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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第一章 初めての修復
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伸ばしましょう

 菜月が裏打ちに取り組み始めてから数日。やや時間が掛かったが、表紙・裏表紙まで含めて、すべての裏打ちが終わった。


 裏打ちの作業は、全体を通して概ね良好だった。


 二度ほど貼り付けた裏打ち紙に皺が寄ってしまって大慌てという事態も起こったが、そこは俊彦に対処法を教えてもらったことで事なきを得た。無事に乗り越えた今にして思えば、これ自体も菜月にとっては良い経験だったと言えるだろう。


 ともあれ、裏打ちが無事に終わったことで、修復工程も半ばを過ぎた。残す作業は、『乾燥させた本紙の伸ばし』と『元の折り目での折り直しとならし』、『本紙からはみ出た裏打ち紙の裁断』、『再製本』の四つだ。


 残りの作業も、大きなミスなく終えられますように。そう願いつつ、菜月は次の作業へと駒を進めた。



           * * *



「本紙の伸ばしは、もう一度本紙を湿らせながら行う。つまり気を抜いたりしたら、本紙に穴を開けるなんて自体も起こりかねんということだ。裏打ちという大仕事が終わったからといって、安心するのはまだ早いぞ」


 それは、本紙の伸ばしの作業に入る直前のことだった。唐突に厳しい表情をした俊彦が、釘を刺すように菜月へ忠告した。


 彼がこのような忠告をしたのには、当然ながら理由がある。それは今が一番、修復に対する心の隙間を生みやすい時期だからだ。

 裏打ちは間違いなく、今回の修復工程における最大の山場だった。その山場を乗り切ったということは、修復者の心に少なからず安堵と余裕、何より油断を生む。

 だからこそ俊彦は、このタイミングで一度仕切り直すよう、菜月へ念押ししたのだ。


 失敗から学べることは確かに多いが、あえて失敗させる必要はない。ここまで順調にきた修復を、順調なままで終わらせてやりたい。


 そういう思いが籠った、言わばこれは俊彦から菜月への、師匠から弟子への親心というやつだ。


「いいか、菜月。ここまで行ってきた修復を無駄にしないよう、努々、油断するなよ」

「わかりました。十分に気を付けます」


 言葉を重ねる俊彦へ、菜月も真剣な眼差しと声音で応じた。

 菜月とて、油断しているつもりは少しもない。ただ、裏打ちが終わって少しだけ肩の荷が下りた気になっていたのも事実だ。


 修復家は一冊の本の命と、本が積み重ねてきた歴史を預かって仕事をしている。修復の終わる最後の一瞬まで、気を抜いてよい瞬間など一つもないのだ。

 そのことを改めて心に刻み、菜月は俊彦に向かって頷くのだった。


「どうやら心配ないようだな。では、本紙の伸ばし作業を始めよう」


 いつもと同じ穏やかな表情に戻った俊彦のGOサインを受け、ようやく作業開始だ。

 乾燥させた裏打ち済み本紙の伸ばし作業は、主に二つの工程を通して行われる。

 第一は本紙を再び湿らせて平らに伸ばしていく工程、第二に伸ばした本紙を仮張(かりばり)という道具に貼り付け、平らな状態を維持したまま乾燥させる工程だ。


 菜月は早速、第一の工程に取り掛かった。

 まずは作業台の上に糊付け後の乾燥で若干ごわついた本紙を一枚置き、噴霧器で全体に水分を含ませる。紙全体に水分が行き渡ったら、裏打ちの時と同じで刷毛を使って、優しく丁寧に紙を伸ばしていった。

 本紙が平らになったことを確かめて、菜月が刷毛を置く。念のため確認がてら後ろを振り向けば、俊彦も問題ないといった表情で頷いてくれた。


 全体の皺が伸びたら、仮張に貼り付けるため、紙の四辺に糊付けを行う。この時に糊を付けるのは、本紙からはみ出している裏打ち紙だけの部分だ。


 糊を付け終わったら、最後に辺の一か所へ紙切れをくっつけておく。これは、仮張から本紙を剥がす際、この紙片部分から剥がせるようにするための工夫だ。


「よし、糊付けまで終わったな。そしたら、乾かない内に仮張へ張り込んでしまえ」

「はーい。……よいしょっと!」


 糊付けまで終わった本紙を持って、菜月は仮張のところまで足早に歩いていった。

 仮張は杉などで作られた骨格に丈夫な和紙を貼って、最後に柿渋を塗った板状の用具だ。本紙を伸ばしたまま乾燥させる際に欠かせない、大切な修復道具である。


「まずは両手で、本紙をまっすぐ仮張に押さえつけろ。その後は片手で本紙を支えながら、もう一方の手で糊を付けた部分を撫でていけ。いいか、撫でる時に本紙の部分を一緒に撫でつけるなよ。本紙が傷んでしまうからな」

ふぉーはいれふ(りょうかいです)へんへい(せんせい)


 仮張の前で指示を出す俊彦に、菜月がもごもごとした声で答えた。呂律が回っていないのは、両手だけでなく口も塞がっているからだ。


 仮張に本紙を貼り付ける際、まず両手で押さえた後、素早く刷毛に持ち返る必要がある。そこで菜月は刷毛をすぐに手にできるよう、口に咥えて持っているというわけだ。

 行儀は悪いが、まずは取りやすさ優先である。失敗しないためにも、多少のことは構っていられない。


 心の中でタイミングを計り、菜月は本紙を仮張へ押さえつけた。

 歪みができないように本紙を押さえつけたら、片手を離して迅速に刷毛をキャッチする。本紙に刷毛が当たらないよう注意しつつ、糊付けした部分の内、まずは上辺の中央と下辺の中央を撫でつけた。


 続いて、左右の辺の中央にも同様の作業を施していく。最後に、辺の残りの部分を撫でつけて、糊の付いた裏打ち紙の部分を爪の表面でなぞれば、仮張への張り込み完了だ。


「先生、一枚目の張り込み、完了しました!」

「そうか。……どうだ? ちゃんと貼り付けられたか?」


 菜月が脇に避けると、職人の目となった俊彦が仮張に貼り付けた本紙をいろんな角度から眺めた。


「しっかり糊付けできているようだな。これなら、まず剥がれてしまうことはないだろう。合格だ」

「やった!」


 師匠からまた一つ合格点をもらい、菜月が小さくガッツポーズをした。

 貼り付けが終わったら、糊より先に本紙が乾いて仮張から剥がれないよう、もう一度噴霧器で湿り気を与えておく。

 これで、一枚目の伸ばし作業はすべて終わりだ。あとは数日間このままにしておいて、本紙が真っ直ぐに伸びた状態で安定するのを待つばかりである。


「じゃあ私、二枚目の伸ばし作業に入りますね」

「ああ、やってこい。この感覚を忘れるなよ」

「はい!」


 最後にもう一度、仮張に貼り付いた本紙を眺めて良いイメージを補充し、菜月は颯爽と次の作業に入るのだった。


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