眠れなかったわけではない。ただ普段の生活のリズムと大幅に違う時間に起きなければならなかったので眠かったのだ。

「眠い…」

 もう一度大あくびをした亮太は、今日出かける約束をした事を少し後悔していた。少なくとも、もう少し近場にしなかった事を。ハイランド・パークは某埋め立て地のテーマパークより三〇分ぐらい遠いのだ。亮太はあくびで涙目になりながら自転車をマンションの駐輪場から引っ張り出し、駅へと向かった。

 亮太が待ち合わせ時間ぎりぎりぐらいに駅に着くと、既にさつき達が待っていて亮太を出迎えた。

 さつきはオレンジのキャミソールに白の7分丈のズボン姿。さして飾り気のない格好ではあるが、決して地味ではない。その証拠に、駅に入っていく人々が多少なりともさつきの方を気にしていくのだ。そして、あずさはオーバーオールみたいになった、キュロットとノースリーブのカットソー姿。こちらはさつき程人目を惹きつけるわけではなかったが、あずさにはよく似合っている格好だ。二人とも、さりげない風ではあったがそれなりに服装に気を遣っているのであろう。それに比べると、年中変わらずにTシャツとジーンズ姿の自分が少々情けなくなって来さえする。

(やっぱ二人とも女の人だよな)

 亮太はキャミソールからのぞく白い肩に、ちょっとまぶしそうに目を細めた。

「すみません、待ちましたか?」

「ううん、今ちょっと前に着いたとこ。せっかくの休みなのにごめんね、朝早くて」

「い、いや、どうせ暇ですから」

 さつきが開口一番そう言うので、自分はそんなにも眠そうな顔をしていたのだろうかと亮太はちょっと焦ってしまう。

「ほらあずさ、何隠れてるのよ」

「お、お早う…ございま…す…」

 さつきの後ろに隠れていたあずさは、さつきに押し出されると真っ赤な顔をして俯いてあいさつをした。

「お、おはよう…」

 亮太が返すと

「もう、あずさってば何やってるのよ」

「だ、だってぇ〜」

 さつきが前に押し出そうとするとあずさはさつきのジーンズにしがみつく。

「『だってぇ〜』じゃないでしょ。そんなんじゃ亮太君に失礼じゃない」

「う〜」

「いや、あの、そろそろ電車が来ますから…」

 都心の方へ行くのとは違い、山の方へ向かう電車は数が限られている。亮太が腕時計を見ながら言うと、

「いっけない。もう、あずさがちゃんとしないからよ」

「ち、ちがうもん」

 仲良く言い合いながら、さつき達は慌てて券売機へと向かう。

「…?」

 その途中、さつきがふと立ち止まった。

「どうかしました?」

 後に続いていた亮太が怪訝な顔で尋ねる。

 さつきは暫く辺りを見回していたが、やがて

「…ううん、何でも。ゴメン、早くしないとホントに遅れちゃうわね」

 そう言うと、券売機の方へ足早に歩いていく。

 亮太も半ばホッとしつつ、後に続いた。

 何だか、いきなり前途多難の予感が…。

 湧き起こる不安を打ち消すように首を振ると、亮太もさつき達の後に続いた。


 三人が券売機で切符を買い、改札の方へと歩いていく頃、自販機の影からすっと姿を現した人物がいた。

 ほとんどの人にとって似合いそうにない、安っぽいプラスチックの真っ黒なサングラス。それだけでも十分異様だというのに、まだ足りないと思ったのか、白い大きなマスクまで付けている。きょうび銀行強盗でもここまではしないんじゃないかと思う程だ。さらに着ている物が黄緑の地に原色のハイビスカス柄という悪趣味なアロハシャツに短パン、サンダルという、何を考えているのが良く分からない格好をしている、それでいて小柄な上に妙に幼く見える人物だ。その人物は手にしていた∃レヨレの二日前の新聞に半ば身を隠すようにして亮太達の様子を窺っていたが、やがて三人が改札を入っていくとあわてて自分も券売機の所へ行き、三人が押していた金額のボタンを押…そうとして一瞬躊躇い、亮太達の方を振り返る。そして、亮太達三人が何やら楽しそうに話しながらホームへ降りる階段の方へ行くのを見て、半ばヤケになったように乱暴にボタンを押した。


 電車を乗り継ぎ行くこと二時間。亮太達はハイランド・パークの正門前に立っていた。

「やっと着いたわね〜」

 軽く伸びをしながらさつきが言う。亮太も、口に出しはしなかったが同じ気持ちだった。

 別に、電車が混んでいたわけではない。確かに、電車はこれからハイキングでもするらしいおばちゃん達やら何やらでそれなりに混んではいたのだが、亮太が疲れているのには別の理由があった。つまり―

「あずさちゃん、最近はどんなゲームやってるの?」

「…え、えっと…」

 俯き、顔を真っ赤にして消え入りそうな声でそれだけ言うと、後を続けられなくなるあずさ。

「…? あ、あの…?」

 長い沈黙に耐えられなくなった亮太が聞き返すと、ようやく

「…ダンジョンバスター…」

 と言う返事が返ってくる、と言った具合なのだ。

 途中からさつきが助け船を出してくれたりもしたのだが、二時間この調子で続けられたのではたまったものではなかった。さらにこの先ハイランド・パークでも…。

 と思うと、亮太は心底自分の判断を後悔し始める。

 まさに、『後悔先に立たず』だった。


 ハイランド・パークは標高九百メートルほどの高原の一角を占めている、敷地面積のかなり大きな遊園地だ。その敷地の中をハイランド・パークの目玉であるジェットコースターがある時は上り、ある時は急に下り、さらにまたある時は回転しながら駆け回っている。さらに、敷地の中央には『世界で一番高いところを回る』という巨大な観覧車がでんっとばかりに偉容を誇示していた。

「でかい…」

 観覧車を見上げた亮太は思わずそう呟く。亮太もハイランド・パークは初めてではなかったのだが、昔に行ったのは小学校の頃で、その時にはこんなに巨大な観覧車はなかったし、ジェットコースターの数ももっと少なかったのだ。

「あれ、亮太君は初めて?」

 そんな亮太の呟きを聞き、さつきが尋ねてくる。

「いや、違いますけど。ただ、大分昔のことだったんで」

 そう答えながら、亮太はその昔にここに来た時の事をぼんやりと思い出す。

(あの時は典子の家族と一緒で…)

 その瞬間、また何かが亮太の脳裏をかすめた。

 だが、それは亮太が記憶の中から引き上げる前に、深く、深く沈んでいってしまう。そして、それと同時にちくりとした痛みが、胸をよぎった。

「どしたの? 亮太君?」

 一体それは何だったのだろうかと、記憶の底を覗き込もうとする亮太に、怪訝な顔をしてさつきが尋ねてくる。

「え? あ、い、イヤ、何でも。こんな所にいてもしょうがないですし、行きましょうか」

 慌てて亮太が促し、三人はチケット売り場へと向かった。


「…」

 そうして、三人がチケットを買い、入場門をくぐった頃。

 ある人物がハイランド・パークのチケット売り場の前に立っていた。そう、駅で亮太達の頃を見ていた、アロハシャツの不審人物だ。

 彼は短パンの尻ポケットから黒い財布を取り出すと、暫くチケット売り場の上の壁に書かれているチケットの種類と値段と財布の中身を交互に見ていたが、やがて震える手で一枚しか入っていなかった千円札を取り出すと、

「…ち、中学生一枚…」

 と呟く。

 チケット売り場のおばちゃんは暫く不審そうにそのアロハシャツの人物を見つめていたが、やがて

「…あの、生徒手帳か何か、あります?」

 と尋ねてきた。

 彼が無言で首を振ると、

「じゃあ、あの、ちょっと…」

 と申し訳なさそうに告げる。

「…」

 カッとしたのか、何か言いかけた彼だったが、途中で思いとどまり、今度は怒りに震える手で五百円玉を追加で差し出す。

「ありがとうございます」

 おばちゃんの渡したチケットをひったくるように受け取ると、彼は入場門に向かってダッシュしていった。


 その頃…。

「次は何乗ろっか、お姉ちゃん」

 ジェットコースターからたった今降りてきたばかりだというのに、楽しそうに息を弾ませてあずさが言う。

「ちょっとぉ、あずさ、それは違うんじゃない?」

 さつきが苦笑しながら呆れたように言い、亮太の方を振り返る。。それは亮太に言え、と暗に言っているのだ。

「だ、だってぇ〜」

 あずさが頬をぷくっと膨らませ、上目遣いでさつきを見つめた。

「だってじゃないでしょ。そういう事は亮太君に聞きなよ」

「い、イヤ、俺は別に…」

 亮太としては次に何に乗るかというより、少し休みたかった。ジェットコースターなんて何年も乗っていなかったからかもしれないが、あんなにめまぐるしいものだとは思っていなかったのだ。

「大丈夫? 亮太君?」

 そんな亮太に気付いたのか、さつきが慌てて声を掛けてくる。

「あ、いや、はは…」

 力無く笑う亮太。亮太自身としては『大丈夫です』ぐらい言いたかったのだが、情けない事にそこまで言えるだけの気力がなかったのだ。

「大変、少し休みましょう」

 さつきが慌てて亮太の手を取って近くのベンチに連れていく。

 結局、三人はそこで一端休む事にした。


 亮太をベンチで休ませ、あずさとさつきの二人は近くの売店で冷たいジュースを買っていた。

「あずさ、これは減点ものよ〜」

 戻る途中、紙コップのジュースを両手に持ったさつきが言う。

「だってぇ〜」

 自分の分のジュースを持ったあずさが俯いて甘えた声を出す。まさか亮太がジェットコースターが苦手だとは思っていなかったのだ。それに、さつきがいるのだからフォローは万全だとも思っていた。あずさにとっては、さつきがそんなミスをするなんて少し意外ですらあった。

「ちょっとこれ持ってて」

 さつきはそう言って紙コップを一つあずさに渡す。そして、あずさが受け取ったのを確認すると悪戯っぽく微笑んで言った。

「そんなわけで、汚名返上のつもりで亮太君には自分で渡しなさい」

「えーっ!!」

 図られた事を知ったあずさがどうにか紙コップを渡そうとするが、さつきは受け取らない。

「そんなコトしてるとこぼしちゃうわよ?」

 さつきは紙コップを一つしか持っていないという身軽さを生かし、小走りでどんどん先に行ってしまう。

「ま、待ってよ、お姉ちゃん! そんな事出来ないよ!!」

 あずさも必死に追いつこうとするが、両手に持った紙コップの中身がこぼれないようにするとゆっくり歩く以上の速さはムリだ。

「もぅ、お姉ちゃんのイジワルっ!!」

 怒って顔を真っ赤にしながらあずさが歩いていくと、不意に何かにぶつかった。

「きゃっ!?」

 手元の紙コップにばかり気を取られていて前をほとんど見ていなかったのだ。ゆっくり歩いていたおかげで被害は最小限に食い止められていたが、それでも少しこぼれてしまっていた。

「お姉ちゃん!? 急に止まらないでよね!!」

 顔を上げると、さつきの背中があった。あずさはムッとして頬を膨らませ、きつい口調で言う。

「あ、ご、ゴメンゴメン。ちょっと気になる事があったから…」

 さつきは近くのメリーゴーランドの辺りを見つめたまま、そう答える。

「何? どうかしたの?」

 そのさつきの様子にあずさも怒りを忘れてさつきが見ている方を見つめる。だが、そこには普通のメリーゴーランドがあるだけで特に変わった所は見あたらなかった。

「お姉ちゃん? …何も見えないけど…」

 あずさが怪訝な顔で言うと、さつきは

「ううん、何でも。気のせいだと思う」

 と、頭を振りながら答える。それから、

「ゴメンねあずさ、早く行かないとぬるくなっちゃうね」

 と言って歩き出した。

(…?)

 何を見ていたのか聞いてみたいところではあったが、両手に紙コップを持っているあずさには歩き出すとそんな余裕はなくなってしまっていた。

「っていうか、お姉ちゃん、一つ持ってよ!!」

 あずさは、遠ざかるさつきの背中に向かって、悲鳴を上げていた。


 亮太の待っているベンチに辿り着いたあずさは、てっきりさつきがそこで待っているものと思っていたのだが、それは違っていた。あずさとしてはギリギリこの場所でさつきに手渡して…と考えていただけにこれは痛い誤算だった。多分、さつきはそれを考えた上でどこかで時間を潰しているのだろう。それなら、さっさと先に行ってしまった事にも説明が付く。

(う〜イジワルイジワルイジワルっ!!)

 あずさは心の中でさつきに向かって悪態をつくが、そうしてばかりもいられない。

 夏の暑い盛りだ。渡さなければジュースはどんどんぬるくなってしまうし、両手に紙コップを持ったまま、さつきが帰ってくるまでぼんやりと立っているのもバカみたいだ。

「…」

 あずさは意を決して口を開いた。心臓がドキドキいっている。始めの何回かは言葉にならずにぱくぱくと口を開いただけだったが、何度目かでようやく声が出た。

「…あ、あの…り、亮太さん…」

 消え入りそうなかすれた声だったが、それでも亮太には届いたようだ。亮太は顔を上げあずさが差し出した紙コップを受け取った。

「ありがとう」

「…」

 あずさは顔を真っ赤にして俯いたきり、何も答えられない。

 そのまま沈黙が続いた。

『…そのままでいれば、いいと思うよ』

(…ダメだよ、出来ないよ…)

 さすがに、さつきはどこかに行ってしまっていて全くアテにならないので何とか話題を見つけて話そうとするのだが、頭の中が真っ白になってしまっていて何も浮かんでこないのだ。おまけに心臓はさっきからずっとドキドキ鳴りっぱなしで、あずさにはどうすればいいのか全く分からなかった。

(…どうしよう…亮太さん、ずっと黙ったままだ…)

 そう思うと余計に焦り、その焦りが力みを生んで余計に空回りしていた。

(…どうしよう…)

(…どうすればいいんだろ…)

(…何か言わなきゃ…)

(…何か…)

「どうしたの? あずさちゃん? 何だか怖い顔してるけど」

 と、不意に亮太が声を掛けてくる。

「え!? あ、い、いえ、何でも…」

 顔を真っ赤にしたあずさはしどろもどろになりながらもそう答え、俯く。

「ごめんね、へばっちゃって」

「そ、そんなこと…」

 すまなそうに言う亮太に、あずさは慌てて顔を上げて否定する。だが、その先何かを言うのが、難しかった。

 しかし、このままそうしていても亮太は自分のせいであずさが不機嫌になったと勘違いしてしまいそうだ。実際は、そうではないのに。むしろあずさの方が謝りたいくらいだったのに。

(…言わなきゃ…)

 沈んだ亮太の横顔をちらりと見たあずさは、深呼吸と共に意を決して顔を上げ、口を開く。

「…あ、あの…」

 その時だった。

「お待たせー」

 明るい声が響き、あずさは思わずコケそうになる。さつきが帰ってきたのだ。普段なら待ち遠しいはずだったのだが、今回ばかりはちょっと恨めしかった。

 ただ、同時にホッとしてもいたのだが。

(…惜しかったのかな…)

 あずさは、自分であれだけの決意が出来た事が少なからず意外だった。

 もし、後もう少し、さつきが来るのが遅かったらどうなっていたのだろう。ちゃんと、何か話せていたのだろうか?

 あずさは自問する。

 そうかも知れない。

 普段だったら、そんなにハッキリとは思えなかっただろう。だが、今は少し違っていた。何というか、自分の中で確信があったのだ。そして、そんな風に思える自分が、少し意外だった。


 それから暫くして、休憩を終えた三人は今度は別のジェットコースターに乗るべく移動中だった。ハイランド・パークはさすがにジェットコースターが目玉の一つだけあって、いくつもジェットコースターがあるのだ。

「ねーあずさ、まだ怒ってるの? 謝ったじゃない。それに、あれはあずさのことを思って…」

「別に怒ってなんかないもん」

 そう言いつつも、あずさはちょっとむくれていた。多分、あずさに亮太の分のジュースも持たせて先に行ってしまった事と、あずさが意を決して亮太に声を掛けようとしたちょうどその時に、戻ってきた事の両方に。

「だったらその頬は何なのよ〜。怒ってるじゃない」

「ふーんだ。別に怒ってなんかないよーだ」

 あずさはそう答えてそっぽを向く。

「ほら怒って…」

 不意に、苦笑いしていたさつきが真顔に戻った。心なしか緊張している様子だ。

「…どうしたの? お姉ちゃん?」

 そのただならぬ気配に、あずさが尋ねた。

「うん、間違いない。やっぱり…」

 さつきはそう呟くと、歩きながら二人に言う。

「ね、聞いて。顔を向けないで視線だけで、左斜め前、向こうの売店の辺りを見て」

 あずさと亮太は言われた方へ視線を向ける。

「近くに変な緑色の派手なシャツの怪しい男がいるでしょ?」

「…確かにいますね。マスクに、サングラスのヤツですよね?」

 亮太が答えると、さつきが小さく頷いた。

「あの人、さっきも見かけたのよね。それに、あたし達が電車に乗った駅にもいたの。あんな格好する人そういないから気のせいって事はないと思うし。…変だと思わない?」

 さつきが前を向いたまま言う。

「ス、ストーカー…?」

 ちょっと怯えたような表情で、あずさが呟いた。

 さつきと亮太はそれには答えなかったが、頭の中にはある人物の事が浮かんでいた。

 その人物とは、短く刈り上げた髪とゲジ眉、それに黒縁眼鏡。さらにばかでかい声がトレードマークという例の彼、新庄康太郎の事だ。

(…まさか…いくら何でもそれはない…といいんだけど…あいつ(彼)ならやりかねないかも…)

 全く同じ事を、亮太とさつきは思っていた。そして、二人で顔を見合わせる。

 その間も三人は時折彼の方を注意していたのだが、彼はゴミ箱の影や、街灯の影などに身を隠しつつ(少なくとも本人はそのつもりらしい)、三人の方を窺っていた。

 ここまで来ればもう間違いないだろう。

「…あずさ、合図したら走るわよ」

 ややあって、さつきが意を決した様に言った。亮太もさつきの方を見て頷く。

「三…二…一…それ!!」

 さつきの合図で三人は一斉に走り出し、建物の影に入る。と、それを見ていた彼もまた走り出す。

 そして、建物の角を曲がった所でピタリと立ち止まった。

 気が付くと、三人に囲まれていたのだ。

「ちょっとどう言うつもり…あら?」

 すごんで見せたさつきが途中で素っ頓狂な声を出す。その理由は亮太にもすぐに分かった。

 彼は小さすぎるのだ。新庄にしては。確か、新庄の身長は亮太とほとんど変わらないはずだった。だが、目の前にいる怪しい男はどう見ても亮太の顎ぐらいまでの背丈しかない。

「亮太君、逃がさないで」

 さつきに言われて、亮太はじりじりと後退していた彼の退路をふさぐような形で立ちはだかる。

「クソッ!!」

「亮太君っ!!」

 さつきに言われるまでもなく、亮太は反射的に動き、逃げようとした彼の身体を羽交い締めにしていた。

「放せっ!! 俺が何したってんだ!!」

「東君っ!?」

 彼の声を聞いて素っ頓狂な声を上げたのは、あずさだった。

「どうやら、そういう事みたいね」

 さつきがそう言いながら素早い動作で彼のサングラスを取る。その下から現れたのは、東のくりくりと良く動くリスのような目だった。

「クソッ!!」

 もうここまでバレてはしょうがないと思ったのか、東は忌々しそうにマスクを外すと、地面に叩き付ける。

「な、何してるのよこんな所で!?」

 あまりの事にあずさの声はうわずっていた。

「何だっていいだろ! 俺がどこで何をしようと俺の勝手だろうが!!」

 半ばふてくされた様子で東は言い放つ。

「だ、だって…」

「だってもヘチマもあるもんか。俺がハイランド・パークにいちゃいけないってのか? 俺が行こうと思ってたのをあずさがマネしたんだろ。マネっこあずさ!」

「違うもん!! マネなんかしてないよ!! マネしたのは東君じゃない!!」

「そんな証拠がどこにあるってんだよ、マネっこあずさ、マネっこあずさ…」

 東はからかうように唄のような調子を付けて言い続ける。

「ち、違うもん!!」

 あずさは肩を怒らせて真っ赤になって反論した。

 さつきと亮太は、両者のやりとりをただ呆れて見ているだけだった。


 結局、東は亮太達と行動する事になった。ほとんどお金の残っていない状態だった東を放ってはおけない、と言うのも理由の一つではあったが、その他に監視していないと何をしでかすか分からない、という懸念があったからだった。皮肉にも亮太達が見つけてしまった以上、コソコソと隠れていなくても良くなってしまったのだ。突き放して周りをうろうろされたりするよりは、自分の監視下に置いてコントロールした方が良いだろう、というのがさつきの考えだった。

 だが、このさつきの試みも上手くいっているとは言い難かった。

「あずさの隣は亮太君ね」

「え? は、はい…」

 さつきはそう言って亮太を誘導し、四人掛けのジェットコースターに乗り込んだあずさの隣に座らせようとする。だが亮太があずさの隣の席に座ろうと移動をしているうちに、

「どっこいしょっと!」

 その席に東がどっかりと割り込む。

「ち、ちょっとぉ、東君、そこは…」

「うるせえな、俺がどこに座ろうと俺の勝手だろ」

 頬をぷくっと膨らませ抗議するあずさに向かってそう言うと、後は腕組みをして『聞く耳持たん!』とでも言うように正面をぐっとにらみ据え、黙っている東。これにはあずさも何も言えずに拗ねたような顔をしてさつきの方を見るばかり。さつきもさすがにどうにも出来ず、肩をすくめる。

 大体がこんな調子なのだ。これではさつきの立てていた計画も水の泡だ。

(…何とかしないとなぁ…)

 さつきは内心溜め息をつく。だが、さつきの悩みの種はそれだけではなかった。

「ね、お姉ちゃん、次はあれ乗ろうよ」

 ジェットコースターを降りた後、また別のジェットコースターを指差し、あずさがさつきのキャミソールを引っ張る。

「あ・の・ね、そういう事はあたしじゃなくて、まず亮太君に言いなさいよ」

 呆れた様子でさつきが答えると、あずさはすぐに拗ねたような顔になる。

「だってぇ〜」

「だってじゃないでしょ」

 さらにそんな事を言い合っていると横からチャチャを入れてくる者がいるのだ。

「ケッ甘えんぼあずさ〜」

「甘えんぼじゃないもん!!」

 あずさがこれまた迅速に反応する。亮太を相手にしている時とはかなり様子が違っていた。

「や〜いや〜い甘えんぼ〜」

「甘えんぼじゃないってば!!」

 はやし立てながら逃げる東を、頬を膨らませたあずさが追いかけていく。延々こんな様子が繰り返されるので、さつきと亮太は思わず顔を見合わせた。どちらも、何とも言えない顔をしていて、少々疲労がにじみ出ていた。

「…参っちゃうわね」

 ややあって、そう言ってさつきは肩をすくめた。

「ま、いいんじゃないですか? 仲良き事は…とか何とか言いますし」

 走り回っている二人をまぶしそうに眺めつつ、亮太はそう答える。

「やだ、何年寄り臭い事言ってるの?」

 さつきはそう言ってクスリと笑った。

「そ、そうですか?」

 きまり悪そうに頭をかきながら亮太が答えた、その時だった。

 グ、グゥ〜

 と、不意に亮太のお腹が盛大に鳴る。二人とも一瞬あっけにとられたが、すぐにさつきはクスクス笑い出し、亮太は顔を赤くしてきまり悪そうに頭をかく。

「ま、それだけ食欲があるなら大丈夫ね。お昼にしましょうか」

 さつきが笑いながら言う。

 亮太としては、その提案に異存はなかった。


 その後、未だにあちこちを走り回っている二人を呼び寄せ、四人はお昼ご飯を食べる事にした。

「何食べます?」

 辺りの売店を見回しながら亮太が言うと、さつきが悪戯っぽく微笑んで鞄からバスケットを取り出す。

「あら、その辺はご心配なく。ちゃーんと、用意してきたから。愛情たっぷりよ、ね? あずさ?」

 あずさは恥ずかしそうに俯いて答えない。

「何赤くなってんだよ、どーせさつきさんが作ったんだろ。お前に料理なんて作れるわけ無いもんな」

「ち、違うもん!! あずさだって…ちゃんと…作ったよ…」

 早速からかうように言う東に、あずさは始め勢いよく反論するのだが、だんだん調子が落ちていき最後には尻すぼみになっていく。

「?」

 そんなあずさを、亮太は怪訝な表情で見つめる。するとあずさはますます赤くなって俯いた。

「けっ」

 小声でそう呟くと、東はふてくされたような表情で顔を赤くしているあずさを見つめていた。


 大きな広葉樹の木陰にビニールシートを敷いて車座に座った四人は、さつき達の持ってきていたサンドイッチを食べていた。

(やっぱりいい気晴らしになったな…)

 綺麗に長方形に切りそろえられたサンドイッチをパクつく亮太の側を、心地よい冷たさを保った風が通り抜けていく。気温も高原のためか都会ほど暑くはなく、毎日殺人的な暑さの都会とはまさに別世界だった。それに、よどんだ空気のエアコンの効いた薄暗い部屋にいるとどうしても気分が滅入ってしまう。亮太は久しぶりに生き返ったような気分になって、大きく深呼吸をした。何だか身体中から余分な力が抜けて、リラックス出来そうだ。

 ただ、欲を言えば多少サンドイッチの味付けが物足りなくはあったのだが。

(…なんかこう…あと一味欠けているというか…)

 それが何であるか具体的には分からないのだが、どことなく違和感を感じていた。

(…典子がいつも作っているのはもう少しこう、塩味が…)

 決してこのサンドイッチがまずいというわけではない。ただ、亮太の好みよりは少し薄味だ、と言うだけの話だ。それだけなのだが…。

「どうしたの? 亮太君。何か味がおかしい?」

 サンドイッチを手にしたまま、亮太がぼんやりと考え込んでいるのでさつきが尋ねてくる。

「い、いや、そんな事ないです。おいしいですよ」

 亮太は慌ててそう答えてサンドイッチをぱくついていく。

「美味いっス」

 その隣では東ががつがつと犬のような勢いでサンドイッチを平らげていた。

(…コイツは遠慮というものを知らんのか…)

 亮太は呆れながらその様子を眺める。見ると、サンドイッチはもういくらも残っていなかった。元々東は数には入っていなかったので当然だろう。おまけに、東は亮太の倍ぐらいは食べそうだ。亮太自身もまだ腹八分目といった所で、このままでは物足りないというのに。

 そうこうしている間にも東は次々とサンドイッチを平らげていく。

「あ…」

 残り三つになって、東はようやく自分ばかりが食べていた事に気が付いたようだった。そして、すまなそうにさつきの方をそっと見る。だが、さつきは悪戯っぽく微笑んで

「平気よ。まだとっておきのがあるから。ね? あずさ」

 と言うと、あずさの方を見る。あずさは自分のリュックを抱えて恥ずかしそうに俯く。

「う、うん…」

「何恥ずかしがってるのよ、早く出しなさいって。亮太君もまだ足りないでしょ?」

「え? あ、はぁ、まぁ…」

 何となく東と一緒にされているのがひっかかって、亮太は歯切れが悪かった。

「ほら、あずさってば。みんな待ってるじゃない」

「う、うん…」

 さつきに促され、あずさは抱えていたリュックからバスケットをおずおずと取り出す。そして、あまり気乗りしなさそうな様子でゆっくりと蓋を開けた。

「…」

 瞬間、亮太は言葉に詰まってしまった。いや、亮太だけではない。東も言葉に詰まったようだ。

 バスケットの中身は確かにサンドイッチだったが、切り口がぐちゃぐちゃで、潰れたトマトがはみ出していたり、パンの部分がぺったんこになっていたりしたのだ。今までのそこらで売っていそうな小綺麗な出来のサンドイッチとは雲泥の差だ。

「…こ、これ、あずさちゃんが作ったの?」

 ややあって、亮太がかすれた声で尋ねる。

「うー…や、やっぱり…」

 二人の呆気にとられた様子を見て、あずさが傷ついた様子で呟く。そして、バスケットを引っ込めようとしたまさにその時。

 横から東の手が猿のような素早さでさっと伸びたかと思うと、あずさの手からバスケットをさらった。

「あ、東君!?」

 そして、呆気にとられているあずさを尻目に、両手にサンドイッチを掴むとガツガツと今まで以上に勢いよくサンドイッチを食べ始める。

 しかも、

「マズイ! こんなマズいもん食えっかよ、下手くそあずさ!」

 と言いながら。

「な、何よ、そんなに『マズイマズイ』言うなら食べなきゃいいでしょ!? 誰も東君に食べてなんて言ってないじゃない!!」

 あずさが頬をぶくっと膨らませて東からバスケットを取り返そうとするが、東はそれを自分の身体で防ぎ、次々にサンドイッチを飲み込んでいく。

「東君ってば!!」

「へへーんだ。もう食べちゃったもんねーだ。しかしあずさ、お前ほんっと料理下手だな。これじゃ誰も食べねえって」

 そう言いながら東は空になったバスケットをあずさに投げてよこした。

「な、何よ、東君なんか大っっキライ!!」

 あずさはそう言ってあかんべーをする。

「お前なんかこっちから願い下げだね、泣き虫あずさ〜」

「何よ〜」

 そうして、二人はまた負いかけっこを始める。それを見て、さつきと亮太は二人で顔を見合わせる。

「…元気というか、何というか…」

「そうねぇ…」

 亮太の呟きに答えつつ、さつきは内心溜め息をついていた。

 そして、亮太はと言えば、味付けと、量の両方で何だか物足りない気分を抱えていた。


 食事の後暫く休むと、四人は再び行動を開始した。

 今度は絶叫マシン系から離れて、アトラクション系のライドに乗る事にし、さらにさつきは何とか東に割り込ませないようにしたのだが、これもなかなか上手くはいかず、またどうにか亮太とあずさの二人を並べて座らせる事に成功しても、その後ろや横に座っている東が必ずあずさにちょっかいを出してきて、あずさがそれに反応して…という繰り返しで、結局は何の意味もなさなかった。

(…これはもう最後の手段に出るしかないわね…)

 夕闇が迫る中、さつきはとうとう覚悟を決めた。辺りは藍色の中に沈みつつあり、各アトラクションは次々にイルミネーションを点灯させている。藍色の中で色とりどりに光るイルミネーションは幻想的で、あずさ達がもっと大人ならこれからいよいよ恋人達の時間、という雰囲気になりつつあったのだが、残念ながらまだ中学生のあずさや東、高校生のさつき達にとってはもうそろそろ帰らなくてはならない時間という事を示しているだけだった。

「あずさ、次はあれ乗ろっか」

 初めてさつきから切り出した乗り物は、遊園地デートでは定番(?)の大観覧車だった。

「いいけど…」

 今までさつきから切り出した事はなかったので、あずさは少々困惑気味だ。さつきの意図を図りかねてか、キョトンとした顔でさつきを見つめている。

「亮太君達も良いわよね?」

 さつきはそう言って亮太達にも確認を取ると、おもむろに東の手を取り、乗り場へと向かう。

「え? お、おい何するんだよ!?」

 さすがの東もこれには面食らったようだ。だがさつきは構わずに半ば東を引きずるようにして乗り場へ行き、パスポートを見せる。そして、唖然としてその様子を見つめている亮太とあずさの方を振り返って言った。

「何してるの? 乗るんでしょ?」

 その声ではじかれたように亮太とあずさの二人も乗り場へと行く。その頃には、東を連れたさつきは既にゴンドラに乗り込む所だった。

「行っちゃった…」

 ゴンドラに乗り込み、上へと上がっていく二人を見つめ、あずさが呟く。さすがにあずさにはどうしてさつきがこのような行動をとったのかが理解出来ていた。

 つまり、『これが最後の勝負だからバッチリ決めろ』と言う事だ。

(…いきなりそんなの出来ないよ…)

 泣きそうな気分でそう思うあずさだったが、そんなあずさの気持ちとは関係なくゴンドラに乗り込む順番が来てしまい、亮太と二人、三メートル四方程度の小さなゴンドラに乗り込む事になってしまった。


 一方その頃、さつき達は…。

「ち、畜生、放せよ!!」

 腕をさつきに掴まれたまま、狭いゴンドラの中で暴れようとする東に、さつきはにっこりと微笑んで手を放す。東が腕に力を込めていた所でさつきがパッと放したので、東は勢い余ってつんのめってしまった。

「ゴメンね、乱暴なコトしちゃって。でも、ま、ちょっとくらい許してよ。このまま帰ったら、来た意味なくなっちゃうし。君の気持ちも分かるけど、さ」

「き、気持ちって何だよ。俺は別に今日たまたま来たくて来たわけで、そっちが勝手に変な風に解釈しただけだろ」

 東はゴンドラの作りつけの座席にどっかりと座り込むと、向かい側のさつきを睨み付ける。だが、時折視線がちらっちらっと下の方―つまり、亮太達の乗っているゴンドラの方へ向けられていた。その様子に、さつきは思わず吹き出してしまう。

「何だよ、何がおかしいんだよ」

「別に〜」

 ふてくされた、しかしきまり悪そうな表情で腕組みして精一杯虚勢を張る東に、さつきはそう答えて悪戯っぽく微笑む。

「…ケッ」

 暫くさつきを睨み付けていた東だったが、プイと視線を逸らすと外を見つめた。さつきも何とはなしに外に視線を向けると、ゴンドラの外には藍色から黒に変わりつつある世界が広がっていた。すぐ真下の辺りはまるで天の川のように光が散らばり、そして遙か遠くの山裾の辺りを茜色に染めて小さな太陽が沈もうとしている。

(…後は自分次第だからね、あずさ)

 さつきは眼下の闇にとけ込んでいるはずのあずさ達の乗ったゴンドラを目で探しつつ、心の中でそう呟いていた。


 心臓がドキドキいっている。

 頭の中が真っ白になってパニックになりそうだ。

 狭いゴンドラの中、亮太と向かい合わせに座ったあずさは、俯いて時折ちらちらと亮太の方へ視線を向けるだけで精一杯だった。亮太も黙ったままなので沈黙が続く。あずさは何とかこの沈黙を打破しようと思うのだが、

(…どうしたらいいんだろ…)

(…何か言わなきゃ…)

 という思いばかりが先行して空回りしてしまう。そして、それによってさらに沈黙が続き、それがプレッシャーとなってあずさの焦りを誘う。

(…やっぱり、出来ないよ…)

 泣きたい気分で心の中でそう呟くあずさ。と、そこで不意に沈黙が破られた。

「あずさちゃん? 外見ないの? 綺麗だよ」

 亮太の声にあずさが顔を上げると、亮太と視線が合った。亮太は

「ホラ」

 と言って外を向いて指差す。亮太の指差す先には、藍色をバックに光の渦が広がっていた。

「綺麗…」

 あずさは窓に顔をくっつけるようにして眼下に広がるそれを見つめる。

「星空みたい…」

 去年の夏に行ったキャンプで見た星空を思い出し、あずさは呟く。

「うん。でもほら、下だけじゃなくて向こうの山の方も見てご覧よ」

 あずさの後ろから亮太が指差す先に目をやると、オレンジ色から藍色ヘグラデーションを描く空をバックに、遠くの山の稜線がシルエットとなって浮かび上がっている。そしてそのシルエットはなだらかな曲線を描きつつどこまでも続いているのだ。

「地平線だね…初めて見た…」

「俺もだけどね」

 あずさの後ろから亮太の声がする。あずさは、今の状態ならそれほど緊張していない自分に気付いた。

(これなら…)

 ごくりと唾を飲み込むあずさ。そして、あずさは何かを喋ろうと、口を開く。

 だが―。

 言葉が出てこない!

 何を話して良いのか分からないのだ。頭の中が真っ白で、どんな話題を話せばいいのかきっかけすら掴めなかった。

(…どうしよう…)

 金魚のように口をぱくぱくさせるあずさ。だが、焦れば焦るほど心臓の鼓動が早まり、何も言えなくなっていく。

(どうしよう―)

「ね、あずさちゃん、ダンジョンバスターってどこまで行った?」

 その時、不意に亮太が声をかけてきた。

「だ、ダンジョンバスター、ですか?」

 突然の問いかけに、あずさはびっくりして振り返る。

「え、ええと、一応一周目はクリアして今はレアアイテム集めに…」

 一瞬声がうわずってしまったあずさだったが、話題がゲームの事だったのですぐに落ち着きを取り戻す事が出来た。ダンジョンバスターとは最近発売されたRPGで、ちょっとした話題作だった。

「え、もうクリアしてるんだ。あれってさぁ、英雄王シリーズの武器の中で唯一『英雄王の兜』が見つからなくって…」

「あ、それは五階にいるトロールを倒した後…」

 話題が自分の得意分野だったのと、自分の知っている事を亮太が知らなかったのとでちょっと得意になったあずさの口はなめらかに動いていた。そしてその事に自分で気付き、自分自身でも少なからず驚いていた。

(…そっか…自分の得意なことなら、あずさでもこんなに話せるんだ…)

 もしかしたらこれが、亮太の言いたかったことなのかも知れない。

 ふと、あずさはそう思う。

 飾らない、そのままの自分。それに必要なのは、そのままに自分になろうとすることではなく、ただ、いつもの自分を素直にさらけ出せる勇気。それだけなのかも知れない。

「ふーん。さすがだね。俺も結構やりこんでいたつもりだったけど、まだまだ敵わないや」

 さらに、亮太は苦笑して続ける。

「それにしてもあずさちゃん、受験生がそんなにゲームやってていいの?」

「う、そ、それは…」

 あずさは一瞬言葉に詰まり、顔を赤くして俯く。そんなあずさを見て、亮太は微笑んだ。

「その様子だと、さつきさんにも言われてるね? お互い、口やかましいのがいると肩身が狭いよね…」

 そう言った亮太の口調が途中から少し寂しそうなものに聞こえ、あずさは怪訝な顔をして亮太を見上げる。

「ん? どうかした?」

 あずさの視線に気付き、亮太が尋ねてくる。

「い、いえ、何でも」

 俯き、顔が赤くなった事を悟られないよう、再び窓の外に目をやる。観覧車はゆっくりと、頂上へと上りつめようとしており、遊園地の明かりが遙か下の方に小さく見えていた。先程までオレンジ色だった地平線間際の空も、今は紫色へ、そして藍色へと急速に変わりつつあった。

「でも、ホッとした」

 再び、亮太が口を開く。

「何がです?」

 あずさも振り返って尋ねる。

「あずさちゃん、やっとまともに口をきいてくれたよね。さっきさっさとへばっちゃったから…ゴメンね」

 亮太は、そう言ってにっこりと微笑んだ。それを見て、あずさの鼓動のペースがまた一段速くなる。

「そ、そんな事…ないです」

 そう呟きながらあずさは頬を赤くして再び外を見つめた。亮太の顔を見ていると緊張して何も言えなくなってしまうためだ。

 それから、あずさはゆっくりと深呼吸をする。そして…。

「あ、あの、亮太さん…」

「どうしたの?」

 あずさが途中まで言いかけて止めたのでキョトンとした顔で亮太が聞き返す。

「い、いえ、あの…」

 顔を真っ赤にしたあずさは、ゴニョゴニョと呟いて俯く。

「大丈夫だよ。ハッキリ言ってごらん?」

 そう言って、亮太はあずさの肩に優しく手を置いた。それが、きっかけとなってあずさの心を押し出した。

「あ、あのっ!! 亮太さん、…す、好き…」

『好きです』と言おうとして、どうしてもそこまで言えなかった。

「何? どうしたの?」

 突然のあずさの勢いにやや気圧されて亮太が聞き返す。

「…な人といるとどうして緊張して何も言えなくなっちゃうのかな…なんて…」

(バカバカ、あずさのバカ…何言ってるのよ! ちゃんと言わなきゃダメじゃない)

心の中で自分を叱りつつ、あずさはひきつった笑いを浮かべてごまかす。この突飛な質問に、一瞬驚いたような表情をした亮太だったが、すぐに真面目な顔に戻ってどこか遠くを見つめる。それは、この世界ではないどこか記憶の彼方を見ているような目だった。

「…そうだね…やっぱり、自分以上の自分を見せようとしちゃうからじゃないかな」

 暫く後、亮太は(あずさにとっては)とんちんかんな答えを答える。あずさはがっくりと力が抜ける気がした。

(…やっぱり…ちゃんと言わなきゃダメじゃない)

 自分にそう言い聞かせ、今度こそちゃんと告げようと口を開きかけた時。

「ま、俺も他人の事言えないんだけどね。俺も、好きな人と向かい合うとパニックになっちゃって冷静でいられなくなるんだ…」

 何気ない調子で亮太がそう言い、あずさは口を開きかけたまま凍り付く。

 ボーン

 ボーン、ボボーン

 夜空に花火があがり、二人のシルエットが明滅する明かりの中に浮かぶ。ハイランドパークでは夏の間は毎日花火をあげているのだ。

(…好きな人、か…)

 亮太は、夜空に開いては散る光の華をぼんやりと見つめながら思う。その脳裏には、亮太の住んでいるマンションから去っていく浴衣姿の典子の後ろ姿と、同じく浴衣姿の美雪の姿が交互に浮かんでいた。

 胸が、ちくりと痛む。

(俺は…)

 あの時、何が言いたかったのだろうか…。そして、どうすれば良かったのだろうか。どうすれば、典子を傷つけないですんだのだろうか…。

 今まで忘れていた疑問が、再び亮太の頭をよぎる。

 そしてまた、どうして二人は自分たちの事を秘密にしていたのか、もし二人が亮太に打ち明けていてくれたら自分はどうしていただろうか、という所に辿り着くのだ。

 確かに、典子と真吾が付き合おうが、いちいち亮太に言うような事ではない。だが、仲間外れにされたような気がしてしまい、何となく納得がいかなかった。そしてまた、そういう感情を抱く自分自身に自己嫌悪を感じていた。

(心が醜いよな…)

 それに、せっかく二人がお膳立てしてくれたというのにそれを全く生かす事が出来なかったばかりか、二人の抱き合っている所を盗み見てしまうなんて…。亮太は再び強い自己嫌悪を感じた。

(いけね、あずさちゃんと何か話さなきゃ…)

 物思いから覚めた亮太が慌てて辺りを見回すと、すでにゴンドラは地上に降りようとしている。一体、どのくらい物思いに耽ってしまったのだろうか。あずさを怒らせてしまったのではないかと不安になり、亮太はあずさの方を見る。

 あずさは、外を見たまま俯いていた。

「あずさちゃん?」

 亮太は恐る恐る声を掛ける。だが、あずさからの返事はなかった。

(…なんか怒らせちゃった…?)

 マズイ、と思っているうちにも、亮太達の乗ったゴンドラは地上に着いていた。観覧車はゆっくりとではあるが動き続けているので、係員がドアを開けたらすぐに降りなければならない。こんな所でへそを曲げられても…と思いつつ、亮太は再び声を掛ける。

「あの、あずさちゃん、着いたよ」

 と言ってあずさの肩に手を掛けると、あずさはその手を振り払うようにしてゴンドラの外に飛び出していた。

「あずさちゃん!?」

 驚く亮太の手には、なま暖かい感触が残っている。何だろうと見てみると、手に水滴が着いていた。

(…涙…?)

「あの、すいませんが降りてもらえません?」

 ゴンドラの中で呆然としている亮太に、係員が声をかけてくる。その声に押し出されるようにして慌てて降りた亮太をさつきが待っていた。

「さつきさん…俺…」

 事情が飲み込めない亮太は呆然と、涙で濡れた自分の手と、さつきの顔を交互に見比べる。

「何かした…わけないよね。どうしたの?」

「それが…俺にもよく分かんないんですが…」

 亮太はあずさと話した内容や、自分が少し考え事をしてしまった事などを(もちろん、何を考えていたのかについては言わなかったが)さつきに話した。話を聞き終わったさつきは、

「…そう…」

 と言ったきり、沈んだ顔で黙り込んでしまう。

「あ、あの、俺、謝ってきます」

 そう言って駆け出そうとした亮太の腕を掴んで、さつきが止めた。

「…いいのよ、平気。あの子は東くんが追っかけていったから」

「で、でも…」

「大丈夫だってば、ね」

 さつきはそう言って亮太の肩をぽんと叩く。

「はぁ…」

 事情が飲み込めない亮太は間の抜けた様子で頷くと、ただあずさが走っていった方をぼんやりと見つめるだけだった。


「きゃっ!」

 その頃、ほとんど周りも見ずにただ闇雲に走っていたあずさは、何かにつまずいて転びそうになる。だが、すんでの所で誰かがあずさの手をつかんで止めた。

「何やってんたよ! 危ないだろ!」

 聞き慣れた声が聞こえる。

 東だ。

「東君!? 放っといてよ!!」

 あずさは泣き顔を見られないように顔を逸らし、東の手を振り払おうとする。だが、東はそれを許さなかった。

「放っとけるかよ! どうしたんだよ、あずさ!? あいつに何かされたのかよ!!」

「放っといてってばっ!! そんなの、東君には関係ないじゃない!!」

「それは俺が決めるっつってんだろ! 大体、お前にはそんな顔似合わないんだよっ!!」

「何よ!! 東君なんか大っっキライ!!」

 そう叫んで東の胸を両手の拳でポカポカ叩くあずさの両目から、涙がぽろぽろとこぼれていく。そして、東を叩くあずさの手が次第に弱まり、やがてあずさは東の胸にもたれるようにして泣き始めた。

「うっ…うっ…」

 東はそんなあずさを抱きしめようとしたのか、手を出しかけて躊躇う。そのまましばらくそうして手を宙に浮かべていたが、やがてくしゃくしゃと乱暴にあずさの髪をかき回す。

「あーっクソッ!! 泣くなよ! お前が泣いてると調子狂っちゃうだろ!!」

「そんなの…東君には…関係ないじゃない…」

 そう言いながら顔を上げたあずさは、東の顔を見てギョッとして言葉を飲み込む。

 東が自分も泣きそうな顔をして、あずさを見つめていたのだ。

「関係あるかないかは俺が決めるって、何度言ったら分かるんだよ!!」

 あずさと目が合うと、東はすぐにぷいっと目を逸らす。それから、

「いつまで泣いてんだよ、泣き虫あずさ」

 そっぽを向いたままそう言うと、あずさを軽く突き飛ばす。

「やーい、やーい、泣き虫あずさー」

 そう言いながら東は立ち尽くすあずさの周りをあかんべをしながら飛び跳ねる。

「な、何よ! 東君のバカッ!! だいッッキライ!!」

 顔を真っ赤にしたあずさがその東を追いかけていく。

 もう、あずさは泣いてはいなかった。

 初めて感じる胸の痛みに、多少、戸惑ってはいたけれど。


 それから一週間ほどした、よく晴れた土曜の午後。美雪は、さつきに呼び出されてさつきの家を訪れていた。

「…っていう訳でね、ま、色々大変だったのよ」

 さつきはそう言って話を締めくくり、手にしていた真っ白いポットからカップにお茶を注ぐ。今日のさつきはクリーム色のパンツスタイルにデニムのシャツというカジュアルなスタイルだ。対して、美雪は白のロング丈の薄水色のワンピース。さらに長い髪を頭の上でお団子状にしており、パッと見どこかのお嬢様風だった。

 辺りにジャスミンの甘い香りがふうわりと広がり、二人を包み込む。さつきの淹れたお茶はジャスミンティーだったのだ。

「そ、それは残念でしたね…」

 他に言葉が見あたらなくて、美雪はそう答える。そしてそのまま、さつきの顔を見ていられなくなって視線を逸らし、膝に置いた手を握りしめた。

「美雪ちゃんがそんなに落ち込まなくても大丈夫よ。ま、こればっかりはしょうがないからね」

 美雪の様子をあずさへの同情ととったのか、さつきがそう言ってフォローする。

「い、いえ…それより先輩、あずさちゃんは、今どうしてるんですか?」

「今日は塾に行ってるわ。でもね、実際、それほど落ち込んではないみたい。特に、塾に行ってるときは、ね」

 さつきはそう言って意味ありげに微笑んだ。

「…?」

 キョトンとした顔で美雪はさつきの悪戯っぽい笑顔を見つめる。だが、さつきはそのまま、ちょっと肩をすくめて見せただけだった。

(…ごめんね、あずさちゃん…)

 美雪は、カップを口に付けながら心の中でそう呟く。そして、あずさが亮太に振られた事を知って残念がるどころかホッとしている自分、そして、亮太の言う『好きな人』が一体誰なのかが気になって仕方のない自分に、自己嫌悪を感じていた。


 一方その頃、あずさの通っている塾では…。

「何よ!! 東くんなんか大っ嫌い!!」

 頬をぷくっと膨らませ、真っ赤な顔であずさは叫ぶ。

「へへーんだ、俺だって嫌いだね、お前みたいな泣き虫なんか」

 東はあかんべーをして、ついでにくるりと回ってあずさにお尻を向けると、ペンペン、と叩いてみせる。

「もーっ! 東君のバカッ!!」

 そうして、いつものように追いかけっこが始まる。

「コラーッ!! 東に栗本、教室内でなぁにをしとるかぁぁっ!!」

 まぶしいくらいに蒼く晴れた空と、真っ白い雲の間に、先生の怒鳴り声が響き渡っていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 亮太の周りの環境設定 [気になる点] 東が年齢にたいして精神が幼すぎる、精神科に通ったほうがいいレベル。東の行動や言動が異常。 女キャラで描写が一番多かったあずさが、基地外とくっつくまで…
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