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菜月の道

 夕日で赤く染まる図書館の廊下。研修室に続くこの廊下は行き交う人もなく、ひっそりと静まり返っている。その廊下を、菜月は一人歩いていた。


 たった一週間離れていただけなのに、この静かだけど落ち着く空気が懐かしく感じられる。それだけ自分は、この場所に帰ってきたかったのだ。

 今なら素直にそう思えた。


「着いた……」


 歩き慣れた廊下の先、目の前にそびえ立つ扉を、少し緊張した面持ちで見つめる。

 一年前、自分はここから修復家として歩き始めた。


 そして今、もう一度ここから始めようとしているのだ。自分だけが紡げる、『三峰菜月』という名の修復家の物語を……。

 まるでスタートラインから飛び出すように、菜月は扉に手を掛け、一気に開け放った。


「失礼します」


 いつもは掛けない台詞と共に、研修室へ足を踏み入れる。

 菜月を迎えたのは、俊彦の冷ややかな視線と、和人の会心の笑みだった。


「何をしに来た。ここはもう、お前の来るべきところではないはずだぞ」


 視線と同じく冷ややかな声で、俊彦が菜月に来意を問い質した。

 一週間前、菜月はこの声と視線に耐えられなかったが、今は違う。

 葵のおかげで、自分の芯となる思いを再確認することができた。俊彦の心情に思いを巡らせることもできるようになった。

 今の菜月ならば、ちょっとやそっとのことで簡単に揺らいだりしない。


「先生とお話しに……いえ、戦いに来ました」


 あくまで自然体に話す菜月を見て、俊彦が若干目を丸くした。

 先日ここを飛び出して行った時の菜月とは、明らかに違う。この一週間に何があったか知らないが、急に風格のようなものが身に付いた。

 俊彦は再び自分の前に現れた菜月を、そのように評した。


「和人、これはお前の差し金か?」


 雰囲気の変わった菜月から視線を外し、俊彦がもう一人の弟子に問い掛ける。

 対して和人は、満足げに微笑みつつも首を横に振った。


「いいや、違う。俺がしたことは、石田さんに現状を伝えて、菜月の助けになってほしいと頼んだだけだ。それ以上のことは何もしていない。第一、師匠だって本当はわかっているんだろう? 菜月が今ここにいるのは、きっとこいつ自身の意志だ」

「……そうか」


 何かを悟った顔で、俊彦が重々しく頷く。

 彼は自分がやっていた作業を中断し、入り口付近に立つ菜月と正面から相対した。


「いいだろう。元とはいえ、師匠としての情けだ。話くらいは聞いてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」

「わかりました。なら、とりあえず……」


 安堵の表情で一度言葉を切り、菜月が大きく息を吸いこむ。

 菜月の目は真剣そのものだ。彼女が放つただならぬ気配に、俊彦と和人が思わず身構える。

 緊張感を漂わせる二人の眼前、息を吸いこみ終わった菜月は、突然深々と頭を下げた。


「この間は、本当にすいませんでした! 私、自分のことばかりで先生の気持ちを全く考えられていませんでした。引退するって決めて、一番辛いのは先生なのに、勝手なことばかり言ってしまいました。それに私、修復家って仕事の重みを、ちゃんと理解し切れていませんでした!」


 菜月は頭を下げたまま、耳鳴りしそうなほどの大音量と早口で、反省の弁を捲し立てた。

 さすがにこれほどの勢いで謝られるとは、予想していなかったのだろう。俊彦は目を点にして、ただ呆然と菜月の謝罪を受けていた。


「あと、先生が私を破門にした理由。あれってきっと、私が次の師匠のところに行きやすくするためにやってくれたことですよね。私、あの時は全然頭が回っていなくて、そういうことにまったく気付きませんでした。本当にすみません!」

「あ……ああ。まあ、儂もあの時は唐突過ぎたし、お前だけが悪いわけではない。だから、もう頭を上げろ」


 菜月の謝罪攻勢に、さすがの俊彦もしどろもどろになっている。

 そんな師匠の脇で、和人は感嘆の吐息を漏らしていた。


 と言うのも、和人は俊彦が菜月を破門にした理由を、葵に話していなかったからだ。

 それにも拘らず、菜月は破門の理由を寸分の狂いなく言い当てた。それはつまり、菜月が自分の力で本当の理由に辿り着いたという証だ。


 師弟揃って度し難いバカだけど、どこまで互いを信じ、理解し合っているんだ。まったくこの二人には、本当に驚かされる。


 相対する師匠と妹弟子へ、和人がそんな呆れと少しの羨望が入り混じった視線を投げかける。

 しかし、俊彦しか目に入っていない菜月は、彼の視線に気づかないまま話を続けた。


「先生……。私、やっぱり修復家になりたいです」


 俊彦に言われた通り顔を上げ、菜月が真正面から師の目を見据える。


「自分の心と向き合ってみて、はっきりわかりました。私、今度こそちゃんとした修復家になりたいです。先生や和人さんみたいな、守るべきものを見誤らず、守るべきものを第一に考えられる修復家に! そのために必要なら、寂しいですけど先生が引退することだって受け入れます!」


 これが、菜月の出した結論だった。

 修復家として優先すべきものは何か。守るべきものは何なのか。守るべきものために、自分たちはどうあるべきか。

 答えは、すでに俊彦が教えてくれていた。


 菜月たちが守るべきは、自らの修復家としての立場でなく、歴史をつなぐ本たちだ。その本たちを守るために必要ならば、師匠がこの道から退くことだって容認する。

 これこそが、菜月が修復家として最初に身に付けた覚悟だった。


「……そうか」


 菜月の覚悟を聞き届け、俊彦が声を漏らす。

 菜月の眼前で俊彦が浮かべたのは、憑き物が落ちたと言わんばかりの安らかな笑みだった。

 俊彦の中にあった修復家としての最後の未練、彼を縛り付けていた楔が今、菜月が掛けた言葉によって抜け落ちたのだ。


「お前に……最後の弟子にそれをわかってもらえて、儂もうれしいよ」


 もう思い残すことはない。何の未練もなく、自分の修復家としての道を閉ざすことができる。

 満ち足りた心地よい感覚に、俊彦が身を委ねようとする。

 ただ、残念ながら、その安らぎは長く続かなかった。


「その上で、改めてお願いします。先生、もう一度、私の師匠になってください。私が一人前になるまで、傍で見守っていてください!」


 菜月が発した願いに、部屋の空気が一気に凍りついた。

 それまでの穏やか雰囲気は一気に消え失せ、菜月と俊彦の間に再び緊張が走った。


「……結局、お前はそうなのか」


 安らかな表情から一転し、俊彦が苦渋に満ちた顔で菜月へ問い掛ける。


「儂が破門した理由を理解しながら、『引退を受け入れる』と言いながら、お前はまだそんなことを言い続けるのか!」


 理由を理解してなお、修復家として生きる覚悟を決めてなお、お前は儂に依存してしまうのか。儂にこの場所への未練を、断たせてくれないのか。修復家として、綺麗な最期を迎えさせてくれないのか。

 短い言葉の中に込められた俊彦の悲痛なまでの感情が、菜月を打ち据えた。

 しかし、師匠から向けられた憎悪とも取れる感情にも、菜月は動じなかった。


「はい。言い続けます」

「……お前という奴は、どこまで馬鹿なのだ。どこまで、儂を縛るのだ」


 奥歯が砕けんほどに歯を喰いしばり、俊彦が菜月を睨み付ける。

 結局のところ、縛られていたのは、菜月を特別視していたのは、俊彦も同じだったのだ。菜月が俊彦を特別な修復家と見ていたのと同様に、俊彦も菜月を最後の弟子として特別視していた。


 この真っ直ぐでひた向きな馬鹿弟子を、自分の手で一人前の修復家にしてやりたい。


 修復家を引退すると決めた俊彦の中で、その親心だけがどうしても捨てられなかった。

 菜月を破門するという手段に出た理由もそうだ。

 和人にも話した通り、一番の目的は菜月を自分から引き離すことにあった。

 けれど同時に、俊彦にとってそれは、自分を無理やり菜月から引き離すための、苦肉の策でもあったのだ。


「修復家でなくなった儂に、弟子を教える資格はない。儂の引退を受け入れた上で、それでも一人前の修復家を目指したいと言うのなら、諦めて……」

「先生がいくら拒絶したって、私は絶対に諦めません!」


 諦めて次の師匠の下へ行け! そう突き放そうとした俊彦の口を、菜月は自らの強い言葉でつぐませた。

 菜月には、すべてわかっていたのだ。

 いや、少し違うか。菜月と俊彦の師弟の絆がそうさせたのか、彼女は本能的に直感したのだ。俊彦が自分を破門した理由、その表も裏も……。


「だって私は……」


 わかっているからこそ、そこを最大限利用する。俊彦の心を揺さぶるように、必要な言葉を掛け続ける。

 卑怯と言われるかもしれない。汚いと言われるかもしれない。

 それでも自分が目指す修復家になるため、菜月は自らの意志を言葉に変えた。


「だって私は、先生からバトンをもらって、先生のさらに先へ歩いていきたいから!」


 菜月が言葉を放った瞬間、俊彦は驚きのままに息を呑んだ。

 先生は自分にとって、確かに特別だ。けれど、ゴールじゃない。先生から受け取った技術と精神を手に、自分は先生の進めなかった先へ歩いていく。


 声を詰まらせた俊彦の目に、確かな強さを秘めた菜月の姿が映り込んだ。

 そこにいるのは、俊彦に憧れていただけの、ただ依存していただけの少女ではない。

 自分の進むべき道を自ら考え進んでいく、一人の職人の姿がそこにはあった。


「修復家でなくなっても、先生は先生です。先生の技は、いつまでも先生の中で生きています。そのことに変わりはありません」

「そうは言っても、儂の体はもうがらくただ。この目も、この手も、どんどん儂の言うことを聞かなくなっていく。何もできなくなっていく儂に、どうやってお前を指導しろというのだ!」

「関係ありません! 目が悪くなってきた? 手が動かなくなってきた? だったら、他の方法で指導してください。先生にはまだ、技術を伝えるための口も、私の話を聞いてくれる耳もあるんですから」


 一緒に修復を行うことだけが、指導の方法ではない。これまで行ってきた修復の話をしてくれるだけでもいい。ちょっと困った時に、アドバイスをくれるだけでもいい。

 だって自分にとっては、先生と過ごす時間そのものが、何にも代えがたい経験――宝となるのだから。


「だから、これからも私の先生でいてください。私、必ず先生を超える修復家になりますから! その日まで、私の前からいなくならないでください!」


 九十度どころか百二十度くらい上体を曲げ、菜月が再び俊彦へ頭を下げる。

 伝えるべきことは伝えた。あとは、俊彦がこの願いにどう応えてくれるかだ。


 頭を下げたままの菜月には、俊彦が今どんな表情をしているのかわからない。

 怒りで顔を真っ赤にしているか。それとも、呆れ果てているのか。


 だけど、自分のやるべきことは変わらない。先生が頷いてくれるまで粘るだけだ。

 自分の膝小僧を見つめたまま、菜月はただひたすらに答えを待った。


 菜月が口を閉じた今、部屋の中に声はない。唯一響いているのは、時計の秒針が刻む、コツ、コツ……という音だけだ。

 静寂の中、時間とともに空気だけが張り詰めていった。いつ終わるかもわからない緊迫した雰囲気に、菜月の心臓が鼓動を速めていく。


 そして、ついにその瞬間が訪れた。


「まったく……」


 緊張に満ちた静寂が、俊彦の嘆息によって破られる。

 彼の声に釣られ、菜月が弾かれるように顔を上げた。

 それに合わせて俊彦は、まるで逃げるように、そそくさと後ろを向いてしてしまった。


「何を言い出すかと思えば、儂を超えるだと? 修業を始めて一年しか経っていない未熟者が、粋がりおってからに」


 菜月に背を向けたまま、俊彦が悪態をつく。

 しかし、台詞とは裏腹に、彼の口調はどこかうれしそうで……。

 そんな師の様子を横から見ていた和人は、笑ってしまうのを必死に堪えていた。


 俊彦がそっぽを向いた理由は、おそらく自分の顔を菜月に見られたくなかったからだろう。なぜなら横から見た俊彦の顔は、これでもかというほど幸せそうだったから。

 といっても、彼が相好を崩していたのも、ほんの数瞬だけの出来事だ。すぐに表情を引き締め、いつもの雰囲気に戻った俊彦は、唐突に和人の方を向いた。


「和人、儂はあと一カ月少々で修復家ではなくなる。正直に言って、これからの儂は、単なる御荷物と言っても過言でないだろう」


 それでも……、と俊彦は懇願するように言葉を続けた。


「修復家でなくなったただの老いぼれを、あの工房に置いてはくれないだろうか」


 頼む、と俊彦が和人に誠心誠意といった様子で頭を下げる。

 長年の付き合いである和人をしても、これほど真剣に頼み事をする俊彦を見たことはない。それだけ俊彦にとって、この頼み事は大切なことなのだろう。

 この堅物師匠にそうまでしてもらえる妹弟子のことを、少しだけ羨ましいと感じてしまうのは、兄弟子としての嫉妬だろうか。

 ただ、この申し出は和人にとっても有り難いものであるのは間違いない。

 故に、彼の答えは決まっていた。


「俺もまだまだ駆け出しの工房主なんでね。ちょうど相談役が欲しいと思っていたところだ。……だから、こちらの方こそお願いします。どうか引退後も、あの工房に顔を出してください」

「……感謝する」


 折り目正しく依頼する和人へ、俊彦も短く謝辞を述べる。

 そのまま俊彦は、自分を必要としてくれた最後の弟子へ向き直った。


「菜月……」

「はい」

「和人が最高の弟子なら、お前は儂にとって最悪の弟子だ。儂の言うことをまったく聞かんくせに、どんなことがあっても我を通してくる。本当に、何でお前のような悪童を弟子に取ってしまったかなぁ」

「ご迷惑をおかけして、本当にすみません」


 苦笑を浮かべる俊彦へ、菜月は詫びを入れつつも満面の笑顔を見せた。

 最悪だろうと最低だろうと、何だっていい。先生が先生のままでいてくれるなら、それくらいの評価はどんと来いだ。

 そう言いたげな菜月の笑みに、俊彦はさらに呆れ混じりの溜息をついた。


「とはいえ、今回の件でよくわかった。お前のような最悪の弟子を他人に預けるなんてマネ、儂にはできん。そんなことをしたら、儂の知り合いたちが諸手を上げてこの業界から逃げ出してしまうからな」

「いや、先生。さすがにそれは言い過ぎな気がします。そこまで言われると、さすがの私も傷つくんですが……」


 俊彦の容赦ない物言いに、菜月が笑顔を引きつらせた。

 対する俊彦は、満面の笑みを見せていた菜月への意趣返しのつもりか、まったく取り合わない。

 ただ、彼の意趣返しも束の間のことだ。「だから、まあ、何だ……」と、俊彦は若干照れくさそうに、だがしっかりとこの言葉を菜月に伝えた。


「お前に行き会ってしまったのが、儂の運の尽きだ。第一、儂の最後の弟子が、半端な修復家になっては死んでも死に切れん。仕方がないから、儂がもう少しだけ、お前に付き合ってやる」

「ッ! はい……!」


 ようやく聞きたかった言葉を聞けて、菜月が目に涙を浮かべながら破顔した。

 一方、俊彦は花が咲いたように笑う彼女を挑むような目で見つめ、さらに言葉を重ねた。


「ただし、知っての通り儂は甘くないからな。そう簡単に、お前の実力を認めてやったりはせんぞ。それを承知の上で儂を超えたいと言うのなら、もっと多くのことを学び、多くの場数を踏め。一人前になるまで見守ってほしいというのなら、一日も早く儂に認められる実力を身に付けろ。何しろ儂は、いつぽっくり逝ってもおかしくない老いぼれだからな」


 儂をあまり待たせるな。今の儂は、気長に事を構える気はないのだから。

 そう言って、俊彦が菜月の頭を撫でた。

 言葉は荒っぽいし、容赦もない。けれど、これこそが俊彦なりのエールの送り方、いや、文字通りの挑戦状なのだ。

 それをわかっているから、菜月もただ何度も頷いた。



 絶え間ない時の流れの中で、人も本も老いていき、やがては別れの時がやって来る。

 だが、それは共にある時間を大切にしない理由にはならない。

 弟子は修復家として生きる意味を知り、覚悟を決めた。

 師匠は修復家から退いても、未来に何かを残すと決めた。

 揃いも揃って頑固で大馬鹿な師弟だ。時には意見を食い違わせ、対立することがあるだろう。

 それでも、見ている先は二人とも同じだ。


「お前に、儂の残りの人生と技術のすべてをくれてやる。だから、お前は必ず儂を超えていけ」

「任せてください。私、必ず先生の先に立ってみせます!」


 目に少しの涙を浮かべ、菜月が俊彦に弾けんばかりの笑顔で約束した。



 朽ちかけた本たちと向き合い、歴史を未来へとつないでいく。

 そのために、二人はこれからも、同じ道を歩き続ける。


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