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菜の花ルリユール  作者: 日野 祐希@既刊8冊発売中
第一章 初めての修復
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修復開始

「ではまず、確認からだ。和装本における修復の工程は、いくつかの段階に分けられる。これらの段階がどういうものかは、きちんと理解しているな?」

「まずは観察と状態把握。次に解体して繕いや補強。最後に復元ですよね」


 俊彦の問い掛けに、菜月が淀みなく答えた。見習い期間中、俊彦から渡された本を何度も読んで覚えたことだ。これくらいの問い掛けでつまずいたりはしない。

 俊彦にしても、菜月が今更この程度のことを間違えるとは思っていない。「そうだ」と軽く首肯しつつ、話を続けた。


「では早速、観察と状態把握から解体までを行っていこう。儂は後ろで見ているから、勉強した通りにやってみろ」

「わかりました」


 返事をした菜月が取り出したのは、鉛筆とノート、定規にカメラだ。

 本は修復後、できる限り今と同じ形状に戻さなければならない。そのためには、修復を始める前の形状がどのようなものだったか、細かく記録を残しておく必要があるのだ。本の寸法、糸綴じの穴の間隔、糸の色や太さ、他にも気付くことはすべてノートに書き記し、写真に撮っておく。

 また、破損個所や虫食いなんかも一緒に記録して、修復に備える。


 菜月が記録を取っている間、俊彦は本当にただ見ているだけで、手どころか口も出さなかった。俊彦が動かないということは、菜月の行っていることに間違いがない証拠だ。


 記録をすべて取り終えた菜月は、肩にかかる髪を邪魔にならないようゴムで括り、次に和挟(わばさみ)へ手をのばした。


 いよいよ解体を始めるのだ。


 一度深呼吸をし、菜月は本を綴じている糸へ和挟を入れる。本を傷つけないよう慎重に、彼女は結び目近くの糸を切った。

 今、菜月が手がけているのは、和装本の中でも最もオーソドックスな(ふくろ)(とじ)の本だ。横長の紙を縦に半分に折って重ね、折り目と反対側を綴じてある。糸の綴じ方は()目綴(めと)じとなっていて、本の端に開けた四つの穴に一筆書きの要領で糸が通されていた。



挿絵(By みてみん)


 

 菜月が相手にしているのは、保存状態が悪い古書だ。糸を絡ませてしまえば、それだけで本に傷をつけかねない。初めての作業に緊張して震えそうになる手を必死に抑えながら、菜月は注意深く糸を外していった。


「これで……最後!」


 小さな声で呟きながら、糸を最後の穴から抜き取る。取り外した糸を丁寧にしまい、菜月が小さく息をついた。


 ただ、糸を外し終えても、まだこの本を解体できるわけではない。外から見える糸以外に、表紙の下で紙縒(こよ)りを使った中綴(なかと)じをしてあるからだ。


 さらに、本の背側の角には角裂(かどきれ)と呼ばれる布も付いている。これらを外さないことには、本をばらすことはできない。


 解体で本当に難しいのは、ここからだ。糸の外れた本を見つめ、菜月が緊張から喉を鳴らした。

 紙縒りによる中綴じや角裂の装着は、表紙の下で行われている。

 しかし、表紙は一部が見返しに糊付けされているのだ。これ以上の解体を行うには、まず表紙を見返しから剥がさねばならない。



挿絵(By みてみん)



 表紙を剥がすには、ピンセットやヘラを使うはずだ。だが、もしも糊がよく効いていたら、水分を含ませて糊を溶かすのだったか。

 和装本を前に、菜月は覚えた知識を総動員して作業の仕方を模索する。


 とりあえずヘラを使って剥がしてみようと思い、菜月が道具を手にする。しかし、紙を破いてしまうのが怖くて、ヘラを持つ手が震えた。

 糸を切っていた時とは違い、今度の震えはなかなか治まってくれなかった。


「……どれ。ちょっとヘラを貸してみろ」


 すると、後ろで作業を見守っていた俊彦が、手間取る菜月の横に進み出た。

 俊彦は菜月からヘラを受け取り、彼女に見えるようにしながらヘラを表紙と見返しの間に宛がう。そのまま慎重かつ丁寧にヘラを動かし、表紙を見返しから剥がしていった。


 間近で見る俊彦の手際に、菜月が思わず目を見張った。

 無駄のない洗練された手さばきも、紙を傷つけない絶妙な力加減も、そのすべてが完成された一つの技として結集、昇華されている。

 最早それは、技術としての一つの到達点、ある種の芸術のごとく菜月の目に映った。


「ざっとこんな感じだ」


 俊彦の声に、菜月が我に返る。

 どうやら俊彦の実演に見惚れ、茫然自失としていたようだ。気が付けば、表紙と見返しはまるで最初からそうであったかと思わせるほど、きれいに分離していた。


「菜月、儂が今やったことを真似してみろ」


 振り向く俊彦の前で、菜月は再び緊張で顔をこわばらせた。

 自分に俊彦の真似をすることなどできるのか。下手に真似などしようとしたら、何か大きな失敗してしまうのではないか。

 師との力の差を痛感し、緊張に震える菜月の顔には、はっきりとそう書かれていた。


「ふむ……。おい菜月。ここで一つ、お前にいいことを教えてやろう」

「へ? いいこと、ですか?」

「そうだ。儂が儂の師匠から習った大切な教えだぞ」


 尻込みする弟子の様子を見かねたのだろう。

 俊彦はヘラを返そうとした手を止め、代わりにちょっとした昔語りを始めた。


「突然だが菜月、お前は良い職人の証とは何だと思う?」

「えっと……失敗をしないことですか?」

「確かにそれも大事だ。だが、もう一つ大事なことがある。何だかわかるか?」


 重ねられた俊彦の問い掛けに、菜月が降参と言わんばかりの顔で首を振る。

 弟子の返答を得た俊彦は、「そうか、わからないか」と呟いた後、神妙な顔つきでこんな言葉を続けた。


「良い職人と言えるもう一つの証、それはな、失敗を正せることだ」

「失敗を正せること、ですか?」

「そうだ。実際、儂の師匠などはすごかったぞ。どんな失敗をしても、失敗と認めない。それどころか、失敗そのものがあたかも修理工程の一部であるかのごとく言い張っていたからな。まあ、口だけではなく、本当にいつも見事な立ち直りを見せておったが……」

「ちょっと! 先生、何ですか、それ」


 俊彦の顔つきと話の内容のギャップに、菜月はたまらず吹き出してしまった。

 しかも余程ツボにはまったのだろう。彼女はしばらくお腹を押さえて笑い続けた。


「とどのつまり、もう少し肩の力を抜いていけ、ということだ。作業を慎重に行おうという心構えは大切だが、必要以上に気を張ることはない」


 致命的な失敗をしなければ、必ずリカバリーすることができる。

 むしろ失敗を深刻に考えすぎることの方が問題だ。失敗を気にするあまり緊張を生んで、良くない結果を引き寄せる原因となってしまうから。

 笑い止んだ菜月にヘラを返しながら、俊彦が穏やかに微笑む。これが彼なりの、固くなっている弟子に対する励まし方なのだ。

 ヘラと一緒に俊彦の気遣いを受け取った菜月は、表情を和らげて一つ頷いた。


 集中、集中。だけど、リラックス。


 頭の中でそう唱えながら、大きく一つ深呼吸する。ほどよく肩の力と緊張が解けたところで、菜月は本をひっくり返し、裏表紙と見返しの間にヘラを当てた。


 間近で見た俊彦の動きを、頭の中でもう一度再生する。師匠の手捌きを真似てゆっくりヘラを動かしていくと、裏表紙と見返しが剥がれ出した感触が手に伝わってきた。


 ヘラから伝わる微妙な感触を頼りに、少しずつ裏表紙を剥がしていく。

 ゆっくりでもいいから、確実に進める。この本のことを第一に考えて、丁寧にやっていくが大切だ。

 指先まで自分の意志を行き渡らせ、菜月は注意深くヘラを動かしていった。

 そして、集中して作業を続けること、十五分ほど。ついに裏表紙は、綺麗に見返しから分かたれた。


「やった! 先生、剥がせました!」

「ああ、上出来だ。よくやった」


 菜月が剥がした裏表紙を手に取り、俊彦が満足そうに言葉を漏らす。

 師匠から合格点をもらった菜月は、うれしさに頬を染めて微笑んだ。


 表紙を外したら、次は角裂も同じように剥がしていく。

 一度作業を成功させたことで、幾分心に余裕が出てきたのだろう。菜月は最初みたいに緊張で手を震わせることなく、極めて冷静に解体作業に勤しんだ。


「先生、角裂二枚とも剥がし終わりました!」


 上下の角裂を剥がし終えた菜月が、自分の作業台で作業をしていた俊彦を呼ぶ。大きく歯切れが良い菜月の声は、解体が上手くいっている何よりの証だ。


 呼ばれて戻ってきた俊彦は、紙縒りによる仮綴じのみとなった本を注意深く手に取り、検分していく。菜月が緊張しながら点検の様子を眺めていると、俊彦は数回頷きながら、本を作業台へ戻した。


「問題なさそうだな。外した部品は、それぞれ大事に閉まっておけ。それと表紙と裏表紙は状態も良いので、裏打ちしてそのまま使う。折れ曲がったりしないよう、注意して扱えよ。あと、結び方なんかを記録しながら、紙縒りを本紙から外しておけ。それが終わったら、昼休みを取ってこい」

「了解です」


 矢継ぎ早に出された指示をメモに取り、菜月は早速仕事に取り掛かる。

 時計を見れば、十一時をちょっと回ったところだった。メモにある作業をすべて終える頃には、お昼時になっていることだろう。


 お腹も空いてきたし、さっさと仕事を片付けてしまおう。だけど、作業は雑にならないよう、あくまで丁寧に……。


 メモの内容をもう一度頭に叩き込んで、菜月はてきぱきと手を動かすのだった。


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