糊作りは大変です
その日の菜月の作業は、本の中身である本紙を一枚一枚の形に分離し、埃や汚れを落とし終わったところで時間切れとなった。一部ページがくっついている個所もあったが、そこは俊彦に手伝ってもらうことで、何とか事なきを得た。
分解した本紙には、製本した時に見えない位置へ鉛筆で付番してある。これは製本し直した際に、ページの順番を間違えたり、入れ忘れたりしないようにするためだ。
それらの作業が終わったら、本のパーツを傷めないよう、かつ明日作業がしやすいよう、丁寧に整理しておく。
最後に今日やった作業を報告書用の草案ノートにまとめて、本日の仕事はすべて終わりだ。
ついでに、俊彦から教えてもらったことやアドバイスも、覚えている内に自分の手帳に記しておく。これは修復工程外のことだが、菜月にとってはとても大切なことだ。
何度も同じことを聞きに行くのは先生にも迷惑だし、限りある時間の浪費となってしまう。先生の手を少しでも煩わせないよう、自分でできることくらいは精一杯頑張ろう。
俊彦の正式な弟子となってここに来た時、菜月はそう心に誓ったのだ。
「うん。こんなところかな」
最後の一文を書き終え、菜月がペンを置く。
菜月は、自分の手帳が文字で埋まっていくのを見るのが好きだった。
なぜなら、それは自分が前に進んでいる証だからだ。手帳のページが埋まる度に、菜月は自分が少しずつ一人前へ近づいているように感じるのだった。
「先生、片付けと記録のまとめ、終わりました。一応確認してもらっていいですか?」
やることをすべて終えた菜月が、俊彦を呼びに行く。
片付けや報告書の作成だって、立派な修復作業の一環だ。決して手を抜いていい作業ではない。
初めて行ったこれらの作業に不備がないか確認してもらうのは、大切なことである。
「菜月か。すまないが、今は手が離せないから、少し待っていてくれ」
「はーい。了解です」
言われた通り、自分の作業台に戻って大人しく待つ。
そのまましばらく大人しくしていると、俊彦の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「すまん、菜月。これはしばらく時間が掛かりそうだ。おい、和人。お前、確か今日はもう作業を終えていたな。すまないが、儂の代わりに菜月の方の確認をしてやってくれ。それが終わったら、今日は先に帰っていいぞ」
急に話を振られた和人は、嫌がる素振りも見せずに「はいよ」と自分の席を立った。
菜月の作業台までやって来た和人は、これまた俊彦同様、申し訳なさそうに微笑んだ。
「そういうわけだ、菜月。すまないが、今日のところは師匠の代わりに、俺の確認で我慢してくれ」
「いえ、滅相もないです! 私の方こそ帰宅の前に面倒な仕事を増やしてしまって、本当にすみません」
申し訳なさそうにする和人に向かって、菜月は慌てて何度も頭を下げた。
立場上では同じ弟子とはいえ、菜月にとっては和人も先生の一人だ。我慢だなんて思っていないし、自分の為に時間を割いてもらえるだけでも有り難い話だった。
「そんなに何度も頭を下げなくていいから。それじゃあ、サクッと点検を済ませるとするか」
「はい! よろしくお願いします、和人さん」
言うが早いか、和人は順番に確認するべき個所に目を通していく。
確認作業を行う和人の眼差しや仕草は、俊彦とよく似ている。
師と弟子である以前に、血を分けた祖父と孫だ。やはり血は争えないものだと、菜月は和人の姿を見ながら感じた。
「よし。これなら大丈夫だ。菜月、工房にいる時から思っていたが、お前は本当に整頓が上手いな。正直、これはちょっと尊敬に値するレベルだ」
「そうですか? えへへ、ありがとうございます!」
掃除や整頓が得意なことは、菜月の密かな自慢だ。そこを的確に褒めてもらえて、菜月は喜色満面といった表情になった。
「師匠、確認が終わった。修復途中の資料の片付け方も問題なしだ。いや、むしろ師匠よりも丁寧なくらいだな。逆に師匠が菜月を見習った方がいい」
「余計なことは言わんでいい! ともあれ、助かった。ありがとう」
整頓について思い当たる点でもあるのか、俊彦が必要以上に大きな声で返事をする。
少し子供っぽい師匠の態度に、弟子二人は吹き出してしまいそうになるのを必死に堪えるのだった。
「ええい、何を二人揃っておかしな顔をしておる。やるべきことが終わったなら、さっさと帰れ!」
「うーい。じゃあお言葉に甘えて、先に上がります。師匠、お疲れ様でした」
「お疲れ様です、先生。お先に失礼します」
まだ作業を続けるらしい俊彦が、二人と追い払うように手を振る。若干ご機嫌斜めな師匠を残して、菜月と和人はそそくさと研修室を後にした。
* * *
「ほれ、もっと集中しろ。そんなんでは、ダマができてしまうぞ」
図書館の給湯室から、俊彦の叱咤する声と菜月のどこか疲れ気味な声が響いた。
菜月と俊彦がこんなところで何をしているのかと言えば、当然ながら料理を作っているわけではない。二人は今、本日からの修復作業で使う糊を作っているのだ。
和装本の修理には、主に二種類の糊が使用される。沈生麩や吟生麩と呼ばれる小麦粉澱粉を水で煮て作った新糊と、新糊を甕の中で十年程度寝かせて作る古糊だ。
粘着力の違いなどからそれぞれ使用用途は異なるが、どちらも修復には欠かせない糊である。
菜月が今作っているのは、もちろん新糊だ。この新糊というものはあまり日持ちしないため、修復の都度、新たに作っていく必要がある。そこで、菜月は朝から鍋で糊の素を煮込んでいるというわけだ。
糊を一から作ることはかなり煩雑で、初心者にとってはなかなか高い壁と言える。その例に漏れることなく、菜月もこの糊作りで四苦八苦していた。
「ほれ、手が止まってきたぞ。糊作りの基本は、よく見ることと掻き混ぜ続けることだ。鍋の温度と中身の粘度には、常に気を配っておけよ。でないと一回目の時の二の舞だ。焦がして、また失敗するぞ」
「わっかりましたっ!」
疲れでだるくなってきた腕に鞭打って、菜月は鍋を掻き混ぜる。
和装本修復の出来栄えは、使用した糊の出来で決まると言っても過言ではない。それだけ糊は、修復において重要なファクターを占めるのだ。
自分が初めて担当する資料には、最高の修復を施したい。
今回の修復にかける思いを腕に込め、菜月はせっせと糊を煮込み続けた。
ちなみに、三度目の煮込みを行えるような体力は残っていないので、これ以上失敗するわけにはいかないと密かに思っているのは、ここだけの秘密だ。
「よーし。そのくらいでいいだろう」
「ふへ~。疲れた~」
鍋を掻き混ぜ始めて幾星霜。糊の粘り気が増し、全体に透明感を帯びてきたところで、ようやく煮込み作業が完了した。
「ああ~、もうだめ。動けない」
糊の入った鍋を水の入った洗面器に浸け、菜月は床にへたり込んだ。
普段使わない筋肉を酷使したためか、もう腕が持ち上がらない。明日は間違いなく、筋肉痛になることだろう。
「せんせ~、糊を作るのってすごく大変なんですね~」
「大変なのは、最初の内だけだ。すぐに慣れるから安心しろ」
すでに疲労困憊な菜月を見て、俊彦が愉快そうに笑った。
おそらくこれは、修復家を志す者が皆通る道なのだろう。ここを越えることで、ようやく修復家としての一歩を踏み出せるのだ。
「さあ、休憩は終了だ。粗熱も取れた頃だから、糊を鍋からタッパーに移し替えろ。そしたら、使う分だけ取り分けて、更に水で薄めるんだ」
「了解です」
返事をしつつ、菜月が軽やかに立ち上がる。
粗熱を取っている間休めたことで、大分体力も回復したし、腕の疲れも取れた。もう動くのに支障はない。
鍋を洗面器から持ち上げ、滅菌消毒したタッパーの中へ糊を流し込む。
すべてタッパーに入れ終わったら一部を取り分けて、清潔な手拭いで裏ごししていく。
最後に、水を加えながら最適な濃度になるまで薄めて完成だ。
「先生、こんな感じで大丈夫でしょうか?」
「どれどれ……。――よし。これなら、ひとまず合格点だ」
「本当ですか! 良かった~」
筆で糊の固さを確かめ、俊彦が指でOKマークを作る。
それを見た菜月は、大きく安堵の息を漏らした。ようやく掻き混ぜ地獄から解放されると思うと、涙の一つでも出てきそうな心地だ。
「おいおい、糊を作り終わっただけで、何をやり切った顔で安心しておるのだ。本番はここからだぞ。いいか、鍋を洗い終わったら早速、修復作業に取り掛かるからな。気合を入れていけよ」
どうにも気の抜けた表情を見せる菜月に、俊彦が「シャキッとしろ」と釘を刺す。
諫言を受けた菜月は鍋を洗う手を止め、不敵な笑みを浮かべて俊彦の方に振り返った。
「心配御無用ですよ、先生。今の私、気分爽快でいくらでも作業に集中できそうな勢いです!」
「あ……ああ、そうか……。なら、いいんだ。うん……」
目を爛々と輝かせて力説する菜月に、俊彦が思わずたじろいだ。
地獄とも思える糊作りを乗り越えた菜月に、もはや怖いものはないのだ。彼女は出来上がった新糊を片手に、意気揚々と研修室へ戻るのだった。
なお、後程すぐに新糊は定期的に作らなければいけないということを思い出して、菜月のテンションはだだ下がりしたわけだが……それはまた別の話。