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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第一章 初めての修復
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裏打ちは慎重に

 作り立ての新糊を片手に研修室へ戻った菜月と俊彦は、早速修復作業に戻った。

 二つ折りになっていた本紙はすべて、その後の作業がしやすいように解体した段階で広げ、伸ばしてある。

 もちろん、埃や汚れを取り除くドライクリーニングも、きっちりとこなした。


「では、始めようか。この資料に対して行う補修の内容は、今朝話した通りだ。ちゃんと覚えているな」

「ええと、この資料は紙がへたっているけど、大きな虫食い穴や欠損が見られない。だから、行うのは裏打(うらう)ちによる本紙の補強のみ、でしたよね」


 菜月の回答に、俊彦が黙って頷いた。

 裏打ちとは、本紙の裏に別の和紙を貼り付けて補強する修復方法のことだ。和装本の修復におけるメジャーな修復方法の一つであり、故に真っ先に身に付けるべき技術でもある。


 新米である菜月へ色々な修復方法を教えても、一辺にすべてを習得させることは難しい。そこで俊彦は、まずこの修復方法のみを集中して行える資料を菜月へ与えることにしたのだ。

 同じ作業を繰り返し行わせることで、成長を促す。これは弟子に職人修業をさせる上で、俊彦がよく用いる手法の一つだった。


「菜月、裏打ちのやり方は覚えているな」

「大丈夫です。昨日の夜、本でもう一度復習しましたし、手順はバッチリ覚えています」

「よし。それなら儂は、昨日と同じく後ろで見ているから、勉強の成果を見せてみろ」

「はい!」


 気の入った返事をして、菜月が作業台に向き直った。

 昨日と同じく一度大きく深呼吸をし、まずは頭の中をすっきりさせる。

 心の準備を整えた菜月は、最初の作業である裏打ちに使う和紙の準備を始めた。


 裏打ち用の和紙を選ぶ基準は、主に色・材質・厚さの三点だ。本紙に合わせて、これらの観点から最適な和紙を選んでいかなければならない。

 色合いや材質を間違えれば完成時の風合いが悪くなることや、内容が読み難くなる場合がある。また、貼り付ける和紙の厚さを調整しなければ、本紙が裏打ち紙に負けて柔軟性がなくしたり、逆に補強の意味がなくなってしまったりすることもあるのだ。


「先生、色合いはこの辺りで大丈夫ですか?」

「いや、もう少し黄色味がかっていた方がいいだろう。あと、本紙が柔らかいから紙の厚さはもう少し薄めの方がいいな」

「なるほど~。なら……」


 俊彦に意見を聞きつつ、多種多様な和紙の中から、今回の修復に使う和紙を選んでいく。師弟二人で『ああでもない、こうでもない』と言い合いながら紙を見繕い、十数分かけてようやく裏打ちに使用する和紙が決まった。


 手漉きの和紙は大きさが大体六十センチ×九十センチと決まっており、これを縦横四つ折りにすると、大抵の裏打ちに使用できる。今回の資料も、四分の一にカットした裏打ち用和紙の中にすっぽりと収まった。余白も十分に残っているので、本紙へ貼り付けた際に多少斜めになっても大丈夫だ。正に、この本の修復を行う上で理想的なサイズと言えた。


 裏打ちに使う和紙が用意できたら、次は本紙の方の下準備に取り掛かる。

 菜月は裏打ち用の和紙を一端脇に退け、作業台を綺麗にしてから本紙に手を伸ばした。

 本紙の内の一枚を作業台に乗せ、必要な道具を用意したら、早速作業開始だ。

 頭の中で勉強した手順を反芻し、作業を進めていく。


 裏打ちで最初にやることは、本紙を皺なく伸ばすことだ。

 まずは噴霧器で全体に軽く水をかけ、適度に湿り気を与えたら、作業台に本紙を張り付かせる。

 むらなく水分を与えて本紙が伸びてきたら、角を慎重に持ち上げ、刷毛を使って中心部から外側に向かって放射線状に皺を伸ばしていく。


 やっていること自体はスマホの画面に保護フィルムを貼るイメージと似ているが、難しさは段違いだ。こちらは古い上に水分を含んだ和紙を使用しているのだから。少しでも気を抜けば紙を痛めてしまうし、下手をすれば紙に穴を開けてしまうかもしれない。正に一瞬も油断できない作業だ。


 慎重に、慎重に。力を入れ過ぎないよう注意して……。


 まるで念仏でも唱えるかのように頭の中で同じ台詞を繰り返し、作業を進めていく。

 一つの角が終わったら次の角を持ち上げて、また刷毛で皺を伸ばす。そこが終わったらまた次を伸ばす。


 そうやって四つの角について作業を終えてみれば、本紙の皺はすべて伸び、作業台に隙間なく張り付いた状態になった。


「先生、皺伸ばしですけど、こんな感じで大丈夫ですか?」

「ん? どれどれ……」


 菜月が一歩横にずれて場所を譲ると、俊彦が作業台の上の本紙を覗き込んだ。

 最初は穏やかな顔で本紙を眺めていた俊彦だったが、彼の表情は次第に険しいものとなっていった。


「菜月、ちょっとここら辺を見てみろ」


 いつもより厳しめな俊彦の声に、菜月が一抹の不安を覚えた。彼女はおっかなびっくり俊彦の指差しているところを見つめる。

 すると俊彦は淡々とした口調で、容赦なく菜月のミスを指摘し始めた。


「ここら辺な、ところどころ本紙が毛羽立っているだろう。おそらく水分を少し与え過ぎたのと、刷毛に力が入り過ぎていたのが原因だ。修復の過程で本紙にダメージを入れてしまうようでは、本末転倒だぞ」

「あ……。す、すみません! 私、まったく気が付かなかったです」


 俊彦の指摘を受けて、菜月は一気に顔を青ざめさせた。慌てて勢いよく頭を下げた菜月は、そのまま上目遣いに俊彦を見て、心配そうに言葉を続けた。


「あの……これってやっぱり、修復に悪い影響が出てしまうでしょうか」

「いや、今回については問題になるほどではないだろう。だがな、菜月。これがもっと傷みの激しい料紙(りょうし)だったら、修復不可能なほどの損傷になっていた可能性がある。それだけは心の片隅に留めて、しっかり反省しておけ」

「はい……。本当にすみませんでした」

「わかればよい。さあ、作業を続けろ」


 後ろに下がる俊彦の横で、菜月が落ち込んだ様子で項垂れた。

 力を入れ過ぎないようにと気を付けていたのだが、まだ注意が足りなかったらしい。これは大いに反省すべき点だ。


 ただ、反省会は後で思い切りやるとして、今は俊彦の言う通り、目の前の作業に集中する。なぜなら裏打ちの本番は、ここからなのだから。

 ミスで俯きがちになった心と頭に喝を入れ、菜月は作業を再開した。


 本紙の皺伸ばしの次に行うべきことは、裏打ちに使う和紙への糊付けだ。

 糊付けは、檜でできた糊付け板に裏打ち用の和紙を乗せて行う。糊刷毛で糊を適量すくい、和紙の端の方から斑なく均一になるよう塗り付けていく。


 刷毛を立て過ぎると、また紙がほつれてしまう。先程と同じ類の失敗を繰り返さないよう、刷毛の角度に注意して塗り進める。そうして糊を塗り終えたら、いよいよ本紙への貼り付け作業だ。


 まずは糊付けした裏打ち紙の端を持ち上げ、竹の物差しにしっかりと貼り付ける。

 裏打ち紙が貼り付いたことを確認したら、物差しを持ち上げ、糊つけ板から和紙を引き剥がす。

 和紙は薄いため、慌てて運ぶと風圧でなびき、糊をつけた面同士がくっついてしまう。

 菜月は裏打ち紙がくっついてしまわないよう、慎重に腕を動かしていった。


「ああ、菜月。すまんが、そのままちょっと止まっていてくれ」

「え? はい、わかりました」


 その時、和紙を運ぶ途中で俊彦からストップをかけられ、菜月が動かしていた手を止めた。

 一体何事か。もしかして、自分はまた何か手順を間違えてしまったのか。

 不安の入り混じった目で、菜月が俊彦を見る。

 対して俊彦は何を言うでもなく、ひょいっと本紙の上辺の脇に一本の定規を置いた。


「もういいぞ。作業を続けろ」


 俊彦がなぜ作業を止めたのかがわかり、菜月は不安そうだった表情を和らげた。

 何のことはない。俊彦は菜月が上手く裏打ちを行えるよう、準備を整えてくれたのだ。

 裏打ちの技術が未熟なうちは、本紙に対して裏打ち用の和紙を斜めに貼ってしまうことがありがちだ。ひどい場合には、本紙の一部が貼り付けた和紙からはみ出してしまうことさえある。


 けれど、本紙付近の適切な位置に定規が置いてあれば、それを目安に当たりを付けて裏打ちを行うことができる。つまり、菜月のような若輩であっても、裏打ち時のずれを最小限に抑えることができるのだ。



挿絵(By みてみん)



「ありがとうございます、先生。すごく作業がしやすくなりました」

「感謝はいいから、裏打ちに集中しろ。どれだけ下準備をしたところで、最後は修復者の腕に成功の可否が掛かってくるのだからな」

「わかりました!」


 改めて作業台に向き直り、菜月は作業を続けた。


 ここからの作業は、姿勢が悪いとうまくいかない。本紙のところまで和紙を移動させた菜月は、まず背筋を伸ばして本紙と正対した。

 正しい姿勢で上から本紙を見下ろせば、俊彦が置いてくれた定規の有難みがよくわかる。貼り付ける和紙の上辺を定規に沿わせるよう意識することで、和紙を置くべき場所の見当は、容易くつけることができた。


 物差しを持つ左手が震えないよう注意しつつ、糊の付いた面を下にして、右手で物差しが貼り付いていない方の端を持つ。

 そのままゆっくりと定規を目印に、和紙を揺らさないようにしながら下ろしていった。


 まずは右手で持った方の端を、定規に合わせて作業台に下ろすところからスタートだ。頭の中で裏打ち紙を本紙に貼り付ける工程をイメージし、体を動かしていく。


 皺ができないように和紙の端を下ろし終えたら、自由になった右手に刷毛を用意する。

 刷毛を使い、裏打ち紙と本紙の間に空気が入らないよう、少しずつ貼り付けていく。これまた見た目は、スマホへの保護フィルム貼りにそっくりだ。


 最後は物差しを裏打ち紙から外し、本紙と裏打ち紙を完全に癒着させて完了だ。

 裏打ち紙と本紙がしっかりとくっついたら、毛氈(もうせん)というフェルトみたいな布の上で、糊が乾くまで乾燥させておく。


「若干斜めになっているが、想定の範囲内だ。よくやったな、菜月」


 毛氈の上に移された裏打ち後の本紙を眺め、俊彦が満足げに講評を述べた。

 ミスが出た直後であっただけに、それは菜月にとって何よりもうれしく、また誇らしい評価だった。


「さあ、今の手応えを忘れず、この調子で残りの本紙も裏打ちしていけ。ただし、さっき注意したことは忘れるなよ」

「了解です。気を付けながら、バンバンやります!」


 成功の経験は、たった一度で人に自信を与え、大きな成長を促す。

 厳密に言えばまだまだ技術不足な点があったと言えるが、初めての裏打ちを無事に終わらせることができた。その事実は菜月の心に確かな自信と、さらなる向上心をもたらした。


 次は今より更に上手にできるようにしよう。今の経験を足場にして、さらに技術を磨いていこう。


 やる気を目にたぎらせつつ、菜月は次の裏打ちに取り掛かるのだった。


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