葵先輩
お昼きっかりに仕事を終わらせた菜月は、俊彦に一声掛けて、研修室を後にした。
彼女が向かう先は、図書館の事務室だ。
入口から中をのぞき込んで、目的の人物をすぐに発見する。気付かれないよう、抜き足差し足と近寄って、菜月はその人物の肩を叩いた。
「先輩、一緒にお昼食べましょう!」
「え、菜月? ああ、もうお昼か。うん、ちょっと待ってね。すぐこの仕事を片付けちゃうから」
肩を叩かれたおさげ髪の女性が、菜月と彼女の後ろにある壁時計を交互に見た。
彼女は石田葵。家庭の事情で短大卒だが、司書の採用枠を勝ち取った才媛で、この四月から図書館に勤務している司書一年生である。つまり、仕事上における菜月の同期だ。
ただ、菜月と葵の関係は、仕事の枠だけに留まらない。
実はこの二人、高校時代の部活の先輩後輩という間柄なのだ。と言っても、菜月より八センチ低い身長と童顔の所為で、葵の方が年下に見られることも多いのだが。
『図書部』というマイナーな部活に所属していた菜月にとって、葵は唯一『先輩』と呼べる相手だった。何せ、菜月が活動内容に興味を持って図書部を訪れてみれば、そこには葵しか部員がいなかったのだから。葵と二人きりの部活という状況に、菜月も最初は大丈夫だろうかと戸惑った。けれども、その不安はすぐに吹き飛んでしまった。
図書館の読み聞かせボランティアをやった際には、菜月の練習に夜遅くまで付き合ってくれた。文化祭で飛び出す絵本を作った時には、初めての作業に苦戦する菜月を励ましつつ、フォローしてくれた。
そうやっていつも手を差し伸べてくれる葵に、菜月はすっかり懐いてしまったのだ。
そんな二人の関係は、葵が部を引退してからも変わらなかった。一緒に図書館のボランティアをしたり、休みの日に遊びに行ったり……。色んなことをして過ごす内に、二人は気心知れあった親友と呼べるまでになっていた。
なので、期間限定とはいえ一緒の職場で働けることになった幸運を、二人は大いに喜んでいるのだった。
「それで先輩、どうですか? 図書館に勤め始めて一週間と少し。憧れの司書の仕事には慣れましたか?」
「うーん、ぼちぼちかな。カウンターの仕事とかはボランティアで経験済みだけど、正職員は他にもたくさん仕事があるからね。今は渡辺さんが残してくれた業務メモ片手に悪戦苦闘中って感じ」
休憩スペースでのランチ中、菜月がリポーター風に尋ねると、葵は苦笑混じりに手をひらひらと振った。
渡辺は葵の前任者であり、葵が就職するのと入れ替わりで別の図書館へと異動していった。渡辺が主に担当していた児童サービスの仕事も、今は葵が引き継いでいるのだ。
ちなみに渡辺は、菜月にとって俊彦や修復家の道と出会うきっかけをくれた大恩人でもある。俊彦の弟子として頑張っている姿を渡辺に見せられなかったことは、菜月にとっても少し残念なことだった。
「渡辺さんは、職員やボランティアさんみんなから頼られていたからね。あの人の後釜は何かと大変だよ」
「でも、それって所謂期待の裏返しですよね。きっと館長や他の方々も、先輩なら渡辺さんの後を立派に務められると思ったから、今のポジションを任せているんですよ!」
こぶしを固く握り締め、菜月が力説する。
そうやって自分を慕ってくれる後輩を前に、自信なさ気な姿は見せられないと思ったのだろう。葵も「期待に応えられるよう、頑張ってみるよ」と朗らかに笑うのだった。
「ていうかさ、私のことよりも、菜月の方はどうなの?」
「へ? 『どうなの?』って、一体何が?」
「うーん、何て言うかさ、職人の修業って、やっぱり普通の会社勤めとかとは違うわけじゃない? もっとこう、厳しい世界って言うか、何と言うか……。ここだけの話、ちゃんとやっていけそうなの?」
先程とは逆に、今度は葵が菜月の仕事に関して問い掛ける。
葵自身は、職人として仕事をしたことがない。それでも、生半可な覚悟でやっていけるほど職人の世界が甘くないことは、容易に想像がついていた。
それ故か、葵の表情からは少しばかり菜月を心配しているような色が見て取れた。
「ああ、なるほど。そのことですか」
合点がいったという表情で、菜月が頷く。
長い付き合いだ。菜月も、葵が自分のことを案じてくれているのだとわかっている。
だからこそ菜月は、優しくて少し心配性な先輩を安心させるため、ふわりと微笑んだ。
「正直なところ、『ちゃんとやっていけそうか』と聞かれたら、今はまだ『おそらく』としか答えられません。だって、見習い期間を含めてもまだ八カ月ですしね。それくらいで答えを出せるほど、今いる場所は底が浅くないですから。でも……」
言葉を切った菜月が、しっかりと葵の目を見つめる。葵の目に映る菜月の瞳には、未熟ながらも確かな気構えと呼べるものが見て取れた。
「でも、『やってみたい』っていう思いは、次から次へと生れてくるんです。だから、先輩も心配しないでください。私は多分、大丈夫です!」
「そっか。うん、それなら良かった」
菜月の目を見て、彼女の言葉を聞き、葵も胸のつかえが取れたような顔で微笑み返す。
最初に会った時はまだどこか頼りなかった後輩も、この数年で随分と逞しくなったものだ。そう思わずにはいられない葵だった。
そんなところで、真面目なお話はおしまい。
あとはいつもの昼休みと同じ、二人で取り止めのない会話を楽しむ。
今日は菜月が初めて和装本の修復に取りかかった話で持ち切りだ。菜月が自分のやった作業をあれこれ語る内に、昼休みはあっという間に過ぎ去ったのだった。