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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第一章 初めての修復
9/26

組み立てていきましょう

 月日は過ぎて、連休も目前に迫った四月末。

 本紙の折り直しまでを終えた菜月は、ついに再製本の作業へ入ることになった。


「先生、準備完了しました」


 折り目をならすためにプレスを掛けていた本紙を取り出し、菜月が俊彦を呼ぶ。

 そのまましばらく待っていると、俊彦が自分の仕事に区切りをつけ、菜月の作業台までやってきた。


「待たせて済まないな。では、早速始めるとしよう。まずは昨日教えた通り、化粧断(けしょうだ)ちから行っていけ」


 俊彦から指示を受け、菜月がすぐ作業に取り掛かる。

 化粧断ちとは、本紙からはみ出た裏打ち紙を取り除くために行う裁断だ。

 本紙を一枚手に取り、作業台のカッターマットの上に乗せる。続いて裁断用の包丁と定規を手に取り、菜月は本紙を見下ろした。


「ヤバ……。何か、お腹がキリキリする……」


 包丁を手にした瞬間、菜月の中を緊張が駆け抜けた。

 化粧断ちは本紙間際のところを断つため、手元が少しでも狂ったら即大惨事ということもあり得る。

 ここまで来て本紙に傷を付けてしまったら、それこそ目も当てられない。

 そう思うと、包丁を持つ手に汗がにじみ、腕に余計な力が入った。



挿絵(By みてみん)



 大丈夫、落ち着いて。今までだって、ちゃんと修復作業をこなしてこられた。最初に先生から言われたことを思い出すんだ。


 心の中で、自分自身に向かって語り掛ける。


『慎重に行おうという心構えは大事だが、必要以上に気を張ることはない』


 この本の修復を始めた時に、俊彦から言われた言葉だ。

 適度な緊張は集中力を高めるのに役立つが、度を超えれば作業の支障にしかならない。

 気が緩まない程度の緊張と、心を落ち着かせられるくらいのゆとり。このバランスを保つことが、良い仕事をするための必要条件だ。


 菜月が肩越しに後ろへ目を向ければ、俊彦が静かな目で作業を見つめていた。なかなか化粧断ちを始めない菜月へ、何かを声を掛けようという気配はない。


 教えるべきことは、もうすべて教えてある。


 俊彦の泰然とした立ち姿からは、今にもそんな言葉が聞こえてきそうだった。

 それは、師匠からの信頼の証だ。見守ってもらえているということに勇気をもらった菜月は、手のひらの汗を拭き、改めて包丁を握り直した。


 失敗したらどうしようとか、そういう余計なことは、もう考えない。この本に、今の自分が持っている技術をすべて注ぎ込む。


 心を決め、本紙の下辺である地の部分に定規を宛がって、動かないよう固定する。

 紙が動かないことを確認し、菜月は手に持っていた包丁を定規に沿って一閃させた。


 よく使いこまれた道具は、自らが為すべき仕事を覚えている。長年工房で使われ続けてきた包丁は見事に菜月の思い描いた軌道を進み、本紙を傷つけることなく落とすべき裏打ち紙の余白だけを切り分けた。その手応えを忘れない内に、上辺である天と綴じる側の側面である背の余白も順に切り落とす。終わってみれば、綺麗に余白だけを取り除かれた本紙が、作業台の上に残っていた。


 包丁を脇に置き、菜月は肺に詰まっていた空気を一気に吐き出した。まだ一枚目とはいえ、きつい作業を無事に終えられ、菜月の口元に安堵の笑みが浮かぶ。


 念のため物差しで縦横のサイズを測ってみれば、修復前の記録と寸分違わず同じだった。ここも文句なしだ。


「ほう。これはなかなか綺麗に裁断したな。和人に初めて裁断をさせた時より、よっぽど上手い」

「おわっと!」


 いきなり真後ろから声を掛けられて、菜月が驚きに肩を竦ませた。びっくり顔で菜月が振り返ると、これまた驚いた顔の俊彦が彼女の肩越しに作業台を覗いていた。


「おお、すまんな。驚かせてしまったか。お前が作業にもたついていたようなので、出来栄えを確認しておこうと思ったのだ」


 目を見開く菜月へ、俊彦が「すまない、すまない」と軽い調子で謝る。だが、俊彦の表情はすぐに弟子の素晴らしい成果を称える笑顔へと変わった。


「しかし、驚いたぞ。これなら申し分ない裁断だ。正直、一度声を掛けてやるべきかとも思ったが、見守っていて正解だったな」

「ほ、本当ですか?」


 菜月が信じられないという顔で聞き返すと、俊彦も「本当だ」と念を押す。彼の言葉に、菜月の表情はみるみる輝き始めた。


「邪魔をして悪かったな。作業を続けてくれ」

「はい!」


 菜月の一際元気な返事が、研修室の中に木霊する。

 ここに来て、今の自分にとって会心の出来と言える仕事ができた。先生から褒めてもらえる仕事ができた。

 溢れんばかりの喜びをのぞかせつつ、菜月は次の本紙の裁断へと入って行った。



          * * *



 すべての化粧断ちを終えた菜月は、お昼休憩で気分をリフレッシュさせてきた。

 彼女を待っていた次の作業は、綴じの一つ目、紙縒りによる中綴じだ。

 まずはもう一度、本紙の順番が間違っていないかを確認し、本紙の天、地、折り目側の側面である小口(こぐち)を揃えるところからスタートした。

 ここがきっちりと揃ったら、ずれないように腕でしっかり押さえつけ、中綴じ用の穴を開けていく。



挿絵(By みてみん)



 中綴じ穴が開いていた場所を探し、紙を押さえつけている方の手で、目打(めう)ちと呼ばれる錐のような道具を宛がう。目打ちの切っ先が定まったら、樫矢(かしや)という固い木の棒を打ち付けて、元の中綴じ穴の部分にもう一度穴を開け直していく。上下で二カ所ずつ、計四カ所の穴を開け直したら、穴開けは終わりだ。


 穴が開いたら、今度はそこに紙縒りを通して、解体前と同じ結び方で結んでいく。たるみが出ないよう注意して、最後に樫矢で結び目部分を平たく潰せば中綴じ完了だ。


 併せて、角裂の付け直しも済ませてしまう。これでもう、本紙がばらけることはない。

 ここまでの作業を終えた菜月が、肺から空気を押し出すように深い息をついた。


 ただし、ここで気は抜かない。無事に中綴じを終えた菜月は、すぐに次の工程の準備を始めた。


「先生、次は表紙付けでいいんですよね」

「ああ、そうだ。糊の準備は大丈夫か?」

「バッチリですよ」


 菜月が予め用意しておいた糊を得意げに指し示す。次に菜月が行うべきことは、本の顔である表紙を付け直すことだ。


 とりあえず作業内容を頭の中でリピートし、完成までの工程をシミュレーションする。

 作業自体は、糸綴じ用の穴開け作業が入る以外、完全に解体時の逆回しだ。基本はヘラで剥がした部分に糊を付けてくっつけ直す。それだけである。


 まず本紙と同じく修復を施した裏表紙の中央二カ所に糊を付ける。その上に本紙の束を乗せてしっかりとくっつけ、表紙の端っこを見返しとの間に折り込む。

 ここまで終わったら、裏表紙の糊が乾くのを待ち、表紙にも同様の作業をする。

 表紙側の糊も乾いたら、次は糸綴じ用の穴開けだ。これは中綴じの時と同様に、目打ちを使って行う。

 最後に、解体前と同じように表紙の小口側と背側にも糊を塗って、見返しへ貼り付ける。これで表紙付けは完了だ。


 頭で思い描いたビジョンを、今度は現実の本に対して施していく。

 糊付けされていた部分がどんな風に貼り付いていたかは、具体的なイメージが残っていた。表紙を剥がす際に苦労したのが、この段階まで来て思わぬ形で活きてきたわけだ。


 しかも先程までの作業と違い、刃物を本に向ける必要もない。おかげで心の余裕も増して、作業は予想以上にはかどった。


 迅速丁寧に両面の表紙貼りと端の折り込みを済ませた菜月は、この勢いに乗って糸綴じ用の穴開けに取り掛かった。


 目打ちは糸の太さに合ったものを使い、中綴じよりも内側に穴を開けていく。こちらの作業も二度目ということがあってか、幾分ましに作業を行えた。

 本に穴を開ける以上、当然ながら作業は慎重になる。それでも腕に力が入り過ぎたり、手のひらが汗で濡れたりということもない。


 傍目から見たら大した違いはないかもしれないが、実際に作業をする側としては大違いだ。格段に作業がしやすくなった。あくまで自分の感覚上での話だが、目打ちを打つ姿も若干様になったのではないかと思える。

 目打ちを元の穴があった場所に宛がい、頭を樫矢で打つ。一打ちする度に目打ちが紙を貫いていく感覚が手に伝わり、やがて目打ちの先が本を貫通した。

 それをあと三回繰り返し、本に等間隔の穴を四つ開けた。


 最後は、表紙の小口と背を見返しに貼り付ける作業だ。目打ちを刷毛に持ち替えて、シミュレーション通りに表紙へ糊を五~六ミリの幅で付けていく。糊を塗り終わったら、皺にならないよう気を付けながら見返しに貼り付けて終わりだ。


「よーし、できた」

「では、糊が完全に乾くまで置いておくとするか。終業も近いし、残りの糸綴じは明日行うとしよう」

「わかりました。それじゃあ、道具とか片付けちゃいますね」


 本を乾燥させながらプレスに掛け、菜月は「うーん」と大きく伸びをしながら、片付けに入るのだった。


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